援助動向レポートNo.28 世界経済不況がインドに及ぼす影響 1. 減速

援助動向レポートNo.28
世界経済不況がインドに及ぼす影響
2009年4月30日
国際基督教大学
近藤正規
1.
(1)
減速するインドの経済成長
転換期を迎えたインド経済
インド経済にとって、2008 年はひとつの転換点というべき年であった。まず、年初以来
大きな問題となっていたインフレ率が、8 月には 12.63%にまで上昇した。総選挙を翌年に
控えたインド政府はこれを危機的状況として捉え、インフレ抑制を政策の最大課題とし、
その結果過去 3 年間 9%台の成長を続けてきたインド経済は減速し始めた。景気サイクルの
後退局面入りとともに企業の景況感も悪化し始め、同年度の第 1 四半期には FICCI(インド
商工会議所連盟)による「ビジネス信頼度指数」調査で、利益改善を見込む企業の比率は
前期の 26%から 21%へと低下した。
その後、世界金融危機の深刻化とともに原油価格や商品相場が暴落し、インドのインフ
レ率は 0.26%の低水準にまで落ち着いた。しかし一方で、世界的な景気の冷え込みとイン
ド市場の株価下落により、景気の減速は一層明確となり、過去 3 年間続いた 9%成長から
2008 年度第 3 四半期(10-12 月)の 5.3%へと大きく減速し、その結果 4-12 月の 9 ヶ月
では成長率は 6.9%へと低下した。
米国発の金融危機はインド株式市場にも大きく影響した。SENSEX 指標は 2008 年後半
にピーク時から 6 割もの大きな下げを記録し、
ルピーの対米ドル相場も 2 割以上低下した。
国際金融市場の混乱とともに、インド企業の外貨資金の調達も困難となっている。
急増し続けてきた海外からの直接投資(FDI)の流入も、頭打ちとなった。まず、昨年の
前半は FDI 流入が大きな伸びを示した。1990 年代には平均で 40 億ドルの水準で停滞して
いた FDI は、2007 年度には 250 億ドル、08 年度は 350 億ドルの水準へと急拡大した。ま
た、タタ製鉄のコーラスやタタ自動車によるジャガー・ローバー買収に代表されるインド
企業の海外での M&A も、昨年前半までは活発であった。しかし昨年後半以降、インド企業
の対外 M&A は激減した。さらに 11 月 26 日にムンバイで同時多発テロが発生した。このテ
ロがインド経済に与えた影響は一時的でかつ限定的であったが、インドの対外イメージは
大きく傷ついた。
(2)
政府の景気刺激策
景気の急激な冷え込みに対して、昨年 12 月 7 日インド政府はいち早く景気刺激策を発表
した。これは財政支出の拡大や減税を柱にした 2800 億ルピーに及ぶ景気刺激策で、予算パ
ッケージは 10 項目からなり、輸出・住宅・自動車産業、中小企業、インフラ整備の強化な
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どを目的としている。特にインフラ関連では、インドインフラ金融公社(IIFCL)が 3 月ま
でに免税債券を通じて 1000 億ルピー調達できるようにし、この資金で市中銀行から債権を
買取ることによって、道路や港湾などのインフラ事業に対する市中銀行の貸出し余力を増
やせるようにした。
また消費刺激策としては、標準税率 14%の中央付加価値税(CENVAT)を一律 4%引き下
げることが発表された。その結果、中央付加価値税はこれまで 14%、12%、8%のいずれか
であったのが、今後は 10%、8%、4%のいずれかとされた。さらに、所得が高くない層の
住宅取得を促進するため、国営銀行で 200 万ルピーを上限とする住宅ローンの貸出しを増
やすこととした。さらに、企業の資金繰り悪化を防ぐため、財務省は海外商業借り入れ
(ECB)規則を緩和した。まず ECB 借入額の制限を撤廃したほか、宅地造成のための資金
調達も可能とした。
こうした財政政策と歩調を合わせるようにして、インド中央銀行(RBI)も翌 12 月 8 日
からレポ金利を 1%引き下げて 6.5%とすると発表し、5 年ぶりに政策金利であるリバース
レポ金利を 6.0%から 5.0%へ引き下げることが発表された。これに続いて今年 1 月 2 日に
は追加の金融緩和策が発表され、レポ金利を 5.5%、リバースレポ金利を 4.0%とした。さ
らに 4 月 21 日にはレポ金利が 4.75%に切り下げられた。加えて、リバースレポ金利も 3.23%
にまで引き下げられた。スバラオ RBI 総裁によると、世界金融危機が本格化して以来、イ
ンドの GDP の 7%に相当する合計 4.2 兆ルピーが、中央銀行によって金融システムに供給
されたことになる。
(3)
企業の景況感悪化
企業の景況感もかなり悪化している。インド商工会議所連盟(FICCI)が四半期毎に行っ
ている「ビジネス信頼度指数(Business Confidence Index:BCI)」でも、2008 年度第 1 四
半期の BCI は 52.5 ポイントと、前期の 55.3 より低下した。利益改善を見込む企業の比率
も 21%と低く、前期の 26%からさらに低下した。この FICCI 調査では、景況感悪化の原因
として、金利上昇と貸し渋りがあげられている。実際に、この調査の対象となった企業の 4
分の 3 が銀行の融資条件厳格化を訴えており、特に中小企業においてその影響が大きい。
具体的には、大企業の利払い額が前年比で 2.5%増えているのに対し、中小企業では同 5.5%
も増加していることなどが挙げられる。
消費者ローンも同様に厳しくなっている。調査対象企業の 2 割が消費者ローンに依存し
ているが、その 3 分の 2 が、銀行の消費者ローンの条件が厳格化して金利も上昇したため、
販売に影響が出ているとしている。そのため、今回の経済拡大政策は、政府が金融緩和と
財政拡大により、景気刺激を図ったものである。
昨年 11 月、タタ財閥のラタン・タタ会長はグループ全社に対して署名入りの手紙を送っ
た。その内容には、最大限の現金化、金融機関からのローンや信用枠の最大限の引出し、
交渉中の資金調達契約の早期決着、経営効率化の向上、内部コスト構造のリストラ、経費
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の大幅削減、重要度の低い資本支出と能力拡張の延期、不要不急の M&A の凍結といったも
のが含まれる。この 1-2 年間、タタ財閥に代表される大手インド企業は、積極的な海外企
業の買収を行ってきた。しかしその多くは必ずしも成功しているわけでなく、ここに来て
その強気戦略は大きく一変した感がある。タタ・ティーは買収先の企業の収益が改善しな
いためすでに売却しているし、インド人のプライドを大きく満足させたタタ自動車のジャ
ガー・ローバー買収も、いまや同社の資金繰りを困難にしているばかりである。
世界金融市場の信用収縮はインドの金融機関の外貨流動性も低下させており、企業にと
っては外貨資金調達に支障をきたす事態も発生し始めている。こうした状況下において、
タタ・グループが市場での流動性懸念とともにできる限りの現金化と徹底した支出削減を
指示しているのは、当然の動きとも言える。
タタ以外の企業も状況に大きな変わりはない。例えばインド鉄鋼公社(SAIL)も、2010
年完了予定の生産能力拡大計画を 3-4 年先送りする方針を固めた。SAIL は当初 5400 億ル
ピーを投資して現在の年間粗鋼生産能力 1500 万トンを 2010 年までに 2600 万トンに引き
上げる計画であった。マルチ・スズキも、昨年 11 月の売上高は前年比で 24%減少した。今
年に入ってその業績は急速に回復しているが、日系でもホンダやトヨタはスズキよりも高
価格帯の自動車を販売しているところから、業績回復が遅れている。加えて、日系自動車
メーカーは一部の部品や資材を輸入しており、昨今の円高ルピー安も収益圧迫要因である。
これまで驚異的な高成長を続けてきたインドの IT 産業も、業績の下方修正を余儀なくさ
れている。例えば業界大手のインフォシスは、今年の売上高増加率を当初 19-21%増と予
測していたところを、13-15%増に下方修正している。これは昨年度の 30%を大きく下回
るものである。業界団体の NASSCOM によると、2008 年にインドの IT 産業は 20 万人の
雇用増加となるが、これは昨年の 25 万人増加を 5 万人下回る見通しである。
インド IT 企業の業績下方修正は、売上の大半を米国市場が占めていることや、得意とす
る金融分野が不況に陥っていることによる。ただし、この世界的な不況時に、依然として
売上が 1 割以上増加し、かつ純利益もあげているということは、考えようによっては驚異
的である。最近のルピー安もインド IT 産業の競争力向上に貢献しており、インド IT 企業も
金融機関の統合が伴うシステム統合業務や法的業務のアウトソース業務の広がりなど、こ
の困難な時期をチャンスに変えていく方法を模索している。
(4)
株式・為替と不動産市場
米国発の金融不況は、インドの株式市場に対して大きな影響をもたらした。一時期、イ
ンドを初めとする新興国と先進国のデカップリング論が盛んであったが、インドの証券市
場は世界経済とリンクしたものであったことは明らかである。代表的な株価指数である
SENSEX は現在 1 万を少し越えた水準であるが、これはピーク時のおよそ半分の値にすぎ
ない。海外資金の流出に伴って為替市場ではルピー安が進み、一時は 1 ドル 50 ルピーを越
す最安値を更新した。ルピー安への対処として、RBI が市場介入してドル売りルピー買いを
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実施しているが、その反動で国内ルピー市場の流動性が低下し、これが金融機関の貸し渋
りにつながっている。
株式市場と為替の動きにおいてインドを日本と比べた場合、日本では株式市場の下落が
キャリートレードの戻しによって円高につながり、それが輸出型企業の多い日本経済に対
してさらに打撃を与えていると違い、インドの場合、株価の下落はルピー安につながるた
め、IT 企業などの輸出型企業にとっては好条件となっている。
インドの不動産市場は株式市場ほど下げていないとはいえ、ムンバイやベンガルール(バ
ンガロール)など一部の大都市の不動産市場では、価格が 3 割以上低下している。ただし、
1990 年代の日本経済のように地価の下落がバブル経済の崩壊を促しているといったことは
起きていない。これは、インドの当局が不動産金融に対して規制をしてきたことや、SEZ
などの大型案件では特に土地買収自体が難しいことが災いして、インドの不動産市場が、
株価のような実態を大きく上回るバブル的な上昇を見せてはいないことによる。
加えて、サブプライムローンの米国と違い、インドの住宅購入層は基本的に中産階層以
上である。月収で 1 万 1 千ルピー以下の収入しか得ていないインドの人口の 8 割は、自家
所有を望めない。住宅ローンにおいても、月収で 7 千ルピーから 1 万 5 千ルピーの所得層
は銀行借入れを受けることが困難である。
不動産価格も下落している。不動産業界の 2008 年第 3 四半期に業界第一位の DFL と第
二位のユニテックの売上はそれぞれ 62%と 57%も減少した。不動産価格の下落の要因とし
ては、欧米企業によるバックオフィスの開発ペース鈍化の影響が大きい。ただし、インド
では 1980 年代の日本経済のような、高騰する不動産価格を担保にとった銀行の融資拡大が
なかっただけに、マクロ経済への影響が小さいのが幸いである。
(5)
低所得層が支えるインド経済
今のインドの経済成長を支えているのは、中間層より下のレベルの低所得層である。イ
ンドの世帯数は現在約 2 億で、そのうち 7 割が農村にいる。農業就労者は総労働力の 6 割
に及び、大半の世帯が年収 1 千ドル以下である。こうした低所得層の生活水準に世界経済
危機の影響が出ていないのは、彼らがこれまでグローバル化の恩恵をさほど被ってこなか
ったことの裏返しである。さらに、エネルギーや食料の価格が昨年後半に大きく低下した
ことも、ぎりぎりのところで生活してきた彼らにとっては特に幸いであった。
こうした外的要因に加えて、これまでインド政府が重点的に行ってきた農村振興策も功
を奏しつつあると言えよう。2004 年の総選挙で低所得層のサポートなしには政権に就くこ
とがありえなかったマンモハン・シン政権は、過去 5 年間に景気拡大にともなう税収の急
拡大をベースに、農村におけるインフラ整備や雇用の保証、教育・保健セクターの支出拡
大を行ってきた。こうした政策に対して、インドの産業界は必ずしも満足しておらず、経
済自由化をより速いペースで進めることや、インフラ整備においても、都市部の基幹イン
フラ整備を政府が率先して自らの手で行うべきだ、という要望が多かった。
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しかし、インド政府はあくまで農村開発や社会開発を優先してきたわけで、その結果と
して、1991 年に経済自由化を開始して以来、製造業やサービス業の成長率加速とは裏腹に
むしろ成長率が停滞していた農業部門も、最近になってようやく成長加速の兆しが見えて
きた。さらにこの数年、好天候が続いたことも幸いであった。
そのため、こうした農村の低所得層を対象とした BOP(Base of the Pyramid)型のビジ
ネスを展開している企業は、売上に悪影響が出ていない。例えば、FMCG(Fast moving
Consumer Goods)と呼ばれる日用品の売行きは、依然として好調であるし、携帯電話の売
上も毎月 1000 件以上の契約増で順調に伸びている。自動車産業においても、四輪と比べて
二輪の売上が落ちていない。要するに、低所得層の人口が大きく、これらの層が世界不況
の影響を受けていないのが、今のインド経済の最大の強みとも言える。
2.
2009 年の経済展望
(1) 減速しながらも成長維持
今年のインド経済は、減速しつつも 6%前後の成長を維持していくであろう。インド政府
の諮問機関(PMEAC)は、世界不況がインド経済に及ぼす影響は限定的という見方を依然
変えていないし、RBI も 2009 年度のインドの成長率を 6%と予測している。一方、IMF も
2009 年度のインド経済の成長率を当初の 7.1%から 5.2%へ下げ、さらに最近では 4.5%ま
で下方修正しているが、
2010 年度にはインド経済の成長率が 5.6%に回復するとしている。
これに対して 4 月 22 日、RBI のスバラオ総裁は「今年度成長率が 6%を下回る可能性は限
りなく低い」とコメントし、さらに「成長率予測値 6%は政治的な圧力によるものではない」
と強調している。
このように、程度の差はともあれ減速は否めないインド経済であるが、先進国経済がマ
イナス成長となっている中でこの数字は評価に値する。ゴールドマン・サックスの予測で
も 2009 年の世界の GDP 増加分の 5 割を中国が、そしてインドが 2 割を占めるとされてい
るように、インドはいまや世界の成長センターとなっているといっても過言ではない。し
かもインドは銀行部門も依然として健全であり、他の多くの諸国と様相が違っている。
インド商工省は、2009 年度の輸出目標を昨年 4 月に設定した 2000 億ドルから 1750 億ド
ルへと下方修正しているが、それでも前年実績比で見ると、23.5%増から 8%増へと低下し
ていることになる。経常収支が赤字となった日本の落ち込みとは対照的である。
(2)
産業界に不満が残る暫定予算
2009 年度の暫定予算が、今年 2 月 16 日に国会に提出された。5 月 23 日に政権が任期を
終えるためこの「暫定」予算は 7 月までのものであり、内容的にも際立った特徴のないも
のとすべきことが法律で義務付けられているが、世界的な不況の中で特例措置がとられる
のではないかという期待が、産業界には少なからずあった。
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しかし、直接税・間接税の変更は発表されず、大きな財政パッケージによる景気刺激も
見られなかった。関税の引下げもなく、例外として輸入関税については発電コストの低下
を目的としてナフタの関税が免除とされたが、これは政府系の発電所にのみ適用され、民
間資本による発電事業においてはこれまで通りナフタの輸入に関税がかかる。この暫定予
算案に対し産業界は失望感を表明し、株価も下落した。
暫定予算で重視されたのは、農村の低所得層と輸出企業である。輸出企業に対しては出
荷前や出荷後に 2%の金利助成金を拡張する案が盛り込まれ、さらに暫定予算の 10 日後に
商工省が発表した 2009 年度の通商政策では、4 月 1 日以降に輸出される繊維・皮革製品を
対象にした財政支援、宝飾品関連の輸入規制緩和、輸入関税の還付、輸出義務の達成期限
延長などの支援策が盛り込まれた。
社会セクターでは、政府主導のプロジェクトに 1 兆 3132 億ルピーが割り当てられ、とり
わけ教育セクター向け予算は全体で 4198 億ルピーと、9 月の補正予算の 3737 億ルピーを
大きく上回った。このうち学校教育に割り当てられた 2880 億ルピーであり、これまでの数
年間に拡充された初等教育向の予算配分の増加に加え、中等教育を対象とした新しいプロ
グラムも盛り込まれた。
昨年 11 月のムンバイ・テロの影響で、防衛予算とテロ対策費も、予算配分の大幅な増加
が見られた。防衛予算は 1 兆 4170 億ルピーと、昨年度の 1 兆 560 億ルピーと比べて 31%
も増加し、この結果インドの国防費は中国の半分程度に相当することとなった。これに関
連して、インド宇宙研究機関(ISRO)の予算も前年度比 27%増となり、増額分は月探査、
半低温エンジン(semi-cryogenic engine)開発、大型の衛星発射のための発射台設置に割
り当てられる。
農村関連では、農家向けの低利融資制度を継続することとなった。この制度の下、農民
は年利 7%で最大 30 万ルピーを借りることができる。高利貸から融資を受けなくても良い
ようにという趣旨である。さらに、農村における大規模な住宅建設計画も暫定予算に盛り
込まれた。IAY と呼ばれる計画では、2009 年度の農村住宅建設費は 792 億ルピーと前年度
の水準を確保したが、一方で都市部門における住宅建設計画は盛り込まれなかった。イン
ド政府の農村重視の姿勢がここにもよく出ている。
これ以外に政府経常支出のうちで大きな増加を見たのは、公務員給与の支払いであった。
今回の暫定予算が発表される前、ペイ・コミッションによって国家公務員 500 万人の賃金
を 21%引き上げることが決められ、公務員の諸手当(物価手当)も 3 月からこれまでの 16%
から 22%に引き上げられることとなった。
(3)
拡大する財政赤字
こうした農村・社会セクター向けの支出拡大や公務員給与の引き上げは、ただでさえ問
題であったインドの財政赤字を悪化させた。 2008 年度のインドの財政赤字は GDP 比で
6.5%に拡大し、政府目標の 2.5%の 3 倍近い数字となっている。総選挙を間近に控え、現政
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権は過去 9 ヶ月農民向けの政府系金融機関の融資 7170 億ルピーを処理し、公務員給与も大
きく引き上げた。また昨年末には、最大 2000 億ルピーの追加財政支出と減税を発表してい
る。こうした財政支出の拡大に加え、エネルギー価格の昨年度の上昇分を吸収するための
政府系企業の債券発行といったオフバランスの赤字も含めると、財政赤字は GDP の 1 割に
及び、これはこれまでで最悪であった 2001 年の財政赤字の水準に匹敵する。つまり、「財
政責任・予算管理法(FRBMA)」をもとにインド政府が進めてきた財政赤字の削減努力が、
最近の数年間で失われてしまったということである。
問題は、不況対策の一環として景気刺激のための財政拡大を行い、そのために財政赤字
が例外的に拡大したのであればよいが、農民向け補助金や公務員の給与などの経常支出拡
大が選挙対策で行われている感が強いことである。IMF の試算でも、インドの「真水」の財
政支出は GDP の 0.5%にすぎず、主要国の中でも最低の水準にある。
2008 年 4-12 月のインドの財政赤字は、対 GDP 比で 3.6%となったが、最近 RBI はこ
れが 5.9%に増加する可能性があると発表した。これはインド政府の目標値 2.5%のほぼ倍
に相当する。インドの財政赤字問題に対する懸念は、今後の国債供給超過と価格の下落・
金利上昇につながるという考えから、債券市場における国債の大量売却と、長期金利急騰
という結果となって表れている。
政府と RBI は、新規国債の円滑な消化に向けて対策を協議しており、RBI が公開市場操
作を通じて既発国債を買い上げる案と、過剰流動性吸収の目的で発行された市場安定化制
度(MSS)債を期限前償還する案が出されているようである。さらに、MSS 債で集めた資
金を政府の借入に転用する案も浮上しているが、政府と RBI が結んでいる覚書を変更せね
ばならない。それ以外に、RBI が新発国債を引き受ける案もあるが、上記の FRBMA を改定
する必要がある。しかしこれは、財政規律の喪失を招く危険性が大きいため実現しそうに
ない。ただし、インド政府の財政赤字は基本的に海外投資家ではなく、国内資金でファイ
ナンスされているため、これはむしろ中長期的な課題であろう。
(4)
遅れるインフラ整備
世界経済不況は、インドのインフラ整備にも悪影響を及ぼしている。現政権のこれまで
の成果の一つに、PPP(Public Private Partnership)によるインフラ整備があった。道路や
港湾、空港、通信の分野では、民間企業によるインフラ整備が大きく進んだ。しかし、民
間企業の資金繰り悪化に伴い、その進捗は遅れつつある。例えば、通信に次いで最も PPP
の成功している道路セクターのプロジェクト完成率も、2004 年度の 81%から 07 年度は
56%へと下がり、この数字がさらに低下しつつある。入札における落札比率も同じく低下
している。例えば、最近入札が行われた 43 のプロジェクトのうち、入札企業があったのは
17 にすぎなかった。政府の民間企業向け補助金の不足がその背景にある。
道路よりさらに整備が遅れているのは、電力セクターである。第 11 次五ヶ年計画では
90700 メガワットの発電容量の追加が計画されたが、今のところ 10887 メガワットが追加
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されたに過ぎない。こうしたことから、この 11 次五ヶ年計画中には目標の半分にも満たな
い 40000 メガワットしか電力容量が増えないであろうという見方が主流である。国際市場
での資金調達難からインドの大手企業も電力インフラへの投資を手控える方向にある。例
えば、最近のメガパワー発電所の入札にタタ電力は参加しなかった。さらに、3 割という高
水準にある電力ロスの問題も、解決の糸口がまだ見えていない。鳴り物入りで数年前から
行われている経済特区(SEZ)の開発も、その多くは土地買収の遅れが目立っている。
インドでは長期の資金供給がインド国内で不足しており、そのため国際機関や海外の機
関投資家に資金面で依存せざるを得ない。そのため世界金融市場の今の状況は、インドの
インフラ整備に直接影響する。例えば最近でも、米ブラックストーン社がインド政府の肝
煎りで設立されたインドインフラ金融公社 (IIFCL)のファンドに対する出資の中止を発表
した。株式市場を見ても、インフラや不動産関連の企業の下げ幅が最も大きい。こうした
ことから、今後の民間資金によるインフラ整備は当面遅れることは止むを得ないであろう。
3.
日系進出企業のリスク再検討
(1)マクロ経済リスク
インド経済の環境変化に伴い、現地に進出している日系企業にとってのビジネスリスク
の性格も、これまでとは変わりつつある。これまでは基本的に、インドでビジネスを行う
に当たっては、官僚制、インフラ整備、労働問題などのミクロレベルの障害克服が大きな
課題とされてきた。しかし、輸出が GDP に占める比率が 15%に達し、海外からの直接投
資(FDI)も増加している中で、世界経済の急速な悪化がインド経済に及ぼす影響や潜在的
なリスクも考えないわけにはいかない。
最近のインドのマクロ経済を見るに当たって、昨年末から行われた一連の金融緩和政策
の効果がどの程度出てきているか、ということはよく問題とされる。一方、ミクロレベル
では、企業の流動性確保が問題となりやすい。インドでは金融機関の貸し渋りが問題とな
っており、これが自動車などの耐久消費財の売上に大きな影響を及ぼしている。インドの
銀行は外貨建て資金調達が困難になっており、ムーディーズはインド銀行業界を格下げし
ている。ただし、インドの金融機関は、バブル崩壊後の日本や欧米諸国と違い、不良債権
が少ないのは幸いである。また、不動産価格の下落も問題である。不動産市場がインドの
GDP に占める比率は 7.3%であるが、鉄鋼や製鉄、セメントなどの関連産業も含めると 14%
に及ぶ。
第二に、インドからの対外輸出減少の与える影響も無視できない。昨年 12 月のインドの
海外輸出額は、前年同期と比べて 10%以上の減少となった。これまで数年間、2 桁で成長
してきたインドの輸出が、ここにきて初めて 2 桁の減少となった。産業別に見ると、繊維
産業や宝石加工など、労働集約型産業の輸出が世界不況の影響をもろに受けている。特に
繊維産業は、国内に 3500 万に及ぶとされる雇用を抱えており、政治的にも重要である。イ
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ンド労働雇用省の発表によると、繊維、自動車、建設、IT などの 8 業種で昨年 10-12 月に
50 万人が職を失ったとされるが、繊維産業はその中でも最も深刻である。
第三に、中東経済の減速が出稼ぎインド人の送金に及ぼす影響も無視できない。2008 年
7-9 月の NRI(海外非居住者インド人)の送金額は、前年同期比で 57%の大幅増を記録し
たが、リーマン・ショックを境として、10-12 月には出稼ぎ労働者の出国数が前年比で 25%
も減っている。帰国した出稼ぎ労働者も 2 月までに 2 万人と推定されている。ただし、大
半の出稼ぎ労働者は現地に残っているようで、加えてインドの外貨準備高も依然として潤
沢であるため、出稼ぎ送金の停止がマクロ経済危機に直結した 1991 年の湾岸戦争時とは全
く比較にならない。
(2)内需縮小と取引先の流動性リスク
インドの工業生産は、昨年 11 月には 15 年ぶりに前年同期比マイナス成長となった。と
りわけ大きな打撃を受けたのが、日系企業の投資も集中している自動車産業である。昨夏
以降深刻化している自動車ローンの貸し渋り問題を、不況という心理的ファクターが後押
ししている。2008 年 4-12 月の新車販売は 110 万台と、前年同期と比べて 0.5%のマイナ
スであった。しかしインドの自動車販売台数は、昨年 12 月には同じく前年同期比で 2.4%
増へと回復し、さらに今年 1 月の新車販売は 4 ヶ月振りにプラスに転じ、6 万 7 千台と過去
最高となった。今年 2 月の乗用車販売台数も前年同月比 15.0%増となっており、インドの
自動車産業は昨年 11 月に底を打った形である。とりわけ市場の 7 割を占める小型車の伸び
が 22%と特に大きかった。これは、政府の付加価値税 4%引下げと RBI による金融緩和政
策の効果によるところが大きい。
企業別に見ると、国内市場の半分のシェアを占めるスズキが、昨年 12 月の前年同月比
11%減から今年 1 月には増加傾向に転じ、単月で史上最高を記録するところまで回復した。
これに続く現代自動車は投入モデルが成功を収めているが、地場の大手タタ自動車はナノ
の工場移転問題や、昨年買収したジャガーとローバーの海外での販売不振により、2008 年
第 3 四半期で赤字を計上する結果となった。ただし、4 月には待望の大衆車ナノが発売され、
この売上に期待がかかっている。スズキ以外の日系のメーカーも大きな転機を迎えざるを
得ない状況である。トヨタはインドでの新車販売が大きく減少している。そのトヨタが、
他国向けの投資を全て凍結したにもかかわらず、対印投資だけは行う決定を下しているの
は、世界におけるインド市場の将来を重視したことによるもので、英断と言ってよい。一
方、ホンダはインドの第二工場の開設延期を決定しており、日産もルノーとの合弁による
新工場の初期投資を 200 億円減らすことを発表した。
インド企業の流動性もリスクである。最近ではタタ自動車の支払能力不足の噂が流れ、2
月 5 日には、タタ自動車の社長がそれを否定する記者会見を行った。幸い、タタ自動車の
支払能力には問題がないようであるが、取引先の財務状況に十分な注意を払い、代金回収
を迅速確実なものとすることが、これまで以上に重要となる。
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(3)保護主義化リスク
インドの経済減速にともない、保護主義化の恐れも出てきている。1 月 24 日には、イン
ド政府が自国の鉄鋼業界を保護するため、インド独自の BIS 規格を満たさない鉄鋼製品の
輸入を認めない措置を打ち出し、日本のインド向け輸出が中止になる恐れが出てきた。お
もに中国からの安価な鉄鋼製品の輸入急増に対する処置である。インドにおける日系自動
車メーカーはインド製の鉄鋼の品質面での問題から使用する鋼材を輸入に頼っており、最
悪の場合は、インドにおける日系自動車メーカーの生産にも大きな影響が出かねない。こ
うしたことも背景にあって、住友金属は最近西ベンガル州に自動車鋼材の生産拠点を設立
するための大型投資を検討している。
さらに、インドの保護主義化に対する恐れだけでなく、欧米諸国の保護主義的な動きが
インド経済に悪影響を及ぼす恐れも無視できない。すでに米国オバマ政権は H-1B ビザ(特
殊技能を要する自就労査証。当該分野での学士以上の学位が用件)発給数の削減を発表し
ており、これが現在のインドの IT 業界にとって大きな問題となっている。こうしたことを
念頭において、4 月のロンドンの G20 会合でも、インドは先進国の保護主義的な動きに警
笛を鳴らしている。
(4)株価と企業統治のリスク
昨年来のインド株式市場の大幅な下げは、新興国であるインドへの証券投資リスクを浮
き彫りにすることとなったが、それは日本企業の対印 M&A 戦略にも影響を及ぼしている。
日本企業の間には、第一三共製薬や NTT ドコモ、パナソニック電工などのように、インド
株の大幅な下落が始まる前に、大手企業への資本参加という形で投資を行い、「経営はイン
ド側に任せ、インド市場での利益を享受する」という経営戦略が浸透しつつあった。いち
早くこれを実行したのは、インドのインフラ建設ブームが本格化する以前に IL&FS(イン
フラ開発投資会社)に出資して大きな成功を収めたオリックスであるが、ようやくこうい
った動きが日本企業の間でも広がってきたのであった。
しかし、最近の対印投資として最大規模の投資を昨秋行った第一三共製薬は、直後に問
題に遭遇することとなった。これは、子会社化したランバクシー・ラボラトリーズ(印最
大の製薬会社)が、その直後の 9 月に米食品医薬品局(FDA)から、品質管理体制が十分
でないという理由で、インドの 2 工場で生産した 30 品目の対米輸出に関する差し止め処置
を受けたことによる。売上高の 3 割を占める対米市場を失ったランバクシーは、2008 年度
第 3 四半期は赤字に転落し、株価も買収時の 3 分の 1 の一株 252 ルピーとなった。これに
ともない第一三共は、2009 年 3 月期決算でランバクシー株の評価損 3595 億円を計上する
ことを余儀なくされた。第一三共に株式を売却することが発表された 6 月の時点で、創業
一族がこの事態をどこまで予測していたかは不明であるが、一般にインドの大手企業は創
業者一族がかなりの株式を保有していることが多く、企業統治の点で欧米のスタンダード
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は適用しにくい面がある。
ランバクシーに関しては、現在の株価では創業家が株を手放さなかったかもしれないし、
今後とも成長が見込まれるランバクシーへの出資自体は正しい戦略である。しかしながら
今回の件は、日本企業が今後インドの企業を買収する際、これまで以上に慎重な検討が必
要であることを再認識させた。
もう一つの大きな事件は、IT 業界第 4 位サティヤムの粉飾決算事件であった。今年に入
って同社の過去数年に渡る 800 億ルピーの粉飾決算を明らかにするとともに、同社の創業
者のラマリンガ・ラジュは会長職を辞任したが、昨年 11 月のインド経済フォーラムの共同
議長まで務めたこのインド財界の重鎮が、
「India@Risk」を自らの手で演出してしまったと
は、まさに皮肉である。この不正会計事件は、インドの IT 産業の国際的なイメージを傷つ
ける結果となった。幸いにも市場の反応は、これはサティヤム固有の問題で他の IT 企業に
は関係ないというものである。創業者の息子のための不動産事業進出と、それのともなう
州政府トップとの癒着というのは、他の IT 企業では見られない特殊事情だからである。し
かし、これに続いてウィプロ(業界 2 位)の世銀職員に対するストックオプション供与問
題も表面化するに及び、インド IT 企業に対する見方もこれまでとは少し異なりつつある。
(5)
最後に
日本企業は一概にインドへの投資について、他国に対する以上にリスクに関心を払いが
ちである。しかし、現在のような世界経済不況になって明らかになったことは、こうした
不確実性の時代におけるインド経済のマクロ・リスクは、他の諸国よりもむしろ小さいと
いうことである。インド・ビジネスのリスクについてはいつまでも議論を続け、中国一辺
倒によるリスクについても恐れている間に、日本企業は米国のリスクを見落としてしまっ
た感がある。こうした中で、例えばスズキのように、インドに置けるウエイトが相対的に
大きい企業は、グローバルに見た場合、問題が比較的少ない。
中国とインドを比較した場合、長期的な安定という点で見るとインドが上回る。それは
政治体制が民主主義であるため、大きな変化が起こりにくいということと、対外依存度が
中国と比べてインドの方が低いことである。5 月 16 日に開票が行われる総選挙においても、
与党国民会議派政権主導による政権が再び誕生する見通しが強いし、格差の問題において
もインドの方が中国よりも小さい。GDP の輸出依存度においても、インドは中国より低い
ため、世界経済不況の影響を受けにくい。
本稿に記したように、インド経済は世界経済不況の影響を少なからず受けてはいるが、
その影響は他国に比べて小さい。その意味では、最近の世界不況の結果、中長期に見たイ
ンドの重要性が再評価されたという面も少なくない。自動車産業だけを見ても、世界の他
の諸国より先にインド市場は回復している。インド経済の回復が来年には見込まれる中で、
考えようによって、現在は日本企業にとって出遅れたインドで巻き返すチャンスの時であ
るといっても良いかもしれない。
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【参考】
基礎データ
図1:実質 GDP の推移
(出所)インド政府統計
図2:実質 GDP 成長率
(出所)インド政府統計
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図3:対外貿易の推移
(出所)インド政府統計
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【参考文献】
Government of India (2009) Economic Survey 2008-09, New Delhi: Oxford University Press
International Monetary Fund (2009) World Economic Outlook: Crisis and Recovery,
Washington DC: International Monetary Fund
Kumar, R. et al. (2009) Indian Economic Outlook 2008-09 and 2009-10 (ICRIER Working
Paper No.234), New Delhi: Indian Council for Research on International Economic
Relations (ICRIER)
Mohan, R. (2008) Global Financial Crisis and Key Risks – Impact on India and Asia (Speech
at the IMF-FSF High-Level Meeting on the Recent Financial Turmoil and Policy
Responses in Washington DC on October 9, 2008)
Subbarao, D. (2009) India – Managing the Impact of the Global Financial Crisis, (Speech
delivered at the CII’s National Conference and Annual Session 2009 in New Delhi on
March 26, 2009)
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