no24-25

1995年11月1日発行
中四芸能研充会芋刊銘
中国碁貧二三通信
第24.25合併号
′、繩
特集P中国芸能入門'|吉報■
中国の伝統演劇“戯曲”の世界
吉川良奉
平林寛浄
中国本土の地方鼠I
台湾の地方劇
鉋井筒子
鈴木霊異
1
早稿臼大学溌刺博物館のご寮内
昨今北京戯曲曲芸鑑賛事情
千杯宣末
燦蟻
伊藤鋒彦
111
中国京劇の教育(下)台少鑛箸・浅井智子訳
122
京劇
張君状(10)安惠強、謝虹髪磐・堀内千馨沃
中国芸能用籍蝶(20)松山享唄
お知らせ縞搾部
〒221横浜市神奈川I区六角橋3神奈川大学中国鍔研究室
侭P圏弓寄倉邑毎千s己壱一
郵便掘棒ロ座OO220-8-24295
333
1995年7月28日研宛会報告広田律子
31
224
読者の声
上海京劇院公演「息三鑪與王英」を観て西幹照子
研究会・総会報告
1995年7月15日研究会・鑓会報書氷上正
707
連載
345
蝋前の戯曲懲紹介
2581
中国の伝銃演劇を学ぶ人のために
特集・中国芸能入門'|胄報
中国の伝統演劇“戯曲”の世界
中国の伝統演劇を学ぶ人のために
吉川良和
拓できるのではないかと思います。
中国の漢民族の方言には、ある地嵐独得の
倉藪、もう少し広い部分で使っているもの、
伝錨演劇の研究は、どんな角度からでも良
'11沿いに伝わったその流嵐の共通鍔、さらに
い。自分の輿沫に任せて、好きな部分をとら
は北あるいは南のどちらかに使われるものな
えて、まず理解を深めることが肝一です。ど
ど、いわゆる共通露に対して、様々なレベル
ん鞍率でも、研究になります。その内に、圏
の地方性を帯びた倉紫があり玄す。この共通
題がそこにとどまらず拡大して行きます。
鍔を京劇や鼬劇に蓮ぞらえれば、地方劇の中
この手引きでは、いわゆるレーゼドラマの
には、まったくある地方にしか伝わらない演
伝j駆碓P本については深入りをしないで、ただ
目もあるし、伝鋺演劇の演目を自分途敷りに
今日の演劇大学に閲して少し宮及しておき土
脚色してしまったものも多い。ある地方の風
す。それは中国大学では、ローカル大学、い
上、民間伝承に基づいた演目もあるし、ある
わゆる大学の地方性といった率は、鏑じられ
地方の事件や人物を題材にした物も少数《あ
ろ率が少ないからですが、築港の理解では、
りません。その各レベルでの研究が可能です。
“地方劇,,の脚本こそ、逗真エ銘のローカル
丈学であって、十分研究に値すると思うから
です。
地方劇の脚本のえ字は往々共通鍔の大字を
古くは、『務校紀』(改作本『錺鏡記』)
など、糸川鍔などの稿鐘籍や、広東の福変よ
りの淘州の宮鷲が使われ、その誌しの舞台も
潮州と糸川になっています。この作品は、今
使用していて、脚本だけでは共通鍔と同じだ
日『藤三丑奴』の名称で、潮州の潮劇、泉州
と勘通いします。それが実際の鋒台になると、
の梨園戯の代謹的演目として、常演されてい
台詞や歌は、その地方の耆恭になっている場
ます。
合が多いのです。そのため、ローカル文学研
また、酉川慰の川劇で、その内容が鮮明に
児の対象としての地方劇の脚本は、方會の挿
酉川の地を鐘塊する物として、近年にわかに
鐡が錘婁になってき玄す。今日、多くの留学
注目されているのが、川北灯戯などとして名
生が中国の各地に居留し、そこの風土の中で
高い灯戯です。演目の多くは、地元の農民の
率柄であり、民間の伝承を主としています。
生活しています。鐘日、否でも応でも、各地
の方官を閲かされます。
こうしたローカルなものは、ほかにも泉北
日常ほとんで共通篝を諾さない。そんな状況
の二人転などと倉ったメジャーなものもあり
ますが、中国丙二百余ある伝錨演劇種類を網
の下で、その地方の芝居の脚本に輿床を持ち、
羅的に麹介した『中国戯曲別種子冊』に掲載
同時に方言にも習熟したならば、竿強ろ方倉
されていろ、各地のマイナーな逸走の芝居に
研充というのではなく、生きた倉鷲で鍵られ
は、酉川の灯戯に類する物が少なからずあっ
た中国ローカル文学という、新しい分野を閲
て、これからの愛妻な研宛採題に堂ろだろう
とくに、自分の方倉に鍵埼のある地方では、
2
中曰客麺ヨュ虚纂24.25合併子
と思います。
誌しは逆になりますが、これらローカルな
た打祭器に“付け,.と楽鍔、それに動作につ
らましを葬ることも、埜婆です。なぜなら、
いての蝶い、卜潜が入れられている率です。
京劇IZA外の地方劇に閲しては、上海葬穆出
版社『中国戯曲曲芸詞臭』が代表的な作品の
現在の多くの伝銃演劇が吉典的戯曲を元にし
模擬を録ろ上で、簡便な本ですが、山西人氏
ているからで、その理解には、、字慶蕃『中国
出版社『中国榔子劇日大辞典』、中国戯劇出
戯曲文学史』が便利です。作品の内容、作者
版社『川劇劇臭』などが出て、いわゆる伝銃
など、一応の挿鐵が得られます。しかし、こ
劇戯曲鵜に入らないあまたの演目に閲する梗
れはこれまでの文人の立場から避んだ“正鋺
概が述べられていますし、その脚本がどこに
的”戯曲研究に基づいているので、現在の京
所歳されているかも記されています。ノリ劇に
劇や地方劇の演目についての事柄には余り倉
ついては、早稲大学川劇研究会『何為ノ11劇』
及されていません。
も日本露の対次がありとても有用です。
芝居の演目ではなく、いわゆる伝焼演目のあ
そこで、京劇については、『京劇劇目辞
認上近は、巨馨『中国戯曲志』が各地から
典』があって、劇の内容が分かるばかりか、
蕊々と出されているので、それには各地方劇
その誌しの出所や、その演目に関係する率、
の代錠的演目の模擬があって、これにもどこ
地方劇も含めて含及されています。液ずろ役
にその脚本があるかが明記されている壗今が
者に閲するコメントも参考に塗ります。同徽
多く参考になります。
の物では、古いものですが、波多野乾一『支
さて、役考に閲しては上記の等番類にもあ
那劇大観』(『支那劇五百春』)があり、新
りますが、個別の役者の伝記や詔介が、かな
中国になって改作される前の内容と、当祷の
りの量で出版されています。『梅蘭芳舞台生
役者の評価が付加されていて鷺遮です。
活四十年』は、近代京劇の歴史を弾ろ上で大
このような告、、京劇の脚本祭として参考に
変参考になりますが、-<徽誕進京200周年
なるのが、儀近再販された『戯学蕊考』の今
訂本で、これはかつて上海大東穆局から出さ
紀念>と称して、梅蘭芳はじめシリーズとし
れたものです。この瀞の特徴は、この本に基
その中には、各演目の演技、演出についての
づいて上演できろ。京劇の-得のある人が、
記idiもあって、一鍵に値します。
上演するときに銭に便利になっているのです。
て京劇名優に閲する誇馨をかなり出しました。
また地方劇についても、上海文芸出版社く
脚本の前に、憂場人物の役柄があり、どの人
表演芸術讃謬>、中国戯劇出版社く戯劇家伝
物がどの役柄がdその扮装に閲しても、被り
銭讃慧>、湖南人氏出版社<芸巖澗已秋叢漕>
物、ヒゲ、衣装、二履き物、手に持つ武器や道
といったシリーズのほかにも、単独に名優た
具類に至るまで、…全て挙げられています。そ
れにその芝居を得意とする役者、芝居の内奪
な《、近代中国で庶民の没も典型生活がどう
と、扮装の陰図が掲載されていて、当時の扮
であったか。庶民レベルでありながら、政治
装がよく分かり、先ほどの扮装に閲する記述
家と深く関わった役者を通して、近代の中国
と照らし合わせろと、扮茨の名称も戚認でき
の歴史を葬る格好の脊料とも倉えます。
ちの伝記が蒋かれていて、習芸の率ばかりで
るようになっています。また、ト鱒も割合多
く瀞かれて、{まず。’
戯曲史蟠』、鯵隆輿『中国戯曲史諾』、彰飛
中国演劇史の簡単強入門懇は、余従『中国
ここ数年、‘『京劇演出曲瀞集成』(上海丈
『中国的戯劇』の3審が鏡も簡落で演出の方
芸出版社)が7祭ほど出されていて、これは
にも目を配って番かれていろ。張庚、郭漢域
現在の演出本で、その特徴は動作に付けられ
『中国戯曲通史』は上演に閲するかなりの記
中画客輕麺忘纂24.25今俳号
3
述を含み、出版当時画期的なもので、上記の
きたいものです。アクロバテイツクな“雑技,,
3冊で物足りない場合に手にとろぺきものだ
の類には、傅起鳳坤系の『中国雑技』『中国
が、かなり前に溶かれたものでもあり、宗教
雑技史』がまと玄っていて分かりやすい。幸
演劇に閃する妃裁も不足している珠いがあり
い前翁は、岡田陽一氏によって『中国芸能
ます。椅世祥『中国戯曲簡史』は、少数民族
史』という名で翻沃されてい式す。
の演劇に鏑宛した所がユニークで、明治時代
の演劇理鋳の簡述もあります。
芝居の音奈については、孫玄跨先生の『中
国の音索世界』(岩波新蒋)でアウトライン
演劇理鏑の歩みについては、叉浮時『中国
を葬るのがよいでしょう。人氏脅奈出版社が
戯劇批評的産生論発展』が簡便ですが、詳し
く戯曲音奈研充笈漕>というシリーズで京劇、
くは恭倹海『中国戯劇学央稿』が多くの劇鏑
鼬劇、琢劇、賛梅戯、尋劇、淘甫花鼓戯など
を取り上げていて、分かりやすいだろうと思
の芝居音楽の概鋳があり、各地方でもロ川文
います。劇鏑は、中国伝鍵演劇がなにをHiL目
芸出版社『川劇音奈概述』山西人氏出版社
に腱閲してきたか。舞台芸術のどの点に注愈
『鏑劇脊索』など数多くあるが、これは実際
を払ってきたかを葬るのに役立ちます。
に録音のテープを附きながら鏑まないと、理
京劇の歴史に閃するものでは、中国戯劇出
解しがたいので、ぜひ録画、録音を凡聞きし
版社『中国京劇丈』(上、中)、学林出版社
て理解を深める錘婆があります。溌刺音楽の
『京劇夫研究』、蕊移『京劇二百年擬餌』等
歴史の大概を録ろのは、荘永乎『戯曲音楽史
が、実とまったものでしょう。台湾の中国大
概述』がよいと思い±す。毘曲については、
化大学出版『滑代京劇百年丈』(。リン・マ
今までも本がありますが、梯子腔劇に閲して
ッケラス署、.騎穐程沃)は、い《つかの新し
は少ないので、備静迄『鏑榔子腔』で榔子腔
い内奪を含んでいる点で優れています。
劇全般の理解を濠めろのがよいでしょう。
個別の地方劇の歴史については、各『中国
鏡近は、演劇考吉学とか倉われ出土物の発
戯曲志』に記範がありますが、<中国戯曲劇
稜史>がすでに数冊出ていますし、これに属
凡によって新たな率実を弾ろ率ができますが、
屡奔『末元戯曲丈物与民族』は、多くの図版
さない侠舌人氏出版社『素歴史縞』、酉川大
を含む好鶏です。末元時代の演劇の実態など
学出版社『中国川劇通史』、隆馨庭『鼬劇演
は分からないと思われていた所に、この本の
出央稿』等夕があります。
はたした役割は大きいと思います。
実際の舞台は身体芸術ですから、動きに閲
近年にわかに注目を祭めている宗教演劇に
する率を弾りたければ、中国戯劇出版社.『戯
ついては、台湾からく民俗曲芸護惑>と題し
曲幾演身段基本功教材』『戯曲裟演毯子功教
て、膨大な瀞料嬢が次々に出されています。
材』『戯曲義液把子功』の3冊で粗方は分か
わが国でも、田仲一成、鍬訪懲雄南先生の馨
るようになってい室す。また、鏡近の同出版
瀞や、図版の多い、後藤液、庚田律子丙先生
の『中国少数民族の仮面劇』によっても、基
社『戯曲武功特技遮』も参考になります。こ
のほかに、すでにかなり出版されている大著
鍵的猶録麹が得られます。
劇と鼻鰭の境界に倖遼する脅璽な記戴と図解
鏡後に、俸台芸術としての中国伝鈍演劇の
間題点を録ろ鱒として、近年再版された王国
が含まれていて、一覧をお勤めします。
錐『戯曲鏑丈蝶』(中国戯劇出版社)と遊錘
『中国氏族氏iU1鋒篭祭成』も、中国各地の演
は、『中国鋒鎗史(先泰~明渚)』4冊と、
戦『魏劇』は、埜携瀞です。前渚が伝錨演劇
の展閉について、後老が伝鋺演劇の舞台芸術
その日本鰐簡旗『中国鐸鏑史諾』は鏡んでお
について、いずれも遮婁な率柄を論じていろ
こうした鋒台の動きを歴史的に理解するに
4
中四審バュヨ込面系24.25合-0十号
2冊を鏑から難さ猶いようにしましょう。鏑
に近年は『覇王別姫』をはじめとする映画作
品を通じて京劇に触れる機会も蝋え、その華
点で理解しにくい場合は、今日の大凡の認識
麗強鋒台、あるいは旧時の俳優達の生活に興
を記述した『中国大百科全審』(戯曲曲芸)
永を強えた方も多いに違いい、。中国演劇に
が便利です。これもすぺてが正しいとは限ら
ついての情報が京劇を規準として流通するこ
ず、さらに研究を進めなければ鞍りません。
とについては、正直鞍ところ少々偽りがある
力、らです。趣家から研究に入るときは、この
敷にしろ、中国伝鋳演劇の研究は、鏡も日の
と言わざるをえないが、筆者自身京劇を手始
浅い分野だから、その先はあなたの仕事です。
めに中国の演劇と関わったこともあり、現時
ついでに、これま゛でに出された伝錨演劇の
点で比較的情報の多い京劇を中国演劇に触れ
主な鏑著で、新中国IWiiのものを列挙した文
る端錯とするのも、噸群としてそれほど不適
化芸術出版社『中国近代戯曲誇箸縄目』と、
切では強いだろう。
新中国泓降のものを挙げた中国戯劇出版社
さて、京劇についての情報量は多いと述べ
『中国戯曲研究轡目提要』を紹介しておきま
たぽかりだが、現在入手可能な京劇関係の日
しょう。
本露の参考響があるかというと、察は都`毬の
このように、憲内番を色々挙げたわけです
大審店に行って懸命に探してみたところで、
が、演劇研究で避けられないのは、舞台を見
出会うことはまずない。要するに近年はほと
る率です。なんとかして、舞台を多くみまし
んど出版されていないのである。これで情報
ょう。鼠近者店にあるVTRでもよろしい。
量が多いというのもおこがましい1Wしりだが、
それを何度も)して、'次にテープで音を何度も
中国図轡専門審店や大規模強国曾館に足を運
剛いてください‘これが、実は全ての出発で
ぶ機会の鶇い人にとっては、ほとんど挿議を
す。そして、興家が進んだら、上記の本を子
得るすぺなし、という大変切実な問題と猶ろ。
にとって、徐々に闘題意識をもって解明して
そこで今回は、京劇についての若干の捧識を
いくのが、競上の方法です。
お伝えすると同時に、京劇を弾ろためのもっ
とも基本的な瀞物を、文末でいくつかご紹介
京劇
することにしたい。
平林寅和
中国演劇の舞台写真を予備挿識なしにjもせ
られたとき、それが京劇か昆劇か、はたまた
中国には現在二百有余種の演劇があり、こ
蒸膣か、にわかに判別がつかないことが多い。
こでとりあげる京劇も、」昆劇や越劇、川劇、
特にまだ二、三度しか中国の演劇をjもたこと
恭腔などとともに寸分類上はあくまでその内
がないという人にとっては、かなり絶蔓的な
の-種にすぎ鞍い゜しかしこれらの演劇のあ
鐘であろう。多少jも憤れてくるとちょっとし
り方は、その環境に応じて非常に多様であり
た途いから判別できてしまうこともあるが、
(このあたりの事情は、本号の鉤弁尚子氏の
だいたいにおいて日本の能と歌鐸伎ほど簡単
文章を参照していただきたい)、京劇の場合、
には」し分けがつかないといっていい。これは
その興隆の時期が中国の辻現代とほぼ重なっ
中国の各劇種(中国の演劇分類周藷)の義魂
たことも手伝って、今日では中国を代表する
形態が、能と歌舞伎ほどには相互に隔たって
舍典演劇として世界的な挿名度を得るに至っ
いないこと、さらに今世紀泓降、京劇を中一
ていろ。わたしたちが中国の演劇を弾ろうと
に化粧や衣裳の平準化が進んでいることなど、
いうとき、その窓口となるのがたいてい京劇
いくつかの理由が挙げられろ。
であるのも、多分にそうした理由による。特
中ロ暮鑓麺蔵第24.25今俳号
このように、ぱっと凡には区別のしづらい
5
中国の演劇を、いくつかの枠の中に区分する
(後に掩階膣も今むように数ろ)、徽戯など
際、一審の規準とされるのが慶腔である。戸
腔とはとりあえず「節回し」と理解していた
は花部に分類されて不利な女湯に立たされて
いた。しかし後にはこの雅部と花部との形勢
だければいいが、中国演劇が使う虞腔は現在
が逆転して、京劇(というが徽戯から京劇へ
全国規模でほぼ三つに大別されていろ。その
の変遷過程にある当時の皮黄戯)は営塗のお
うち京劇が主に使用するのが皮賛という声腔
範に入りとなり、内薬供奉というお召し抱え
で、これは西「皮」と二「賛」という二種類
上演制度のもと、徐々にそのステイタスを高
の節回しを合わせたものである。われわれの
めていくのである。北京と天津の京劇役者が
宮山、慨れた京劇という名称自体も、実のとこ
上海に下り、後の海流京劇へと独自の発展を
ろは氏国初期に普及したもので、それまでは
遂げてゆくのもこの頃で、都北京の芝居と言
皮賛戯という倉い方が一般に通用していた。
う遂家の「京劇」という名称も、この時期の
ただし、皮焚という戸腔は坐ずしも京劇の乎
上海で伎われはじめろ。
苑特許では強く、漢劇や川劇のなかの胡琴な
さて、京劇の複腔の成熟と、旧社会でのス
ど、他の多くの劇稜でも使用されていろ。京
テイタスの上界に並行して、阿片蕊争泓米外
劇が京劇になるためには、まずこの皮賛が京
国に門戸を閉いていた中国社会はいよいよ本
劇用Iニローカライズされる錘要があった。そ
格的な近代化の麟梯を歩み始め、北京や天津、
の始まりとなったのが、1790年(乾隆5
上海といった大都市の商紫劇場を基盤として
5年)を起点とする四大徽班の入京で、一般
いた京劇も、そうした周囲の環塊への対応を
に京劇の歴史はこの涛点をスタートラインと
迫られてゆ(。特に今世紀初頭、魂瀞から氏
する。肌下、京劇が国際的な揮名度を得るあ
国初期にかけては、封塗社会の鱒鳥と簡素の
たりまでの歴史を概観しよう。
発進、そして近代挿籔人の登場によって、演
徽班とは徽戯を茨ずろ劇団(戯班)のこと
劇をめぐる状況が一変した時期である。とり
で、特に乾隆55年に北京にやってきた三慶
わけ近代教育を受けた新興挿鐵人との出会い
雍をはじめとする在京酉劇団が、四大徽班と
は、京劇に少なからぬ影嬬をもたらした。そ
してもてはやされた。この徽戯が使っていた
うした出会いの典型が、梅蘭芳とフランス帰
節回しが二賛である。後の1820年代、今
りの斉鈩山をはじめとする挿蝋人達との避遁
度は二賛と酋皮の二つの節回しを持つ漢戯が
である。
ヨヒ京入りして徽戯と合流、ここIニようや《京
19世紀の京劇は、先に付人か名前を挙げ
劇形成の基盤が整えられた。当時の代表的な
た奄生という行当(役柄)が主軸となってい
俳優として、程長庚、余三瀞、張二姿の二人
たが、20世銘に入って旦角(女性役)が亀
の老生俳優がいたが、老生三像と苧ばれた彼
迷な興隆を遂げろ。この時期に昼場したのが
らは、それぞれに徽戯、漢戯、在米の京歴を
ご存知梅閲芳で、彼と彼を巡る挿鍍人述の活
代義しており、京劇はこの二種を混交させて、
動を中,趣に、京劇は旧社会でそれなりのステ
徐々に京劇独自の節回しを成立させてゆ《の
イタスを得た演劇の-種という立場から、世
である。実際にその過程が進行したのはこれ
界に誇りうる中国の古典演劇へと寵鍬してゆ
よりもう少し後、老生後三篠と浮ばれた蝉xi
護塔、汪桂夢、孫蔚仙の時代のことであった。
瀞鯛は当時の演劇を、宮廷お墨付きの雅部
くのである。
1910年代、氏国初期の彼らの鰯きを追
うと、当時の京劇の向かった-つの方向がjも
とその他諸々を一括した花部に分け、雅部に
えてくる。この時期梅蘭芳が演じた新作物は、
は明朝泓米の伝銃を塗いで昆劇が当てられ
瀞末の改良新戯の流れを《む時鐘新戯と、弁
6
中已琴鑓麺宿第24.25合併号
鎚山が在欧時代に培った古典越泳に合致する
吉茨戯、特に杵藷劇であった。とりわけ後者
の俳優巻成期間)富達成の出身者はこの時期
の劇界を支える大きな基盤となっていろ。
への傾斜は明らかで、この時期に京劇は舌典
と、こうした瀞きかたをすると、いかにも
としての色彩を意図的に強めていったのであ
京劇が時間の錘過とともに順調鞍発展を遂げ
る。この頃梅蘭芳が熱一に昆曲を学び、新作
の題材の多くが伝奇や鐘楼夢敷どから採られ
ているかに見えるが、ここで述べたのはもっ
たのもそうした傾向の拠れである。
時の中国社会の様々な側面を反壊した諾もた
さて同時期の京劇の一つの鍵括となったの
が1919年の棒闘芳永日公演である。この
ともポジティブに見える部分で、実際には当
くさんある。今回は欽面も足り猶いので、ひ
とまずは触れないでおこう。
時、京劇は中国の吉典演劇として、梅蘭芳の
さて、先にも述べたように、京劇について
名とともに我毎銚国人の目の前に乳れたので
の日本鍔の概説番の類は残念ながらほとんど
ある。現在の京劇といえば梅蘭芳という連想
出版されていない。1979年の中国京劇院
も、ほぼこの頃に起点を持つ。後に梅蘭芳は
末日公演時の写真を中`毬に鶏喋された平凡社
1924年の再永日公演に鐘きアメリカ(1
の写真濃『京劇1.2』の上下本、(1980
930)とソ連(1935)にも赴いている
年発行)などは例外的部類に入る状、現在容
易には手に入らないだろう。頼りない諾だが、
が、こうした一連の活動を通して、京劇は中
国の古典演劇としてひとまず世界文化の仲間
こればかりはどうしようもないので、他に方
入りを果たしたといえるだろう。
法を探すとなると、鍔局次の二つと載る。一
さて、京劇の国際的鞍認挿度は梅蘭芳らの
つには瓢前に中国を訪れて京劇に魅せられた
活動によって高められたが、同時期の国内に
日本人の手による響物、これが力なりの数あ
おいても、京劇はかつての分布域をはるかに
る。もう一つは倉うまでもないが中国鍔で譜
越え、広範囲にわたって流徒していろ。その
原因としては、もちろん当時の京劇のレベル
かれた京劇関係の審物である。前者について
は、今号に伊藤氏による詳しい解説があるの
の高さという内的要因もあるだろうが、それ
で割愛し、ここでは後者のみを取り上げるこ
泓上に演劇隷蕊の刊行が相次いだことや、レ
とにする。京劇には興家があるけれど中国蕊
コードやラジオ、写真の普及、巡演のための
は全くわから救いという方も多いと思うが、
交通手段の発遂など様々な外的要因が強く作
用していたこと!A確実であろう。そうした選
永でも京劇ご糞代とは切っても初れない件に
あるのであるご童た国家を代表する演劇とい
う意家のJ国劇」という別称が京劇に冠せら
現状ではとりあえずご勘弁願いたい。
れたのも、やはりこの頃であった。
この時期には、梅蘭芳IZA外にも多くの名優
まずい京劇プロパーの辞典としては、今の
ところ兵同窓等主鑛『京劇鈩識辞典』(天津
人氏出版社)が手頃であろう。重た、『中国
戯曲曲芸詞典』(上灘鋒懲出版社)、『中国
大百科全慧・戯曲曲芸鑿』(中国大百科全轡
出版社)のふたつは、京劇のみ猶らず中国漬・
が率出し、京劇の賛金時代を現出させている。
劇全般について葬るためには坐携である。京
棒蘭芳と同時期に活躍した俳優には、彼と並
んで酉大名具と称された程現状、尚小雲、筍
慧生、老生の余叔岩、馬連良、鐸富美、周繪
芳(上海)、武生の楊小楼、葦斗天(上海)、
`小生の鷲盛蘭、F浄角の謹盛式、歳世灘その他
劇の歴史については、北京市芸術研究所・上
劇二百年概観』(北京燕山出版社)あたりが
枚挙にいとまがない。特に北京の科躯(旧時
簡潔で手頃だろう。京劇の演目については、
中曰雲麺麺忘第24P25今併号
海芸撒河宛所鑛著『中国京劇史(上・中
巻)』(中国戯劇出版社)が詳しいが、少々
長いので、一般的なものとしては珠移著『京
7
胸倉起稿箸『京劇劇目初採』(中国戯創出版
地方戯は、「土地の芝居」ではあるが「地芝
社)が古典だが、現在はほとんど子に人ら戦
居」ではない。従って、その邦訳は一定して
い。曾台融主縞『京劇劇目辞典』(中国戯劇
いない。著し紛れに字面だけ訳して、日本藷
出版社)のほうが項目も多いし入手も奪易だ
ろう。脚本鶴は、きぐは中国戯曲研究院縞
『京劇叢刊』があるがハチは困難、中国戯曲
学院縞『京劇選縞』(中国戯劇出版社)や溶
侠風主鶏『京劇祭成』(新世界出版社)など
は近年の出版なので手に入る可能性は高い。
の概念を伴わぬ「地方劇」とか「地域演劇」
また籏近復刻された民国初期の『戯考大会』
(上海轡店)も当時の脚本の内容がうかがえ.
て面台い゜主要演目の督腔のさわりだけを祭
ぬた『京劇大観』(北京出版社)という本も
としたり、リアリズム演劇ではないからと歌
舞伎などを指す「旧劇」、「伝銃演劇」とし
たり。こうした訳篝をボンと出してすますの
は、あまりに不親jレワだろうし、誤解のもと。
まずは地方戯の概念から始めよう。
地方戯とは、「戯曲」というジャンルに分
類されるものの内、地燦FIL定性が強いものを
さす。つまり、その土地の倉鍔、曲調、楽器
を周いて演じる芝居で、演じる内容や演じ方
あり、各演目のあらすじも解説されていて、
に、その土地の民俗や民間伝承の影浮がjもら
演目辞典としての使用にも爾えろ。俳優に閲
れることが多い。
しては、個別にいろいろ出版されているので
「戯曲」のジャンルに属する芝居で現存の
きりがないのだが、京劇200周年記念の際
ものは中国本土で約300種あるが、このう
に出版された中国戯劇出版社『~芸術評論
ち地方戯にへら強いものは、雲はただ一つ、
集』シリーズが各俳優の古今の芸鏡、評判を
祭めていて面白い。簗行本としては棒蘭芳ロ
16世紀に生まれた昆曲だけである。とはい
述の『鋒台生活四十年』(中国戯劇出版社)
が、往事の劇界の瀧子をしのぼせ輿家深いだ
え昆歯も、もとは江蕊地方の地方戯だった。
それが、当時の支配層のステイタス.シンボ
ルとなって、彼等とともに各地に伝播し、地
ろう。京劇の写真嬢については、200周年
記念の時に出された『京劇史照』(北京燕山
出版社)と、鏡近出版された金耀章縞『中国
嵐限定性をのりこえたのである。これには、
京劇丈図録』(河北教育出版社)が充実して
曲というのは、鼬歴という節回しを使った歌
いろ。
あるいは芝居のこと。この節回しにどんな倉
Ⅸ上に挙げた曾物のうち特にハチ困難と断
演劇的にみた昆曲の特性が大きく作用してい
ろ。まずは、採用している倉籍の特殊性。昆
鐇をのせるか。当時の政治機構は、役人畳用
ってい強いものについては、もちろん100%
試験である科挙に受かった人が全国から集ま
の保証はし救いけれど、現在でも手に入ると
って仕事をする。それぞれが土地の方倉を諾
思われるものである。国内あるいは大陸の脅
店で探してみてほしい。
していては、職場で諾が通じない。ゆえに彼
等には、共通露である官諾というのがあった。
簡単に(大腹に)客うと、この官諾をかエし
中国本土の地方劇
た含篝を採用していたのである。従って、一
細井尚子
定の教務さえあれば理解できろ。次に、典拠
典籍が多く、高度な文学性を備えた脚本。こ
日本には、中国の「地方戯」にあたる芝居
んな二と、あんなことを沢山拝らなければ理
がなかった。地方戯の「地方」は「中央」と
解できない。マニアックなのである。さらに
対痔する「地方」ではない。中国には、そう
はその督法の難しさ。微紗敷音の高低を,駐使
いう愈家での中央の芝居はなかった。ゆえに
いで剛かせる。そして晶歯独特の楽しみ方。
8
字画夢鱈麺忘第24.25合併号
鏡むだけ、歌うだけでも完鍔し、上演だけを
没鱒目的とし鞍い゜琴として接する享笑型と、
たのだろうと考えていろ。
花部の芝居は、倉壌内では上演できぬなど
自分も響いたウ、歌ったりする参か型の両面
差別待遇を愛けたが、圧倒的な人気を将た゜
をもっていろ。もちろんこうした特性は、支
乾隆帝の碁寿寸傘寿の祝に北京に祭まった北
配府に取り込まれてから培われたものが多い。
部の芝居。その中から人為的・作為的に京劇
生まれた時は率に昆腔という節回しだけだっ
がうまれて《ろ。(京劇成立は19世紀中鷲
とされるが、・掲法に京劇としての個性が認め
たといってもよいだろう。
倹々と地方戯に入らぬ毘曲を述べたのには
られるのは1910年前後と意外に新しい-
訳がある。もう少々我憧して頂いて、昆岱が
鍵生したのは漢族の明朝、次の滑翔は満挨の
-拙稿「京劇老生の督法に閲する一考察」
「演劇研宛」14号萎鳳)乾隆帯同じく、芝
王朝だ。満族は、豚の飼育もやってはいたが
居好きの西太后(治政1835~1908)
狩猟民族に腐すと考えられろ。彼等は支配す
が愛し、自らも意中舞台に立った(観音様
る上で文化的には漢化政蒐をとり、支配府の
役!)のもこのタイプの芝居である。
たしなみとしての昆釣も鑑承した。しかし私
京劇は地方戯である。新中国成単弘前、社
は、昆歯は前述したようにいかにも農耕民族
会情勢から散逸した役渚たちが、各地に京劇
である漢族好みのもので、満族の支配ノ§が本
を伝えたが、その土地の芝居と競合して敗退
当にマニアックな喜びに没っていたかは接だ
したり(役者は土地の芝居に転職したりし
疑問だと思う。もって生まれた生体リズムが
連うからだ。鼬歯が瀞朝康際帝(治政166
1~1722)中鷲になって衰退に向かう理
た)、その土地で土地化して新しい芝居にな
由は、実はここにあるのではないかと私は思
る地方戯も多い上、演劇的特徴が不可変要紫
う。康煕・雍正d乾隆の二代が、明朝の遮産
が極端に少ないという点にあるためだろう。
だけでなく、自分達のものを獲得していく瀞
朝の黄金時代だったことも象徴的だ。乾隆帝
(治政1735~95)は芝居好きで、粛巡
の皮に各地の芝居を楽しんだ。それらは、す
唯一の例外が上海を捷点とする海派京劇か。
北京の本朝派からはずっと下にみられてきた。
べて昆曲とは反対の性格をもつ・土地の倉紫
(北京人と上浄人が、性が合わないのも影尋
を使吋守分かりやすし、脚本、穐鈷的婁議も麹
しているかもしれない。しかし、新中国にな
祝し、声を張る喝法d庶民のヨミノ醤である。王
って行われた改革路濁しは海派のそれに近
趨のあった北京にも様々な芝居がやってくる。
乾隆帝の樹n代、,芝ノ唇には「雅部」と「花部」
の別があった。雅部は昆釣をさし、その他す
べての芝居は北部である。もちろん花部の芝
居群はこの涛一弁に生よれたのではなく、そ
れぞれの土地で醸成されていた。この雅部・
北部の区51は王朝御用途とそれ泓外の区別で
あって、地顔凧定性の強弱による戯曲・地方
戯の区別とは迩鐵が逢うが、さしている内容
は同じである。私は、雅部・花部の流れの上
い。)新中国成立後は、文芸政蒐的に中国各
に、戯曲…地方戯という営恭の概念が塔われ
中回琴鎭題し冠第24.25合併号
ったりした。これを地域WL定性を乗り趣えた
とは倉わない。京劇の主たる節回しを共有す
海派は南の芝居が共有する「見せろ」ことへ
の気配りもあって写実指向、説明指向が強く、
地に人材を配し、京劇団を作った。各地で府
身の狭い活動をしている劇団も多い。どんな
方法による分布であろうと、劇団の分布地域
の広さ、また首都北京を枢換地とし、名優を
傘出し、海外での揮名度の濁い点を考えろと、
私は京劇を半戯曲・半地方戯に位遼付けるの
が妥当かと思っていろ。
地方戯には宗教儀式から鍵生したもの、お
笑い系の仕草へり誇りものから発展したもの、
故郷を捨て、画丁の芝居として拳やかなショー
9
怠向で作られたものと、生い立ちも性葡も
洗鎌化は土俗性を捨ててい《ことを念家する
瀧々、実に個性がはっきりしていろ。ふたつ
が、川劇はそれを頑固に残したまま非常に沈
例を挙げてみよう。
鎌された珍しい演劇だ。
まずは酉川の)11劇。ノ11劇()11戯)は酉)11の
趨劇は川劇と正反対に、源くすべてを捨て
芝居の愈・酉川は日本とほぼ同じ面積をもつ。
てしまった典型だ。故郷は漸江者の侠鼎。農
ここの上着の芝居は、宗教儀式の中で生まれ
民が農閑期にやっていた鍔りもの「落地督
た二小戯一一人の野(丑)と一人の大
瀞」が、・今世紀に入って化粧をして芝居仕立
(花旦・溌刺具・揺旦系)--から発展し
てにしたのが受け、「的蔦誕」「小歌垂」と
た燵戯。清代になって酉川の禦西南北各々に
して1916年に初めて上海に出た。土地の
別の土地の地方戯が流入、四)11の含鍔、楽器、
客舗を使い、大役も男の地声でやるなど、田
民謡や労働歌などの曲調を戎1lxして奨雰し、
舎芝居とさんざん数浄笑を浴びたが、懲りず
酉川化する。束に入った江珠の昆腔が晶腔
に何度も赴き、当時流行っていた京劇や紹劇
(川昆)に、西にへった安徽の徽調、湖北の
など様々なものを戒収、21年には「招輿丈
漢調、院西の漢キー箸が胡琴に、南にへった
戯」としてそれ強りに評価された。け敷され
江舌の掩陽歴が高腔に、北に入った懐西の泰
てもくじけず、褒められても慢芭しないのは
腔が弾戯になった。音楽体系でいえば溌戯、
大したもので、京劇の女優の人気に注目し、
鼬歴、高腔が曲牌音楽、鍋琴と弾戯が板腔脅
23年には女優祷成を閉始、女優班と男優躯
崇だ。この4種の酉川化した芝居と鑑戯、あ
の勢力争いを鋒て、捨局36年には男優錘は
わせて5種をひとつの劇団がこなせるように
淘汰され、女優だけの芝居となって、名称も
なったのは、今世紀になって澗都である成都
趨劇として定着した。そして42年から名大
に常設鋒台を作った三慶会から。
優愈籔芥による大改革を鑑て今日の越劇が形
川劇の特徴を列挙してみよう。まず轤鉱面
では音楽が麹かであること(中国の節回しは、
成された。越劇の特徴は、形成期が中国激勁
期であり、形成地があらゆる文化のぶつかり
曲牌音楽と板歴青祭に二分されろ)、打楽器
あっていた上海だったことから付与されたも
の種類が多いこと。特に打楽器と人慶だけで
のが多い。演技術としては、喝法に独自のも
構成する高腔は、舌魑の遺騨として演劇史研
のはあるが、身体表現術は迄し《、当初から
宛の側面からも注目されていろ。視粒面では
照明や音癬を見せる技に組み込んでいた。ま
「」しせる」芸が発達しており、マジックやア
た化粧・衣装・笈形の形や色も伝銃的なもの
クロバット、往噂の躯邪で用いた技などが、
が救い分自由で、たとえば化粧は歌劇や塊代
芸として演技荷・演出法に組み込まれている
劇の影癬も強い(瀞のアイ・シャドー、付け
こと。また、子や足、冠棡類を用いた芸が非
蕊など)。ともかく懇鍵物が将懲な芝居であ
常に多く、かつ鉋かい。立ち回りの逮度も京
る。逆に倉えば歴史物や我物はできない。行
劇より速い。演じる内奪としては、脚本が非
常に多《、土地の風俗習慨が強く反映してい
当も中性的な美しい男と美しい女に偽ってお
り、役者生命も三十路を超えるのは難しい。
ること。演出面で特に注目すべきは、笑いに
男役がb(んといっても人気で、ファン銀鑓が
よる処理法の発途だ。脚本だけを鍵むと懇劇
あるところも我が宝塚を坊擁とさせろ。私は
でも、実際の鐸台は喜劇というのが多い。ド
はるか昔、「趨劇をちょっと勉強してみよう
タパタ劇である「IMI劇」というジャンルをも
かと思います。」と倉った時、「あんなもの
つのも川劇ならではだろう。行当で倉えば、
やるぺきではない!」と一喝されたことがあ
川劇は何といっても丑が発達していろ。普通
る。中国のインテリは、越劇を好きでも好き
10
中ロ客引屋麺祗第24.25合併号
■■■■■■■■■r000000‐‐
台湾の地方劇
とは倉えない、隠れキリシタンのようなとこ
ろが躯かにある。
鈴木秀美
中国の演劇は、新中国成立前後で大きく翼
わった。芝居はただの娯祭から氏族文化にと
「戯曲改革エ作」により、演劇人は、優秀な
台湾の地方劇には、現在、吠仔戯、南管戯、
北管戯、四千戯、高甲戯、蓉察採茶戯の六種
の「大。;刺(中国の伝統的民族形式の歌劇)
と寧鼓陣、採茶戯、牛津陣、鉋早船の四種の
ろ氏族大化の具現者として社会的地位が息上
「'1,戯」(小型の歌鐸芸能)、布袋戯、侭傷
認識が変わり、教育・宣伝蝶体として有効で
あることが発見された。1951年からの
し、斧台の上からはエロ・グロが消え、幽璽
は追い出され、黒衣もいなくなった。鋒台の
下では徒弟制による壗成が学校制に、大形の
隷成をやめ、女優に移行した.当然人々と芝
居の在り方も変わる。精神的槐鰹は見下ろす
ものから見上げるものへ、接し方は楽しみ、
戯、皮影戯の二種の人形劇があると倉われて
滴鱒するものから戎奴するものへ.政府機関
る演劇である。その歴史は愈外と浅く、今世
紀初頭、すなわち日本銃治開始後まもなく、
の管轄下に入った芝居は、管理されるものと
なって生活の保障と「人氏に服務する」鍵務
を与えられたのだ。芝居の世界はえ革期を経
て、80年代末からまたあらたな動きが顕在
化してきていろ。演劇人がビジネス芥や映
画.テレビに流出する、観客離れならぬ、
「鋒台離れ」現象。そして錘済優先による演
劇管理システムの機能マヒ・保護されること
いるが、ここでは欽面の関係から、そのうち
鐘も代護的な歌仔戯について簡単に麹介しよ
う。
歌仔戯とは塊在台湾で釣75%を占める阿南
(稿塗樹南部)人の方倉、阿南鱈で演じられ
台湾北部の宜蘭で誕生したとされろ。創始者
は歌仔助(門助とも)をはじめとする数人の
大陸移民で、「錦歌」と苧ばれる阿南地方で
流行っていた誇りものの説渇家であった。彼
らが劇団を組織し、錦歌の定春である「藤三
五AiUや「梁,」M白と祝英台」を演劇にしたて
て祭紀演劇としてお祭で演じたのがその始ま
に憤れてしまった昆曲は逆境を生き鍵びる体
力が足りない。京劇はスターシステムを人為
りであるといわれる。
的に作ったり、ツーリスト周の公演など、乱
漢族移民作よって台湾へもたらされたもので
反射的な苦闘を焼けていろ.土地に根差した
ある。しかし、当時の演劇は歴史ものばかり
.!』..,.. ̄
比方戯の中には、丁占拠客ビハ白分たらという、政
台湾の祭犯演劇は、明ネル(峰、大陸からの
で、しがも阿南人が聞いてわからない北方官
府の介在しな‐い、二者だけの関係を承I)良し
て、その場PFLウの楽しみを第一筏とする舞台
を「消瀞」するために(私はこれを「使い捨
誌が主流であったため、人々は立ち回りを楽
て式」と千んでいろ)作り出しているところ
民間伝承をもとにした「隊三塁娘」や「梁山
,---‐ロゴ?~~.・
しむだけであった。そうした中、歌仔戯の誕
生は画期的だった。演目は皆になじみの深い
もあれば、スポンサーシステムを導入したと
伯と祝英台」、しかもそれらが彼らのロ鍔で
ころもある。
ある阿南鍔で演じられたのだから。ヨt仔戯は、
当初、議人役者による田舎芝居にすぎ強かっ
起死回生を賭けて、それぞれの芝居が動い
ていろ。ひょっとすると、芝ノ唇と人々の関係
は、もとの姿に回帰するのではなかろうか○
.-.,J....-;
5午後、10午後、いくつの芝居が生き残つ’
ているのだろう。
たにもかかわらず、またたくまに人々を魅了
した。
20年代に強り劇場という娯楽の場が籍途す
ると寸劇場演劇としても十分採算がとれるほ
ど人気を博すようになった。これまでタブー
中国琴鑓麺宿系24.25合併号
11
祝されてきた自由恋愛を演じるため、「淫
へ担ぎこまれる信徒まで出ろという。折り返
劇」として台湾鍵督府からにらまれることも
し地点の新港拳天官では、燭祖生鍵の祝典が
たびたびあったが、37年賦際、皇氏化運動の
行なわれ、新港鎮の人ロのおよそ四倍にあた
一環として中国の伝銃的演劇が全面禁止され
る十余万人の信徒が集鰭し、祭は頂点に達す
た時代にあっても、当局の目をぬすんでは演
る。この巡行に歌イチ戯の一座が随行するので
じられてきた。
ある。台湾人の宗教に対する敬虞な信仰`ぜと、
さらに戦後、テレビが普及し始めろと、国
祭に対するエネルギッシュな閉枚塵が混在す
民党政府による阿南藷の券鰻の縄制のもとで、
る、台湾ならではの祭。こうした祭で演じら
人気大優楊麗花が演じるテレビ歌仔戯が-世
れる歌仔戯は、その全盛期を思わせるような
を風廠した。
活気を鞍お私たちに塵じさせてくれよう。
廟、劇場、テレビと演じる場が多様化し、
鐵後に台湾の地方劇に関する巖料を若干麺
使われる楽器も弦楽器のみから他の演劇の影
介しておこう。とはいっても、わたしたちが
響を愛けて打楽器がかわり、なんと時にはサ
手軽にjしれるものは数えるくらいしかない。
ックスフォンやドラムなどの洋祭器までが使
近年、日本では台湾の地方劇がほとんど認介
われろ。さらに、主役はマイクを使って喝い、
されてこなかったからである。
日本藷の歌がとびだすこともある。このよう
に、時代の流れにゆだね、形式にとらわれず、
新しいものを襖収していく繁軟性が約一世紀
の間、人気を維持してきたゆえんであろう。
しかし、今日では、娯楽の多橡化にともな
玄ず、地方劇全般に閲しては、宮尾慈良
「台湾の民間芸能」(別冊宝崎127『謎の
島・台湾』、1991)と鋒木端「民間芸能」
(『台湾百科』大修鮪響店、1993)がし上較的
入手しやすい。また、鄭茶渓「台湾演劇研
い、劇場やテレビで演じられる純粋な娯楽と
究」(『演劇学』15,1974)は従未の研究を
しての歌仔戯は廃れてしまった。歌仔戯はい
コンパクトにまとめている点で一読の価値が
ま祭祀演劇として輌々と生き長らえる時代に
あろう。これらの瀞料には、ここで挙げた歌
なったのである。
仔戯も簡単に紹介されていろ。台湾の地方劇
それでは台湾ではいま、いつ、どのような
場で歌仔戯が演じられているのだろうか。次
全般についてより詳しく葬るには、曾永義等
鎬『台湾的民俗技蕊』(曇瀞・學生謬局、
に、その一例として、台湾で鏡も盛大強祭の
1989)を参照するほかはない。
一つ、′「大字鎮潤宮天上聖母鍵境進香」を紹
介しておこう。
「大字鎮潤官天上聖母鍵塊進香」とは、台
中市大平鎮鎮潤宮の燭租(天上聖母)が台湾
中南部にある鴎祖鬮i二十余を巡行(鍵魂進
霄)する祭で、嶋租生誕日である旧暦3月23
つぎに、敬仔戯に関してであるが、これも
曾永鍵『台湾識仔戯的發展與鍵遷』(墨豫・
聯鰹出版率紫公司、1988)を参照するほかは
ない。歌仔戯の誕生から現在の状況までが詳
しく認介されている。
没後に人形劇に関してであるが、実地調査
日弘前の農閑期に行なわれろ。鴎祖の杵像を
の鰭呆をまとめた宮尾慈良『アジアの人形
範せたみこしの後には、数万人の信徒が長蛇
劇』(三一審島、1984)が簡潔にまとめられ
の列をなし、全行程釣二百キロメートル、七
ていろ。(財団法人)現代人形劇センターの
泊八日の旅をお供する。おも鞍経路は大中蕊
一行が79年に坊合した際の凡剛や観察記録を
潤官→彰化天后官→西螺福興営→新港孝夫倉
まとめた「台湾の人形劇」(『現代人形劇セ
→北斗臭安営→大中鎮潤宮。巡行者はほとん
ンター鎚婁』NO2、1980)は、当時の上演風
どが中年からお年寄りで、毎年、過労で病廃
景や人形の構造寸動かし方などさまざまな角
12
字画琴鑓ヨ処樗第24.25今俳号
度から客かれている点で輿沫深い。
れたが、日本銃治時代、布袋戯がどのように
また、映像iiL料としては、『動静昏臭~歌
仔戯的認識輿欣徽』(国立台湾芸術教育館、
30分)が歌仔戯の変遷を復元映像を交えて銘
介しており、わかりやすい。『映像之沫/戯
之泳』(台机丈化率紫股价有眼公司、30分)
演じられていたかを弾ろうえで参考となろう。
泓上がおもな瀞料である。この他、より導
門的な仔料として、治代の地方蕊や筆記、日
本銃治時代の日本人による研尭縁料、及び我
を葬る上で競璽な瀞料である。但し、これら
後台湾人研究者による研宛祷料が多数あるが、
その拝鉋敷目録に閲してはまた別の機会に譲
るとしよう。その研充丈に閲しては、鋒木秀
臭「台湾地方劇の研究史とその時代的背議」
(来京都立大学人文学部『人文学報』253号、
はいずれも中国籍版で、日本鍔字騒が鶴ぃ。
1994)があるので輿永のあるかたは一銃して
また懲近、布袋戯の人形使い字天禄の半生を
いただければ幸いである。
は北管戯、『映像迄旅/健偶之沫』(台汎文
化率紫股价有IWL公司、30分)は侭偶戯の劇団
を取材したドキュメンタリーで、劇団の状況
措いた台湾映画『戯夢人生』が日本で公闘さ
0
議溌
早稲田大学演劇博物館のご案内
平林實和
早稽臼大学演劇博物館は、日本の近代芸荷
の閲拓老坪内遡遥の舌稀と、とシェイクスピア
の戯曲全訳完成を記念し、学界、劇界の鉾助
を得て昭表3年(1928)に闘設されました。
博物館の塗物は、シェイクスピア時代のイギ
リスの劇場、フォーチニン座を模して設計さ
れたもので、垂面部分には張り出し式の捧台
が敷設され、現在も折に触れて上演'二供され
ています。名称は博物龍となっていますが、
図瀞館も併投されておク、閲縮から魂在まで
の70年近くに及ぶ活動を通じて、世界中の
演劇関係野料、図瀞の収搾を行ってきました。
中国演劇関係の侈料については、図審、瀞
中四琴鑓麺忘系24.25今併号
物ともに閉館当初の昭矛ロ初期から収祭が蕊け
られてきています。特に昭和13年、印南高
一、’1、学識吉、宮尾しげも等の中国北方を中
鐘とした大陸行は、演劇博物館で初めての脊
料収嬢を目的とした海外渡航でしたd
収蔵森料には、社会愉勢を反曉して時代に
よる濃淡があるのは避けられませんが、博物
欝料としては、清末氏初の京劇の衣裳や、台
湾の布袋戯芸人字天禄の父魏が使用した戯台、
梅蘭芳の1956年永日公演簿に寄蝋された
衣裳や楽器、程硯秋寄贈の戊影戯の人形、中
国藷劇の起点の一つである.灌桝社の公演時の
懸付、さらに没近収濃された瀞川宥安噸地戯
の仮面などが代表的な収蔵物となっています。
これら博物仔料は、展示会などの機会がな
い限り一般の方々の目には触れ主せんが、図
13
謬脊料については一般利用が可能となってい
どありましたら鑓非お伝え下さい。
ますので、この場をお借りして若干詳しく述
演劇博物館のご利用について
べさせていただきます。
溌刺博物館所蔵の中国演劇関係図慧は、
演劇博物館の図慧室は、学内外を問わず、
どなたでも無料でご利用できます。館内での
1:日本鍔図審
閲覧のみで、館外への儲し出しはできません
2:中国鍔図轡
が、閲覧室でのコピーは可能となっています。
3;欧丈図潜
また閲髄の際には、学生証や免許証など、身
の二種類があり、さらに単行本と定期刊行物
分証明のできるものが埜要と載ります。閲覧
の二種類に分けられます。
場所と閉館時間、交通、連鰭先等を泓下に示
現在、単行本の数は二十冊を優に鐘えます
しますので、是非とも樽活用下さい。
が、我前のものについては、中国を訪れて京
*日本篝・中国篝図番
劇その他の中国演劇に魅せられた多《の日本
場所:本館(5号館)1階閲覧室
人の著述をはじめ、蕊前の梅蘭芳や録牡丹の
時間:9時(日躯は10時)~17時(犬、
末日公演時のプログラムや民国期の演劇轡な
金は19時)
ど、魅力的かつ充実したコレクションに載っ
*欧丈図脅
ています。丈竿期を挟む一時期についてはや
場所:6号館3階洋客室
はり品薄ですが、丈率鍔丁後の新しい審籍は、
時間:9痔~17時(上躯は12時)
特にここ数年米積極的に収祭を鏡けており、
日躯は休室
都市部の前衛演劇から京劇、昆劇、川劇など
:本館閲覧童、洋謬童ともに、夏期・冬
の大劇種、さらに村落や少数民族の燃戯、目
期休業期間中の開室日は9時~16痔
逢戯まで、できる限り広範囲にわたる図脅を
交通:①JR山手線高田鳥場駅より早大正門
蝶めています。また、曲芸や雑技、民俗行率
や映画に閲する欝籍もできる1Wしりカバーする
ようにしています。
行パス終点下車徒歩2分
②誉団地下鉄早稲田駅より徒歩5分
電誌:03-3204-3346/03-5286-1829
また近年は雑鍵の充実にも力を入れており、
現在定期的に受け入れている雑蕊を泓下に列
挙します。、
昨今北京戯曲曲芸鑑賞事情
樺燦
大衆電影・篭影双週刊(春港)・電影芸
術・大鋒台・劇本・河南戯劇・賛樺戯芸jFi・
使妥戯院に焼き吉j洋戯院も昨年壊され、京
民俗曲芸(台湾)・民族芸林・民族芸術研
劇公演もめっきり減って北京も随分様変わり
究・南国筵豆・南學劇作・蒲劇芸術・上海戯
した。80年代、90年代初めの盛況はどこ
劇・酉川戯劇・鐸鐇芸術・戯劇與電影・戯曲
へやら、今では主に外人楓尤奪(我々も?)
研宛・戯歯芸術・戯丈・戯友・新劇本・學劇
相手の上演となり京劇不鑛もここまできたか
研究・中国諾劇研究・中国京劇・中国戯劇・
の感がある。そんな中、折角北京に米て付も
中華戯曲
jしられなかったでは悔しいので、Jii・レベル
比較的長期にわたって刊行されている雑蕊の
はともかく今なお行われている京劇及び各種
うち、大衆電影ついてはすべてのバックナン
伝鋺芸能の上演場所を稗轄介したいと塁う。
バーを揃えており、また中国戯劇と劇本は若
まずは当分取り壊される予定のない人氏劇
干の欠号を除けばほとんどの号が捕っていま
場。霧週上噸に中国京劇礎青年団の半ば鍵
す。雑蕊の定期購入について、リクエスト鞍
務?的公演がある。前門大柵欄内の中諭戯廃
14
中国霊露麺旙第24.25合併量
では不定期な北京京劇院の公演及びラジオと
の評脅、週一回の曲苑雛壇、菊苑纈英、学督
タイアップした「戯迷楽」という桑島が週一
回開かれる。エノMIL祭部(虎坊橋)、民族文
京劇、そして欝童な名優のビデオも流す。
化官礼堂(舌学)でも時折地方劇団上京公演
なかなか情報をくれないのが中国だが、行き
等が打たれるし、中国戯曲学院近くの梨園茶
社では学生たちや票友の公演をする。これら
当たりばったりに凄い上演に出くわすことも
多いから、希望を捨ててはいけない。長安や
の場所には老戯迷が集まり、上演回数は灘っ
吉祥が新たに鐘て道された後一体付を上演す
たがほぼ従未通りの上演が鏡けられていろ。
るのかは葬らないが、それはともかく今、jも
一方、観光寡相子に高額の入場料をとり、短
られるものを凡て、おきましょう。
鋪した針子戯を几せる「年中鶏休茶楼式上
演」には、北京京劇院による前門鮫店内の梨
園劇場と、94年にスタートしたばかりの凰
曾京劇団による恭玉府花園舌戯台の二か所が
-匙さん大歓迎のわりに、いれこまないと
戦前の戯曲書紹介
伊藤緯彦
ある。芝居の内寡より、ライトアップされた
ここで取り上げた戯曲轡は、大正期・昭未
恭王府の夜紫や舌戦台の舞台構造、舞台使用
期に中国(主に」上京)に滞在した日本の新聞
法や効果などを魂ぬるには楽しい。これらの
社特派員や中国通(また、中国文学研究者を
黒字にあやかろうと、東方飯店内の東方茶園
-部含む)が主に皮賛戯について蓄いたもの
(珠市ロ)等ホテルが主催するディナーショ
で、どれも単行本になっているものである。
ー的京劇サロンや、憶筈思錯大雄廃(西単)
『支那芝居』上・下巻、辻聴花著、<支那
等レストランの余興でも京劇が出塊するし、
風物叢霄>、支那風物研究会、1923年11月、
変わった所では朝陽劇場(守家楼北街)の京
劇の式戯と雑技の“葡下鏑,q公演というのも
24年2月。この轡は4年前の1919年に脱
ある。嘉島をのぞいてみるのもおもしろい。
研究会代鐘の中野江漢が引き受けての出版で、
杜近芳や笈世灘ら捧台に殆ど丈た抜くなった
下記の芥川龍之介箸『支那瀞倉型でもそのこ
名優たちも米ろからだ。大きなものでは務斯
林霧庁(三里も)、什刹海慕身、前出の戯迷
とに触れることにする。
禁等。
支那の国民性を録ろことを目的として観てき
稿していたが出版社を塵回しされ、支那風物
鏥者は支那劇を芸術として研究すること、
さて、曲芸や雑技の方では、「昔日天橋」
た。ところが、この5,6年米支那各地で日
というこれまたノスタルジックなテーマに沿
本人で観劇、研究するものが現われ、日本内
って、相声・大鼓口気功・魔術・評弾・快板
零盛り沢山の芸がjもられる、89年にできた
地の新聞、雑銭にも錘ド芝居や俳優の記事を
栽せるようになり、また、2,3年このかた
「大碗茶」(別名老舎茶館、前門)と[万勝
日本の各方面の有名な人士が引き鑑き」上京に
劇場」を糞て直し93年にスタートした「天
橋奈」とがある。「大碗茶」は渚末民初の樺
子を復元した茶館式、「天梼楽」は往時のよ
筆者は愉快でたまらない、といっていろ。
うに侵穐を蓋た「伏計」が評び声高〈察内を
がいろ.1921年(大正10)3月から7月下
し、銅銭で街ぺ物を蘭ったり、奪席にまじっ
た役者が鋒台とやりとりするなど趣向が凝ら
旬まで大阪毎EI新剛の海外iHO察胤として中国
されていろ。
た印象記が『支那涛記』(攻遣社、1925年
そのほかテレビも捨てがたく、昼は田連元
中国夢鑓麺瀝第24.25合併号
きて、観劇素内を乞われることが多くなり、
北京にきた有名人士のひとりに芥川龍之介
に派遣され、帰国後、新聞、雑蕊に発表され
11月)として刊行された。「僕は先生
15
(銭・辻蕊花)を左にし、波多野君(註・名
栂篭馨、発行者も同じ、1919年11月。丈jWK
は乾一)を方にして座りたれば、(波多野君
劇のお勧めと、競近の日丈lli係に憤慨し、支
も『支那劇五百懇』の馨者なり。)『鎮台
那を諒解してもらいたい老婆一から、この本
蕊』の両快を手にせざろも、今日だけは兎に
が作られていろ。
『支那劇精通』鳳根挿紫箸、来重公司、
角半可通の嶽格位は具へたりと倉ふぺし。
(後記。辻蕊花先生に漢文『中国劇』の蕃述
1921年1月。前記『支那芝居寮内』の下逢
あり。噸天時報社の出版に係わる。)僕は北
にあたる本で、波多野乾一から轟料の供姶を
京を去らんとするに当り、先生に強お邦丈
うけ、辻蕊花『中国劇』に拠るところが多く、
『支那芝居』の箸述あろを灰剛したれば、先
生に錆うて原稿を預かり、朝鮮を錘て東京に
村田鳥江『支那劇と梅蘭芳』の一部を借用し
ていろ。
帰れる後、二三の審鐸に出版を勧めたれど、
『支那風俗(中)』「芝居の研充」井上ムエ
曾騨皆選にして僕の倉を容れず。然るに天公
梅箸、日本蛍蒋店、1921年4月。芝居の術
その選を懲らし、この番いまは支那風物研究
露や衣裳・道具の詳麹な説明もある。
会の出版するところとなる。次子を脳て広告
『北京(名勝と風俗)』「支那刷子ぴき」
すること爾り。」と、同奈茶団という劇溺で
村上挿行箸、東亜公司、1934年9月。北京
昆曲を観たときのことを番いたえ章のなかに
の各劇場でしょっちゅう鑑り返し液ぜられて
でていろ。
いる京戯百種ほどのうち、日本人にも面白い
上記の『支那劇五百審』(支那問題社、
1922年7月)は1927年に増すT再版されてい
と思われろ「酉叩採母」「打殺漁察」「玉堂
巻」三蔦の詳しい筋番きがある。
ろ。観劇の手引きのために溶かれていて、当
『支那芝居鏡本』塚本肋太郎署、PC会、
時おこなわれていた皮賛劇の脚本の模擬や出
1936年3月。作者は1922年末、上海で有志
処を時代噸に並べ、篦曲、泰腔も少致ふくま
相嬢まり「支那劇研究会」を鰹麹し演劇を通
れていろ。
じて文化交流を考えてきたひとりで、機関蕊
『支那劇と梅閲芳』村田島江箸、玄大社、
『支那劇研究』を発行していろ。
1919年5月。梅蘭芳の末日公演を当て込ん
『北乎的中国威』洪一街・中丸均IPP共霧、
で瀞かれた本で、梅蘭芳小史、支那劇梗概、
秋翼園、1936年12月。俳優や鋒台の写真を
支那劇の見方、劇中の梅蘭芳、梅耶評、主な
多用し、曲調を主とした中国劇の歴史や俳優
ろ脚本筋瀞き、梅椰雑諾、名曲原本、泳梅祭
坪を内容とする。
を内容としていろ。
『京劇入門』安雄徳器磐、日本公論社、
『品棒#u(京都葉丈堂、1919年9月)
1939年9月。芝居の子ほどきとして、京劇
は梅蘭芳永日公演の際、5月19,20日に大
の筋轡、俳優の役柄、鋒台の釣求、俳優強ど
阪中央公会堂で観劇した京都帝国大学の先生
を説明していろ。
やその他の学者13人と、桑大童主人らの、
『支那の芝居』永持健一箸、恭山陽、1941
懸想、研究を載せていろ。従米の漢学の立滑
年12月。40種以上の支那劇が認介されてい
からはまつとうな研究対象とは考えられなか
る。
った戯曲、小説をとりあげ、明治求年に講座
が投誕されるようになった京都や東京帝国大
学の学者にとっては、満を特しての鰹凡だっ
『支那劇の諾』ろ原濃徽請、華北交通社風
会、1943年2月。支那劇改良問題とか、日
たといえろ。
『支那芝居爾内(一名現代支那劇)』黒板
16
本人と支那劇も講じていろ。
『支那劇大観』波多野乾一薯、大東出版社、
1943年10月。前記の石原股徽はいう。「こ
中回菩麺麺T哲系24.25合併号
れは氏の旧馨『支那劇迅百審』に「京劇概
説」をかえて新装されたものであるが、『支
那劇五百審』は中国人も作り得なかった画期
的な馨作であって、(零)、前回出版された
時にはそれほどでもなかったが、丈jWK劇に閲
毬する者が多くなって、俄然この轡は声価を
発揮し、(零)入手基だ困難で、各方面から
再版を希望する声潮のわく(磐)。波多野氏
にはこの外『支那劇と其名優』(新作社、
1925年3月)と題する好著がある。」
『支那芝居の藷』浜一衛箸、弘丈堂、1944
年3月。現在の支那芝居の全貌をすっかり
網羅し、平易で劇場へも持ち込める便利な小
冊子をつくることを目標とした本である。
泓上、ページ数の関係で多くの戯曲関係の
単行本、冊子、雑蕊、新剛を割愛せざるをえ
なかったことを付記しておく。
【連載】
中国京劇の教育(下)
白少華薔・浅井智子訳
弘前は、科班へ進学して芸を学ぶのにまず
先に、班主(先生)との契約を坐要としてい
た。その契約のことを俗称で“玄字据,,或い
は、“号字尤,,と育った。商紫用鍔を使うと、
“勢釣脅”のことで、内容はおよそ次のよう
である。
“首吊り',“投身自殺,..、体刑',いずれの
要因で死んだに関わらず、先生方には全く苛
任はないという条文である。父母がこの契約
鱒にサインさえすれば、自分の子供を他人に
渡したことに蛍ろのであり、先生に子供をあ
げたことに数ろのです。だから、子供の生死
保証人○○の名の下で、今、○○さん、
年鋳○○才は、x×に入って徒弟となり、演
は、先生の子にかかっているのであり、学校
には、生死を握る権利があり、七年の卒常期
を迎えて科変から卒紫してからも-年間は、
劇を学んで生計を立てることを志願し七年間
学んだら〈卒紫するとし、全て期間内に稼い
だ金は学校の収入とし、衣・合・住全てを、
菅、科雍にへって芸を学ぶのは芸人の子供
泓外は、その大部分が、針い、人の子供だっ
科雍に任せ禁止されることはせず、中途退学
た。家が鈴し《生活が困難であるが故に、子
もしないことを言明します。そうで強ければ
供を学校にも行かせられず、ご飯を食べさせ
保証人は承諾しません。もしも病気になった
られないので、ただでご飯を会ぺさせて《れ
ときは、そのときは天命に任せます。もし辞
ろところを探したにすぎなかった。有名な京
めたくなったら二人に(先生と保誕人)導い
劇演出芸術家の救世灘・王金聡(私の恩
てもらいます。七年鑑ったら先生に礼を述べ、
先生を手伝わなければならない。
押)・秘の父に至るまで皆家が符しかったの
その時のいい方向に任せます。ロ頭の釣求で
で学校へ行けず十分な食事もとれなかったの
は証拠にならないので、一乗いれる次第であ
で科雍に入って芸を学んだ。
る。
当人○○
新中国の戯劇学校は、試験制度が薙立し劇
を学ぶのにまず坐ず厳格な基本的#'|鎌と大化
保証人○○
の鐵験を灸け、又に身体検査を愛け“初試
その契約の中には、泓下のような契約もあ
る。
中国琴麺ヨ画面第24.25合併号
験”を通ると次の“復鐵験,,に進んで、入学
した後も三ヶ月から半年の試験期間があり、
条件に合わない学生がもしいたら退学となる。
17
叉に、戯劇学校には、伝銃戯曲教育の中に長
い間行われなかった班叙制度の実行も確立し
(老生、私の丈劇の先生)、文世絢(文武
丑)、王世鮠(老生・秘の先生)、六科には、
た。菅、科班に入って劇を学ぶにはどの学生
鈴元佼(武生、銘密閉の子、箸童山の廷)、
にも関わらず全てが、それぞれの役柄に基づ
七科には、韻字を使い、へ科i二は、農の字を
いた先生について劇を学んだ。今は、入学後
の学生は、一律に国家から生活溌をもらい、
用いた学生だが、有名敷人材は少敷かつた。
“中華劇校”は、徳・諭・金・玉・水・落・
普通の学校と同じように毎年叉.冬休みが、
今・明の八字をつけろ。一科は、字穐彬(小
一ヶ月前後ある。昔の旧科雍は、-毎年たった
生)、二科には、周志桐(花厳)、薩和章
の七日間だった。科班へ入学後は、粗末なふ
(武花厳)、三科は、李金湾(武具乢沈金
つうの平屋に住み、数十人が一つの大きな寝
繰習や、演劇の祷舌は、地面でやり、鏡がな
波(奄生)、張金梁(文具)、字金泉(奄
旦)、酉科には王玉敏(奄旦)、醤玉東(花
厳)、湾玉聴(文具)等である。社会変革に
いので月明かりで自分の影を映し患い癖を直
より、蟠・今・明後の三科の学生は、学校に
していた。
招かな《なったので解散になった。
室で雑魚寝をして(木製の大きなペットで)
塊在は、部屋に唆身もあり、演出の鎌習の
天津の「稽古社子弟科班」では、率・承・
際には、稚き部屋や教室があり、板間の上に
稽・古・博・学・通・今の八字をつける。-
は銚毯がひいてあり、壁には鏡があるので、
科は、徐俊率(武生)、李域鼈(式且)、隊
学生は鏡に向かって自分の癖を直すことがで
勝轤(花臆)、藤利化(花股)、二科には、
きる。弘前は、よく遠《玄で足を運んで演出
字永鍵(式生)、李元琴(鐡生)、都農巻
にいったが、今は、どの学校でもあまり足を
運ばず、學周の率を使う。本当に、新旧社会
は通うことばかりだ。
全ての人が子供が産まれてからその子を立
派に育て上げるまでが夫締の愛情の深さのシ
ンボルと考えていろ。しかし昔は、一旦科誰
に入り芸を学んだら父母の付けた名は二度と
(武生)等がいた。名を付ける前に、六科の
学生は解散してしまった。
“兼灌社”は、叢・瀞・長・尋の酉字を付
けた。一科には、鱒姿(花臆)、焦甥兼(武
具ルー科は、谷春章(武具)等がいろ。
住・梁の丙科はまだ付ける前に解散した。
“上海戯劇学校0,は、正の字を付けた。程
正暴(老生)、鏡逗倫(武生・後に改名して
用いることはできなかった。全てが班主によ
り新しい名になり、学生は科班に入学した時
嚢浩譲・浩亮)藤正後(☆・旦角)侯正仁
期が、早いか遅いがで付ける名も逢って_いた。
(武具)等がいろ。*注*一度挙げた名前の
“響達成',科奉は全部で、八科の学生を育て
方は、ここでは砿ウ上げていません。
た。彼らはそれぞれ、客、連、富、盛、世、
元、韻、農の八字をそれぞれ当てた。一科に
は、雷暮稿(老生)、二科劉連兼、三科、鉛
科班の学生かは剛いてわかり、どの役を学ん
奮闘(武生)、礫福康(弐兆駁)、韓審収
でいるのかもわかる。“中鑪学校',の様に、
ある科班では、字を中間におきある科班は、
字を末におくので、少し剛けば、彼らがどの
(武花厳)、酉科には、字蔓斌(式生)、劉
(且角)の男子学生の名は、まるで女性の名
盛通(奄生・私の丈劇の先生)、箭盛可(老
生)、ガ盛萱(丑、名丑の肖侵準の子)、孫
盛云(濁流武生)、鄭盛厚(奄生)、楊盛霧
前のようである。でも、(且角)の豊学ぶ女
性の名は、男性の学生と区別するために、薬
(武生、名武生の揚陸瀞の孫、梅蘭芳の従兄
せる鐘居)を学』§ものの名は、中間に崇を入
弟)、字聾藻(老生)、五科には、字盛隷
れ、式劇(立ち回りを主とする芝居)を学ぶ
18
の字をかえてある。丈劇(主に歌や演技をjも
中曰琴月色麺晦系24.25合併号
ものの名の後には、線の字を入れろ。いまで
叉に、たくさんの刑罰があり、やらされる学
も、このように科班から芋紫した学生は、先
生につけてもらった名を用いていろ。解放以
降の戯曲学校では、こういった慣習は抜くな
生は大変なものである。
新中国成立後の戯曲学校は、旧科誕の身制
と体罰制度はやめ指導と啓発による方式で学
生たちに教え新しい師弟関係を築いた。教育
方法には、昔はずっと“ロ伝一枝,,や“含伝
身教”と倉う伝銃方式を取り入れていた。先
った。
昔は、京劇を学ぶことはかなり著しいこと
でまずどの学生も殴られた。このことから劇
を学ぷことは、“打劇',とも称された。“劇
生がやってみて、学生が±ね芒する。先生が、
を学ぶは、投歎の如し,,とか、“七年大欺',
と称された。とに力、《とてもつらかった。民
間では、“打たれずして、逸材にはならず,,
と宮うこともいわれていた。科班に入ると、
生活面でも、仕事面でも間通いがあるとすぐ
多年にわたり舞台で鑑験を積んできた一宇一
句の動作を学生に教え、学生は自分で鑓えて
機概的にまねをする。今日の戯曲学校は、教
学方法が改革の元で進歩した。戯曲教育の中
のいい伝鮠は継承し、“ロ伝一枝”の中の合
に殴られた。これは、ある法で“打通堂,,と
理的婆散は取り入れ、その芝居の外題を実蕊
ぎわれていた。班主が一倉、“ペンチ”“整
列,,と呼ぶと、みんまびくびくして、誰も鑓
的な成功の経験に気を配り、手本として教育
し、作品を教育の主たる原則として戚立して
けなかった。たとえ間逢える学生がいなくて
教室を使って教育することを実行し、教室で
も同じように殴った。刑を与える先生は、鍬
習の痔、“刀,,“梶棒・゜を持って、学生を長
椅子に腹適いにさせてから、刑を始めた。殴
の技紫と鋒台での実践を組み合わせて秩序だ
った教育方針にした。教室では啓発式を指導
し、劇の外題については実技半分指導半分で
ある。科学技術の高速発展の時代は戯曲学校
にも“戸相教育”としてあり、学生は歌を学
習するときに、テープに録音してそれを聞い
られるにも姿勢があって、顔はしたに向け、
両手は下へ曇らしてイスの足を持ち、腹通い
になってお凡は上に向けろ。お凡だけでなく、
股もたたかれる。お凡をたたかれると、演出
の寄俸台でちゃんと座ることができないし、
うまく動けないが、少しかさぶたができたら、
絶対に演出に遅れたり、鍬習に遅れることは
できない。軽い血豆になったら、何度かたた
いて出立させてその後、卵の白身を使って傷
ロを;合す。(卵を割って自身を取り出して、
傷ロをもむようにする)京劇を学ぶとき、丈
劇を学ぶ学生が、もし険を間逢えたり、リズ
ムが途っていたら、先生は“戎方,.(先生が、
劇を教えるときに伎うリズムを取る棒)で学
生のロの中を突くので突かれた学生のロの中
は上でいつぱいになる。式劇を学ぶ学生は、
もし先生の教えた動作がうまく動けなかった
り、歩き方がよくないと、先生に殴られろ。
殴る脚U卜に、逆立ちさせて薊する。しばらく
すると学生の頑にいっぱい塗が上って倒れろ。
中回琴蕊ヨ廻瘤系24.25今併号
てみたり、演技の鎌智にはビデオをみること
で学習したりして学習方法も進歩してきてい
□
ろ。昔の一般的な学生は、卒紫してからは仕
率がなくて自分でどういう道に進むかを探し
た。たとえ科雍で7年学んでいても卒紫後に
やはり先生を訪問しなければ強らない。それ
には、2つ意床がある。1つには、より有名
な先生の所へ訪ね、そうすることで叉に造詣
を深めるため、もう一つは、先生の挿名度に
より自分の挿名度を叉に上げるためである。
ス、科雍を卒紫後に搭班(役者が臨時に一
座にかわって出演する)もしたくても、とて
も難し《芸人の181では“搭変は出生の釣し',
と倉われていろ。督劇となったら叉に大変だ。
科班を卒紫後にどうしても劇鉦の演出に参か
したいときはどうすればいいのか。やはり、
再び有名な先生の元で学んで先生の名を借り
19
ろことで搭班で演技をするとができる。一般
今日の俳優は人並みの待遇を灸けている。文
的な俳優はもしこの“帯道師,,と倉う先生が
章中にあげた著名強京劇俳優の中には私の大
いないと搭班が大変だ。今日の戯曲学校への
先禦でありある人は鍵戚でありある人は先生
入門者は皆芸術への閃一も高《、馨名な芸術
である。亡くなっている方も鮠に引退された
家や京劇俳優が教育の仕事に携わっており学
方もまだ現役中の方もいらっしゃる。鮠に亡
生は卒紫後も国家の鮠一分配により、仕事を
くなっている方も基ぴ、x存命の方々に敬愈
割り当てられ全国各地の戯曲劇団へ行って実
を表し、先生と父蝿に感謝の慾を表し、京劇
蕊し社会でも有能な芸術人材に成倹できる。
事業がますます発展し、鍵承されることを願
今日の戯歯俳優と昔の戯曲芸人を各方面から
っています。
みてとても大きな通いがあることを述ぺた。
唐上市京劇団・台少華1995年唐山にて
昔の俳優は死ぬまで控死にもがいていたが、
【連載]
張君秋
安志強・謝虹髪薔堀内干譽訳
第二章劇団を持つ
二、“大島杵廟,,
の影癬を直接に受けていろ。
君秋の声には、聾かさ、明るさ、歯切れよ
京劇界で“大.馬杵廟`,といえば、北京前門
の外の犬馬神廟胡同にある王瑠鰊の家を指す
さ、せさ、あでやかさ、なまめかしさ、透明
ということを誰でも知っていろ。
れは京劇の女形として得がたい天賦の条件で
王瑠坪は閲拓精神を備えた京劇の大'37所で、
さ、潤いと、備わっていないものがなく、こ
あるとされていた。この点が、正に王壌岬が
彼は潔護塔とあわせて、京劇芸術史上前人の
もっとも気に入ったところだった。このため
紫を次ぎ、大きな諭欽をした傑出した人物で
字凌楓が自分の気に入りの学生を連れて師匠
あると徹された。彼は江蕊者清江膿出身、十
に会うと、王撃鎌は二つ返事で君秋に芝居を
四才(一八九六年)で舞台生活を開始し、一
教えることを承弾したのだ。彼はかつて港秋
九二六年に至って声をつぶしたために鋒台生
に倉ったことがある。
活を離れ、等ら育成の仕事に従卒した。その
弟子の数は盲人圦上で、著名な人では例えば
「おかしいな!お前の稜は私の若いときそ
っくりだ。歯初れがよくて明るい。」
棒蘭芳、程』リi’6k、筍懲生、尚`U、雲等も、かつ
京劇の、歌を用いる芝居では、主役は“倒
て王璃炸から教えを灸けた。君秋の師匠字凌
舎,,(変声期)を恐れるが、君秋の摸は不思
楓は玉璃鰊の弟子で、弟子の系列から耆って
鏑なことに、付も塵じずに変声期を通りすぎ
王蕊鎌は君秋の大坪匠だった。一世代離れて
てしまった。王蕊岬はその後で彼に育った。
はいたが、港秋は亭凌楓の所で一期間学んだ
「私はまだずっとお前を-配しているんだ。
あと、すぐ王璃鰊の教えを受けることが出米
お前はまだ変声期になってないみたいだから
た。一九五四年に玉璃騨が世を去るまで、張
な。」
惹秋はずっと絶え間強《王璃鰊の指導と助け
を愛けた。梅、程、筍、尚の`'四六名且''の
王璃WPが君秋の槙の鰹まれた条件を、とて
も大事に思っていたことが分かる。
風格と遇かに異なる流派もみな、もとは王派
王はまず談がキーの芝居について君秋に多
芸術と同じもので、張派芸術の鑿礎も王璃鰊
くの時間をかけた。彼が君秋に教えた初めて
20
中ロ蓉鑓璽徳第24.25今併サ
の芝居は、<大保国・二進宮>だった。玉璃
わっている多くの伝銃演目は、広く技量を殊
鰊が芝居を教えるのは、享慰風のように“引
につけた生の蝉護培、具の王璃鰊から離れる
子',を一段、歌を一節といった具合にゆっ《
ことが出米ない。しかし伝わっている各流派
り教えるのではなかった。彼は右手にマホガ
の状況はいつも変化していろ。酉大名具の雄
ニーの鋪使い⑪戒尺',を持ち、机をたたいて
もがく玉堂懲>を演じ、それぞれの方法と、
歌の調子をとりながら、ロではどらや太鼓、
それぞれの芸術的特徴を持っていた。生、具
銅弓の間奏をロずさみ、人物、役柄を分けず、
が共演する芝ノ愚には、住々にして些錘な変化
一つの芝居の歌、台詞をどれも教え、芝居の
全貌をjもせた。この乏居の教え方の持つ良い
があった。<鉱察烈.鳥>中のく弐京枚>(1)
ところは、学生に自分の険と、台詞の前後関
係を分からせ、糸ロをつかんで機転を聞かせ
で、生、具は〔原板〕の掛け合いの歌を歌う。
王宝剣が“幕間化安寧,,(あの人は鶏率かと
再び問う)と歌い、騨千鷲が焼けて“倒し安
る篭え方をさせられることだ。舞台で“兄
ロ,,(※習ったそのままで、融通の聞かない
寧,,(まこと綴率なり)と歌う。ここでは
こと)に至ることも鞍《、万一鋒台で共演し
のと弱拍で鰭ぷものがある。もし強拍で鱈ぷ
たことのない役渚と対していて台詞が変わっ
節であれば旦角は鏡けて“三緯茶飯”の
,,安寧,,の二文字の節回しに、強拍で鰭ぶも
てしまっても、慌てずその場に応じた方法を
考えだせるのだ。
これは〔舌皮原板〕の、弱拍で歌いはじめて
過去の劇団の芝居には、上演の決まりとい
強拍で鰭ぷの基本法則に合致した、正しい歌
うものがなく、伝鮠演目の上演でも、リハー
い方である。もし、時に生が歌うのが弱拍で
サルと含えるものはなかった。せいぜい芝居
鍔ぶ簾で、具がこの準備をしておらず、生に
の始まる前に、主役と台詞を合わせるぐらい
つづけてすぐさま強拍で談いはじめたらこれ
だった。普通の状況では、劇団の役者が主役
を探し、いつも遮魔がらに教えを求めた。
は間逢いで、浮門用藷で“騎粉板塙,,と呼ば
れ、鋒台下では“通”(※トン;ブーイング
「お時間を作って私に教えていただけませ
の虞)と斗ばれろ。さらにく四.1K採母>中の
んか?」
「誰が君に芝居を教えたんだ?」
「私は茶先生に学びました。」
「よろしい。倉うまでもない。鋒台では先
生のやり方どおり演じればまちがえっこな
い。」
“二噸を歌うのに弱拍で歌いはじめるから、
く坐官>の一湯を例に挙げろと、楊愛鐸が
〔西皮導板]を歌い、〔舌皮原板〕を〔快
板〕につなぐ一段で、普通は問を開けずに一
気に鏡後まで歌う。王x虞のこの段の敬い方
は他の人とは通った。彼は“我弟凡へ風狩
(〔快板〕につなげて)赴会在沙灘,,(我が
これは舞台の出米不出米は、芸がしっかり
凡八式将、沙灘へ会いに赴き)と歌うとき、
しているかどうか、芸の福が広いかどうかに
“八圓狩`,の後ろを、どらで締めくくった。
よるということなのだ。
ここで鉄鐘公主を演じる具が台詞をはさまな
“入団するのは生まれ変わる二と,,という
ければならない。“慢港1カ才休説釣鐘作イ日
宮鷲がある。師匠から芝居を学ぶのに童要な
のは入門と、基礎を固めることだ。師匠が教
兄弟七個人、釦今魁慶スヘ風符丁泥?,。(お
えるのは一つの道だけだが、劇団で演じれば、
ったのに、どうして今度は八人なのです?)
それだけを葬っているというのではだめで、
このどらは具のために打つものだ。具が等ね
変化するかもしれないのだ。<迅堂縁>、<
たあと、楊延鐸が焼けて戦う:“八弟乃還銚
子愛噸。,,(八弟はすなわち我子の建咽。)
趣鰐烈鳧>、<四郎採母>のような、広く伝
中四夢円寧国瘤纂24.25合併号
立ち!たったいまあなたは七人の兄弟だとい
21
そのあと〔快板〕で“赴会在沙灘,,(沙灘に
これしたり、痔には王先生に教えを鋪うこと
赴《)と歌う。鉄鏡公主を演じる役者はこの
もあった。
流俄を葬っていなければならず、さもないと、
王先生はよ《、かつての捧台での面白い噂、
楊延鐸を演じる役者が“八瓦符,,を歌い鍵え
隠れた逸諾に関連させて昔を籍り、現在を講
て締めくくったあと、具が問いかけをせず、
じ、誌すほどに粉力的になった。諾していて
この段を歌ってい《ことが出米なくなるのだ。
輿がのると、痔には彼の学生に一段歌わせ、
これらの類似した流儀はどれも、君秋が王
あるいはしぐさをさせた。学生が敬いおえ、
璃鱒の京で附いたものだ。多くの場合、王蕊
動きおえても、彼が巻めたことがなく、多く
紳が画接君状に剛かせたのではなく、彼が王
の場合一通り困らせたり、半雛なことを倉っ
先生の察で、王先生と人との雑談のなかから
たりして、恥をかかせて全くその鰐から下り
附いたのである。“誌すものは何気ないが、
られ強いようにしてしまったものだ。実はこ
聞くものは考えを持っていた”のだ。葡積さ
れは、学生に対しての彼の厳格な要求であり、
れた多くのものは、後の望居を変えるべき財
同時に与えているのは本当の道理でもあった。
産になった。玄人はこうした習芸方法を“鴛
たとえば彼が学生に〔快板〕を歌わせろと、
戯。,と守んだ。
誰もが彼の子の戒尺を恐れた。“パン、パン、
王先生の簾の蓉は、具を演じる役者だけで
パン、,,となって早いと倉えるのだが、発音
猶〈、その他の役柄の役者、倉蔚明、エス笈、
がうまく出米なかったり、決玄ってリズムが
高麗姿、ガ大元、島連風、鐸富美、郷寿臣、
狂う。舟衣の〔快板〕はもっとも験いにくか
蟇紗霄、命握飛、葦盛蘭のような人逮も良く
った。それは瀞衣の節が圭生のものに較べて
教えを受けにきていた。それというのは、具
旋律に曲折が多く、王先生が打ち出す拍子は
について宮ってみれば、どの派の流儀であれ、
老生のリズムで、前へ走るようせき立て、少
すべて王派の枝分かれであったからだ。
しも容赦しないからだった。慧秋はこのよう
生について倉ってみれば、どの流儀であっ
な場面を」しるたびに、6M頭をはたらかせて
ても、すべて蝉派の枝分かれである。そして
みがきをかけ、次第にここにある法則を理解
王璃岬はまた、蝉護培の侵年の相手役であっ
した。
た。その他の役柄もかくのとおりである。王
生と具の共演劇の中では、この二つの役柄
璃騨は葬っている芝居が多く、辛抱強く人を
の掛け合いの〔快板〕が特に多く、その全て
教え導いた。それゆえ犬、陽神廟の王家には常
はストーリーの展開がもっとも激しいときに
に多くの人が訪れ、立派な人逢が座に満ちて
ある。互いにやり取りし、また、互いに譲ら
いた。君秋はこの芝居芸術の大教室をとても
ないということから、ようやく芝居のやまを
大切にし、側に座って黙って諾を附き、収穫
つくりだせるのだ。<武家波>(1)の騨乎瀞
を得たのだ。
は、兵卒に」もせかけて王宝剣をからかい、王
●
王先生の察での“鴛戯”は普通夜にあり、
宝剣を論いてこさせて主人の代わりに借り勘
劇場で芝居がはねろと、役者たちが二三人
定を返す。王宝Billはこれ泓上対えられず、彼
ずつ前門一籍の劇場からやって米た゜この時、
とその瀞で客い争う。
王家の客間はもっともにぎやかだった。王先
生が彼の学生を巡れて劇場に芝居を凡にいき、
このとき歌うのが、生、具のかけあいの
〔快板〕だ。老生の歌には杵掲が少なく、歌
凡鍵えて察に民ったときには、客は叉に多《
いやすいが、擶衣の歌は老生のもののように
なった。そこで藷される藷題はすぺて芝居の
簡単ではない。もしも歌を止めてしまったら、
ことで、ある時はその日の公演のオlIZiFFをあれ
この段の歌の掛け合いは切れてしまう。王室
22
中回春麺麺1行系24.25合併号
剣の感情は溺式ろことが出米ず、観衆は剛い
ことがおありか、そっくり倉ってくださ
ていて家笂なく感じろ。君秋はだんだんとそ
れ。),,この四句で、拍子は少しも乱れず、
の方法を探り出した。一つは倉紫をはしょる、
劇場は喝采に包まれた。
すなわちある所を簡蟠化し、ある所は際立た
叉にその後、二人の歌はまるで競馬のよう
せ、経、童、静、簡を歌いだす。鍵となるの
にずっと焼いた。李凌楓は聞いていればいる
は、しかと感情の凡当をつけ、歌詞の鍔笂を
ほど-配になり、自分の坪をふさぎたくなっ
表現することだ。
てしまうほどで、慧秋の間通いを聞くことを
二つ目は、息づかい、唇、力を入れるとこ
ろに稚吉の主眼をおき、歌詞の鍔笂に基づい
張君秋の〔快板〕は有名になった。王藩岼
て鍬翻していくことだ。君秋は〔快板〕につ
は碁び、君状に十分な時間をかけてく四郎採
いて多くの習錬を積み重ね、乎散、<四郎採
母>を教えた。彼は君秋に倉った゜
母>、<武家域>、<芦北河>、<玉堂春>
「お玄えのように、すっきりと良く通る声
等の芝居の〔快板〕の鎌習をしていた。これ
は、とくにく酉祁採母>のような京台(※北
らはどれも鎌智が甦要な歌の段だった。鐘え
京鍔による台詞)劇を演じるのにぴったりな
間ない歌の鎌智を鑑て、君状の〔快板〕は次
んだ。」
第に熟蕊したものになった。老生の〔快板〕
王璃紳は少なからぬ京台劇を君秋に教えた。
がどんなに速くとも、彼はいつも少しもしり
例えばく酉91K採母>中の鉄銃公主から、<十
込みせず、押し出すように前に進んで歌い、
二妹>中の付玉風、<蕊武牧羊>中の胡阿雲、
鎌習した。
<採親察>(2)零までも。王先生の京台は、
ある時、天津の中国大戯麗で、<四郎採母
一つ一つがはっきりしていて流暢であり、句
>を上演し、孟小冬が楊延鐸、張君秋が鉄鈍
の一つ一つが自然で適切だった。彼の歌うく
公皇を演じた。生の〔快板〕は連《なりやす
採親家>の中のBMX錘鋒〕は、歌の戦かに台
い。それが大須生の〔快板〕は早くなってく
詞があり、台詞のなかに歌があるのだが、歌
るとさらに慌ただしくなる。そのために孟小
と台詞の間の移行の仕方が大変自然で、生活
冬との掛け合いの〔快板〕は、とくに難しか
の息吹を持っていた。被はく十三珠>の京台
った。
を教えるとき、台詞をノートすることを許さ
閲演の前、君秋の師匠李凌楓は奈厘に立ち、
ず、君秋に頭で記憶させた。これは学生に棒
自分の学生の-配をして、ただ孟小冬の敬う
暗記させまいためだった。彼の台詞は、時に
〔快板〕を聞いていた。・・我窄休好夫妻恩捷
は鎚部に至った。君秋は畷明で、この慾永を
不浅野公主ス打鍵礼儀太鎌(私とあなたはよ
理解した。“もし簗鈍に九暗記してしまった
い夫婦、凰遵は浅からぬ。公主殿よどうして
ら、舞台では節にしても調子にしても、台詞
x礼儀謙遜が甦婁だろうか。梼縫鐸はある日
はロ藷化しないで、どうにもならない芝居に
悩みも晴れて、公主殿の息偉が山の釣きであ
なってしまうんだ。”
ることを馨って忘れない),,港秋はこの〔快
●
ひたすら恐れた。
慧秋は劇団に入っている期間に、違う流派
板〕に焼けて敬う。“欝甚慶夫嬰情凰穐不浅、
の走生役渚と共演することは出米た。王璃卿
我和休隔南北千里姻鎌、因打率鱒日里愁眉不
先生の教えのおかげと倉うべきだろう。この
腱、有甚慶一殿率休只管明倉。(夫鰯の情恩
間に、張君状が演じた大量の生、具の共演劇
愛深いとは、付を倉っていらっしゃる、私と
は、<酉進士>、<打魚殺家>、<鉱察烈崎
あなたは南北千里に隔たった夫婦の鐸、何の
>、<擶風亭>、<御畔亭>、<廿露寺>、
故、鐇日愁眉の開くことがない、-にどんな
<蕊式牧羊>、<四郎採母>、<臭龍鎮>
中四舂鑪麺憾系24.25合併号
23
●
(3)、<牧羊巻>(4)、<三娘教子>、<二堂
舎子>(5)、<露頭刺瀦>、<法門寺>、<
いうことはしなかった。
張君秋の節付けは、遺物は王璃iW,の啓発を
祭図会>、<南天門>(6)零で、どれも王先
受けたのだった。犬馬柞廟では、程現状は、
生の指導を受けたものだった。
しょっちゅうやって米ろ奪だった。後がく鏑
一九四二年、張港秋は自ら“謙末社,,を作
鱗糞>(8)の脚本を番き、演出したとき、歌
り、自分が塵伎となっての芝居を始めた。王
において多《の鍍習を積んだことがこのヨヒノ愚
璃騨はまた、港状の演目を興奮にするために、
の歌を程派の代幾作に猶さしめた。これには
さらに大変な仕率をした。まず、-王璃鰊は君
王璃の`毬上が注がれたのだ。事実上、程現状
秋が過去に.圭生,と演じた多くの共演劇に
く鏑麟鍾>の新しい談の創作は、大崎柞廟に
手を入れ、始めと終わりを付けかえて、脅衣
あった王宅というこの節付けの中,ご匙より作
主演の大軸劇にした。例えばく三娘教子>を
りだされた。
全本く三春域>とし、<異艇鎮>を全本く蕊
その時期、程現状はほとんど曇嘘王宅へ行
球夢>とし、<衝后鴎殿>(7)は全本く困龍
き、王先生と一錆に新しい談に磨きをかけた。
床>に作り上げた。
新しい節を作るには穣密を守らなければ鞍ら
玉璃鉾はさらに、“鎌論社,,の役柄が樹い、
ない。創作の過程でもし人にわずかな一部の
陣容が強力であるという特徴に基づき、君秋
節を附かれたり、みせびらかすために、芝居
のために、例えばく長坂牧>の中の魔夫人の
のどこかにいいか灘において歌ったりすれば、
ような、青衣と武生のい《つかの共演劇を教
効果はそれに反したものになり、この歌を無
えた。泓後、王壌鎌は君秋に多くの新鎬演目
駄にしてしまうに等しい。だから彼らはいつ
を提供した。それは例えばく隣春伴>、<鍬
も、人は帰ってしまった夜中の十二時あく後に
鳥公主>、<風双楢>、<苛烈妃>等で、君
節作りを始めた。藤には夜覗けまで鍵けた。
秋がこれらの新しい演目の上演において、芸
この節付けのときに准一遠ざけられるられな
術的創作をするよう励ました。
かったのが擬君秋だった。
王壌鱒が君状に与えたもっとも大きな影辱
君秋はこれまでずっと人前で穏やかに落ち
は、芸において新しいものを作りだす彼の考
ついていて、至る所で自分に厳しく、人のた
えだった。彼は常に君秋に向かってこう倉っ
めに謙虚によく学ぶので、王瑠鰊と程硯秋の
ていた。
二人ともが、彼をとても憶頼していたためだ。
「お前は自分の長所を発揮しなければいけ
その当時、程現状宅は舌酉に、張家は宣式門
ない。ただ人から学ぷだけじゃ駄目だ。盆ぜ
外にあったため、二人は三宅からの帰りにし
なら、お前がたとえ他の人の学んだ率を同じ
ばら《同じ道を歩《のだった。それで程硯’伏
ようにやっても、人のは本物で、お前のは偽
は、いつも君秋に残っているように求め、帰
物だからだ。
るときは連れに在った。そこで張慧秋は種泳
君秋は、王璃鰊の下で舞台の実戎を行う過
程で、絶えず多くの方面に教えを米ぬた。尚
ぐ鏑麟嚢>の鏡初の観奪となった。
王璃錬と程現状が新しい節を考えていると
小震、梅薗芳、程現状等から相次いで学び、
き、君秋はいつも惑って注迩深《坪を傾けて
また、閥嵐秋(“允淳風,.)、未棒芳、潤子
いた。彼はこの過程において、あたかも芸の
和、張彩林、鄭伝鍵、朱伝茗、嬰玉侭等多方
新天地に壁かれたように、かつて鑑験したこ
面から学んだ。それらの人々のよいところも
とのない、芸術薫陶をうけた。君秋は王先生
広く取り、様々な挿鐵や巡理を全面的に理解
を追憶する文章のなかで、かつてこのように
し、一つの芸風に固執してそれだけを習うと
24
瀞いていろ。
中四琴麺麺禧第24.25今併号
“王璃紳の東で鮒いたく鏑麟愛>の節付け
りの過程を理解した体験を鮠述していろ。こ
は、私の一生のなかで学んだ童婁唾京劇歌督
れによって、当時の港秋の気持ちは程HH’6kの
作りの技紫だった。私はこの技紫で、王璃鰊
錠持ち同様に異香していた。彼ら二人は王宅
が節作りの構想時に示した博学さと、柔軟性
での節づくりの仕率を鋒えた後、良く-錨に
を深く感じた。いわゆる‘博学,とは、先生
歩きながら新し《作り出した歌をロずさんだ。
は京劇の生、具、瀞、丑の答役柄の歌、各種
早朝三時、四時には、可に人通りはなく、彼
の旋律型に精通し、思いのままに応用できた
らは虎坊橋大樹の大通りを「円場」等して、
ことを指すものだ。
新轤街のハリロ哀で米ろと、二人はようやく
‘柔軟性,とは、次のことを指す。王先生
は古い決まりに縛られず、径場人物の塵情を
別れてそれぞれの察へ帰るような兵舎だった。
注釈
拠り所とし、伝錨歌督の基礎の上で、柔軟に
1)<武家波>・唐代、藤乎脅は出征して
臨機応変に変化をかえた。そして新しさを尊
舌凉に陥れられ、十八午後に帰ってくる.婆
重して組み合わせ、各役柄が互いに気持ちを
王宝剣に武家狭の前で出会うが、蜂の様相は
通じあわせることが出米るようにし、旋律型
大きく変わっていたために、宝fi11は彼が雛な
の変化もまた、十分に巧みだった。これ泓外
のか分からない。蝉は自分が乎撒の同僚であ
にも、王先生が構想した節はまた、演じる本
ると偽り、かつて弊に謀した金を返してほし
人が特色を発揮できるように十分注遂されて
いという。三宝jiMlは驚き恐れて洞窟に逃げる
おり、程先生の為に構想した節は、程派の押
が、干撒が追ってきて真実を告げ、別れたあ
し殺した、洗鎌された、曲折の多い特色に注
意した。それに、その他の役者のための節も
との錘過を伝えて夫婦が互いに確認し会う。
また特色を持っていた。さらに、王璃鰊先生
可に球にやる。どん鞍凰かといってみろと娘
が作った節は、歌詞に対しても特別鞍要求を
持っていた。彼はこう考えていた。節固有の
が塗いている。婿の母はハイカラで、嫁がい
格律と、敬劇固有の格律はとても密接で、吠
ハイカラ☆と田舎大のロ争い。
詞の柊棒を破ることは住々にして節の格律の
3)<蟇龍鎮>・二章1<蕊珠夢>参照。
突破を促す。もし、歌詞がいつも十字句、七
4)<牧羊巻>・山梁の朱春蔓と従弟の春
字句で、きちんとそろっていれば、節もさら
科とが皇帝の今を受けて舌施画賛魂の蘭を乎
に多《突破するのは難しい。彼はある段の節
を考えるとき、たびたび歌詞を改める幾つか
定に行く。春科の母未成は春畳の財産を横領
の考えを出し、作考に何句かの歌詞をかえる
ってみせず、券昼は死んだといって、券憂の
饗の鑓氏に末代の甥、未成という患者を付け
ように求めた。
2)<採親家>・田舎のおかみさんが娘を
かに気がきかないがということを述べたてろ。
しようとして、蝋地から米ろ春蔓の子欺を季
その後作りだした節は、果せるかなく新し
さに意んだものだった。王璃卿先生のこれら
の創作は、私が後に行う新しい節の創作に対
殺そうとしたが、彼女を牧羊山という山のな
して、大き強啓発を与えた。特に、塗国圦米
乎舌侯に率ぜられ、懲科も職を得て共に故郷
私が演じているく蔓江亭>(9)、<詩文会>、
に帰ってくる。わが察に射〈と誰も居らず、
<西噸記>(10)、<状元諜>、<珍髭.>(11)
等の新し《作った演目における創作では、ま
ず王先生の身をもっての教えをうけた。,,
叔鍛の未成に聞いてみろと、母も姿もお前を
この部分の藷は、港秋が王璃鰊の察で節作
中回琴躯麺祗第24.25合併号
ようとする。趙氏がたに応じないので彼女を
かに捨てる。一方穀地で春蔓は功鏑をたて、
思って病気になり、死んでしまったという。
彼は失望し、山に入って修鎌すると倉いだす。
そしてまずわが家の基地の前で七日のたきだ
25
しをやり、符い、人に亀むことになる。ここ
一家これに殉じたが、老僕曹稿は主人の娘曹
へ懲憂の老母と妻の趨氏が飯を錆いにきて、
玉廻を逢れて九死に一生を得て、大同府の主
わが家の基ではないかと呼ぶ。縁蓬は鎧を聞
人の挿入のところへ向かう。途中寒さと飢え
いてくると二人の大乞令であったので、若い
に襲われた二人は凍死するが、櫻稿の忠我が
ほうにいろいろ聞いてみろと紛れもない我が
天に剛こえたのか玉廻のみは灘って大同府の
要であったので、老母をも迎えて一簾の団繁
兵に救われろ。
を喜ぶ。x宋氏は春墨から苧ばれてくると、
7)<荷后溺殿>・三章(一)<困龍床>
趨氏と老母がいるので一倉も弁明することが
参照。
出米ず、春科に勧められて天に鞭おうとする
8)<鎖麟錠>・畳州の蜂という富爾の娘
ところを魂にさらわれろ。
湘笈は従)乙周庭勧11と婚約した。その祝いの日、
5)<二堂舎子>・羅川隈今劉彦畠には二
たくさんの嫁入り道具にかえて、母親は匂い
人の子供がいた。一人は沈香といい、芒山と
袋に宝沼を入れて“鏑住彪,'の逆家を取り、
大神三聖母との間に生まれた子供で、もう一
早《子供が技かろように祈る。躯の行く途中
人は秋兄といって、磐王棒程英との間に産ま
でにわかに風雨となり、一行は溜息秋亭で雨宿
れた子供だった。ある日二人が帰ってきて父
りをする。しばらくしてx一つの花寵がやっ
に宮うことには、二人は私塾で手元が狂って
て米て弱宿りをするが、その花煉は篭しそう
蒸府の今`息官係を殺してしまったのだ。彦畠
に泣いていろ。湘璽は人をやって尋ねろと、
はどちらが下千人であるかを追求する。沈香
その女性は翅守貞といい、虜氏に嫁入りする
は自分が殺したのだという。彦畠は沈春を泰
という。鑓は母を早《亡くし、蝋と老父で助
府に送って処罰しようとするが、秋兄も自分
け合っていたが家庭は非常に苦し《、老父に
がやったのだと主張する。彦昌は二人の子供
つかえることが出米ないのが懇しいがどうし
が争っているのを)して-を動かされろ。王桂
ようもない。瀬璽はこれを哀れに思い、匂い
英は出てきてこのわけを尋ね、彦昌の客う事
袋を互いに送る。雨が止み、名前を告げぬま
実を剛いて鋳《・王氏は先ず沈霄に問い、沈
ま別れろ。六午後、憂州は洪水に数り、周一
呑が前のとおり述べろと怒って量を荷ぬる。
家は離散する。瀬蕊は転々として東川までた
秋彪に再び闘うと沈呑が述べたように答え、
どり論〈と乳母に出会い、これまでのことを
王氏はこの子を抱いて働突する。彦昌は自分
途べろ。ちょうど土地の金持ちの虞家で乳母
の産んだ子供の府を持つことを巻めろ。どち
を腿い入れようとしており、乳母は瀬痩を推
らがやったのであるかをヂリ断するために鋤彦
薦して底に住むことになる。虞の子供天鱗は
昌夫鯖は繰り返し二人を追求する。夫蝿二人
身内のように彼女を頼る。ある日、瀬笈は天
にはそれぞれの考えがあったのだが、沈香、
麟と裏庭で玉投げをしていろと、天麟の投げ
秋兄等は自分の犯行であることを主張して止
た玉が楼のなかに入ってしまう。湘謹は楼に
まず、遂にこの率をザI餅することが出未救い。
蔓って探すと、刺繍した袋が瀞けてあるのが
二聖母にかつて命を救われた劉彦畠の恩を棒
目に入る。良く凡てみろとあの年春秋亭で葱
英は感じ取り、沈香を逃がし、秋兄を察府に
送ることを決断する。
の娘に送った匂い袋で、彼女は鐘を痛め、働
芙する。天麟はそれを凡てこの率を母に告げ
6)<南天門>・明末、篭富有鍵亀腎がは
ろ。母親というのは翅の鎮守閾で、虜氏に嫁
びこっていたとき、奥部の尚蒋曹込邦だけは
いだあと袋をくれた花嫁の名前を弾らないた
魂のいうことを附かなかったので、蝿は曹の
官職を剥ぎ、且つ人をしてこれを婚殺させ、
めに礼をすることが出米なかったが、その息
26
を忘れないように裏庭の小棲に掛けていたの
中国暮月gヨュ忘第24.25合併号
夕
だ。母親は弊の躯が袋を凡て躯しんだという
命今蒋と宝剣を盗んで逃げろ。楊街内は浮川
のを剛いてすぐにそれと分かり、衣装を満替
にやって未て台士中の罪を決定しようとする。
えて上蓉の待遇で迎えろ。何日かして藤の夫
台士中命今愈を出させてるが楊荷内はjしつけ
周庭叡|がここにやって米て再会を悪ぷ゜湘鐵
ることが出米ず、台士中は反対に彼を偽りを
と守貞は銭姉妹の契りを鰭ぷ゜
いった罪に処する。
9)<箪江亭>・未の嶬代、蝉記鬼という
10)<西慮記>・洛陽の張洪は斌験に赴
ものがおり、妓夫は若くして未亡人となり、
き、道中彌州の普救寺で大臣であった極相国
腎明で貞節だった。大尉楊の,息子は鐸記兄の
の蝋と出会い、一目惚れする。駐留している
姿を蕊い、これを妾にしようと思う。潔記兄
孫飛虎の率が変を起こし、寺を取り囲んで鴬
はこれを珠い、楊鋳向に付きまとわれること
鴬を探す。獲夫人は鴬鴬と鰭婚させることを
を遼けるために瀞安観に行ってJirを漣し、台
ロ約束し兵をひかせろ。張洪は友人白馬将軍
道姶を助けて写鑑をして日を過ごしていた。
に子欺で兵の囲みを解いてくれるよう婆辮し、
台道姶の甥台士中は津川に赴任してきて、清
兵を引かせろ。樫夫人は釣未したことを後悔
安観にやって米て蝉記兄と出会う。二人は意
する。張洪は女中の錘鎮に計を求め、彼女に
気投合し、台道始のとりもちによってついに
詩を瀞かせて夜鴬鴬に会いに行くが鴬鴬はこ
鰭婚する。楊荷向は清安観は蝉妃兄を無理に
れを荷め、張洪はむしゃくしゃして病気にな
婆にしようとしてやって米ろが台士中が鐸記
ってしまう。筵娘は鴬鴬を引っ張って凡鋒い’
兄を違れて藤に任地に行ってしまったことを
にいかせ、二人は夫婦の誓いをする。夫人は
弾って激怒し、台士中が民政に取り合ってい
鉱娘を苛めるが、筵鎮は反対に釣泉を逆えた
ないと偽り罪を論せようとする。台士中を罪
ことを術め、樫夫人はついに張洪が鈎険に合
に問うよう要錆する。楊樹内は上からの命今
格したのちに鰭婚させることを約束する。x
穆と宝剣を持って津川に行き、台士中を殺し
の名く錘娘>という。
て蝉記兄を準おうとする。台士中は知らせを
11)<珍妃>・尤錯帝は珍妃の助けを得
受けて恐れ、不安に感じて苦しむがどうしよ
て、厳有為、譲啓超等を用いて雄新を行うが、
うもない。蝉記兄は汁を考え、渡押の女に扮
救世銚の裏切りによって失敗する。
して楊衛内の居る箪江亭にいき、機を伺って
中国芸能用語集(20)
松山卓明
【折子戯】芝居用鍔。整本戯に対して倉う゜
らに磨きがかかり、完成されていくのである。
往時の``伝奇劇(足HDIなど)”はどれもみな、
【対子戯】身U唇の上演形式の一種。遮劇、
若干の折(釣)(伝奇劇の一段のこと)に分
錫創など、灘誇系銃の劇で、発展の早期にお
かれていろ。その中には、いくつかの割に優
いて、よ《二人の役者によって筋の極めて簡
れた場を持っていて、劇の筋において、し上絞
単な寸劇が上演されていた。それで習樹的に
的完成度の高いひと場があるので、それが単
“対子創,,と称されろ。つまり、一対の人
独でよく上演されろ。いくらかの折子劇が集
(二人)によって上演されろ(敬われろ)も
まり今わざって一場の上演をすることができ
のである。例えば、湛劇の《技iliイヒ》や、錫
る。折子劇はよく上演し、絶えずエ夫をする
劇の《秋春送茶》などが、すなわちこれであ
ことによって、筋と上演法は住々にして、ざ
る。
中国夢麺麺藏茅24.25合併号
27
【散対子戯】芝居の上演形式の-種類。
対子戯の一種。“木頭対子戯,,の対銑鍔。一
鑑だけの歌いものを“散針子戯,,といい、数
を演じる役者は“徴功奄生',と手ばれろ。
“徴功戯,’は“しぐさ”を童んcろ化に、普
通せりふも重んじろ。
薙が連なる歌い物を“本爾対子戯”という。
【督功戯】芝居用露。京劇を上演する上で
遁劇、錫劇の《秋呑送茶》《抜蘭花》《朱小
“歌、しぐさ、せりふ、立ち回り”を等しく
天》などはみな、“承針子戯鰄である。
【双対子戯】』U居の上演形式の一種。
(対子戯の一種)“単針子戯,,と反対に数ろ。
童んじろが、演目によって重点が異なる。い
くつかの芝居は、例えば《二進官》《上天
台》などのように特に“歌,,を童んじろもの
おしなべて男女二人の役者によって掛け合い
があって、これらは全て“督功戯',と千ばれ
で歌うのを“簗針子戯,.といい、二人の爵の
ろ。その中で主要な男の立ち役(楊波、漢尤
役者が一組となったり、二人の大役渚が一組
式帝蜜ど)を演じる役者は“掲功老生',と手
となって一鰭に歌うものを“双対子戯,,とい
ばれろ。
う。
【同場戯】芝居の上演形式の一種。趨劇や
【骨子戯】蘂周鐇。“歌、しぐさ、せり
ふ、立ち回り,,の各方面で特にしっかりした
錫劇などの灘警系銃の劇の種類で、その発展
芸の力を要する演目を指す。八例えば京劇の
の-段階において、よく二人の役者によって
《二進倉》《酉進士》《零頭刺粉》《挑瀞
演じられろ、筋の割に簡単強、しかし“対子
率》などである。或いは-つの方面やいくつ
戯',に比べろとやや翼富で完成された小型の
かの方缶に特殊な技芸を要するため、役者は
劇を、習慣的に“同場銭,,という。懲水は数
真の才能と身についた技術を持つことで、初
人が同じ場で歌うと倉う率である。例えば、
めて上手に演じられろ。この種の演目を“骨
遮劇の《陸雅臣》や、錫劇の《庵堂相会》な
子戯,,と千ぶ。
どがすなわちこれである。
【大同場戯】芝居上演形式の一種。“`l、
同場戯”を兄よ。
【'1、同場戯】身ご唇の上演形式の一種。週
劇、錫劇など灘鋳系列の劇の種類で、“対子
【内子戯】芝居用鍔。台本上、各演技の上
で、有徹有肉(しっかりした基本があるこ
と)が求められ、芸術性のか猶り高い芝居を
指す。“付子戯'2と遂家は同じである。江南
のある地方劇の種類(例えば趨劇)はこの
戯,’から発展して“同場銭,,となった後、役
“内子戯,,という名称を使っていろ。
者は二人から三人妖上に増かした。普通二人、
【路頭戯】芝居用鍔。“内子戯,,と相対す
或いは酉、互人の蔓場人物の芝居、例えば、
る。脚本や演技の上で決まったセリフ、場所、
趨劇の《打花色》や錫劇の《庵蛍相会》など
地位、技術がなく、主に役者がその場で即興
を“小同場戯”と呼び、六、七人以上の蔓場
で発揮する演目を指す。江南の芳千の地方劇
人物の芝居、例えば潅劇の《隆雅臣》や錫劇
種(例えば越劇)がこの名称を用いていろ。
の《珍HiU鐸》などを“大同小戯”と呼ぶ。
【王帽戯】芝居用鍔。京劇の一部の“喝功
【徴功戯】芝居用篝。京劇を上演する上で
戯,,の主な人物は、皆王榴をのせた“王子,,
“歌、しぐさ、せりふ、立ち回り,,を等しく
(皇帝)で、過去、これらの劇を“王帽戯,,
童んじろが、演目によって重点が異なる。い
と呼んだ。例えば《上天台》、《打全校》な
くつかの芝居は、例えば《酉進士》《鳥龍
どが皆これである。王帽戯を得遂としていた
院》などのように特に“しぐさ”を重んじる
役者は“王楕生,,と苧ばれた.
が、これらは全て“徴功戯,,と苧ばれろ。そ
【穐帯戯】2。唇周鍔。昆劇、京劇、川劇、
の中で主要な男の立ち役(采傑、采江など)
恭腔などのざい劇種、よく歴史を題材とした
28
中回書龍ヨユ海第24.25今俳号
劇が演じられ、劇中は、つねに弊抱(明、瀞
鍋した、例えば《辮笑姻鎌》《秋濠業》など、
時代に大臣が蒜た礼服)を識て、腰に玉帯を
(3)外国の脚本の中国化、例えば《碧落黄
つけた皇帝、鋳王、将軍、大臣の人物が現れ
泉》《茶花女》などである。この類の演目は
るが、昔、この種の劇を“穐帯戯,,と千んだ。
一定程度、森本主我社会制度の罪亀を暴いた
【爺把戯】芝居用籍。京劇のいくつかの演
が、あるものは低俗越末で、低く沈んだ色調
目で、主要な人物が“熊旗,,(ノドiにさした
で、劇中の主人公は時々、消極的な厭世感を
旗)を鰭びつけ、手には武器(刀や稔猶ど)
止蕊し、ゆううつで鐵入って塵傷的怖錯とな
を使い、歌、しぐさ、セリフ、立ち回りに合
っていろ。少数の演目では叉に、腐敗堕落し
わせて重点が塁かれていろ。例えば、《定率
て低級に流れていろ。その中の一部分の演目
山》《駁太千》蜜どは皆“爺把戯,,と手ばれ
は解放後、各劇団が驫々と整理し、上演して
ろ。その中で主要な男の立ち役(賛忠、花雲
いろ。
雀ど)の役者は“爺把老生”と呼ばれる。
【二蓬子】芝居周誇。往時、ある地方のマ
【古装戯】①上演形式の一種。もっぱら民
イナーな芝居で禁涜の命今をこうむったため、
国初期の梅蘭芳の独創的ないくつかの京劇演
その他の流行していたメジャーな芝居と合同
目を指す。特に歌と踊りの両方に迩点を選さ、
上演を余儀なくさせられたものが、'二蓬
多《の民族鋒鋪、例えば剣舞、花鋤((ま
子”である。例えば堤菊花飲戯が徽劇、京劇
で)鋒、謹譜鋒などを鐘承し発展させた。劇
と同じ鋒台で上演したのがこれである。
中の主要強大役が“古装頭,,という髪型に鰭
っていたことから名前がついた。代義作に
【現代劇】伝鋺劇の上演形式の一種。魂実
生活を反映した演目を指す。解放後、演劇界
《覇王別姫》《天犬散花》《洛秤》《儀玉弊
に流行した周鍔。“歴史劇',に相対する。絶
花》などがある。②一切の吉代服を論ろ劇を
対多数の伝j髭401の種類は、圦前は歴史を題材
蕊桔して指す。
とした演目を液ずろのが主であった。解放後、
【時装戯】①上演形式の一種。半亥隼今前
“香北斉枚、雄隊出新”の指導方針の元で、
後の京劇の鼻台のいくつかの現実生活を表現
とても多《の劇穆が芸術特徴自体に基づいて、
した演目。(乳代の)HlL芒埼ろことから名前
がついた。よく名前の弾られた時茨戯に《港
次第に塊代生活の表現を鎖み、異なった程度
の成就を得た。一九五八年、中蘂人氏共幸国
烈士投濠》《箪巌波潤》《間璃生》などがあ
文化部ば全国的に現代劇座談会を召祭し、伝
る。あるいくつかの外国生活を表した京劇の
銃劇芸術の第二次革新を呼びかけた。会鏑の
演目、例えば《八種蘭因》《新茶花》なども
前後、全国の各劇稜は、古い昆劇、京劇など
一般に“時装戯,,と守ばれろ。②-妨の吉茨
を今めて、例外なく、乳代劇の上演を域みた。
ある劇種は自分の芸術特徴を証明し、完全に
(中国伝銃の衣裳)、瀞装(清朝、満洲族の
衣裳)を着ない劇を鍵拾して指す。
現代生活を表現するのに適合しており、ある
【西装旗抱戯】。`洋装旗抱戯,,とも含う゜
劇種は魂代劇の上演を通して、自身の芸術革
広《堪劇の中期に形成された一種の伝焼演目
新を促進した。芸術の実践からこのことを証
を指す。抗日親争前後、堪劇の創作演目は、
明した。現代劇は農じて鮠にかなり典富な鐘
ほぼ森本主我社会の生活と青年男女の愛情物
験を積み重ねているのには坪劇、泌劇等があ
露を題材にした。その麺材の出所は大体、.
ることを錘現していろ。解汝泓米、創作、上
(1)当時の社会ニュース、例えば《悶璃
演が成功している現代劇の演目は、評劇の
生》《賛慧鈩窄隆枢兼》など、(2)丈明戯
《小犬婿》、氾劇の《羅漢銭》、山東呂劇の
からの移植と、流行していた恋愛小魏から攻
《字二瑛汝簿》、豫劇の《朝陽溝》等である。
中回琴鑪麺面第24.25合併号
29
一九六四年六月北京で挙行された京劇現代劇
研究大会は、現代劇の発展を一歩推進させた。
【灯彩戯】芝居用籍。昆劇や京劇には、
って上演された《三国惠》や《ノ1厘門閲》など
の整理された大芝居で、録日その中の一、二
場が演じられ、連鑓して何日もかけて演じ上
《瀦圃鋳夢》や《木藤洞》などのような若干
の特殊な演目があり、かつて織りちょうちん
げたが、これは千期の連台本戯である。それ
'2人米、上海などの地で上演されろ《狸譜換太
や小道具を、観蓉に対する守ぴ物にしていた
子》《jk焼鉱連今》などの劇は、すなわち録
ので、習慣的に..灯彩戯,.という。
日皆一つの整本であり、ある時は一日に一本
【ロ彩戯】杵を通えて祝,福を蕊う為に上演
演じられ、ある時は一本が何日にもわたって
する演目。かつて漸東の農村で演じられた芝
居は皆、錘ず目的があって、鱈劇団は、各種
鋸けて演じられろ。つ去り、一部の連台本戯
の違う目的に適庭させるため、プログラムの
り、時岡は数年という使さに逆する。芝居の
中に一群の吉祥を表す“ロ彩戯',を持ってい
て、主たる芝居の前にかえ上演した。その中
でも《慶寿》《天営賜福》《跳魁》など、随
所で活用でした。《伏虎》は山を祭る際に上
演するのに適し、《勧農》は巻、耕作前に笠
年を祈るのに適し、《諭今》は紛争を解決す
る時に上演するのに適したものであった。
は常に三、四十本の多きにわたって焼いてお
筋が-荷しており、内容が通俗的で、併せて
背紫に道具を用いたので、すこぶる観奪に受
けがよかったが、ただ、低鮫で俗っぽく価値
の鶏いものも少なからず混ざっていた。解放
後、上海などの地では、台本の内容と上演の
質は皆向上した。
【本戯】芝居名詞。そろった大型の劇や通
【猴戯】孫悟空を主役とする芝居のプログ
し狂意を指し、“折子戯?'に対する鍔。今世
ラムのこと。《悶天倉》《水藤沼》や、《孫
紀二十年代になり、適応した観衆の要求から、
樗空二打台,ii・蒲》などは皆これである。“樗
支戯,,ともいう。前者は北晶の役者のiiiJ掘鑿、
南派京劇の役者の鄭法祥など、みな猴戯をす
多くの京劇役者が通し狂倉を創作した。普通
一つの大型の劇は、例えば《全本玉堂巻》
ばらしく演じたことにより名を成した役港で
錯年間に早くもすでに多くの大型の劇が出現
ある。
した。例えば、《八本願F1閲》などで録日一
【孫悟戯】孫樗空を主役とするプログラム。
“猴戯”をjもよ・
《全本浮勝機》などである。瀞代の同治、尤
本演じ、“連台本戯叩の一種の形式に属した。
【打炮戯】“打j包戯',とも手ぷ゜演劇芥の
【目連戯】伝錨劇目の中で目連が母を救け
俗語。芸人が劃職したばかりの時上演する楊
ることを題材としたスケールの大きい芝居や、
所で、鏡初の三日に演じる圓分の鐘も符愈と
`]、さな芝居の農林。明代の弊之珍の《目連戦
母勧馨戯丈》や、渚代の張照《勧暮全科》は
する演目を指す。
皆これである。また、漸江調歴、或いは麹劇
上演することを指す。侍の製図界(演劇界)
で演じられるところの、《女吊》《調黛常》
と婆劇《雪裏棒》や《王婆爵鶏》などもみな
はある痔、それぞれの劇団の主な役者を挟め、
連合して盛大な上演を行い、棋入から坐要鰻
目建戯の流れである。
溌を除く全てを梨図会に払い、共に釘しいの
【三'1、戯】芝居用藷。若い野(小生)、差
、、女(`I、且)、道化(`I、丑)を主としたプロ
グラムを指し、京劇の《衿王燭》や漢劇の
《樋中鐸》などがある。
【連台本戯】芝居用籍。瀞代、北京でか
30
【擬務戯】演劇界の俗鍔。報酬を得ないで
を救った。合わせて各種の福利率紫も行った。
【搭卓戯】演劇界の俗鍔。報酬を得ない上
演の一種。若干の演劇役者やアマチュアの役
者が、ある率紫や友人を救うために上演し、
収入は全て借金している人に鰯られた。菅、
中ロ暮鐘麺晦纂24.25合併号
京劇とその他の劇種で“懲卓戯,,と守んでい
た。響迅の“社戯Wの中にある一文は、・瀞末
た。数人が力を出して一人も持ち上げること
の鱒輿の村で演じられた'0社戯”の様子を麹
を意家する。
介していろ。一説によれば“杜.,はき代の地
【堂会戯】演劇界の俗鰐。高位や富裕の人
が自分の邸宅や高級レストランを勝りて上演
区区分の一つの'1,s強単位で、“社,,の中で
芝居を演じることを“社戯,,という。
することを指す。大体、お祝いのために行わ
【行戯】芝居用鍔。往時、各々の生産商充
れた。盛大な“愛会戯”は住々にして、有名
な役渚が祭中して、午後から予期までずっと
団体によって學ら演じられた芝居。大きなも
演じ、気ままに演目を指定したり、脇役とし
小さなものでは例えば大エ、床屋、仕立屋で
て共演した。役者が堂会の上演を承諾すると、
錘年大体一回叩行戯,,を演じなければ載らな
“戯分(報酬)”は住々にして普通の数倍の
かった。上演期間は大体元宵節(旧暦一月十
収入があった。演劇史上、有名な役者が堂会
込日)の後から始まり、|日暦の四月中に鱒わ
戯を拒んだり、個人的に堂舎戯を承諾しなか
る。一つの商苑が大体一回演じ、昼夜二画演
った例もある。
じる商光もある。“行戯,,を上演するのは、
のでは例えば令料卸苑店、薬屋、銅鑓物屡、
【社戯】昔、農村で大嘩日にかまどの沖様
主に同紫渚が一年兵面目に働いた後、共同し
を槌ろお祭り、及びその他の社会活動の時に
て娯察を享受する性闘を持っていろ。上演す
演じられる芝居。一般にみな、廟や淘堂、或
いは野外の鋒合で上演した。上演蒋周は廟の
る場所は、本業で自分が持っている窪物を除
財産や一族の財産から支払うか、或いは察ご
とに割り当てて、入場券は光らなかった。往
りて行った。
時、麺輿大班が“社戯,,を上演し、演目を
.`ロ彩戯,,と“逗戯”の二部分に分け、“正
戯”をまた武蔵、小戯、正本戯の三種に分け
くと、大体“赫忠廟',などの公共の場所を借
【鳥担戯】“役戯.。とも手ぷ゜人形劇の一
種。演技者は子で人形を操り、鱒でドラと太
鼓を藩み、歌とせりふを配鼠する。形式は簡
単で、往時いつも街のあちこちに現れた6
読者の声
上海京劇院公演「蘆三娘與王英」を
、観て,西幹照子
を取り入れるエ夫に、びっくりさせられる所
があった。ご覧になった方はもうお分かりだ
と思うが、鑑札の場面に用いられた音崇など
7月15日に上海京劇院の『水齢伝』「息
二娘與王英」を観た。実は今年1月の上海京
は、-幹打率が起こったのか繭の中が止玄っ
てしまうほどの異衝の曲を、ほんの少しでは
劇院による公演は、観客との間の盛り上がり
あるが、鐵初にもってきたのである。それで
が何となく欠けていたので、果して今回はど
も周囲の観客からは鰭樽笑い声が起きていた
んな風になるのかと、内`ご不安と楽しみとの
が、やはり『水齢伝』と含えば、一種の吉典
入り交じった気持ちで公演開始を待っていた
のである。しかし今回出演した俳優さんたち
としてのイメージを抱いて臨んでいる私とし
ては、少々ひっかかるものがあった。或いは
は、皆演技力も喝も確実で徽靖らしかった。
枠にはめたこだわりを鶏〈して、このくらい
前々からの予想通り、劇中の台詞や演出には
のアレンジを気軽に嶺しんでも良いのかもし
様々なエ夫が施されていた。エ夫をすること
れないが、やはり私の趣の中では、モヤモヤ
自体は呑定しないが、ただかなり異櫛のもの
とした疑問が残ってしまったのである。そし
中四琴鍾麺T行第24.25合併号
31
て息三鼠役の史敦さんも王英役の竣慶谷さん
やや物足り強さを感じてし玄った゜王壌虎も
も、生き生きとした演技で恭噺らしく、表情
散散なお兄さんになってしまっていろ。熟に
連かで、観ていて気持ち良かったが、今回の
なった点は他にもいろいろとある公演だった
魁二噸は、『水狩伝』を鏡んで抱いていた息
が、そういう私も、痔々挟土れた王英の日本
三娘のイメージよりも、何だか愛らしい設情
鱈の台詞も今めて、息三噸を迎えた禁山治の
が目立っていろ。欲張りな注丈かもしれない
好漢たちの愉快な会藷やしぐさ、魁二躯と王
が、『水鉾伝』が好き敷私としては、墨場す
英のおかしな夫蹄ぶり(?)等に、劇中何度
る女性といえども、眼光に穀気軽帯びた雰囲
か、他の観客たちと一錆に笑ってしまったの
気を想像しているので、今回の公演では、文
である。
敏さんのさわやかな立ち回りにもかかわらず、
研究会・総会報告
7月15曰研究会・総会報告
を図ってIiどうか。たとえば毎回特蝶を組ん
氷上正
ではどうか。また、通信では間に合わない公
研究会
演情報などのためにインターネットを利用し
題目:稿塗省の人形劇について
てはどうか。銚蝶体巴と電子蝶体をうまく使い
講師:永井啓夫
分けることによって、この会を日本における
題目:京劇の大形について
中国芸能愉報の発信基j色にしてはどうか。
講師:蕊来花
●
日待:7月15日(土)15:00~17:00
7月2S曰研究会報告
鳩所:慶鰹銭塾大学三田校舎1号106号室
腐田律子
総会
日涛:7月15日(上)
演題:中国の追健行事~鬼の源流を採る
場所:慶慮銭塾大学三田校舎1号106号室
講師:余大響(令達馨)氏(江西蒋丈聯舞踏
内寡:
察協会譲蒋長)
①会計報告,
日時:7月28日(金)
②運誉方法の交叉について
場所:神奈川大学図審館
芸能通信の発行及び研究会を慶應鍵塾大学
内容:今回余大喜入は、北上市立処の鯖で8
(春)、東京都立大学・法政大学(又)、早
月6日~9月10日に閲催された『中国の仮
稲田大学(秋)、神奈川大学(冬)の四つの
ブロックに分けて文代斜で担当する。
面字典展~鬼の源流を採る』に脊料提供を行
ない、また『全国魁サミット・IN・北上』
③運菅委賞の改選
の処シンポジウム「梁アジアの鬼」にパネラ
新妻鼠はDzA下の会鳳に決定(噸不同、敬称
ーとして出席するために永日した。
塔)山下鐸彦・後天滋子・水上正(泓上慶慮
この機会を利用して、中国芸能研蒐会・神
鍵塾大学)、千体童和(早稲田大学演劇博物
奈川大学常民文化研究所・国際鰹誉研究所の
館)、鋒木精(法政大学)、式iIL小夜子・鈴
共同主催で講演会が閲かれた。
木明子(江上神奈川大学)
④鋒木端氏よりの提露
文代制への移行を機に芸能通億の欺面の一新
32
Iりく下に講演内容をレジメに従って要約する。
I江西澗の迫徽行事の歴史
江西猶は揚子江中流に位興し、泉に福謹増、
中国琴鑓璽藏纂24.25台占併号
舌に湖衛者に隣接する。舌代には鍋、荊二州
Ⅱ江西jli南迩鼎沼鄭村の事例
に腐し、j;色秋時代には西に楚国があり、楚大
魂在の徽鼻つまり追騨の祭とその中で演じ
られる芸能について、江舌省嗣蕊に位麗する
南璽蝶のろ鄭村の卒倒を麺介する。
化の影懸を受けたことが出土文物からもわか
る。
江舌閻には今も櫛文化が伝えられ、百種類
泓上の徽戯・徽鐸が東部を中世とする各地に
点在する。ここ数年の研究で、獄川者の“妥
噸地裁”、安徽省の幽箭jと`燃戯”、雲南轍の
“曙通端公戯,.などば江舌を発祥地とするこ
とが明らかになった。
江西偉戯の歴史に関して、甫璽隈金砂付の
『余氏族譜・繊秤弁記』によると、漢代の呉
丙将寧が南迩の寧山に駐在した際、「周公の
石郵村は、人ロ1022人(1994年現
在)P数245F、呉越が70%を占めろ。
祭の実行運菅に当たる頭人会は、この異姓の
24京が代々務めろ。現在、1979年に丈
隼で中断していた祭を復活する際、社会的地
位や財力のある8察をかえて32察で選管す
るようになった。また、祭に仮面芸能などの
上演に当たるi駒Hfは、基本的に呉越泓外の雑
姓の者8名が務めろ。
劇に従い、蝉を伝え、、2Aって妖雰を端す」と
祭の場は、退徽の杵を祭る微村瀬が中`毬と
ある。『周礼』・『礼記』・『後漢瀞』・
『呂氏,艤秋』などの古典からは徽礼が国の一
大行事であったことがわかり、臭丙が江西に
派遮された大臣として鱒を伝えたとしても不
思錨ではない。呉丙については『漢瀞』に記
載があり、明エ穐版の『塗昌府志』および瀞
乾隆版の『粛璽際志』にそれぞれ、甫璽に駐
屯し山を祭ったとある。また葡迩験のろ郵村
の倣秤廟内に鏑ぬられた『新塗徽神殿畔序』
なる。祭の目的は、人、作物、家訂が健やか
にも、御は三十年前の周代から伝えられたと
ある。臭丙の伝説などから江舌において漢代
から徴祭があったことは明らかだが、魂在江
舌お各地に伝承されている徽鋒はいつごろ成
立したのかははっきりしていない。
これに閲して、『江舌涛徴』に収められた
劉鶯作「観偉」は注目に値する。この詩は健
鐸の演出について鰈し《描写しており、『東
京夢學“に記述された末代の躯礎鋒と内容
が似かよっていろ。末代には微は大きく変化
し、それまで方相氏が主催していた徽祭が鐘
越などが蔓場する榔鋒へと芸能化した。詩の
作者の劉鶯に閲しては、『健居通鏑』の作者
劉堀の叔父で、1219年南末鳥定年間の生
で通かな率を願い、災いをなすものを退散さ
せることにあり、除災と招稿の祭である。
・祭の日程は、大嘩日から旧正月16日まで
の前段では、杵を招き、村向各戸の祭遮前で
①閉山②杵銭③雷公④繊公繊母⑤酔酒.酒愛
子⑥挑発⑦双伯卵⑧閲公祭刀の演目で仮面劇
を演じろ。また周辺の村々にも赴き同上の上
演を行なう。16日午後5涛ごろから祭の後
段となり、夜を徹して繊杵廟を起点として村
向各戸を回って、処やらいが行われろ。この
時、仮面を付けた大処、鐘遮、閉山が災いを
退散させる役となる。全戸を回った後、河原
に66を配し譲俄が行われ、年占いが行われろ。
その後、祭の協力参で直会を行なう。20日
前後に面を片付け祭を鋒丁する。
処やらいを行なう際の三杵の所作は、盧代
の「夢鋒鐘趨賦」の描写に非常に似ていろ。
また演目「働公徽母」に整場する老夫婦は、
唐の字悼の『恭中鐘埼さuに鱒を行なう偉公
徽母として記述されていろ。石鄭村の迄微の
祭は、古米の側の祭の形態を留めた瀞璽な民
俗史料である。
まれとされろ。すなわち江舌の徽鋒は遅くと
も南末時代には成立しており、釣7~800
されている坂西祭槌芸能が麺介されたが、と
年の歴史を有するといえる。
りわけ日本の処のイメージの当てはまる愚ろ
中曰琴瀝薗已危系24.25今俳号
肌上、今回の公演では江舌者の漢族に伝承
33
大学出版社1994)
しい風貌をした面が退偉をとり行なう大鬼、
開山を表現している点で、日本の処の原像に
・田仲一成『中国璽系演劇研究』(東大出版
会1993)
迫る手掛かりを得ることができたのではない
・庚田律子「退徽の鬼」(『日本民俗学』
かと考えろ。
なお、関係の参考文献を以下に挙げろ。
260号1994)
・余大暮「鞍偉鈎沈」(『中国蝋』湖南師範
夕
‐お知らせ
■は会後の予定□はすでに侭了したもの
■福塗者京劇団米ロ公演
9月下旬から11月下旬室で、西日本を中
`趣に二十数回の公演が行われます。お問い合
学演劇博物館がインターネット上でホームペ
ージを開設いたしました。URLは次のとおり
です。
わせはオーロラ・オーパル社アジア大化事業
部(電話O3-3545-8538)まで。
http://www,wasedaac・卯/enpaku/index・h
tml
■台湾オペラ(歌仔戯)明轤団談劇団永日公
***
中国から次のような招錆状が届いています。
演
千年狐の銘食物露(日時:1995年11月10日
■'96東方戯劇展演蟹国際学術研対会
中国芸術研究虎主催によるアジア演劇の公
(金)場所:よこすか芸術劇場チケット:チケ
ットぴあまたは民音予約センター(03-3366-
演とシンポジウム。参か国および地威は中国、
9999横浜045-231-9999)
日本、インド、韓国、台湾、香港(日時:
済公活仏(日時:1995年11月13日(月)14日
1996年2~3月(未定)場所:北京市連絡
(火)午後7時開演場所:泉京厚生年金会
先:北京市西塊区前海西街17号・中国芸術研
館)
究院戯曲研究所)
■東京京劇団第四画公演
□第三次中日戯劇交流研討会
(日曙:1995年9月12~13日場所:大連
長坂域、漢津ロ(出演:擬轄成、騒秋鴇、
笈英明ほか。日時:1995年11月30日(木)午
市逢鐇先:大連市中山区熟鶴来巻16号・大
後7時開演(6時半閉場)場所:北区赤羽会
連市日本戯劇研宛会)
館(JR赤羽駅南ロから徒歩5分)チケッ
ロ中国少数民族面具大化展覧鍵国際学術、ヲf針
ト:全席指定、前売り3,200円・当日3,600円
会
チケットはチケットぴあで扱っています。公
(日時:1995年8月23~26日場所:民族二
演に閲するお問い合わせは、東京京劇団(愈
丈化倉逢錯先:北京市復興門向大樹49号・
藷O44-935-5923)まで。
民族大化宮展覧館弁公室接待処)
■早稲田大学演劇博物館演劇欝座
道教儀礼における鼓奈について(講師:劉
第24.25合併号纒集担当者からのお詫び
枝鶴(中央研究礎兼任研究風)日時:1995
編集担当者の不手際により、今号の発行
年11月15日(水)場所:早稲田大学演劇博
物館3Fレクチャー・ルーム入場無料)
が大幅に遅れ、第24号と25号の合併号とな
ってしまいました。会員のみなさまには謹
■早稲田大学演劇博物館ホームページ開設
んでお詫びいたします。
千杯宣窄式が木琴で紹介している早稲田犬
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中四琴麺劃n面第24.25合-0十号
、
中国芸能研究会学刊蕊
中国碁能劃逼1言
第24.25合併号
1995年11月1曰発行
續蘂
中国夢向g麺T脅鎮蝶委風会
発行・事務局
〒221横浜市神奈川区六角橋3神奈川大学中国鍔研究室
中国弓寄負邑層fg己会・
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入会ご希望の万は上配記務局までご連絡ください
中ロ暮鐘苗興鱈第24.25合併号
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