どのようにしてこれをすることになったか

高校;大学;出版社;留学
高校時代:弟が家の農業を継ぐことになっていましたので、私は、自分で職業を選ばなければなりま
せんでした。しかし、社会でどんな職業をしたいか、何になりたいかということは、精神的に幼くて、考え
られませんでした。自分の人生のことを考えるより、それを避けて、勉強だけしました。数学の公式の
証明はとても面白くて、夢中になりました。普通は、公式を覚えて、それを使って、問題を解くわけです
が、公式を導き出すのはもっと面白いです。でも、今思うと、自分の人生のことを考えて、勉強の動機
付けを得ていませんから、深く真剣には勉強しなかたと思います。
大学時代:そして、一浪した後、大学では、理学部・数学科や政治経済学部・経済学科などに合格し
て、迷った末、社会で仕事に就くことを優先させて、(金銭的な誘惑に負けて)、経済学科に進みました。
(今、思えば、人の性質は変えられないので、お金のことや社会での将来など、そういう世俗的な欲で
選ぶのは良くないと思います。)
大学では、高校の時の反動で、勉強しませんでした。クラブ活動に一生懸命でした。英語会です。英
語で議論(discussion)や討論(debate)をする活動が好きでした。1∼2年生までそれに没頭しました。
3年生になったら、そこでの友達とスポーツサークルを作って。スキー、テニス、ヨットなどサークル運
営をしました。面白かったです。たとえば、合否電報をみんなでやって、お金を稼いで、それで大学の
ヨット部から中古のヨットを買って、それをもとに、サークル会員を集めました。そして、その会費で、新
しい150万円ぐらいするヨットを買いました。それと、3年生になってから、塾の講師をしました。
しかし、大学時代は、一番大切などんな仕事を自分の人生でするかを馬鹿なことに真剣に考えませ
んでした。(これも、よくないことです。) 就職活動を少ししましたが、1年間、塾の講師をして、なにをし
たいか考えました。(今思えば、よくない塾の教師だったと思います。) そして、少し分かってきたのは、
自分は研究をしたいと思いました。
高校;大学;出版社;留学
出版社:それで、留学情報が入るアルクという英語教育と日本語教育の雑誌の出版社に入りました。
English Journal という月刊誌の別冊を編集しました。たとえば、留学の時に必要となるTOEFLの試験対
策の問題集を編集しました。編集者とは、雑誌の内容を考えて、その考えに従って、大学の先生に執
筆をしてもらって、さらに、イラストを描いてもらったり、表紙を作ってもらったり、印刷会社と交渉したり
する仕事です。さまざまな仕事をすばやく判断して読者のために雑誌を作っていきます。(自分は、研
究に向いていて、編集者には向いていないと思いました。)
留学:編集者として働いて、お金をためて、留学しました。大学時代の英語会での活動と出版社での
英語教育雑誌編集を経験として、英語教育の修士号を取得しにアメリカの大学に留学しました。
英語教育の勉強をしているときに、言語学の科目も取りました。そのときに、言語を数学的に科学的
に分析する言語学に「刺され」ました。言語学の虜になってしまいました。英語教育の修士号を取りま
した。この後、さらに、言語学を自分の人生のライフワークとしたいと強く思いました。日本では、言語
学の学部も大学院も行っていないので、言語学をゼロから英語で学びました。本当に大変でした。出
版社で英語教育の雑誌を編集したので、言葉を習得するのに、どんなものが大切だろうかというのを
体験的に知っているので、言語学で研究するときにどんな科目を取り、何を研究したらいいのかを自
分で主体的に選んで決められました。それがとてもよかったです。
8年半かかって、言語学の修士号と博士号を取得しました。もちろん、出版社で働いて貯めたお金は
留学して1年半でなくなり、後は、日本語教育のティーチングアシスタント(TA)をして、半分は仕事をし
ながら、研究したので、4年半だけ、研究にかかったというところでしょうか。本当に貧しい中、研究しま
した。TAだけでは給料が少ないので、救世軍に食べ物(牛乳やシリアルなど)をもらいに行くこともあり
ました。言語学では、日本語の格助詞「が」、「を」、「の」を研究しました。格助詞の分析をコンピュータ
上にプログラムするなど、科学的に研究します。高校時代∼大学時代の数学の公式を証明する体験
がこのときに生かされました。博士号を取得して、日本の大学で留学生に日本語と日本人に言語学を
少し教える教員の仕事をしました。