庶民の時代がやってきた ~ 言葉遊びが大流行 焉馬 さんのこと ~ 若い

-------------------【落語の歴史は、さほどには古くない?~庶民が支援してプロが誕生】
庶民の時代がやってきた ~ 言葉遊びが大流行
日本の歴史を、その中心にいる人たちのタイプで見ていきますと、まず、平安時代に代表されるよ
うな「貴族」の時代があって、そのあと、鎌倉時代以降、「侍」の時代がやってきて、戦国時代を
経て、江戸時代まで続いていきます。そして、およそ 260 年あまり続く江戸時代の半分を過ぎた頃
から、時代の中心を担う人たちが「庶民」へと移っていきます。
現在、私たちが楽しんでいる「落語」という芸能は、そもそものルーツということで言えば、どこ
までさかのぼれるかはわかりませんけど、現在のスタイルの原型ということで言うならば、江戸時
代の後期、庶民の時代になってから生み出されたものだと言えます。
その大きなきっかけとなったのが、言葉遊びの流行でした。
江戸というのは面白い町で、庶民が文字の読み書きなどを学ぶことができました。これは、当時の
世界からすると、非常に珍しい例だと思います。学問を学ぶ機会というのは、だいたいは、一部の
特権階級が独占するものでした。そうしないと、特権階級の存在自体が危うくなるからです。
ところが江戸は、だいたい、1700 年代の半ばから後半にかけての頃にはもう、庶民の間でも、文字
の読み書きはかなり一般化してきていて、また、その同じ時期に、版画による印刷の技術も進んで、
さまざまな出版物が世の中に出るようになりました。
具体的には、狂歌ですとか、なぞなぞですとか、地口ですとかいった、さまざまな言語遊技が……、
それも、高度で洗練されてシャレの効いた言葉遊びが大流行します。
そうした頃に、現在の落語の原型とも言える「咄の会」というイベントが始まります。
時に、天明 6 年、西暦 1786 年のことでした、
焉馬さんのこと ~ 若い才能を応援!
仕掛けたのは、烏亭焉馬という人で、そもそもは、お侍からの御用を引き受けるような大工の棟梁
だったのですが、大変に侠気があって、面倒見がよく、流行り物にも敏感で、芝居も大好きと、ま
さに江戸っ子といった人物だったようです。
何しろ、歌舞伎界の大立て者である五代目市川團十郎と義兄弟だったというのですから、大変な人
物です。ちなみに、五代目と七代目の團十郎は、大変な文化人でもありました。
その焉馬さん、團十郎のファンクラブを率いておりまして、それはそのまま、その当時、大流行し
ていました狂歌のグループとも重なっていまして……。そこには、歴史の教科書に出てくるような
文化人たちがずらりといたのですけど、その人たちの言葉遊びの一環として、「落とし咄」という
のを楽しむ会をスタートさせたのです。
その会には、その後、職業咄家となる人たちもたくさん参加していました。そういう若くて才能の
ある人たちを、焉馬さんは大いに応援していたのでした。
芸能ごとですとか、スポーツですとか、いわゆる文化的と呼ばれる活動は、人々の心を豊かにして
くれるものですが、それが発展していくためにはどうしても、高度な文化を理解し、かつ、物心両
面から応援してくださるような方が必要なのですね。
そうした後ろ盾になるような人が、貴族や侍ではなく、庶民からも出てきたというところが、とて
も江戸らしいところと言えるのです。
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-------------------【可楽さんのエピソード:寛政 10 年の寄席オープン ~ 三題咄の成立】
さて、焉馬さんの「咄の会」はとても評判がよくて、新作の楽しいお話もバンバン披露されて、そ
れはもう、すごい勢いで盛り上がっていったのですけど、それに参加する人たちの中から、重要な
人物が登場してきます。
それが、それが、三笑亭可楽という人です。
時は「寛政」という時代で、西暦でいえば 1800 年にさしかかる直前ぐらい。この時代の有名どこ
ろには、弥次さん・喜多さんでおなじみの「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九さんとか、当世
最高の女絵描きとしてその名が中国にまで知られていたという喜多川歌麿さんなんて人たちがい
た頃です。
可楽さんのこと ~ 三題咄を確立
そして、寛政 10 年という年は、落語界にとっては重要な、記念すべき年でした。
関東・関西ともに、
「落とし咄」をメインとした寄席が相次いで開業したのです。
いまでいうならば、独演会のようなものだったでしょうか。
それを江戸で開いたのが、三笑亭可楽という人でした。
寛政 10 年に打った興業は失敗で、5 日間で話のネタが尽きて、早々に撤退。
その後、可楽さんは、全財産をなげうって、修行の旅に出て、そして 2 年後。江戸に戻って、再度、
寄席を開き、評判を得るのです。
その時にも、焉馬さんをはじめとするたくさんの人たちが応援をしたのでした。
その後、可楽さんのまわりからは、たとえば、いまの落語界では最大勢力となっております三遊亭
の元祖となる圓生さんですとか、こぶ平さんが名跡を継いだ林屋正蔵さんの初代ですとか、後に名
を残す人たちもたくさん出てきています。
この可楽さんは江戸っ子で、とても咄の面白かった、いわば天才ともいえる人なのですが、可楽さ
んについて、特に有名なエピソードは、お客さんから3つの言葉を出してもらい、それらのキーワ
ードを盛り込んだストーリーを即興で作り上げ、落ちまで付けるということをやってのけたのです。
これが、
「三題咄」の始まりとされています。
その場で話を作ってしまうというのですから、これはもう、すごい才能です。
いまの落語家さんたちにとっても、「三題咄」というのは大きな目標で、これができたら一流、と
いわれるようなところもあるようです。
ちなみに、当時、可楽さんが成し遂げた三題咄については、その 3 つのお題が「弁慶」
「狐」
「辻君」
だったとのことですが、どんなストーリーだったのかは、まったくわからないのだそうです。
でも、いまもって伝えられているのですから、相当に面白い落とし咄に仕立てたのでしょうね。
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燕晋さんのこと
-------------------【高座の誕生に関するエピソード~燕晋さんと地回りとの裁判】
ここでちょっと、落語には欠かせない「高座」というものについて、面得られている面白いエピソ
ードをご紹介しましょう。
可楽さんよりも少々時代が下がって、「文化」という時代になってすぐの頃のお話のようなのです
が、その頃はまだ、寄席もでき始めで、数もそんなに多くはなかったのですけど、そんな頃に、湯
島の天神様の境内に、とても咄の上手な燕晋さんという人が住んでおりました。
地回り相手の裁判
この湯島の燕晋さん、咄家なのか、講談師なのか、微妙にわからないところもあるのですが、とに
かく人気が高く、とうとう自分の家を寄席に仕立てて、集まる人たちからお金を取って、面白い咄
を聞かせるということをはじめました。
すると、当時は、いわゆる芸人という人たちは、寺社の境内など、人が多く集まるようなところで
なにかしらの営業をするようなときには、そこの地回り、要するに、香具師の元締めに話を通すと
いうのが暗黙の決まりだったようです。簡単に言えば、上納金を払うということですね。
自宅を寄席として開業した燕晋さんのところにも、早速、地回りがやってきて、「ここはうちの縄
張りだ。ここで金を稼ぐんなら、上納金を納めてもらわなくちゃなんねぇ」とねじ込んできました。
ところが、燕晋さんは、
「それは筋違いというものだろう。おまえさんたちに払うお金なんて、び
た一文、ないよ」と突っぱねたそうで。
そうしたら、地回りの連中は「営業妨害だ」といって、この件を奉行所に訴えたのだそうです。
現代であれば、
「上納金を払え!」と“いわれた方”が訴えるのでしょうけど、「上納金を払え!」
と“いった方”が訴えているというのが、江戸時代らしくて面白いところです。
結局、それから、都合7回のお白州、つまり、裁判が行われて、最終的には燕晋さんが勝訴しまし
た。このお裁きの結果は、これから寄席を開いていこうとする同業の人たちにしてみれば、実に力
強く、頼もしく、うれしいものだったと思われます。
余談ですが、燕晋さんはこの一連の裁判の中で、落語史上に残る重要な業績を成し遂げています。
江戸時代、芸人というのは、とても身分が低いものでした。歌舞伎役者にせよ、咄家にせよ、巷で
はすごい人気だったとしても、その身分は、人様からさげすまれるようなレベルでしかありません
でした。
高座の誕生
燕晋さんは奉行所で、「私ども芸人は、身分は低いものの、寄席で話す内容は、親孝行な咄ですと
か、有名な武将の咄ですとか、人を教え導くようなものも多くあります。ですので、集まってくる
皆さんにしっかりとお伝えできるように、高いところから咄をさせていただけるよう、認めてくだ
さい」と訴え、それが公式に認められたのです。
高いところというのは、寄席の中に「高さ三尺・一間四方」の台をしつらえて、その上で咄をする
ということで、これ、つまり、
「高座」であります。
高さ三尺といえば、だいたい 90 センチ、一間四方というのは、畳が2畳分です。
話が上手だった燕晋さん、担当の吟味与力あたりをうまいこと丸め込んだのかも知れませんが、い
ずれにしても、寄席の高座はこのようにして生まれたのだそうです。
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-------------------【天保の寄席の様子】
ここでちょっと、今から 170 年ほど前の「天保」の頃の寄席がどういった感じだったのか、お話し
しましょう。
天保の頃の寄席の情景
文化・文政の頃には、色々な咄家が登場し、年に何百本もの新しい話が登場するなど、落語は活況
を呈し、江戸の庶民の中になくてはならない人気の文化・芸能として溶け込んでいきました。
文化・文政のあとに天保という時代がありますが、この天保の前半ぐらいまでの時期が、江戸の庶
民文化がもっとも華やかだった頃です。
そして、天保の頃にもなると、江戸の町には、歩いて 10 分か 20 分ぐらいの範囲には必ず一軒は寄
席がある、といった状況になっていたようです。
寄席は、昼間もやっていましたが、やはりお客が来るのは、夜の部。
お天道様が西に沈むのと同時の「暮六ツ」に開場し、暗くなった頃に開演というのが決まり。その
あと3~4時間、じっくりと笑いを楽しめます。
お金の話
寄席の前には、出演者の名前や興行期間が記された行灯が設置されています。
呼び込みが「さあ、おいで!」と声を掛けます。
入り口を入ると、店番の親爺が「四十八文です」と木戸銭を取ります。
料金を払って中に入ったら、次は、下足番の親爺に履き物を預け、引き替え札をもらいます。この
料金が四文。
江戸の頃、ものの値段は四文単位ということが多かったのですが、四文といわれても、どうも今ひ
とつ、ピンときませんね。
現代の貨幣価値と比較するのはむずかしいのですけど、大まかなところで、
「四文は 100 円玉一枚」
と思っていただければ、当たらずとも遠からずでしょう。
お蕎麦が一杯、二八の十六文、つまり、400 円。
この頃の寄席の木戸銭は、三十二文とか四十八文が相場でしたので、ざっと 800 円から 1,200 円程
度ということになります。
二階の様子
さて、落語が行われる座敷は、二階にある場合が多かったようです。
で、二階に上がっていくと、ざっと 50 人~100 人ぐらいが入れるスペース。
「座って半畳、寝て一畳」などといいますが、一人分のスペースは半畳よりも狭く、隣りの人と肩
が触れあうほどであったようですから、高座も含めて、30 畳敷きか、広くても 50 畳敷きといった
ところでしょうか。
色々な芸人が出演
お客には町人もいれば、侍もいます。女もいれば、子連れもいます。
寄席は、誰でもが気軽に入れるところでした。
そうこうするうちに、舞台が始まります。
寄席に出るのは、咄家さんばかりではありません。浄瑠璃語りに影絵、手妻と呼ばれた手品、声色
の真似など、とにかく様々なエンターテイナーたちが順番に登場して、笑わせてくれます。それで
もまぁ、落とし咄や講談などを“話す人”がメインではありました。
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なお、この頃にはもう、前座であるとか、一つ目であるとか、真打ちであるとかいった、芸人のラ
ンクによる出演順というのも出来上がっていまして、今と同じようなスタイルになっています。
寄席興業は前半と後半に分かれていまして、「中入り」という休憩時間が入ります。中入りには、
お客は、お茶を飲んだり、トイレに行ったり、煙草を吸ったりするのですが、この時間帯には、前
座の人、つまりは、真打ちの師匠のお弟子さんたちによる「くじ引き」が行われるのが決まり事で
した。
中入りのくじ引き
「一本・十六文」程度のくじをお客さんに買ってもらって、その中から当たりが出るという仕組み。
当たりの賞品は、一等賞が上等の反物、二等賞がオシャレな扇子、三等賞が子供のオモチャなどと
いった具合でした。
お客さんたちはどんどん、くじを買ってくれます。
で、たとえめでたく一等賞が当たっても、それを持って帰らないのです。
「オレはそれ、いらねーから、おめー、取っておけ!」といって、そのお弟子さんにあげてしまう
のです。
これ、なぜかといいますと、前座の人たちというのは、お給金はもらっていなくて、そのくじのわ
ずかな売り上げが大切な収入源だということを、みんな、知っていたからなのです。
江戸の庶民たちは、これから名を上げていくかも知れない若い芸人さんたちを、とってもあたたか
く応援していたのですね。
なんだかんだで、くじ引きも終わり、寄席の舞台は後半戦へと入っていきます。
前半同様、色々な芸人さんたちが登場して、お客を楽しませてくれるわけですが、中でも、この頃、
特に人気があったのは、女義太夫です。
大人気の女義太夫 ~ 遠山様
義太夫というのは、義太夫節というスタイルの浄瑠璃語りです。で、浄瑠璃というのは、三味線を
伴奏楽器として使いながら、お芝居の筋などを謡い、語って聞かせるタイプの芸能です。
女義太夫は、三味線を弾きながら、切ない恋の物語などを、実に色っぽく謡ってくれました。
流し目もたっぷりと使い、時には色っぽく腰をくねらせながら、情感たっぷりに謡って語るその姿
は、裏店暮らしの独り者などには、なんともたまらないところだったでしょう。
独身の私なども、そんな舞台があったら、毎日通ってしまうかも知れません。
しかし、その後に訪れる天保の改革という大弾圧では、この女義太夫が真っ先にやり玉に挙げられ
て、片っ端から逮捕されてしまうのです。妙に頭のかたいのが権力を持つと、ろくなことにはなり
ませんね。
ちなみに、この天保の改革というのをやったのは、水野忠邦さんという大変な石頭さんだったので
すけど、その時に町奉行をしていたのが、遠山の金さんこと遠山景元さん。で、遠山様、
「ちょっ
とは娯楽を残しておかないと、かわいそうだと思いま~す」といってくれたとか、くれないとか。
真打ちの怪談咄
さてさて、舞台の方に戻りますと、最後に登場するのは、もちろん、真打ちの咄家です。
この頃の咄家さんは、もう芸もこなれてきていまして、「この師匠だったら人情咄で決まり!」と
か「あの師匠の芝居咄は最高!」といったように、お客の望みは決まっていました。
化け物が出てくる、いわゆる怪談咄などは、もう、最高に面白かったようです。
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前座の人たちの芸もそれなりに面白かったのですが、真打ちともなると、別格です。お客がググッ
と引き込まれていきます。
話が進んで、だんだんと不気味な空気となり、いよいよ出るぞ~、となると、控えからはドロドロ
ドロと太鼓の音。
「あれ、あそこに……」という師匠の声と同時に、場内の明かりがフッと消えたかと思えば、客席
には、手もとの灯りで顔を下から照らし出した浴衣姿の女がフラリ。髪を振り乱したその姿はまさ
に、怨みのこもった幽霊の出で立ち。女は手に濡れた手拭いなどを持っていて、通りすがりの客の
頬を撫でていったりするものですから、わーわー、きゃーきゃーと大騒ぎになります。
実は、この幽霊、お弟子さんが化けているわけなのですが……。
で、騒ぎが一段落したところで、高座の上の真打ちが、咄の最後の下げを取って、「おあとがよろ
しいようで」となったそうです。
もちろん、お客さんたちは大満足です。
江戸繁盛記 ~ 林屋正蔵さん
天保の頃の江戸の寄席は、まぁ、そんなところだったようです。
……っと、まるで見てきたように話して参りましたが、種明かしをしますと、実は、寺門静軒とい
う、結構な辛口で世相を斬りまくった漢学者が書いた「江戸繁盛記」という、ちょっとしたベスト
セラー本がありまして、今回、そのほかの資料からの話も交えながら、ちょいとアレンジは致しま
したが、おおよそのところは、その本の中に書いてあるのです。
ちなみに、怪談咄といえば、武蔵国と下総国の境目、大川と呼ばれた隅田川にかかる両国橋の西側
の袂に自らの寄席を経営していた林屋正蔵さんの専売特許でした。
なお、この林屋の寄席は、昼間しか営業していませんでしたので、いまのお話は、江戸繁盛記と林
屋正蔵さんのエピソードとのミックスです。
-------------------【江戸の落語の粋なところ】
最後に、江戸の落語の粋なところを、まとめておきましょう。
『夜間営業』
私が思うに、江戸の落語の粋なところというのは、大きく 3 つあります。
まず1つ目は、
『夜間営業をしていた』ということです。
『平等』だったこと
江戸庶民が楽しめる場所というのは、かなり限られていまして、夜の楽しみは少なかったのです。
特に、女性や子供が夜に楽しめるものなどは、ほぼ皆無といってよい状況でした。
それが、寄席であれば、誰でもいつでも、自由に気軽に出入りできます。
これは、庶民にとってはかけがえのないものであったろうと思います。
江戸の落語の粋なところ、その2つ目は、寄席の中では『みんな平等だった』ということ。
寄席の客席は、全部自由席。早い者から好きなところに座ります。そしてそこでは、侍だの町人だ
のといった身分は、関係ありません。
寄席は、
「裸になったら皆同じ」というお風呂屋さんと同様の場所だったのです。
もし仮に、侍かなんかが威張って、「おい、そこをあけろ!」なんて言ったら、みんなから袋叩き
にされていたかも知れません。
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さて、江戸の落語の粋なところ、最後の3つ目は、なんといっても、
『安い』ということです。
安いのは、やっぱり、うれしいですよね~。
『安い』ということ
実は私は、およそ 20 年も前から、
「女性をデートに誘うのなら、落語に限る!」と主張し続けてお
りました。
人気の外人ミュージシャンのコンサートなどに行くのは、それはもう、とってもよいのですけど、
でも、チケットを二人分確保するだけで、1万円札が2~3枚、スーッと飛んでいってしまいます。
オマケに、そうしたオシャレなものを見ると、そのあとの食事も必然的に高級レストランに行くよ
うなことになって、好きな娘と行くのですから惜しくなどないとはいっても、結構な散財です。
そこへいくと、落語というのは、二人分の入場料でも5~6千円程度。それで、同じ長さの時間が
楽しめて、さらにそのあと、食事に行くにしても、落語のあとであれば、町の蕎麦屋さんでもオッ
ケーなのです。かえって、そうしたお店の方が女の子から喜ばれたりします。
いやぁ、落語っていいですねぇ。庶民の味方ですねぇ。
「ひいき」という言葉があります。これは、ファンクラブであり、応援団であり……。
先ほども申し上げましたが、文化活動を支えてくれる粋な方々です。
江戸時代もほとんど終わりにさしかかった安政 2 年、江戸は大きな地震に見舞われます。地震が元
で発生した火災で、焼け野原になってしまうのです。
そうしたつらい時期にこそ、明るい楽しみを届けてくれる芸能や音楽が大切です。
イキにまとめ
江戸の庶民は、それを知っていました。安政の大地震の後、寄席は大復活を遂げていくのですが、
それを支えたのは、庶民でした。安政の大災害以降、鳶や大工の親方などが寄席のオーナーになる
例がグッと増えたのです。
かたや、落語家さんをはじめとする寄席の芸人さんたちは、江戸の頃からいまに至るまで、庶民に
育ててもらい、支えてもらっているという意識を強く持ち続けていますので、今もって、そんなに
高いお金を取ることはしません。
また、特に苦しいときなどにこそ、人々に大いなる笑いを提供しているという自負もありますから、
修行を怠ることもありません。
実に粋な世界ではないかと思います。
その粋な世界は、やはり、生で、直に、ライブで体験するのが一番です。ライブでないと味わえな
い心の幸せってものがあるのです。
そして、もっと幸せに、もっと心豊かになるためには……、芸能にしろ、音楽にしろ、スポーツに
しろ、どんどん応援してください。焉馬さんをはじめ、粋な江戸っ子たちはみんな、困っている人
は助け、才能のある人は応援してきたのですから……。
他の芸事やスポーツもそうですけど、今日は、まずはぴっかりさんの名前を覚えていただき、ごひ
いきになっていただき、お時間とお財布事情が許す限り、観にいっていただけたらと思う次第です。
では、もう間もなく、ぴっかりさんの再登場となります。お楽しみください。
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