ロシア紀行記

ロシア・ウラル紀行
増 山 博 行
8 月、お盆明けの一週間、ロシア共和国のエカテリンブルク(以下、エカテ市と略記す
る)を訪問した。わが国ではなじみの薄い都市だが、シベリア鉄道の中間地点、ウラル山
地の東側山麓に位置する人口 130 万人、ロシアで 5 番目の大都会である。
エカテ市は 18 世紀初頭にウラル地方の豊富な鉱物資源を開発するために建設され、当
時のロシア皇帝の王妃エカテリーナの名前をとって命名されたという。ウラル地方の中心
都市として栄えてきたが、第 2 次世界大戦の際、ソ連の西部から大量の文物・人・研究
所・工場が疎開してきて、研究所と工場の多くは戦後もこの地で続いているという。歴史
上ではロマノフ朝最後の皇帝ニコライ 2 世が流刑され、1918 年に殺害された町として知
られている。
さて、エカテ市に行くことになったのは、RCBJSF-11(以下、シンポと称する)とい
う国際会議で、研究者として最後であろう研究発表を行うためであった。当初、定年後に
海外旅行に一緒に連れて行けとせがんでいた妻は、ウラルにはさしたる見所がないのを感
知すると、さっさとドイツへのパック旅行を申し込み、夫婦別旅行となった。ところで 10
数年前のロシアを旅行した学界の大御所からは、飛行場での荷物事故や飲食物の災難など
を理由に、「モスクワには立ち寄るな」という忠告を受けていた。そのため、日本からの
参加者約 40 名の半数は北京経由でエカテ市に入り、残りの半数はフランクフルトやヘル
シンキ経由でエカテ市に飛び、モスクワ経由は 10 人弱であった。が、結果的にはアエロ
フロート便を使ったモスクワ経由がベストであったと思われる。北京経由では飛行場のベ
ンチで乗り換えまでの一晩を明かしたり、荷物が数日遅れて届くという事故も聞いている。
モスクワからエカテ市への便はアエロフロートとエールフランスの共同運航便で、エカ
テ市到着は午前 2 時半であったが満席。別に機体にトラブルはなかったはずだが、ロシ
ア人団体客?は着地の瞬間に一斉に拍手。飛行場にはシンポの現地実行委員会がマイクロ
バスを用意しており、ホテルまで届けてくれた。
ホテルでベッドに入った時間は日本ではすでに朝なので、3 時間ほどで目覚めた。そこ
で夕方の歓迎パーティまでの時間、市内を徒歩で散策することにした。高層のホテルや立
派な銀行の建物、西欧でよく見る3,4階の商店街、ロシア正教の教会、いかにもロシア
風の高層アパート、そしてログハウスのような古い戸建てが入り混じっていた。近年の経
済発展を反映してか、再開発中の区域も少なくなかった(下図は木造家屋と隣接の再開発
現場)
。
エカテ市の中心部にはダムと称して数
メートルの落差の堤でせき止めた湖があ
り、これから流れ出る河畔および周辺に
石造りの町が造られている。ウラルの鉱
石博物館をはじめ、数々の博物館は 20 あ
まり、また歴史上の人物などの像やモニ
ュメントも多い。わが国であまり知られ
ていないだけで、見所が無いわけではない。(ちなみに、航空券を扱った業者の人はエカ
テリンブルク?どこですか?という反応であった!旅行ガイドブック「地球の歩き方 ロ
シア」では 580 ページのうち、2 ページ余ではあるがちゃんとエカテ市の記述がある。た
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だし、この本を持参していた人にもそのことを知らない者がいたほどであった。)
順不同で、
「見所」をいくつか紹介しよう。
・プロテンカ・・・町が
建設されたとき、水車な
どの動力を供給するため
に造られたダム。現在、
町の中心部にあって湖畔
およびダムから流れ出る
イセチ川の河岸は散策と
憩いの場所となっている。
ダムの堤の上は路面電車
の線路を含めて、片側 4
車線の幹線で、レーニン
通りにつながっている。
歩道部分も幅広くいくつ
かのモニュメントが飾られている。
・1905 年広場・・・サンクトぺテルブルク
の宮殿前で起きた血の日曜日事件を記念し
た広場には、レーニンの像があり、レーニ
ン通りを挟んでエカテ市の市庁舎およびこ
の地方のスヴェルドロフスク州の州政府の
建物が立ち並んでいる。
・血の上の大聖堂・・・ニコライ 2 世と家
族が 1918 年に銃殺された地に、2003 年に
建立されたロシア正教会の聖堂。中は見学
していないが立派な造りである。
・エリツィン像・・・3 年前に亡くなった
ロシア共和国初代大統領エリツィン氏の像
は、レーニン像より一ブロック北のハイア
ットホテルなどが立ち並ぶ広場に立ってい
る。エリツィン氏は実にウラル大学の出身
なのだ。 残念ながら写真はない。
・鉱石博物館・・・ウラルで産出した鉱石
はロシアでは有名である。土産物ショップ
で買えるものから、ただただ眺める限りの
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ものまで(これも写真はない)。
・ウラル大学・・・大学本部前はパリコンミ
ューン広場と命名され、ロシアの革命家ヤー
コフ・スヴェルドロフの像が立つ。
・二大陸の境界碑・・・東経 60 度のウラル
山脈がヨーロッパ大陸とアジア大陸の分水嶺
となっている。エカテ市から西方 16km の幹
線道路沿いにあり、大型トラックはホーンを
鳴らして通り過ぎる。訪問者を巻き込んで、
森の妖精?に扮したご婦人が二大陸をつなぐ
儀式?を演じてくれる。
・粛清犠牲者の追悼碑・・・1930 ∼ 50
年代にかけての粛清で犠牲となった人た
ちの名前が石板に刻まれている。
エカテリンブルクではその評価を後世
に委ねて、歴史上の記録をとどめようと
しているとの印象を受けた。
エカテ市は東経 60 度、北緯 57
度にあり、ユーラシア大陸の真
ん中に位置している。平均高度
が千mというウラル山脈は、エ
カテ市付近では山と言うよりな
だらかな丘の連なりで、市中心
部の標高は 240m にすぎない。
カラフトの北端ほどの緯度なの
で、8 月の平均気温は東京より 15
℃低い(明け方は 10 ℃をきる。
日中でも 20 ℃)。陽が当たると
上着では暑いほどでだが、乾燥
しているので汗も出ない。モス
クワとほぼ同じ緯度だが、冬の雪は少ないのでエカテ市の方が暮らしやすいと地元の人は
言っていた。
ところで、エカテ市は経度で言うと日本と時差 5 時間であるが、ロシア政府の方針で 3
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時間差の時計を使っている。そのため日没は 22 時前になっている一方で、日の出は6時
過ぎと緯度の割には遅い。我が国から行く場合、時差は苦にならない(帰国すると時差ぼ
け)。ちなみに、モスクワとの時差も航空機の所要時間も2時間なので、東行きは4時間、
西行きは0時間の時刻表となっている。
今回のシンポは 11 回目で、私は 1980 年の第 2 回目以降、7 回ほど参加している。い
つの間にか我国からの参加者の最高齢グループになってしまったようで、日本側チェアマ
ンに担ぎ上げられ、開会式では英語の挨拶をさせられるという冷や汗をかいてしまった。
シンポは朝9時の全体講演で始まり、夕方のポスター発表は 20 時半に終わるという勤勉
なスケジュール。途中に午前・午後のお茶の時間にはパンを囓りコーヒーを飲みながら議
論する。昼食時間が 13 時半から 15 時というのは太陽の南中時間に合致している。
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5日間のシンポの日程が終了し、帰路はモスクワに一泊した。空港を除けばモスクワと
いえども町の中ではキリル文字(通称、ロシア文字)での表記だけ。初めてのロシア旅行で
ガイドなしに地下鉄でホテルに向かおうとしたのは、後になって考えると相当の冒険であ
った。実際は、シンポで知り合ったモスクワ大学の若手研究者が切符の買い方から地下鉄
の乗り換えまで手取り足取りで教えてくれた。感謝の限り。
アエロフロート機が使っているのはモスクワ北西部のシュレメチェヴォ空港であり、地
下鉄に接続するバラルーシ駅までアエロエクスプレスという直通電車で 35 分。そこから
乗り換え 1 回の3駅ほどで予約していたホテルの前に着くことが出来た。地下鉄は何処
まで行っても均一料金であり、色と番号で区別されているので、キリル文字のアルファベ
ットさえ認識できれば、かなり自由に行動できる。他方、空港には白タクの客引きがしつ
こいほどたむろしている。「ニホンジン、ヤポーネ」と声を掛けられても知らん顔を決め
る。5 年前は、ロシア人でさえモスクワの飛行場周辺は怖かったと言うが、新しいターミ
ナルの運用とアエロエクスプレスの運行で大幅に改善されたという。ついでに一言、ロシ
アに 1 日でも滞在するには、事前にビザが必須である。東京の大使館でビザをパスポー
トに貼り付けてもらえば、入出国手続きも、飛行機搭乗券の発行、ホテルのチェックイン
と在留手続きも、パスポートのみで瞬時に終わる。まさに旅券である。
ロシアでの7日目は帰国便
までの時間を市内観光に費や
した。とはいえ、見て歩けた
のはクレムリンとそれを取り
巻く市中心部のごく一部であ
った。団体観光客は西欧諸国、
インド、中国、韓国の人たち
が多く、日本人は少数。
以下に、赤の広場とクレム
リンおよび周辺の写真をご披
露しよう。最初は地下鉄駅か
ら出て、南のクレムリン方面に歩いていく途中、劇場通りの建物の壁に飾られていたブロ
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ンズのリリーフである。先を急いでいたので彫られた説明は読んでいないが、図柄からは
人民蜂起を記念したものと思われる。
その先の広場の西側がボリショイ劇場で、劇場広場と
東側の革命広場が通りを挟んである。そして革命広場の
真ん中にはマルクスの石像が立っていた。広場は綺麗に
手入れされている。
マルクスの像の東側には赤の広場への入り口であるヴ
ァスクレンスキー門(下の写真の右側の 2 連の塔)が 1995
年に再建されていた。これをくぐって赤の広場の石畳に
足を踏み入れる。早朝(土曜日の 9 時)から観光客が多
い(昼過ぎにはごった返すほど)。広場の中では軍楽隊マ
ーチの国際大会か何かの観覧席を組み立てている最中だ
った。さらに騎兵隊練習場があったりで、ほとんどがふ
さがれて、工事中のレーニン廟には近づけなかった。赤
の広場から入ってきたヴァスクレンスキー門を振り返る
と、赤煉瓦造りの歴史
博物館(および写真に
は写ってないが向かい
の聖堂)が綺麗である。
さて、いよいよクレ
ムリンへ入るのだが、
入り口付近が工事中で、
実に分かりづらかった。
しかし、切符を買う行
列を見つけて並ぶ。切
符売り場は 10 時から開
くが、30 分位前から行列ができる。昼休みと午後のティータイムになると、どんなに人
が 並 ん で い よう と 、 切
符 売 り 場 は 閉る の で 注
意 し な い と いけ な い 。
ロ シ ア 語 が 読め な い と
苦 労 が 絶 え ない 。 ク レ
ム リ ン の ゲ ート も ロ シ
ア で お な じ みの セ キ ュ
リ テ ィ チ ェ ック を 受 け
る 。 入 場 者 数は 自 ず と
制限される仕組み。
ク レ ム リ ンの 中 で 、
観 光 客 が 立 ち入 れ る の
は 中 央 部 の 聖堂 群 の 区
域 に 限 ら れ てい る 。 縄
張 り は な い が、 歩 道 を
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はみ出すと警官がすぐに笛を吹き戻るように促す。銃剣を持った衛兵も立っている。
写真中央のイワン大帝の鐘楼の前に、鐘の大帝が鎮座している。聖堂から少し離れた公
園から撮影したが、手前の広場にペイントされた横断歩道領域をはみ出すことは許されな
い。公園には人数は少なかったが、露店が一つあった。観光客の流れから外れて儲かるの
かなと思ったが、今にして思えば、監視役なのだろう。
ガイドブックには何の記載もなかったが、正午前後の 30 分間、聖堂広場では観光客の
流れがせき止められて、軍楽隊と騎兵隊、衛兵隊のデモンストレーションが行われた。こ
れからのクレムリン名物にするのだろうか。
2 時間ほどでクレムリ
ン見物を終え、西側の
緑地帯の軽食店で昼食。
マクドナルドの隣のセ
ルフサービスの店で、
安かろうと思うも、東
京の観光名所での食事
代と変わらなかった。
食後、クレムリンの
城壁の外を一周したが、
さすがに体力を消耗、
帰国したら風邪をひい
ていた。クレムリンの
東側、赤の広場の南端
には、カラフルなボク
ロフスキー聖堂が目を
楽しませてくれる。周
囲は観光客で身動きで
きぬほど。
クレムリンの南はモ
スクワ川が流れ、観光
遊覧船が行き来してい
た。モスクワ川河畔か
ら見ると、自然の要衝
の地に築かれているこ
とが分かる。赤煉瓦の
城壁(再建されてそう
年月は経っていない?)
と大クレムリン宮殿(非公開)の白亜のコントラストが目にまばゆい。
(この記事はモノクロ印刷されるので、カラー写真版は次の URL に掲載
URL://web.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~mashi/news/rcbjsf11/ )
ロシア帝国の崩壊、レーニンの革命、スターリンの時代と第 2 次大戦、戦後の米ソ冷
戦、そしてソビエトの崩壊と共和国体制への移行と、ロシアは激動の 1 世紀を経験して
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いる。旅行ガイドブックは「かって、多くの日本人にとって“モスクワ”は遠い存在だっ
た。・・・・ソ連崩壊から約 20 年、モスクワは変わった。
・・・」と言う記述で書き出し
ている。かように近くて遠い国がロシアと言える。また、一方で、我が国はアメリカに次
ぐ経済大国と豪語していた時代もあった。2 大国の世界支配の構図は変わっている。EC
の台頭、中国、インド、ブラジルという新手の出現に目を奪われがちである。
しかし、モスクワへの飛行機から見えるのは、実に広大な森林であり、その下には豊富
な資源が眠っている。間違いなく、ロシアは今後、あらたな経済大国への道を歩むことを
予感し、帰国の途についた。
附記
・為替相場
ロシアのルーブルの価値は為替相場上 100 ルーブル 250 円である。しかし、成田で 100
ルーブル買うのには 300 円かかる。使い残したルーブルを円に戻すと、100 ルーブルは 200
円にしかならない。大損を被る。ちなみに、8 月 15 日の時点では 1 米ドル 81.6 円で買え、
売値は 76.2 円;1 ユーロは 100.8 円と 93.2 円と手数料8%程度である。
ロシアに入国して円をルーブルに替えることは出来ない。成田で替えるか、米ドルある
いはユーロを持って行って、現地で両替することになる。その際には売買差額はそんなに
大きくはない。単なる手数料程度。(モスクワの国際線のショップではユーロがそのまま
使える。)このルーブル価格の差額の理由は定かに知らぬが、ロシア旅行や交易のネック
であり、ロシアを遠い国にしているようにも思われる。
・ロシアのセキュリティチェック
チェチェン紛争など、セキュリティ強化の必要があったのだろう。実に厳しい。アエロ
エクスプレスに乗り込むとき、空港のターミナルビルにはいるとき、そして搭乗待合室に
入るときと 3 回のチェックを経て飛行機の乗りこむことになる。しかも、感度がやたら
と敏感で、日本では引っかからない少額のコインや腕時計、ベルトの金具、女性の装着品
でも反応する。ロシア語で指示されても皆目分からず、手振りや顔の表情で意思疎通を試
みるのみ。(空港の航空会社の管理下は英語が併記されていても、旅券審査や税関など国
の管理場所ではロシア語のみ。)
なお、担当職員には大柄な女性が多い。私の前にチェックを受けた青年が引っかかった。
なんと、ポケットから出したコインを別窓に差し出さずに手に握りしめていた。理由が分
かると検査官は大笑いして通してくれる。日本みたいに徹頭徹尾、杓子定規というわけで
もないところが、また面白い。
・モスクワの空港
アエロフロート便の搭乗口は頻繁に変更になる。
インフォーメーションで3番と聞いて、
搭乗ゲートに入って、電光掲示板をみると、搭乗口表示が空白。暫くすると、12-17 番と
表示。そして搭乗間際に 12 番と確定した(預け荷物不明の遠因?)。国内線でも搭乗開始
予定時間に余裕をもって臨むことが不可欠。
(2012 年3月定年退職、元理学部教員)
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