学 位 記 番 号 博 美 第 288 号 学位授与年月日

ウス ク
氏
名
ボ
カオル
薄 久保
香
学 位 の 種 類
博
士
学 位 記 番 号
博
美
学位授与年月日
平 成 22年 3 月 25日
学位論文等題目
(美
術)
第 288 号
〈 作 品 〉 unidentified garden
〈 論 文 〉 “ unidentified land 未 詳 の 地 ” へ の 旅 行 計 画 - 分 離 と 結 合 が 誘
う絵画の可能性-
論文等審査委員
(主査)
(美術学部)
絹
谷
幸
二
(論文第1副査)
東京芸術大学
〃
教
〃 授
(
〃
)
越
川
倫
明
(作品第1副査)
〃
〃 (
〃
)
坂
田
哲
也
(副査)
〃
〃
(
〃
)
佐
藤
道
信
( 〃 )
〃
准教授
(
〃
)
齋
藤
( 〃 )
豊田市立美術館
キュレイター
天
野
潤
一
夫
(論文内容の要旨)
20世 紀 以 降 、 現 在 に 至 る 美 術 に お い て 、 そ の 手 法 や 素 材 は 劇 的 か つ 多 様 な 変 化 を 見 せ 、 さ ら に 互 い に
融合と進化を遂げ続けている。そのため、それら全てに的確な命名や定義付けをする事は、非常に困難
を要する。例えば、コラージュもその一つだろう。既成の印刷物、布やオブジェを切り離し、再構成す
る事によって、物質的構造と、意味の構造を変革させるコラージュが、西洋美術史における、一ジャン
ル と し て 確 立 さ れ た の は 20世 紀 に な っ て か ら で あ る 。 そ し て 、 時 代 と そ の 解 釈 に お い て モ ン タ ー ジ ュ 、
アッサンブラージュといったように名前も変化を遂げている。しかし、これらの定義もまた非常に曖昧
である。
私の作品の制作過程の主軸として、このコラージュ的手法は非常に重要な役割を果たしている。しか
し、私自身、このコラージュという言葉が、実際に自分の行っている行為に対して的確であるのかにつ
いて懐疑的であり、不明瞭な部分がある。
私の作品は、写真、コラージュ、絵画といった、様々なジャンルが宿命的な関係性で結び付いて出来
ている。この手段は、美術史的な観点だけを踏まえて制作に取り入れたものではなく、ごく自然発生的
にその行為に関わっていたという事実と、現代におけるツールの劇的な進化が背後で関係している。ま
た、コラージュとは、完成された物の分解と、未完の物の結合という、両極行為の間に存在する境界地
点である。
私はこの事に気がついた時、それまで顕在的に意識していなかった重要なもう一つの主題を発見する
事になった。それは、意識と無意識、ミクロとマクロ、限界と無限といった、対になる事柄だ。私が制
作 を 試 み 、そ し て 生 き る 上 で は 、そ れ ら 一 対 の 相 反 す る 事 柄 へ の 意 識 を 常 に 向 け て き た よ う に 思 わ れ る 。
本論文は、自身のこの疑問に迫るべく、コラージュ及びそれに付随する概念の発祥を辿りながら、自
身が探ろうと試みる問題を明らかにするものであり、さらにその先にある絵画を制作するという行為と
の関係性について追求するものである。以下に、各章の概要を述べる。
第1章
デペイズマン-結合の始まりとしての分離点
第1章では、デペイズマンをキーワードに、シュルレアリスム(超現実主義)を中心にその歴史を振
り 返 り 、そ の 意 味 を 紐 解 い て ゆ く 。私 の 作 品 に は 偶 然 の 事 実 と し て デ ペ イ ズ マ ン の 手 法 が 含 ま れ て い る 。
「デペイズマン」
( dépaysement)と は「 デ( dé)」は 分 離 、剥 奪 を 表 す 接 頭 語 で あ り 、
「 ペ イ( pays)」と
は「国、故郷」を指示している。つまり本来の国から引き離して別の国に持っていくというのが元の意
味になり、本来あるべき場所から物やイメージを切断し、別の場所に配置すること、既成概念の層を組
み 替 え 、さ ら に そ こ か ら 生 じ る 驚 異 を 指 し て い る 。
「 デ ペ イ ズ マ ン 」は 、自 分 の 知 識 、認 識 に 本 当 は 確 実
性が存在せずに、認識次第によって、事物の思いもよらぬ側面がリアリティを獲得する事を私達に示し
て い る 。そ し て 、得 ら れ た 結 果 に は「 変 」
「 驚 異 」と 言 っ た 表 面 的 事 象 以 上 に 、
「認識」
「 真 実 」と は 何 か
という、人間の普遍的問いと回答の端緒が隠されているのだ。
第2章
アンフラマンス-体感される次元の通路
デペイズマンは転置という方法によって、一つの結合と分離の形を示している。それは何か大切な事
を暗示しているようであるが、それはまだ明らかではない。思考の転換においてデペイズマンは重要な
役割を果たしている。本章ではこの論文の結合と分離においてもう一つの重要な手掛かりとなるマルセ
ル・デ ュ シ ャ ン の 提 唱 し た「 ア ン フ ラ マ ン ス 」と い う 概 念 を 中 心 に 、自 身 の モ チ ー フ 制 作 、コ ラ ー ジ ュ 、
写真、絵画という作品に至るまでの行動と、体感の意味性について論考するものである。そこには今世
紀におけるツールの劇的進化が関係していた。思考と体感の境界を溶解させるデジタルツールのもたら
すものは何であるのかを、イメージと身体性の観点から論考する。
第3章
2極と1対-極薄の到達点
私にとって、
「 絵 画 」と は 客 観 的 視 点 と 主 観 行 為 の 集 積 で あ り 、思 考 と 身 体 と の 繋 ぎ 目 で あ る 。私 の 絵
画は、視覚的イメージと、膨大なまでの身体行為の結果から生み出されるものである。本章では、イメ
ージの中に存在している意識と無意識の奇妙な関係性を探ると共に、イメージを超えて絵画の中に存在
している視覚出来ない力について、私自身の解答に迫りたい。絵を描くということは図像の向こう側の
世界に足を踏み入れる行為なのである。
終
章
なぜ、日常的世界の中に「未詳の地」を見出す必要性があるのだろう。それは、結果として、自分の
意識を探る旅でもある。人間は本質的に「知る」事を止めずにはいられない生き物である。世界の謎を
一つ解くことによって、完全な世界への到達点を目指すが、一つの謎を解く事は、新しい謎を手に入れ
る 事 で も あ る 。 今 、 私 が 自 分 の 意 識 や 、 真 実 に つ い て の 答 え を 追 求 せ ず に い ら れ な い の は 、 21世 紀 の 日
本の中で、私がとてつもない「途中の場」を生きているからだろう。デジタル化された情報と、大量生
産された物が氾濫する日本の環境で生きる私達にとって、真実を見極める事は容易ではない。しかし、
だからこそ私はそれを求めずにはいられないのだ。
「 ビ ロ ー ド の ズ ボ ン・・・( 歩 い て い る と き の )二 本 の 脚 の こ す れ 合 い で で き る 軽 い 口 笛 の よ う な 音
は 、 音 が 示 す ア ン フ ラ マ ン ス 分 離 で あ る 」( 聴 覚 的 ア ン フ ラ マ ン ス )。 あ る い は 、「( ひ じ ょ う に 近 い と
ころでの)銃の発射音と標的上の弾痕の出現の間にアンフラマンスな分離」がある(聴覚的・視覚的
ア ン フ ラ マ ン ス )。ア フ ラ マ ン ス と は 、あ る も の と あ る も の と が 分 離 す る と き 見 い だ さ れ る 。あ る い は 、
「( ひ と が 立 っ た ば か り の ) 座 席 の ぬ く も り は ア ン フ ラ マ ン ス で あ る 」( 視 覚 的 ・ 触 覚 的 ア ン フ ラ マ ン
ス )。
「 ひ と が 眼 差 し に 提 供 す る も の〔 い か な る 分 野 で あ れ 眼 差 し に 差 し 出 す た め の あ ら ゆ る 実 行 〕と 、
(ちらっと見てすぐ忘れてしまう)大衆の冷ややかな眼差しとの交換。ほとんどの場合、この交換は
アンフラマンスな分離の価値をもつ(つまり、あるものが賞賛され、注視されればされるほど、アン
フ ラ マ ン ス な 分 離 は 少 な く な る と い う こ と で あ る )」。 凝 視 す る と き 、 ア ン フ ラ マ ン ス は 逃 れ 去 る 。
マ ル セ ル・デ ュ シ ャ ン 東 野 芳 明 + 多 木 浩 二「 ア ン フ ラ マ ン ス 解 読 『
」ユリイカ
マ ル セ ル・デ ュ シ ャ ン 』、
青 土 社 、 1983年 10月 号 よ り
(博士論文審査結果の要旨)
本論文は筆者が自己の創作の背景をなす思想を語ったものである。筆者の作品の代表的な手法は、写
真を利用したデジタル画像によるコラージュを構想のベースとしつつ、現実と非現実、意識と無意識の
境 界 領 域 を 喚 起 さ せ る 独 特 な 雰 囲 気 の イ メ ー ジ を 、大 型 の 画 面 に オ ー ソ ド ッ ク ス な 絵 画 技 法 で 再 現 す る 、
というものである。筆者はこのような手法を「ごく自然発生的に」選択してきた、と述べるが、本論文
は 自 己 の イ メ ー ジ 世 界 を あ え て 20世 紀 に お け る い く つ か の 芸 術 上 の 傾 向 と 結 び つ け る と と も に 、 そ の よ
うな手法が現代的なコンテクストのなかでもちうる意味について論じたものととらえることができる。
第一章では、シュルレアリスム絵画のキーワードである「デペイズマン」の概念をとりあげ、対象を
日常的・常識的な文脈から「分離」し、意想外なかたちで「結合」する手法について論じられる。続く
第 二 章 で は 、マ ル セ ル・デ ュ シ ャ ン が 言 及 し た「 ア ン フ ラ マ ン ス 」、す な わ ち 存 在 が ひ と つ の 次 元 か ら 他
の次元に移行する分離の瞬間に生ずるつかのまの感覚がとりあげられ、それが筆者の制作における本質
的要素であることを論じている。筆者はこれらのキーワードによって、自己の制作上の感覚に位置づけ
を与えるとともに、これらの概念が現代の劇的に進化したデジタル・ツールの環境においてもちうる意
味の拡大について考察を広げている。
第 三 章 に お い て は 、も っ ぱ ら 自 己 の 制 作 を 軸 と し つ つ 、
「 意 識 と 無 意 識 」を キ ー ワ ー ド に 、自 分 が 用 い
る 典 型 的 な モ チ ー フ (「 海 」 や 「 子 供 」) に つ い て 考 察 を 試 み て い る 。 こ れ ら の モ チ ー フ は 、 筆 者 の 思 考
の 中 心 を な す 「 分 離 」 と 「 結 合 」、「 境 界 領 域 」 を 体 現 す る モ チ ー フ と し て 位 置 づ け ら れ 、 最 終 的 に 、 そ
れらが喚起するイメージが集合的無意識の概念と結び付けられている。
本 論 文 の 第 一 の 成 果 は 、筆 者 が 自 己 の 制 作 の あ り 方 を 内 省 し 、
「 未 詳 の 地 」と い う 題 名 に 表 現 さ れ る 通
り容易にはとらえ難いあいまいな境界上のイメージ世界を、シュルレアリスム系の造形思考の系譜の上
に位置づけ、作品に内在する認識論的な問いかけの性質をあえて言語で示したことにある。第二に、こ
のような問題提起を現代のデジタル環境のなかへと拡大・敷衍し、そこで予感される無意識世界の表現
の可能性について論じている点が注目されるであろう。確かにこの後者の視点は、非常に大きく不確定
な問題をはらむがゆえに、筆者の論述はいまだ強く一貫した方向性と説得性をもつにはいたっていない
印象を受けざるを得ない。とはいえ、筆者が制作を通して取り組んでいるアクチュアルな問題を、可能
な 限 り 言 語 化 し て 表 現 し よ う と し た 本 論 文 の 試 み は 、 高 い 評 価 に 値 す る で あ ろ う 。 そ れ は 、 20世 紀 の シ
ュルレアリスムの遺産が、現代の新たな状況のなかでもちうる展開の可能性を示す事例としても十分に
興味深いものがある。
(作品審査結果の要旨)
薄久保 香の作品は清明な明るさの中に生長する幼児の生命力とある種の不安や危惧がしなやかな感
性のもと、優美に描かれている。何気ない日常の断片で見る身体の不思議な存在や、大自然の中に漂着
する紙飛行機と、その海辺でたたずむラブラドール犬などを、たぐいまれな描写力で楽々と描き込むそ
の筆力と、魅力あふれる詩的な感性は、薄久保独自の空間を創り出してあまりあるものがある。
現代絵画が共有する「軽み」の中に現代人であれば誰しもが求める「癒し」の波動が見る者全てをつ
つみ込み、生きて存在する喜びが画中の隅々を支配している。
彼 女 は 、東 京 藝 術 大 学 後 期 課 程 絵 画 専 攻 の 学 生 と し て 、早 く か ら 社 会 と 接 点 を 持 ち 、TARO NASUギ ャ ラ
リ ー を 中 心 に 個 展 、グ ル ー プ 展 を 行 い 世 界 的 に も 熱 い 注 目 を 受 け て い る 大 変 優 秀 な 作 家 で も あ る 。東 京 、
ソウル、台北、シカゴ、ベルリンなど世界各地で活躍し、将来性豊かな発表活動を行っている。
本年1月に油画科の絵画領域におけるそれぞれの専門分野の審査委員によって特に高い評価を受け、
課程博士に相当する作品であるとの結論が出た。
(総合審査結果の要旨)
薄 久 保 香 は 、 東 京 藝 術 大 学 大 学 院 美 術 研 究 科 博 士 後 期 課 程 絵 画 専 攻 の 学 生 と し て 「 unidentified
garden」を 大 き な テ ー マ と し て 制 作 を 行 っ て い る 。博 士 課 程 の 頃 よ り TARO NASUギ ャ ラ リ ー で の 個 展 発 表
を 軸 に 、「 up lgist」 Wohnmaschine(ベ ル リ ン )や 2008年 に は 「 NEXT 2008」( ア ー ト フ ェ ア / TARO NASUブ
ー ス で の 個 展 ( シ カ ゴ )) と 内 外 に 渡 っ て 企 画 展 に も 参 加 し 、 多 彩 な 領 域 で 国 際 的 に 活 動 し て い る 。
薄久保の作品は、しなやかな感性に色どられていながら、絵画の骨格に強さが秘められ、たぐいまれ
な描写力が見る者を彼女の詩的な領域に引き込みとらえてはなさない。
作品画中にある薄久保の世界は、現代人であれば誰もが求める「癒し」の安らぎと、一抹の「不安」
が内在してその両者が「軽み」の中で絶妙のハーモニーを奏でていて美しい。
論 文 に お い て は デ ジ タ ル と 身 体 性 と い う 現 代 を 捉 え た 問 題 を 、 主 観 的 な 見 解 に 留 め る 事 無 く 、 20世 紀
の美術史と哲学と共に非常に優れた考察を述べた。
特にマルセル・デュシャンの「アンフラマンス」という長きに渡り解釈が困難とされる概念について
果敢に考察がなされている点は高く評価したい。
また、彼女の作品は、構造的な問題を主軸としながらも一点の絵画が持つ「唯一」の存在感を証明す
るかのような強さをも作品に宿しているといえる。
以 上 、薄 久 保 香 は 論 文 と 作 品 に よ り 、時 代 の 先 駆 と な る 思 想 と 表 現 を 論 理 的 か つ 、豊 か な 感 性 に お い
て実証している。よって油画科の絵画領域におけるそれぞれの専門分野の審査委員と論文審査委員全員
によって特に高い評価を受け、数回に渡る論議の上、厳正な判断のもとに、本論文と作品は課程博士の
学位に相当するものであるとして、全員一致の上、合格と判断することにした。