シロイユキ・第1話 「それは白い雪の花のように」(小雪視点)

シロイユキ・第1話
「それは白い雪の花のように」(小雪視点)
1.1200年前・・・
「はぁっ・・・はぁっ・・・はぁっ・・・!!」
まるで花のように美しい、可憐な白い雪が優しく降り注ぐ冬空の下で、美しく神々しい輝きを放つ
《剣》を杖代わりにしながら、天照はとても苦しそうに息を切らしていた。
全身傷だらけなのだが特に凍傷が一番酷く、服のあちこちが凍結してしまっていた。
彼女の目の前で封じの結晶の中に閉じ込められているのは、この日本を我が物にしようと企んで
いた氷の女神・セラ。
彼女の野望をいち早く察知した天照は、人間たちをセラの魔の手から守る為に、《剣》を手にセ
ラを相手に戦いを挑み、壮絶な死闘の果てにどうにかセラを打ち倒す事に成功した。
だが天照と《剣》の力を持ってしてもセラに完全に止めを刺す事が出来ず、こうして封印するだけ
で精一杯だったのだ。
「残念だったな・・・セラ・・・私は太陽を司る女神だぞ・・・いくら甕星(主)に匹敵する力を持つ君
でも・・・燃え盛る太陽を凍らせる事など・・・出来るはずが・・・無いだろう・・・」
「天照様!!ご無事で!!」
そんな天照の下に豊受が部下たちを引き連れ、とても心配そうな表情で駆けつけてきた。
先程までセラが召喚した無数の魔物たちを相手に、天照の指示で人間たちを守る為に、部下を
率いて戦っていたのだ。
全身傷だらけの天照に、豊受は慌てて治癒術を施す。
彼女が生み出した金色の光が天照の中に溶けていき、傷や凍傷を瞬く間に治していく。 だが壮絶な戦いによる疲労までは癒す事は出来ず、天照はとても疲れ切った表情で豊受の豊
満な胸に顔をうずめ、彼女の身体に身を任せた。
そんな天照の顔を、豊受はぎゅっと抱き締めている。
「トヨ・・・村の皆は無事かい?」
「はい、セラが生み出した魔物なら私たちで全滅させました。負傷者は32名出ましたが、天照様
の適切な作戦のお陰で死者は誰も出ていません。私たちの完全勝利です。」
「そうか・・・皆が無事でよかった・・・」
「それよりも天照様!!皆の心配よりも、まずはご自分の身の心配をなさって下さい!!」
先程まで自分の身体が全身傷だらけになっていたというのに、そんな状況下においても天照は
自分の事よりも先に、村人の身の安全を案じていたのだ。
そんな天照の優しさに、豊受は思わず切なくなってしまう。
彼女はこれからも人間たちを守る為に、身を削ってでも戦い続けるのだろう。 だが、それによって天照が命を落とす事になってしまったら・・・それが豊受には怖いのだ。
「・・・大丈夫だよ、トヨ。私は君の前から決していなくなったりしないさ。」
「天照様・・・!!」
そんな豊受の心情を察したのか、天照は豊受の身体をぎゅっと抱き締めた。
大切な人の温もりと優しさが、天照の心を安心させる。
互いの存在を確かめ合うように抱き合う2人を、部下たちが神妙な表情で見つめていた。
『ゆ・・・許さんぞ天照・・・よくもわらわをこのような目に遭わせてくれたな・・・!!』
その時、封じの結晶の中から禍々しく響いたのは、セラの天照への強い怒りと憎しみ。
天照はよろめきながらも立ち上がり、部下たちを下がらせて《剣》を構える。
だが天照にはもう戦うだけの力は残されておらず、《剣》の力で結晶を維持するだけで精一杯の
ようだった。
『そなたさえいなければ・・・わらわは今頃はこの国を我が物にしていたというのに・・・そなたさえ
いなければ・・・!!』
「全く、本当にしつこい奴だな君は・・・その執念だけはマジで敬意に値するよ。」
『この程度の結界など、わらわの力ですぐに破ってくれようぞ・・・!!』
結晶の中に閉じ込められても尚、禍々しい力を情け容赦なく天照たちにぶつけてくるセラ。
今は《剣》の力でセラを抑えてはいるものの、天照の力では所詮は一時しのぎでしかない。このま
まではセラを封じている結晶は、いずれ粉々になってしまうだろう。
そうなる前に、より強力な封じの秘術によって、セラを完全に封印しなければならない。
そう・・・天照が施している付け焼き刃の封印とは違う・・・触媒として生贄が必要な程の、永続的
な効力を発揮する強力な封じの秘術によって。 「このままでは結界が破られる・・・一体どうすれば・・・!!」
「ならば私がオハシラサマとなって、槐の封印術によってお母様を封じましょう。」
「な・・・雪花!?」
そこへ天照の下に現れたのは、セラの一人娘である白野雪花(しらの・せつか)。
とても穏やかな、覚悟を決めた表情で、雪花はセラが封じられている結晶の前に歩み寄る。
その雪花の言葉を聞いた天照が、よろめきながらも慌てて雪花の前に立ちはだかった。
天照は100年前に、同じ光景をその目で目撃しているのだ。
あんな悲しい思いは、もう二度と繰り返したくなかったというのに。 「雪花!!馬鹿な真似はやめろ!!ハシラになるというのがどういう事か、君は本当に分かって
いるのか!?」
「分かっています。肉体を捨てて魂だけの存在となり、槐の木と同化してお母様を封じる要として、
永劫の時を生きる事になるのでしょう?」
「君がそんな重荷を背負う必要は無いだろう!?君には何の罪も無いし、何よりもセラは君を捨
てた最低な母親じゃないか!!それを・・・!!」
「それに天照様・・・他に方法がありますか?」
「・・・っ!?」
雪花の言葉を聞いて、天照は言葉を失ってしまった。
天照はセラとの戦いで受けたダメージが完全に癒えておらず、かと言って豊受の戦闘能力はセ
ラの足元にも及ばない。それに天照の力ではこれ以上セラを抑えておく事は出来ないのだ。
セラの魔の手から人々を確実に守る為には、もう雪花がオハシラサマになってセラを封じ、その
力を少しずつ削って安らかな死を与える事しか方法が無いのだ。
誰かを犠牲にしての勝利など・・・そんな物は天照には耐えられないというのに。
「それにこの人は、たった1人の私の母親なんです。どんなに最低な人でも、私を産んで下さっ
た私の母親なんです。」
「雪花・・・しかし・・・!!」
「だから天照様にお母様を殺される位なら、せめて私がこの手でお母様に引導を渡します。どれ
だけ悠久の時を掛けてでも、私は必ずお母様に安らかな死を与えます。」
雪花がとても愛しそうに結晶を抱きかかえた途端、彼女の足元で魔方陣が展開され、巨大な槐
の木が2人の目の前に現れた。
そしてセラを封じていた結晶が雪花の秘術によって破壊され、セラを抱き締めた雪花は槐の木
の中に飲み込まれていく。
「ぬぐああああああ!!おのれ雪花ぁ!!わらわを主と同じ目に遭わすと申すかぁっ!?ふざけ
るなぁっ!!」
「天照様、豊受様・・・どうか私の娘を・・・氷麗(つらら)の事をよろしくお願いします。産まれたば
かりのあの子の事は、私の唯一の心残りですが・・・それでも先の無い私の為に、あの子の未来を
潰してしまうわけにはいきませんから。」
全てを悟り切ったような雪花の悲しい笑顔を見て、天照は悲しみの表情を雪花に見せた。
100年前のあの時と・・・主が小角に敗北し、カグヤによって封じられたあの時と同じ光景が、今も
また繰り広げられようとしているのだ。
「だったら雪花!!私とトヨがハシラに・・・!!」
「いいえ、それは駄目です。天照様は豊受様と共にこれからも人々を導き、守っていかなければ
ならないでしょう?」
「だからと言って、何で君が犠牲になる必要があるんだぁっ!?」
「これは犠牲ではありません。私自身が望んで私自身の意思で決めた事ですし、それに私は消
えてしまうわけじゃない・・・単に在り方が変わるだけであって、そしてこれからもお母様と共に在り
続けるだけの事ですから。」
「雪花ぁっ!!」
「私はずっと、皆さんの事を見守っていますから・・・だから天照様、そんなに悲しそうな顔をしな
いで下さい・・・貴方は天から人々を照らす、誇り高き太陽ではないですか・・・。」 それだけ言い残し、雪花の声とセラの絶叫は聞こえなくなってしまった。
雪花とセラが、完全に槐の木の中に飲み込まれてしまったのだ。 (氷麗・・・さようなら・・・)
「くそぉっ!!」 その一部始終を目撃した天照は、とても悔しそうに地面に右拳を叩き付けた。
慌てて豊受が、そんな天照を戒めるようにぎゅっと抱き締める。
「何て事だ・・・!!これでは甕星やカグヤの時と同じじゃないか!!くそおっ!!」
「天照様・・・!!」
「カグヤ・・・朱雀・・・そして雪花・・・私はまた、大切な人を守る事が出来なかったのか・・・!!」
涙を流しながら、天照は豊受の身体をぎゅっと抱き締めた。
また同じ事を繰り返してしまった。またしても止める事が出来なかった。
自分の力が足りなかったばかりに、また大切な人を守る事が出来なかった・・・それが天照には何
よりも悔しいのだ。
「何が誇り高き太陽だ!?何が真の《剣》の正当継承者だ!?私はこんなにも無力で脆弱な存
在でしかないというのにぃっ!!」
先程までの激しい戦いがまるで嘘だったかのように、白い花のような可憐な雪が、天照を慰める
かのように静かに降り注いでいる。
そんな天照の下にセラの魔の手から救われた村人たちが駆けつけ、盛大に天照に感謝と賞賛
の声を浴びせた。
天照様がセラ様を倒して下さった。
天照様のお陰で俺たちは救われた。
天照様はわしらの英雄じゃ。
ありがとうございます。天照様。
今夜は宴だ。酒と馳走を用意しろ。
村人たちの嘘偽りの無い、心からの天照への感謝の声・・・だが天照はそれらの言葉を聞く度に、
胸が締め付けられるような気持ちで一杯になってしまっていた。
私はそんなに大層な存在じゃないんだと。たった1人の少女さえも守る事が出来なかった、最低
な女神なのだと。
その自責の念が、情け容赦なく天照の心を痛めつける。
涙を流しながら豊受の身体にしがみつく天照を、槐の木が優しく包み込むように見守っていたの
だった・・・。
2.そして、現代
「・・・と、言うわけで、天照大神(あまてらす・おおみかみ)様は豊受姫(とようけびめ)様と共に、
霊剣《天叢雲剣》(あまのむらくも)の力によって、この日本を支配しようとしていた邪神セラを見事
にぶち殺したのでした。めでたしめでたし。」
とても清々しい4月の青空の下、青城女学院の1年C組の教室内・・・このクラスの担任でもある桂
がチョークと参考書を手に、とても穏やかな笑顔で古典の授業を行っていた。
青城女子大学で無事に教育職員の資格を取り、卒業してからの研修期間を含めて2年目となる
桂の教師生活・・・まだまだ新米教師としてのキャリアしか無いのだが、それでも一生懸命ひたむき
に頑張っている桂は、毎日がとても充実していた。
本来なら今年は、当初はこのクラスの副担任を務める予定だったのだが、担任を務める予定だっ
た葵先生が結婚して一時産休する事になったので、急遽桂が担任を務める事になったのだ。
とても優しくて穏やかな性格をしていて、しかも剣道部の顧問で相当な剣道の実力者でもある桂
は、生徒たちから心から慕われている。
キーンコーンカーンコーン。
そうこうしているうちに、あっという間に授業時間が過ぎてしまったようだ。
生徒たちはう~んと背伸びをして、とてもリラックスした表情で雑談を始める。
「は~い、それじゃあこのまま掃除をして、それからHRに入るよ~。」
「う~ん、やっと退屈な授業が終わったわ~。」
「こ~ら、白野さ~ん?目の前でそんな事を堂々と言われたら、先生はちょ~っと傷ついちゃうん
だけどな~?」
苦笑いをする桂が穏やかな瞳で見つめているのは、青城女学院が誇る剣道部に所属する少
女・白野小雪(しらの・こゆき)。
全国レベルの剣道の強豪である青城女学院において、1年生でありながら次期部長候補とまで
呼ばれている程の実力の持ち主だ。
「あはは、ごめんね~羽藤先生~。」
「もうすぐ部活の時間だからってはしゃぐ気持ちになるのは分かるけど、テストで赤点を取ったら
補習を受けないといけなくなるから、部活や大会どころじゃなくなるんだからね?」
この学校の剣道部のOBで、現在はこの学校の警備員を務めている百子が、学生時代に実際に
それを体験しているのだ。
だからこそ小雪の為にも、その点はちゃんと釘を刺しておかなければいけない。
「はぁ・・・そうですよね~。あの伝説のOBと呼ばれている小山内梢子さんのような、強くてかっこ
よくて可憐な女剣士になるのを目指しているというのに・・・大会に出れなくなっちゃったんじゃ本末
転倒ですもんね~。せめて赤点取らない程度には頑張らないと・・・」
「うふふ、白野さんは梢子ちゃんを目標にする前に、まずは私に勝てるようにならないとね。」
「ううう・・・でも私は諦めませんよ!!絶対に羽藤先生に勝ってやるんだからあ!!」
小雪は中学時代から剣道界では名の知れた存在で、去年の中学生最後の全国大会では、見
事に準優勝を果たしている。
そんな小雪でさえも、これまで顧問を務める桂を相手に部活で何度も試合をしているものの、今
までに一度も勝てた事が無いのだ。
その桂でさえも、小雪が憧れる梢子には全く歯が立たないというのだから、世の中本当に上には
上がいるんだと痛感させられてしまう。
だがそれでも小雪は全くめげる事無く、それどころか『高い壁があるからこそ燃える』などと主張し、
今も当面の目標として『打倒・羽藤先生』を目指して頑張っているのだ。
人間は二種類だ。
今までに一度も味わった事の無い絶望的な壁にぶち当たった時に、それをバネにして強くなれ
る者と、絶望を乗り越えられずに終わってしまう者。
小雪はその中において、間違いなく前者に分類される人物だ。
剣道部で桂という高い壁にぶち当たり、さらにその桂でさえも梢子の足元にも及ばないと聞かさ
れた時も、小雪の瞳は今も全く闘志を失っていないのだ。
「ユキ~。悪いんだけど、ちょっとこっちを手伝ってくれる~?」
そして小雪が前者なら、彼女は間違いなく後者に分類される人物だろう。
小雪の幼馴染で、彼女の隣の家に住んでいる河原広子(かわはら・ひろこ)。
彼女も中学時代に剣道をやっていたのだが、小雪と違って実力的には平凡レベルでしかなく、
中学とは比較にならない程の青城女学院の剣道部のレベルの高さ、そして小雪が桂に完膚なま
でに叩きのめされた事で挫折し、体験入部の時点で辞めてしまったのだ。
と言ってもこの学校の剣道部において、広子と同じように体験入部の時点で辞めてしまう者が出
るは毎年の事だと、先日葵先生が桂に語っていたのだが。
「あ、うん。今から行くよ。それじゃあ羽藤先生、また後でね。」
笑顔で桂に手を振り、小雪は広子の下に駆け寄っていく。
剣道部を辞めてからも、広子と桂はこれまでと変わる事無く互いに親しく接しているのだが、それ
でも広子が辞めてしまったのは本当に残念だと桂は思う。
確かに実力は平凡クラスだが、それでも彼女の太刀筋には確かに光る物があり、桂はその将来
性を高く評価していたのだ。
体験入部の時点で辞めてしまう者が出てしまうのは、最早この学校の剣道部の毎年の恒例行事
と化しており、広子と同じように体験入部の時点で辞めてしまった生徒は他に何人かいるのだが、
せめて自分が顧問を務めている間は、退部者を1人も出したくはなかったのいうのに。
とは言えこの学校の部活動は基本的に自由参加が原則だ。それに退部したのは生徒たち自身
の意思による物であり、こればかりは教師として広子たちに、部活に来る事を強制出来る立場に無
いのだが。
キーンコーンカーンコーン。
そうこうしている内に、あっという間に掃除の時間が終わったようだ。
生徒たちが担当場所から戻ってきて、続々と自分の席についていく。
「は~い、それじゃあHRを始めるよ~。まずは明日の連絡事項なんだけど・・・」
このHRが終わったら職員室でのミーティングの後、剣道部の顧問としての部員たちへの指導が
待っている。
正直言ってかなり忙しいが、それでも桂はやりがいを感じていた。
生徒たちと向かい合う桂の表情は、とても穏やかな優しさに満ち溢れていたのだった。
3.穏やかな父子家庭
「ただいま~。」
「おう、よく戻ったな。我が娘よ。」
その日の夜7時、部活動を終えてクタクタに疲れ切って家に戻って来た小雪を、彼女の父親であ
る白野玲紀(しらの・れいき)が物凄い笑顔で出迎えた。
「ご飯にする?お風呂にする?それとも、わ・た・し?」
「お風呂。」
「んだよ小雪ぃ、お前本当に洒落の通じねぇ奴だなぁ。」
とても残念そうな表情で、玲紀は小雪から鞄と竹刀を受け取った。
台所からとてもいい匂いが漂ってくる。今日も玲紀が夕食を作ってくれているのだ。
「もうすぐ晩飯が出来るから、風呂に入るならさっさと済ませてこいよ。」
「うん。今日のご飯は何?」
「今日の晩飯は納豆餃子と五目チャーハンだ。」
「へぇ、餃子に納豆?珍しい組み合わせだね。」
確かに見た事の無い代物だが、まぁ玲紀が作るのだからきっと美味しいのだろう。
想像しただけで、小雪は何だかおなかが空いてきた。
「おうよ。あの渚ちゃんが開設したレシピサイトを参考にして作ったんだぜ?」
「ふ~ん。」
「ぬちゃぬちゃしてて渾身の出来栄えだからな。楽しみに待ってろよ?いひひひひ。」
何だか不気味な笑い声を残しながら、玲紀は小雪の荷物を彼女の部屋まで運んでいった。
それを見届けた小雪が、とても幸せそうな笑顔で浴室へと向かっていく。
小雪は幼少時に母親を病気で亡くし、それ以来玲紀が男手1つで小雪を育て上げてきたのだ。
小雪の為に今まで全くやった事が無かった料理を一生懸命勉強し、小雪との時間を少しでも多
く作る為に、仕事も極力定時で帰るようにしている。
小雪の母が死んだのは、まだ小雪の物心が付くか付かないかの頃だったので、小雪は母親の
顔をよく覚えていない。
それでも玲紀からの愛情を存分に受けて育った小雪は、母親がいない事を寂しいと思った事は
一度も無かった。
小学校から中学校にかけて、母親がいない事を理由にクラスメイトにいじめられた事もあったが、
全て玲紀が鬼のような形相でいじめっ子たちに詰め寄り、全員土下座させて小雪に謝らせている。
小雪にとって玲紀は、まさに誰にでも誇れる理想の父親なのだ。
「そうそう小雪。さっきテレビのテロップで速報が流れたんだけどよ。フェンシングの世界選手権
大会で、遥ちゃんが決勝戦で負けて銀メダルだってよ。」
「そうなんだ。これで確か4大会連続銀メダルだっけ?遥さんを負かした対戦相手は誰なの?」
「確か・・・エミリエル・ストダートだとか言う名前だったかな。フランス人の警察官だってよ。」
「ふ~ん。」
「全く、エミリエルだかエイリアンだか何だか知らねえが、ちょっと遥ちゃんより世界ランクが上だか
らって調子こいてんじゃねえってんだよな。」
ちょっと性格がアレなのは、娘としてちょっとだけ恥ずかしいとは思うのだが・・・
脱衣所の扉ごしに玲紀と会話をして、小雪は思わず苦笑いしてしまう。
だが小雪がブラジャーを外して上半身裸になった、その時だ。
「・・・あああああああああああああああああああああ!!」
「何だどうした小雪どあああああああああああああ!?」
「嫌ああああああああああああああああああああ!!」
「ぶぼべらぁっ!!」
いきなり浴室の扉を開けた玲紀の顔面に、小雪が投げたバスタオルが情け容赦なく玲紀の顔面
にクリーンヒットした。
慌てて小雪は両手で胸を隠し、とても恥ずかしそうな表情になる。
「お、お前、いきなり何す・・・」
「それはこっちのセリフよ!!何でいきなり浴室の扉を開けるのよ!?信じられない!!」
「お前がいきなり変な叫び声を上げるからだろうが!?」 「だったらせめて入っていいか確認位してよぉっ!!よくも私の裸を見てくれたわね!!」
「アホか!?今更お前の貧乳なんか見たって欲情なんかするわけ痛い痛い痛い!!」
今度は情け容赦なく浴室から蹴り出された玲紀であった。
ガラガラと、物凄い勢いで浴室の扉が閉じられる。
「・・・で、いきなり変な叫び声を上げた理由はなんだよ?」
「学校に忘れ物をしたを思い出したのよ!!羽藤先生から出された古典の宿題のプリント!!」
「んだよ、そんな下らねぇ事でいちいち馬鹿騒ぎするなってんだよ。」
「そ、そんな事言われたって・・・」
「・・・お前の身に何かあったのかと心配しちまったじゃねえか。このボケナス。」
「・・・・・。」
玲紀の父親としての言葉を聞いて、小雪は何も言えずに黙り込んでしまった。
溜め息をついて、玲紀は扉ごしに愛娘に話しかける。 「明日の朝に学校でちゃっちゃとやるわけにはいかねえのか?」
「む、無理だよ!!朝のHRの時に提出する事になってるんだから!!」
「しょうがねえなぁ。だったらさっさと制服を着やがれ。俺が車で学校まで送ってやるから。」
「・・・うん。ごめんね。お父さん。」
「ったく・・・先に車の中で待ってるからな。早くしろよ。」
それだけ言い残し、玲紀は車の鍵を取りに自分の部屋へと向かっていった。
小雪に対して悪態を取りながらも、それでも玲紀の言葉の一つ一つには小雪への愛情が込めら
れている。
それを敏感に感じ取り、小雪は何だか温かい気持ちにさせられたのだった。
桂は普段はとても穏やかで優しい先生なのだが、それでも生徒たちに対してやるべき事はきっち
りとやるように要求するなど、見た目に反して意外に厳しい一面もあったりする。
例えば小雪のクラスにおいて、クラス委員の仕事を面倒だからと他の生徒に押し付けようとしたク
ラスメイトがいたのだが、桂は押し付けられた生徒を親身になって庇い、自分の仕事を押し付けよ
うとした生徒を厳しく叱責したのだ。
桂曰く『どんなに小さな仕事だろうと、与えられた仕事に対して真剣に向き合わないような人は、
社会に出たら通用しない』らしい。
桂は他の先生と違って無闇に怒鳴り散らしたりはしないものの、それでも言葉の1つ1つに重み
や説得力があって、下手に怒鳴られるより余程心に堪えたりする。
だからこそ小雪は桂に出された宿題をすっぽかして、桂に叱られたくはないのだ。
宿題を学校に忘れてしまったと主張しても、忘れる人が悪いと言われるのがオチだろう。
もう夜7時で閉門時間は過ぎているが、警備員に事情を話せば入れて貰えるはずだ。
閉門時間以降の学校への出入りには、ちょっとした手続きが必要なので面倒なのだが。 「お父さん、お待たせ~。」
「おう、早かったな。それじゃあさっさと取りに行って、さっさと晩飯にするぞ。」
「うん。私もおなか空いた~。」
「じゃあ、行くぜ!!」
制服に着替えた小雪が慌てて車の助手席に乗り込み、玲紀は小雪がシートベルトをしたのを確
認してから、車を穏やかに走らせる。
車の運転にはその人の性格が表れると言われているが、玲紀の運転はその荒っぽい言葉遣い
からは想像出来ない程、とても静かで穏やかな物だった。
4.運命の邂逅
「あの、すいません。教室に忘れ物をしたので取りに来たんですけど・・・」
「じゃあここにクラスと名前と、後はここに来た理由を書いて貰えるかな。」
「あ、はい。え~と、1年C組、白野小雪・・・忘れ物を取りにきました・・・と。これでいいですか?」
「・・・うん、大丈夫だよ。それじゃあ今から手続きするから、ちょっと待っててね。」
夜7時15分・・・閉門時間以降の入校手続きをする為に、校門の近くの受付の男性警備員に促
されて、小雪は書類にスラスラと必要事項を記入していた。
この学校では昼間は女性警備員が警備をしているのだが、生徒たちがいなくなった夜間は男性
警備員が警備をする事になっている。
桂の話では今から6年程前に青城女子大学で起きた、警備員の女子大生への強姦事件が問題
になったのだそうで、生徒たちが安心して学校に通えるように、学校側が昼間の警備業務を女性
警備員だけで行うよう、法人契約を結んでいる警備会社・ファルソックに要求してきたのだという。
その強姦の被害にあった女性は精神的なショックにより廃人状態になってしまい、今は何とか無
事に廃人状態からは回復したものの、それでも彼女は極度の男性恐怖症に陥ってしまい、今も就
職活動はおろか満足に外を出歩く事すら出来ず、社会復帰は困難を極めているらしい。
男性に触れただけで発狂し、声を聞いたり姿を見ただけでも恐怖で震えてしまうのだそうだ。な
ので彼女の父親は、近くのマンションに単身赴任する羽目になってしまったのだそうだ。
その姉の面倒を見る為に、前回のフェンシング世界選手権の、女子サーブル部門で銅メダルを
獲得した彼女の妹さんが、今年の世界選手権への出場を辞退したのだという。
確か名前は、新堂雨音といっただろうか。
FJE(日本フェンシング協会)は姉の面倒を精神病院に任せる事を家族に提案し、世界選手権
への出場を妹さんに懇願したらしいのだが、その妹さんは頑なに姉の傍にいる事を譲らなかった
らしい。
その話を桂から聞かされた小雪は、自分が中学時代に母親がいない事を理由に男子たちにい
じめられた時の事を思い出し、歯軋りしながらこう思った。
男の人って、どうしてこういう最低な人ばかりなんだろう・・・と。
「こちら校門受付担当の佐々木です。1年C組の白野小雪さんが、忘れ物を理由に閉門時間内
の入場を行います。今から1年C組の教室内に向かうとの事です。どうぞ。」
『こちら校内巡回担当の吉原、任務了解。どうぞ。』
『こちら今日の業務を終えたばかりの秋田百子。了解(ラジャ)りました。どうぞ。』
「あれ?秋田先輩、まだいたんですか?」
『はと先輩にちょっと用事があるんだ。すぐに終わらせてちゃっちゃと帰るよ。』
「了解しました。どうぞ。」
トランシーバーでの他の警備員とやり取りを終えた男性警備員の爽やかな声で、小雪はハッと我
に返った。
男性警備員はとても穏やかな笑顔で、小雪にカード型の入場許可証を手渡す。
カードにはICチップが埋め込まれており、警備員は持ち主の現在位置を常に専用端末で調べ
る事が出来るのだと言う。
持ち主が用事を済ませてからも余計な場所に行かないように監視するのと、何かあった時にすぐ
に駆けつけられるようにする為の措置だ。
「待たせちゃって本当にごめんね。校内にいる間は、その入場許可証を首にかけておいて貰え
るかな。それを身に着けていないと他の警備員に、不法侵入者だと思われちゃうから。」
「あ、はい。分かりました。」
「そちらはお父様ですか?家族の方は施設内への立ち入りは原則禁止されていますので、お手
数ですがご同伴はここまででお願い致します。」
小雪と玲紀に対して、とても紳士的な態度で接する男性警備員。
全ての男性が、この人やお父さんのような人ばかりになればいいのに・・・小雪は本当に心の底
からそう思う。
入場許可証を首にかけて、小雪は男性警備員が開けた門を通って校内へと向かっていった。
その様子を玲紀が校門前で、穏やかな笑顔で見送っている。
「小雪。納豆餃子と五目チャーハンが待ってるからな。すぐに戻って来いよ?」
「うん。じゃあ行ってくるね。」
「ああ、気をつけてな。」
玲紀に手を振って、小雪は教室へと歩き出していく。
桜が完全に散ってもうすぐ5月になろうというのに、夜はまだまだ肌寒い日が続いている。
もう生徒たちが完全にいなくなって、明かりがついているのは職員室だけだ。
防犯上の観点からグラウンドの照明が点灯しているので、校内は比較的明るい。
それでも昼間の喧騒から一転して、誰もいなくなって静まり返った学校というのは何だか不気味
だと小雪は思った。
目的の校舎の近くには1年中満開の花を咲かせる、常(とこ)咲きの壮大な槐の木がそびえ立っ
ていて、小雪の教室からも見る事が出来る。
桂の話では、この槐の木はこの学校が建てられる以前から存在しているのだそうで、その樹齢は
1000年を超えているのではないかと言われているらしい。
青城女学院の長い歴史の中で、過去にこの槐の木に何らかの危機が訪れた事が何回かあった
のだが、何故かその度に不可解な問題が発生し、今も撤去されずに残っているのだそうだ。
例えば校舎の改築に伴い槐の木の撤去の話が出た時は、撤去作業を請け負った業者の作業
員全員が、何故か突然長時間労働と低賃金、賞与不払いを理由にストライキを起こしてしまい、撤
去作業どころではなくなってしまった。
その数年後に槐の木を撤去して中庭を広くする計画が出た時などは、何故かどこの業者にも邪
険に扱われ、撤去作業を引き受けて貰えなかった。
さらに今から2年前、警備員の制止を振り切ってバイクで校内に侵入し、面白半分に槐の木の枝
をへし折った暴走族たちが、何故か翌日に全員が丸刈りになって正装姿で学校に謝罪に赴き、
何故か全員が暴走族を辞めて真面目な人間になってしまった。
極めつけは第2次世界大戦での東京大空襲の時・・・周辺の建物が次々と空爆によって倒壊す
る中、何故かこの槐の木だけが爆弾の直撃を免れ、全くの無傷だったのだという。
そんな妙な伝説が残っている為なのか、今ではこの槐の木の事を『呪いの木』『伝説の木』などと
呼ぶ生徒たちまでいる始末だ。
こんなにも美しい満開の花を咲かせているというのに・・・これのどこが呪いの木なのだろうか。
この槐の木を見ていると、何故か小雪は心が安らぐような気がした。
そして・・・何故かは知らないが、槐の木から感じる懐かしさ、優しさ、温もり。
この気持ちは一体、何なのだろうか。
「・・・樹齢1000年の、常咲きの槐の木か・・・」
小雪が神妙な表情で槐の木に咲き乱れる満開の花を見上げた、その時だ。
突然無数の花たちが神々しい白銀の光を放ち、次の瞬間小雪の頭上に1人の着物を着た少女
が現れた。
「・・・へ!?」
その少女は舞い落ちる無数の槐の花に包まれながら、ゆっくりと小雪の元へと舞い降りてくる。
少女はとても辛そうな表情で、しかし自愛に満ちた穏やかな笑顔で、じっ・・・と小雪を見つめて
いた。
そして少女と共に美しく舞い、儚く散っていく白銀の槐の花。
それはまるで、白い雪の花のように。
「ちょ、ちょっと!?」
いきなり非現実な光景が繰り広げられて戸惑いを隠せない小雪だったが、その戸惑いを感じる
暇も無く、少女は力無く小雪の身体にしがみついて・・・そして・・・。
「・・・こ・・・ゆき・・・」
「な、何で私の名前・・・っ!?」
「小雪・・・っ!!」
「きゃあっ!?」
少女が小雪の身体を抱きしめた次の瞬間、少女と小雪の身体から神々しい金色の光が放たれ
たのだった・・・。
5.暗闇の教室で見た物
時間を少し遡る。
すっかり薄暗くなった夜7時・・・今日の業務が終わった百子はタイムカードを押してから、桂への
用事の為に宿直室に向かっていた。
その小柄な身体にフィットしたファルソックの制服が、百子の凛々しさを引き立たせている。
百子は高校卒業と同時に美咲に誘われてファルソックに入社し、その明るいキャラクターと天才
的な剣の才能と実力によって瞬く間に頭角を現し、今では完全にファルソック青城支部に無くては
ならない存在にまで成長していた。
去年まで遥や雨音と共に青城女子大学の警備を担当していたのだが、今年から母校である青
城女学院の警備を任される事になったのだ。
「秋田先輩、お仕事お疲れ様です。」
「おう、吉田君も夜勤お疲れさん。」
こうして後輩からも慕われており、百子は後輩の男性警備員と笑顔でハイタッチを交わす。
今日も特に目立ったトラブルは無く、いつもと同じようにこの学校は平和そのものだった。
まだこの青城女学院に配属されてから1ヶ月も経っていないのだが、今の所はこの学校において
百子が身体を張って、生徒たちを命懸けで守らなければならないような事態には陥っていない。
何も起こらなくて退屈だという不謹慎な気持ちも無くはないが、それでも何も変わらない平穏な
日々こそが一番だ。
青城女子大学にいた頃はそういうトラブルを何回か体験していて、百子はその度に必死になっ
て、遥や雨音、他の先輩警備員たちと共に学生たちを守り抜いてきた。
正直言って大変だったが、それでも自分たちがこの手で学生たちを守っているんだという充実感
もあって、大変であると同時にとても楽しくもあった。
と言うか梢子が剣道の大会で活躍する度に、大学が定めた取材ルールを完全に無視して怒涛
のように押し寄せる沢山のマスコミから、身体を張って梢子を守っていた時の方が、まだ大変だっ
たような気がしないでもないのだが・・・。
「1年C組かぁ・・・まさかこのクラスの担任が、はと先輩になるなんて・・・なんか運命めいた物を感
じずにはいられないよ。」
ふと、通りかかった教室を目の前にして、百子は思わず苦笑いしてしまう。
このクラスは、学生時代に百子と保美が在籍していたクラスでもあるのだ。
そしてこの学校で保美や梢子に出会った事をきっかけに剣道を始め、そして同じく高校から剣道
を始めた桂とも知り合い、違う高校で敵同士ながらも互いに意気投合するようになった。
その桂と百子が、職種は違えど今月から同じ学校で働くようになり、そして桂が自分が在籍して
いたクラスの担任になるとは・・・もしかしたら百子と桂は、何か運命の赤い糸のような物で繋がって
いるのかもしれない。
この事を保美に話そう物なら、百ちゃんの浮気者~とか物凄いジト目で言われそうなのだが。
「さてと、ざわっちが待ってるから、ちゃっちゃと用事を済ませて・・・っ!?」
誰もいないはずの教室から微かに感じる、人の気配。
慌てて百子は気配を消して、中の不審者に気付かれないように息を殺して身構えた。
生徒たちは部活動を終えて全員帰宅しているはず。それにこの時間帯に来訪者が来るなどとい
う話は、少なくとも今の所は聞いていない。
それに教師たちのほとんどが既に業務を終えて学校を後にしており、今日の宿直当番である桂
は宿直室に、残業している他の教師たちも今は全員職員室にいるはずだ。
ではこんな時間に、一体誰が教室にいるというのだろうか。
『・・・たん・・・べたん・・・』
「・・・っ!?」
『・・・たん・・・ったん・・・』
次の瞬間、扉越しに教室から聞こえる、何者かの声。
何を言ってるのかよく聞き取れないが、それでも何かべたんべたん言ってるような気がする。
どうやら若い女の声のようだが、こんな時間にますます怪しいと言わざるを得ない。
「やれやれ、残業すると美咲先輩がうるさいんだけどなぁ・・・あ、でもタイムカードを押してあるか
ら別にいいか。」
百子は苦笑いしながら、懐から警棒を取り出した。
仮に相手が凶器を持っていたとしても、すぐに対処出来るように。
もしかしたら警備をかいくぐってこの学校に侵入した、泥棒の類かもしれないのだ。 そして、そういう者たちからこの学校の平和と生徒たちの安全を守る事が、警備員である百子の
仕事であり、また生きがいでもあるのだ。
百子は警棒を手に、相手に悟られないように静かに扉を開けた。
まずは相手が凶器を持っているかどうかを瞬時に確認。持っていたならそれを警棒で即座に払
いのける。
持っていない。持っているのは白いチョーク。それでツインテールの若い女が、黒板に大原先生
の馬~鹿などと書いて・・・あれ?
「べったんべったんべったんべったん♪頑張れ頑張れニャン太郎~♪負けるな負けるなニャン
太郎~♪何~があ~っても、く~じけるもんか~♪」
「・・・・・。」
「にゃんにゃんにゃんにゃん♪ニャン太郎~♪にゃんにゃんにゃ・・・」
「・・・・・。」
物凄く見覚えのある不審者の姿を見て、百子は呆れたように深い溜め息をついた。
「・・・あの・・・はと先輩・・・?」
「ひあああああああっ!?」
百子が溜め息をつきながら桂の肩をポン、と叩いた途端、桂が突然ビクウッ!!と飛び跳ねた。
何だか物凄く呆れた表情で、百子は引きつった笑みを浮かべている桂を見つめている。
「も・・・百子ちゃん・・・何でここにいるの・・・!?今日の仕事はもう終わったはずじゃ・・・!?」
「いや、はと先輩って今日は宿直でしたよね?これ、雨音っちからの差し入れなんですけど、はと
先輩に渡す為に宿直室に行く途中だったんですよ。そしたら教室から変な声が聞こえんたんで、
不審者かと思ったんですけど・・・」
百子が桂に手渡したのは使い捨ての容器に入れられた、雨音の手作りのおにぎりと軽めのおか
ずだった。
今日は桂が宿直当番で学校に泊り込むので、雨音が桂の為に夜食を作ってくれたのだ。
「は・・・ははは・・・雨音ちゃんが私の為に・・・そうなんだ・・・」
「はい。軽めのメニューにしておいたから夜食にしてくれって言ってましたよ。」
「うわ~、嬉しいな~、雨音ちゃんありがとう~(物凄い棒読み)。」
「・・・・・。」
「・・・・・。」
「・・・・・。」
「・・・・・。」
「・・・百子ちゃん。」
「何ですか?はと先輩。」
「・・・見た(泣)?」
「見ました。」
百子が目撃した物・・・それは桂が子供向けアニメのアニメソングを歌いながら、黒板に大原先生
の馬~鹿などと書き込んでいた光景だったのだ・・・。
桂は何だか物凄く恥ずかしそうな表情になり・・・そして、ど~~~~~~~~ん!!と、その場
に崩れ落ちた。
「はと先輩・・・もう24にもなって何やってるんですか・・・(汗)。」
「あのね百子ちゃん。大人になると職場で嫌な事が色々とあるのです。」
「そんな事は分かってますよ。社会人歴はアタシの方が長いんですから。」
「だからね、誰もいない場所でストレスを発散してたんですけどね。」
「それで1人でニャン太郎の第2期のオープニングテーマを歌いながら、黒板に大原先生の馬~
鹿などとでかでかと書き込んでたんですね。分かります。」
大方、今日の職員会議で大原先生とやらにグチグチ嫌味を言われたか、あるいは怒られでもし
たのだろう。
百子もファルソックに入ったばかりの頃は、性格の悪い先輩警備員から色々嫌味を言われたりし
たので、桂の気持ちは理解はしていたのだが・・・。
だからと言って、何もこんな場所でこんなふざけたストレス発散法をしなくてもいいのに・・・と百子
は呆れてしまう。
物凄くうるうるした瞳で、桂は百子の肩を掴んで懇願した。
「お願い百子ちゃん!!この事はどうか!!どうか誰にも話さないで!!ね!?ね!?」
「はぁ・・・何でアタシがはと先輩を陥れるような真似をしなくちゃいけないんですか。誰にも言いま
せんから安心していいですよ。はと先輩。」
「うえええええええええん!!ありがとう百子ちゃん!!心の友よおおおおおおおお!!」
物凄くうるうるした瞳で、百子をぎゅっと抱きしめる桂。
凄くアホな子ですが、これでも教師です。百子の1年先輩です。本当です。
その時、百子のトランシーバーから着信音が鳴り響いた。
百子は桂を振りほどいて、溜め息をついて胸元からトランシーバーを取り出す。
『こちら校門受付担当の佐々木です。1年C組の白野小雪さんが、忘れ物を理由に閉門時間内
の入場を行います。今から1年C組の教室内に向かうとの事です。どうぞ。』
『こちら校内巡回担当の吉原、任務了解。どうぞ。』
「こちら今日の業務を終えたばかりの秋田百子。了解(ラジャ)りました。どうぞ。」
『あれ?秋田先輩、まだいたんですか?』
「はと先輩にちょっと用事があるんだ。すぐに終わらせてちゃっちゃと帰るよ。」
『了解しました。どうぞ。』
トランシーバーを胸元にしまい、百子は呆れたように桂に宿直室に戻るよう促した。
「ほら、はと先輩のクラスの子が、忘れ物を取りにここに来るらしいですよ。見つからないうちに黒
板を消して、さっさと退散したらどうなんですか?」
「ううう・・・何でよりによって白野さんが・・・」
「大方宿題を忘れでもしたんでしょう。ほら、ボサッとしてないでさっさと。」
「ううう・・・(泣)」
こんな状況を小雪にでも見られでもしたら、それこそ洒落にならない。
小雪は桂の弱みを盾に脅すような真似をする生徒ではないが、それでも剣道部の顧問としての
示しがつかなくなってしまうのだ。
うるうるした瞳で、桂は黒板消しで大原先生の馬~鹿を一生懸命消していった。
そんな桂の醜態を、百子が呆れた表情で見つめている。
だが、桂が大原先生の馬~鹿を全て消し終えた、その時だ。
突然中庭から放たれた、一筋の金色の閃光。
何事かと思って百子と桂が振り返ると、2人が目撃したのは雪のような白銀の輝きを放つ無数の
槐の花に包まれながら、着物を着た少女が小雪を抱き締めている光景だった。
少女と小雪からは、美しくも神々しい金色の光が放たれている。
「な・・・あの光は、遥先輩や雨音っちと同じ・・・!?」
「白野さん!!」
「ちょ・・・はと先輩!!待って下さいよぉっ!!」 心配そうな表情で小雪の下に駆けつけようとする桂を、百子は慌てて追いかけていく。
教壇の上には雨音が桂の為に作った夜食が、ポツンと置かれていたのだった。
6.1200年の時を越えて
「何なんだあの光は・・・!?おい小雪!!」
「ちょ、待って下さいお父様!!ここから先は関係者以外立ち入り禁止・・・」
「馬鹿野郎!!あそこには俺の娘がいるんだぞ!?娘の危機を黙って見ていられる親がいる
かってんだよ!!」
「し・・・しかし・・・うわあっ!?」
玲紀の父親としての言葉に、玲紀の右腕を掴む佐々木の右手の力が一瞬緩んだその隙に、
佐々木を振り切って玲紀は慌てて槐の木へと向かっていった。
あの槐の木から放たれている白銀の光は、一体何なのか。
それに玲紀が槐の木から感じるのは、懐かしさ、優しさ、温もり。
この気持ちは一体、何なのだろうか。
玲紀が駆けつけた時、桂と百子もほぼ同時に槐の木に辿り着いていた。
小雪と少女から放たれているのは、美しくも神々しい金色の光。
間違いない。これは遥や雨音と同じ『神の血』に秘められた力だ。桂と百子はそれを確信した。
「何で・・・!?何で白野さんが『神の血』を・・・!?それに彼女は一体・・・!?」 「小雪!!おい小雪!!しっかりしろ!!」
驚愕している桂を無視して、慌てて玲紀は少女に抱き締められている小雪に呼びかけたが、小
雪は意識が朦朧となっているのか虚ろな瞳になっており、呼びかけに全く応じない。
少女は相変わらず、慈愛に満ちた穏やかな微笑で、小雪をぎゅっと抱き締めていた。
その豊満な胸に小雪の顔をうずめ、少女は小雪の髪を撫で続ている。
「この・・・てめえ!!どこの誰だか知らねえが、俺の娘を離し・・・っ!?」
正体不明の女から小雪を解放しようと、玲紀が少女の肩を掴んだその時だ。
少女はゆっくりと玲紀の方を振り向き・・・その素顔を見て、玲紀は驚きの表情を隠せなかった。
「ば・・・馬鹿な・・・!?」
小雪が生まれる前に死んでしまった、玲紀の大切な人の素顔がそこにあったのだ。
少女は玲紀に対しても、とても穏やかな笑顔を見せている。
玲紀は思わず、少女の肩を掴んでいた右手を離してしまった。
そう・・・玲紀が大切に想っていた人にそっくりな、彼女の素顔に圧倒されて。 「姉・・・貴・・・!?」
「玲紀・・・貴方もこんなに立派に成長して・・・」
「馬鹿な!?姉貴はもう20年も前に交通事故で死んだんだぞ!?それなのに何で・・・!?」
「思えばこうして私が貴方と面を向かって話をするのは、これが初めてですね。玲紀。」 「・・・っ!?」
おかしい。会話が噛み合わない。玲紀は思い切り違和感を感じていた。
貴方と面を向かって話をするのは、これが初めて・・・?
それに玲紀の姉はもう死んでいる。小雪が生まれる前に交通事故で亡くなっているのだ。
何より玲紀の姉は、弟の事を決して呼び捨てでは呼ばなかった。
「・・・てめぇ・・・一体誰だよ!?」
「玲紀・・・?」
「俺の姉貴はなぁ・・・俺の事を玲紀だなんて呼ばねぇ・・・玲ちゃんって呼ぶんだよぉっ!!」
「きゃっ!?」
「てめえ!!俺の姉貴の顔(ツラ)して、一体小雪に何しやがったんだあっ!?」
再び少女の肩を掴み、玲紀は少女から小雪を解放しようとする。
姉にそっくりな姿に化けるとは、何かの妖魔の類なのか。
アニメや漫画でそういう悪役の活躍を見た事はあるが、まさかこの21世紀において実際にそのよ
な化け物が存在するとでもいうのか。
だがそんな事は、玲紀にはどうでもいい代物だった。
玲紀の目の前で小雪が意識が朦朧となって、正体不明の女に抱き締められている。
玲紀が動く理由は、それだけで充分なのだ。
「ちょ・・・落ち着いて私の話を聞きなさい。玲紀。」
「うるせえ!!俺の姉貴の姿に化けて、一体小雪をどうしよってんだぁっ!?」
「そもそも私は貴方の姉だなんて、一言も名乗ってはいませんよ?」
「黙れよこのさっさと小雪を離し・・・」
「・・・いいから少し落ち着きなさい。」
少女が右手人差し指を玲紀に向けると、優しい冷気の奔流が玲紀の顔を包み込んだ。
突然顔面が冷たくなって、玲紀は思わず少女から手を離して顔を覆ってしまう。
氷が入ったビニール袋をいきなり顔面に当てられたような、そんな感触だ。
「冷たっ!?なんか冷たっ!?」
「少しは頭が冷えましたか?小雪なら大丈夫ですから落ち着いて下さい。」
「だ、大丈夫だって言われたって・・・!!」
「小雪に少しだけ『力』を分けて貰っただけです。軽い貧血のような物ですから、少し休めばすぐ
に元気になりますよ。」
少女の言う通り、玲紀は確かに『頭が冷えた』ようだ。
心地良さすら感じさせられる適度な冷気・・・小雪を心配して頭に血が上った玲紀の思考がクリア
になる。
頭に血が上っている時は気付かなかったが、こうして落ち着いて見てみると確かに小雪は、何だ
かとても安らかな表情で少女に身を任せているようにも見える。
だが、2人の体から放たれているこの金色の光は、一体何だというのか。
この金色の光の正体を知っている桂と百子は、信じられないといった表情で驚愕しながら2人を
見つめていた。
壮大な槐の木から美しく舞い落ちる白銀の槐の花の輝きと合わさって、金色の光に包まれた小
雪と少女の姿は、とても幻想的な神々しさに満ち溢れていた。
そう・・・まるで玲紀たちを優しく包み込む、白い雪の花のように。
「ア・・・アンタ、一体何者なんだよ!?そもそも何で死んだ俺の姉貴と、瓜二つの顔をしてやがる
んだ!?」
「そうですね・・・そう言えば、まだ名乗っていませんでしたね。」
少女はすっ・・・と立ち上がり、今だ意識が朦朧となっている小雪をお姫様抱っこして、何の迷い
も無い穏やかな笑顔で、玲紀たちを見据えてはっきりと告げた。
今この場にいる誰もが想像すらしていなかった、少女の信じられない正体を。
「自己紹介が遅れました。私の名は白野雪花。先程までこの槐の木に宿っていた元オハシラサ
マです。」
「な・・・白野って・・・」
「そう・・・私は小雪と玲紀の直系の血筋に連なる者にして、古の時代より連なる白野家の始
祖・・・分かりやすく言い換えるなら、私は小雪と玲紀の先祖です。」
「「「・・・ご・・・ご・・・ご・・・」」」
玲紀、桂、百子の3人は驚愕の表情で、予めタイミングを測っていたかのように同時に仰天した
のだった。
「「「ご先祖様あああああああっ!?」」」
雪花に少し『力』を吸い取られて意識が朦朧となってはいるが、それでも小雪には雪花の言葉が
はっきりと聞こえていた。
雪花の身体の温もりと、ほのかに香る甘い香りが、小雪には何だかとても安心出来る。
壮大にそびえ立つ槐の木からいきなり自分の先祖と名乗る少女が現れるという、あまりにも非日
常的な事態・・・だがそれでも小雪は、自分をお姫様抱っこしている雪花に対して、言いようの無い
安らぎと親近感を感じていた。
そう・・・まるで彼女が自分の母親や姉であるかのような。
(私の・・・ご先祖様・・・この人が・・・)
意識を朦朧としながらも、それでも小雪は雪花の顔をしっかりと見据えていたのだった。
(雪花・・・お姉ちゃん・・・)
7.消えない憎しみ
「はあっ・・・はあっ・・・くっ・・・おのれ雪花・・・っ・・・!!」
何とか青城女学院から抜け出したセラは、人気の無い薄暗い路地裏で、怒りと憎しみに満ちた
表情で壁にもたれかかっていた。
オハシラサマとなった雪花によって1200年もの長い年月の末に、あと少しで完全に還されるとい
う所まで追い詰められてしまったものの、それでもどうにか槐の封印を破って、1200年ぶりに脱出
する事には成功した。
だが元々雪花に力を相当削られてしまっていたのと、僅かに残っていた力も槐の木からの脱出
時にほとんど使い切ってしまっていた為、今のセラはもう歩くだけで精一杯という感じだ。
少し休めば多少は回復するだろうが、全盛期の力を完全に取り戻す為には、動物や人間たちか
ら少しでも多く、活き活きとした新鮮な力を供給する事が必要になるだろう。
その為には少しでも休んで力を回復させて、動物や人間たちを襲うなり、あるいは力を分けて貰
うなりしなければならない。 「娘の分際で母親に逆らおうなどと・・・雪花・・・そなたはこのままでは絶対に済まさんぞ・・・わら
わの力が完全に戻った暁には、真っ先にそなたを殺してくれようぞ・・・!!」 そして、セラが怒りと憎しみをぶつける相手は、雪花だけではない。
1200年前にセラの前に立ちはだかり、呪物から神器へと変造した《剣》の圧倒的な聖なる力を
駆使し、壮絶な死闘の末にセラを打ち負かした、あの男勝りで気高さに満ち溢れた女。
あの忌々しい女だけは、セラ自らの手で殺さなければ気が済まないのだ。
「そして天照!!生きていような!?我が恨みを晴らすまで、死ぬ事は決して許さんぞ!!」
あの時の壮絶な戦いの光景と敗北の屈辱は、今もセラの脳裏に焼きついて離れない。
鬼のような形相で、セラは両拳を力強く握り締めたのだった。