第6号 - 三股町

第6号
平成
年 月
日
※「おてんじょだけ」とは、高千穂峰
のことをいい、「御天上嶽」と書きま
す。昔から都城盆地内に住んできた私
あが
達の祖先はこの山を「父なる山」と崇
め、こう読んできたのです。
都北社会教育協会 文化振興部会
都城市教育委員会事務局文化課・三股町教育委員会生涯学習課・山之口町教育委員会社会教育課
高城町教育委員会社会教育課・山田町教育委員会社会教育課・高崎町教育委員会社会教育課
創刊号から第 5 号までの内容は
創刊号 H12
管内情報
第 2 号 H13
中世のお城
第 3 号 H14
田之神
○高城町郷土資料館
○ 木場城 ○ 山田城
各地区の田之神
○坂元B遺跡・加治屋
○ 三俣城 ○ 下之城
遺跡の発掘調査
○ 梶山城 ○ 都之城
第 4 号 H15
郷土芸能
第 5 号 H16
一押しの文化
○ 谷頭相撲甚句踊
○ 郡元稲荷神社神舞
○ 今町一里塚
○ 山之口麓文弥節人
○ 山田町のイチョウ
形浄瑠璃
○ 高崎町古墳
○ ジャンカ馬踊り
○ 観音瀬
○ 谷川俵踊り
○ 弥五郎どん
○ 石山花ずもう
○ 日州寺柱番所(関所)跡
これまで平成 12 年度から 5 年間にわたり、様々な文化情報を発信して参りました。今年は、戦
後60年という節目の年でもあり、けっして風化させてはいけない戦中・戦後の題材を基に、第
6号を発刊することになりました。平和学習などに活用して頂ければ幸いです。ご不明な点やわ
かりにくいことなどは、お気軽に最寄りの教育委員会へお問い合わせ下さい。
都城飛行場
昭和 8 年、都城連隊(64 連
隊)が中国満州より帰国した
のを記念して、今の自衛隊訓
練場(都原町)に建設された
のが都城飛行場です。建設に
たずさわった人は延べ
38,300 名あまりで、総工費
49,600 円余りをかけた大工
事でした。この飛行場は、昭和 10 年におこなわれ
都城西飛行場跡 都原町 陸自訓練場内
た陸軍の特別大演習に使用されました。昭和 17 年には逓信省(旧
郵政省)の航空機乗員養成所が開所され、昭和 19 年に陸軍に接収
されるまで操縦訓練が行われました。戦況が厳しくなった昭和 19
年、今の都北町と志和池に飛行場が建設され、それぞれ東飛行場・
北飛行場と呼ばれたため、それまでの飛行場は西飛行場と呼ばれる
ようになりました。この三つの飛行場に陸軍飛行戦隊が配備された
のです。昭和 20 年 4 月からは、東西の飛行場から特攻隊が沖縄へ
出撃していきました。
昭和 20 年 4 月
空爆されている西飛行場
都城大空襲
都城は陸軍連隊と飛行場、航空機製作工場があったため、米軍空襲の目標とされ、昭和 20
年 3 月 18 日以降度重なる空襲にあいます。5 月 8 日の空襲では、市内全域において爆弾投下
と機銃掃射を受けました。学徒動員で来ていた県立小林中学校 3 年生 10 名をはじめ、多くの
死傷者が出ました。最大のものは 8 月 6 日の空襲でした。正午過ぎから 4 度にわたって空襲を
行い、市街地は猛火に包まれ、被災人口 17,000 名余、死者約 90 名、負傷者約 40 名の被害が
出ました。
画家大野重幸氏のスケッチ画
終戦直後の市街風景
(明道小学校のようす)
(都城市・都城市教委『戦後 50 周年記念企画展「戦中・戦後の都城と市民のくらし」
』1995 を参照)
三股町内の戦争関連史跡
①都城東飛行場跡
②谷分散教育場跡【大字樺山字和田(谷地区)
】
①都城東飛行場は昭和 19 年(1944)に現在の都
②谷分散教育場跡は、第二次世界大戦中に小学校が軍
城市(都北町他)から三股町蓼池の一部にかけて建
隊の兵舎となったために建てられた仮の教育場の一つ
設されました。標柱は三原地区コミュニティーセン
です。また、児童を空襲から守るための建物でもあり
ターにあり、当地には三角兵舎等があったそうです。
ました。実際に終戦まで一人の犠牲者も出さなかった
沖縄特攻の出撃基地として 69 名が出撃しました。
とのことです。谷青年の家より南へ 200m ほどの所。
③軍需物資格納庫跡
④958高地飛行機墜落の慰霊碑
③梶山の沖水川(山田川)沿いの軍需物資格納用の
④この慰霊碑は椎八重公園の敷地内にあります。昭和
洞穴で、第二次世界大戦中に造られたようです。
20 年(1945)3 月に椎八重にて 3 名が、5 月に 958 高
※危険ですので近寄らないで下さい。
地にて 7 名が戦死され、その方々への慰霊碑として建
てられました。※958 高地…戦闘機が墜落した場所が
⑤海軍通信所跡
標高 958m 付近であったため、そう呼んでいます。
⑤通信所跡は勝岡小学校から東へ 100m程の竹林の中にあり
ます。終戦直後に破壊され、現在はコンクリートの一部が残
るのみです。勝岡小学校付近には、海軍の兵舎もありました。
※危険ですので近寄らないで下さい。
山之口町
1 . 居留地受検願
許可通知
2 .戦時郵便貯金切手
戦時郵便貯金切手
(徴兵 検査 の ため の通 知
書)
昭 和 16 年 2 月 に 福
岡県小倉陸軍造幣所軍需
工場で働いていたが、ア
メリカ軍の攻撃が日増し
に 強 く な る 中 、昭 和 19 年
2月に福岡県筑紫郡春日
村へ疎開。その年の3月
にこの許可通知を受領。
5 .現役兵證書
現役兵證書
3 .奨金附福券
奨金附福券
(昭 和 19 年 8 月 1 日 発 行 )
昭和20年9月1日午前
9時に福岡市東公園亀山
上皇銅像前広場に集合。
4 .簡易保険
簡易保険
6 . 入營者旅客割引證
戦時中、資金調達のために
この割引證で福岡市の集合
買 わ さ れ た も の 。( 2 . 3 . 4 )
場所まで運賃が半額になる。
~
し か し 、 こ の 2 枚 ( 5 .6 ) は い づ れ も 使 わ れ る こ
と が な か っ た 。 何 故 な ら ば 昭 和 20 年 8 月 15 日 に
終戦を迎えたからである。榎木さんの話によると、
そ の 当 時 こ の 現 役 兵 證 書 を 持 っ て い る と 、ア メ リ カ
兵 に 連 行 さ れ る と い う 噂 が 飛 ん だ り 、ま た 戦 地 に 赴
い た 戦 友 が 沢 山 戦 死 し た こ と で 、自 分 は 戦 争 に も 行
か な か っ た こ と を 悔 や ん だ り し て 、こ の 証 書 を 皮 の
トランクの奥底に何十年もしまい込んでいたそう
で す 。し か し 、自 分 は 戦 争 に 行 か な か っ た の で は な
く 、終 戦 に よ っ て 行 け な か っ た の だ と 気 持 ち を 切 り
替 え て 頑 張 っ て こ ら れ ま し た 。今 で は こ れ ら を 自 分
の 生 き て き た 証 と し て 、額 に 納 め て あ り ま す 。戦 争
によって沢山の方々の命を奪われたことはとても
悲 し い こ と で あ り 、決 し て 2 度 と 起 こ し て は な ら な
いものです。
(
資料提供:榎木
信雄
氏
)
当時 の
10 円札 と 1 円札
~
高城町郷土資料館のある月山日和城の北側に忠霊塔があり
ます。これは日中戦争、太平洋戦争で亡くなった戦没者の慰
霊のために作られたものです。
戦
没
者
昭和12年(1937)から昭和20年(1945)まで
続いた日中戦争・太平洋戦争において645名以上の町内の
人たちが犠牲となりました。
中国大陸を始め、ガダルカナル島、サイパン島、沖縄など
南太平洋一帯の戦場にて亡くなった人たちや、昭和20年5
月11日の有水田辺へ落とされた爆弾により5名、同年8月
9日山之口駅の空襲による2名のほか、徴用先の空襲などで
忠霊塔
も多くの犠牲者が出ました。
戦 争 の 跡
高城町は戦争の終わりごろ、各小学校が接収され多くの軍人が来ていました。慶正寺にいた
部隊により月山日和城下に大きく掘られた防空壕は今でも危険なまま残っています。また田辺
に落ちた爆弾の跡はつい最近まですりばち状のクレーターの姿を見ることができました。
生
活
戦争は軍隊へ行った人々のほかに一般の人たちにも大きな
影響を与えました。学校では工員の少なくなった工場などへ
の勤労動員が進められ授業もほとんど行われなくなりました。
各家庭は隣組という組織にくみこまれ、不足していた日用品
の配給や軍事演習などをさせられました。町内の方々より寄
贈・寄託いただいた当時を知る多くの資料は郷土資料館に展
示してあります。
地区名
戦没者数
大井手
桜
木
鉄兜
123
67
町
41
穂満坊
99
石
山
97
有
水
163
四
家
45
各地区別戦没者数
軍隊手帳・現役兵証書・慰問袋・千人針
衣料配給切符・戦時国債
山田町
1
沖縄児童疎開
戦時中、「沖縄は戦場化する恐れあり」の状態を迎え、
沖縄の児童を本土の各地に疎開させることになりまし
た。山田小と木之川内小にも、昭和19年9月30日
に児童が疎開してきました。
昭和20年8月になると、戦争がさらに激しくなり、
都城市を大空襲、山田小にも1発不発弾が落下したの
を受け、山田小、木之川内小に疎開していた児童は引
き上げ、田中公民館に合同収容して生活する様になり
沖縄児童疎開(田中公民館)
公民館には、記念碑が建てられています。
ました。地域の方々は、戦時中の貧しさにも関らず、
疎開生を吾が子と思って可愛がり、食物を分け与えたりしました。
終戦後は、すぐ、兄弟や親類の方が引き取りに来て、残りの児童一団も先生に引率され、
無事帰郷しました。 (木之川内小学校「創立五十年記念誌」より)
2
都城空襲による犠牲
戦時中、都城市は、大空襲により町の大半が炎上しました。この空襲の犠牲者の中に、
当時、都城中学校(のちの泉ヶ丘高校)に通う1年生の H 君(谷頭出身)がいました。
当時、同中に通う4年生の Y さんと級友らは、防空壕の中で全身火に焼かれ、火傷を負
っている彼を救い出し、病院に運びましたが、医師からは鎮痛剤しか打ってもらえなかった
うえに、「早く家へ連れて帰りなさい」と言われ、自身の危険も顧みず、遠い山田町の自宅
まで歩いて運んで行きました。途中、何度か息を引き取ろうとする彼でしたが、「もうすぐ
家に着くぞ、頑張れ」と活を入れられ、生命を持ち堪えましたが、自宅に着き、両親と顔を
合わせたら間もなく息を引き取りました。 (記念誌「都城泉ヶ丘高校百年史」より)
3
「ふりそでの少女像・未来に生きる子ら」~長崎原爆~
長崎市の長崎原爆資料館には、原爆で尊い命を失った少女の像が
建っています。この像の一人は、山田町出身の福留美奈子さん(当時
9才)です。
美奈子さんは、両親の仕事の都合で長崎に預けられた時に原爆の
だ
び
犠牲となり、親類の手で、もう一人の少女とともに晴れ着姿で荼毘
(火葬)にふされました。美奈子さんの母親は、今から17年前、その 「ふりそでの少女像・
場面を描いた1枚の絵(「悲しき別れ~荼毘~」松添博氏画)で娘の
未来に生きる子ら」
最期を知り、なんとか供養してやりたいと思い続けていました。
この像は、その思いを知った京都府綾部市内の中・高生らが、像をつくる会を結成し、全
国から募金を募り建てたものです。 (ホームページにも掲載されています。)