<二木会・勉強会レジュメ・2012 年 7 月> 真珠湾攻撃の年に生まれた世代だから知っておきたい日米の史実 (レポーター)宮原安春 <初めに>上田高校 58 期は、1941 年 4 月~1942 年 3 月に生まれた世代で ある。ここで、自分が生まれた年に何があったか。何よりも真珠湾奇襲か ら始まった太平戦争である。だが、身近な事柄でも、生活が苦しく思い出 したくないという"負の遺産"を背負っているので、意外と語られることが 少ない。長野県は山の中なので、疎開した人も多い。歴史の中で知られて こなかった日米のこの年のドラマを検証したい。 (同窓会で先輩と呼ばれる永六輔は 1 年間、劇画家の白土三平は 2 年間、 疎開して旧制上田中学に通学した人物である) 1) 戦時中、 戦時中、軽井沢は 軽井沢は中立地帯だった 中立地帯だった。 だった。 ☆「開戦前夜」 1941 年(昭和 16 年)7 月、米国は仏領インドシナ南部(現、ベトナム) の日本軍占領に抗議して、米国内の日本資産を凍結。それに対抗して、日 本政府は、日本国内の英米資産を凍結⇒軽井沢の英米人別荘を「敵産管理 法」を適用して没収。英米人は本国からの帰国勧告に基づいてそれ以前に 帰国していった。"軽井沢の村長さん”と呼ばれたダニエル・ノーマンは、 昭和 15 年 12 月 15 日に離日。英米人の代わりに、アジア各地にいた中立 国、ドイツ人、イタリア人が軽井沢に疎開した。 ☆「開戦によって」 1941 年 12 月 8 日、真珠湾攻撃。残っていた英米外交団(グル―米大使 など)、米国にいた日本人(来栖三郎特命全権大使など)は中立国スイス のゴルジェ公使の尽力で、翌年夏に交換船で帰国。 中立国、枢軸国の大公使館の疎開。深山荘にスイス公使館、尾崎行雄 別荘にイタリア大使館。万平ホテルにソ連大使館、フィリピン大使館、ト ルコ大使館、スペイン大使館、ポルトガル公使館。その近くに、アフガニ スタン大使館、チェコスロバキア大使館、フランス大使館、中華民国大使 館、アルゼンチン、ルーマニア、スウェーデン、国際赤十字などの公館 (合計約 300 人)が疎開した。ドイツ大使館は東京大空襲で焼け落ちた 後、河口湖畔に移転。外務省は、三笠ホテルに軽井沢出張事務所を設置し て公使を駐在させた。特別警察、憲兵がこれらの外国人を監視していた。 民間の外国人は日本人に英米人と他に国の人の区別がつかないので軽 井沢疎開を勧告。ソ連人のスタルヒン投手、フランスの新聞記者ロベー ル・ギランなど約 2000 人以上が軽井沢にやってきた。 英米人のウィリアム・ヴォーリズは一柳(いちやなぎ)米来留と改名し て日本帰化(彼の母はいかにもアメリカ人のため、一歩も外に出ず)。富 山青葉幼稚園のアームストロングは亜武巣と改名して日本帰化。 スイスなど中立国大使館があるので、 「米軍は空襲しない」という噂で、 ブルジョアや特権階級が別荘に疎開。政治家では、近衛文麿、石井菊次郎、 宇垣一成、細川護立、鳩山一郎(1 万坪の別荘で養蜂など農業をしたが、 日記によると旧ゴルフ場でゴルフ三昧の日々)など。 一般市民では、八丈島島民、学童疎開(日本女子大付属校、暁星初等学 校など)。当時は米の配給制なので、 「寒くて、空腹の冬」を軽井沢に滞在 した人物が、別荘、ホテルに溢れかえって、昭和 15 年の 1・7 倍だった。 2) 戦後は 戦後は進駐軍の 進駐軍のレスト・ レスト・センターに センターに 終戦を一早く知った軽井沢人。前田多門の息子・寿雄が「短波放送にし がみついていたので、8 月 10 日にはポツダム宣言を知っていた」 (神谷美 恵子関係の証言) 。フランス、スイス人は、日本の降伏を 10 日に衆知。 1945 年 8 月 15 日、終戦。 1945 年 8 月 30 日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは専用 機で厚木基地に到着。東京の第一生命ビルをGHQにして日本占領政策を 実施した。米軍の将兵 15 名(軽井沢に縁の深い人中心)は 1945 年 9 月 15 日、先遣隊として軽井沢入り。その後、長野県は第 97 師団司令部の管 轄下になり、1030 人の兵士が駐留した。 1946 年 4 月、軽井沢が米軍のレスト・センターに指定。万平ホテルが 本部になり(冬季にも使えるように改造した)、三笠ホテル、ニューグラ ンドロッジは兵士用に接収。将校用別荘として、前田利為邸、川崎肇邸な ど 46 軒の水洗トイレ付洋式別荘が接収された。旧ゴルフ場は乗馬用の放 牧場に、新ゴルフ場は将校用ゴルフ場になった。 日本生まれの宣教師の子ども(BIJ)の活躍。ハーバート・ノーマン、 エロイーズ・カニングハムなど。 来栖三郎・アリスの娘、壽永(ジュエイ)と輝(=米国名・ピア)は、 米軍との通訳に駆り出されて、米軍兵士のアイドル的存在に。来栖三郎は 公職追放になり、その後、脳内出血で倒れ、外交や政治に復帰できなかっ た。(来栖三郎一家を描いた加賀乙彦「錨のない船」は、日本軍兵士とし て召集された長男の死に関してフィクションにしている。) 基本資料・宮原安春著「軽井沢物語」(講談社) レジュメ(その2) 「大統領自由勲章を」をオバマから授与されたゴードン・ヒラバヤシ (1) 脚光を 脚光を浴びたゴードン びたゴードン・ ゴードン・ヒラバヤシ ☆「大統領自由勲章とは何か?」 アメリカ合衆国で、第二次大戦後、独立の理念である、自由、民主主義などに貢献し た市民に与える最高位の勲章。これまでの主な受勲者=ジョン・F・ケネディ、モハメ ッド・アリなど。今年はボブ・ディランらとゴードン・ヒラバヤシが、5 月 29 日、 ホワイトハウスで、オバマ大統領から叙勲。但し、ゴードン・ヒラバヤシは今年 1 月、 93 歳で死去したため、再婚したスーザン夫人が代理で受け取った。この叙勲式は、ボ ブ・ディランが受勲したのでマスコミが大きく報道し、ユーチューブでも流れた。 ☆「日本で知られなかった在米日本人、日系アメリカ人の苦闘」 1941 年 12 月 7 日、日本軍による真珠湾攻撃。ルーズベルト大統領は「後世に残る恥 辱の日」と述べて、対日宣戦布告を議会に通告。翌日、連邦議会は宣戦布告を可決。 1942 年 2 月 19 日、ルーズベルトは大統領行政命令第 9066 号に署名。 「軍事上必要な場合、軍事地域として設定された地域から、すべての人々を立ち退せる 権限」を陸軍長官、軍管区司令官に付与する。 「日系人は敵国人種であり、アメリカ本土で生まれた二世、三世の多くが国籍を獲得し てアメリカ化したが、人種的血のつながりは薄まっていない。死活にかかわる重要な 太平洋一帯には、現在、敵になりそうな日系人が 11 万2千人以上も野放しになって いる」(西部防衛司令官デュウィット将軍) だが、在米ドイツ人、イタリア人は敵視されなかった。 3 月 2 日、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州西半分、アリゾナ州南半分 を軍事地区に指定し、在米日本人および日系アメリカ人が立ち退くように命令。 3 月 24 日、日本人および日系人に夜 8 時から午前 6 時までの「夜間外出禁止令」 。 手荷物だけを持って、集合させられ、砂漠や荒地に急造された 10 か所のキャンプ(収 容所)に送られた。 「シカタガナイ」と「羊のように」、11 万 5 千人ほどが送られた。 有刺鉄線に囲まれ、見張り塔からは機関銃。脱走するものは射殺された。 この中から、米国に「忠誠を示すために」 、日系人だけの 442 連隊が作られて、欧 州戦線でドイツ軍と果敢に戦った。その部隊の隊長だったダニエル・イノウエがハワ イ選出の上院議員になっている。 ☆<アメリカ憲法修正第 14 条>(1868 年成立) 「合衆国において出生し、または帰化し、その管轄権に服するすべての人は、合衆国お よびその居住する州の市民である。いかなる州も合衆国市民の特権または免除を損な う法律を制定し、あるいは施行することはできない。またいかなる州といえども正当 な法の手続きによらないで、何人からも生命、自由または財産を奪ってはならない。 またその管轄内にある何人に対しても法律の平等なる保護を拒むことはできない」 ☆日本人および日系人の強制収用を「憲法違反」と考えたゴードン平林は、たったひ とりで、夜間外出禁止令を無視して、命令に「不服従する」という異議申し立てのビ ラを撒いた。その抗議の意志を知ったクエーカー教徒の州議会議員や大学教授、学生 らが「ゴードン防衛委員会」を組織して支援した。 5 月 2 日、ゴードンは弁護士同行でFBI(連邦捜査局)に出頭し、逮捕。 (このとき、ゴードンは 23 歳、ワシントン大学 4 年生) 第一審 「強制排除命令違反」で懲役 45 日、「夜間外出禁止令違反」で懲役 45 日。 連邦最高裁 1943 年に有罪判決で結審。その服役後、アメリカ女性エスター・シュ モ―と結婚したが、次に、徴兵拒否で 1 年の有罪判決で服役。 (3 年 9 ケ月の戦争中、2 年間を拘置所、刑務所で過ごした。) (2)理想 理想を 理想を求めて渡米 めて渡米した 渡米した穂高出身者 した穂高出身者が 穂高出身者が直面した 直面した人種差別 した人種差別 1906[明治 39]年、07[明治 40]年、内村鑑三の弟子である井口喜源治が設立した 研成義塾(現、安曇野市)出身者が相次いで 70 名ほどが渡米。 「諸君よ、諸君は今や祖国たるに本を離れて遠く風俗、言語、習慣、気候等の異なる 土地へ行くとも、神様はつねに諸君の側にありて、諸君の祈祷を聞き給うがゆえに、物 質主義の奴隷となることなく、正を踏んでおそれず、潔く勇ましき生涯を遂げられんこ とを切望いたします」井口喜源治「渡航せんとする友に」[明治 39 年] 1913 年(大正 2 年) 、穂高倶楽部結成(25 名) 。同人誌「新故郷」を創刊。 その建物に同教の独身者が寮生活をし、日曜日ごとに全員が集まって「聖書研究会」 を開いて礼拝。勝野庄一郎、伊藤豊作らの家族はポンテアックで農業に従事。 (彼らは、1906 年に連邦政府が帰化法を改正し、日本人を帰化不能外国人にした ことを知らされていなかった=アメリカ市民になれなかった=公民権がないから投票 権がなかった。) 1914 年、平林俊吾が故郷に依頼して結婚したみつが渡米。 (写真花嫁のひとり。この 頃、渡米移民者は迎妻旅行で故郷に一時帰国するか、親戚が選んでくれた女性と写真 結婚した。その「写真花嫁」が米国側から「野蛮だ」と非難された。) 1914~1918 年、第一次世界大戦。最後の頃に米国も参戦。 1918 年、勝野庄一郎、平林利治、平林俊吾、横山信之の 4 家族で、タマスに40 エーカー(16 万平米=約 16 町歩)の「ホワイト・リバー・ガーデン」を始める。土 地の名義は、アメリカで最初に生まれた(1910 年)アメリカ市民・勝野愛子にする。 同年、平林俊吾、みつの間に二男のきよし(潔) ・ゴードンが生まれる。 ―1920 年、アメリカ合衆国憲法修正第 19 条で「女性の選挙権」―。 1921 年、ワシントン州が「排日土地法」を制定。勝野愛子名義の土地が摘発第 1 号 になり、土地を没収される。4 年間、連邦最高裁まで争うが敗訴。 1924 年、連邦議会、 「排日移民法を」を可決。これ以降、日本人移民が許されなくな り、独身者は結婚相手がないまま過ごしていった。二世の子供たちは、幼児期に「サ イバン(裁判)」 「ハイセキ(排斥) 」 といった日本語を知ることになる。 (3)長 長かった再審勝訴 かった再審勝訴への 再審勝訴への道 への道 1951 年(昭和 26 年)サンフランシスコ講和条約。 1952年、 排日移民法が撤廃となる。日本人移民の市民権が認められる。 1960 年代、公民権運動が盛り上がる。それに触発されて、日系三世の間で、移民史、 自らのルーツ探しの研究が盛んになる。 1981 年、連邦議会に「戦時民間人再定住・抑留に関する委員会」が設置されて、20 回にわたる公聴会が開かれ、ゴードン平林を含む 750 人以上の日系人が証言。 1982 年、合衆国の公文書館で「強制収用する軍事的必要性はない」という海軍省報 告を発見。それを契機に、ゴードン平林らの再審請求が始まる。日系三世の弁護士、 ミネタ下院議員などで、 「ゴードン平林支援委員化」がスタート。 「羊のごとく」収容所に向かった日系人と対照的に、憲法違反で争ったゴードンは「ラ イオン」と呼ばれた。忠誠のために戦った 442 連隊と正反対の「不服従」が評価。 1987 年 9 月 24 日、連邦高裁が「戦時下の大統領命令 9066 号は違憲」と裁定。 ゴードン平林、再審で無罪を勝ち取る。 1988 年、レーガン大統領、日系人に対する「強制収用は歴史に残る一大汚点」と正 式に謝罪し、収容者一人につき 2 万ドルの補償を行う。カナダも同じく謝罪。 憲法制定 200 年祭で、キング牧師の「私には夢がある」の演説と並んで、ゴード ン平林の「危機のときに機能しなければ憲法(コンスティテューション)は単なる紙 切れにすぎない」が重みを持って伝えられる。 (4)エピローグ エピローグ 1999 年、アリゾナ州の国定公園ウォルナット・キャニオン(7 世紀~13 世紀、古 代インディアンのシナワ族が住んでいた遺跡)に、「ゴードン・ヒラバヤシ・リクリ エーション・サイト」が造られる。 「ゴードンの人権を守る闘いによって、今の我々がある」、アフリカ系で初めて大統 領になったオバマは彼の功績を述べている。 基本資料・宮原安春著「誇りて在リー『研成義塾』アメリカへ渡る」 (講談社)
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