作業関連性筋骨格系障害(頸肩腕障害・背腰痛症等)の 45

作業関連性筋骨格系障害(頸肩腕障害・背腰痛症等)の 45 年間の取り組み
(一般財団法人)京都労働災害被災者援護財団 京都城南診療所
三宅成恒(医師)
はじめに
昨年(2012 年)12 月初旬に、京都民医連教育部の依頼により、私の永年の経
験を、「その過去、現在そして未来」と題し、京都民医連の医師として働いた約
45 年間をまとめ、役席職員を前に語る機会を与えられました。そのことは私に
とって、自身の活動を見直し整理する貴重な機会となりました。
また昨年度、37 年間、継続実施してきた京都市依頼の「民間社会福祉施設職
員の背腰痛症および頸肩腕障害に関する健康診断」が廃止されることになり、
その経過の沿革を京都民医連職員に知らせる必要性が生じています。
その経過と課題
私は臨床医、一般内科医であることを基本にして、産業医学、労働衛生、労
災職業病といった分野を永年取り組んできました。その活動の場は、京都民医
連の南ブロック(吉祥院病院、久世診療所での 8 年間)
、上京ブロック(上京病
院等での 20 年間)と現在の京都城南診療所での 17 年間であり、そこにおいて、
(1)職場における頸肩腕障害、背腰痛症、
(2)林業における手持ち振動工具
使用による振動障害という二つの健康課題を今日まで継続して扱ってきました。
こ れ ら の 健 康 障 害 は 、 今 日 、 作 業 関 連 性 筋 骨 格 系 障 害 ( Work-related
Musculoskeletal Disorders WRMSDs)という名称で総称されています。
労働者健康問題に遭遇した経過
私がこれらの労働衛生課題に遭遇したのは、医師の出発点たる研修医期間お
よび民医連に入職して間がない若手医師の期間でした。1966 年 3 月に鳥取大学
医学部を卒業後、研修先として京都大学医学部付属病院を選び、研修医として
在籍しました。大学病院の内科研修医となる傍ら、無給医のアルバイト先とな
った吉祥院病院において働き始めました。午前中は大学病院において指導医の
もと受け持ち患者の回診や必要な検査を終え、午後には吉祥院病院に行き回診
をするという二重の生活が医師としての出発点となりました。
この 2 年間に遭遇したのが吉祥院病院での「労災職業病外来」と「労働衛生
相談室」でした。病院長(当時)の橋本雅弘医師は、全国に先駆けて高血圧な
どの慢性疾患管理活動を開始するとともに、当時の関西医大衛生学教室助教授、
労働衛生学者細川汀(みぎわ)先生の助力を得て、
「社会医療事業部」を創設し
「労働衛生相談室」を開始していました。1960 年代と言えば、日本は、高度経
済成長政策のもと、異常なスピードで労働形態の機械化・高度化を進め、労働
1
省の統計上でも労災事故死が年間1万件を超え、1963 年 11 月には三井三池炭
鉱災害が勃発する等、労働者の健康破壊や安全無視、
「公害」などの環境破壊が
横行し、医学生や新任医師の意識にも大きな影響を与えていました。
吉祥院病院の相談室には、中小企業の多い京都市南部にふさわしく配管工の
慢性一酸化炭素中毒症や有機溶剤中毒症などの事例の相談が持ち込まれていま
した。中でも京都市内中心部のオフィス街から、金融機関に働くキーパンチャ
ー・タイピストの人たちの受診が殺到し、研修 2 年目ごろには土曜日に相談日
や健診日を特別に設定し、私自身も一員として問診、検査、診察に加わりまし
た。京都の主要な大手金融機関、京都府や京都市の役所、労働局、裁判所関係
等多種の労働者が吉祥院病院の手狭な中小病院を受診し、今日では想像できな
いような状況を招来していました。
医師の出発点における重大な選択
この時期は、私にとって、内科医として踏み出し、大学病院と吉祥院病院で
症例を積み重ね、指導医のもとで技術研修をし、内科医としての腕を着実に高
めている重要な時期であり、多忙かつ充実した日々を送っていました。研修期
間も終わりとなる 1968 年春になって、大学病院内科医局より 4 月から全国の関
連病院のいずれかを選択し、数年間赴任するよう迫られました。ここで選択し
たのが京都民医連医師として育つことでした。その 4 月から正式に吉祥院病院
の常勤医となりました。
この道を選択した背景にはいくつかの理由がありました。当時「頸肩腕障害、
背腰痛症」の多発の背景、病因を巡って医師間に、その立場によって以下の表
に示すような大きな見解の相違がありました。そのことが要因となって、労働
界・医学界が混乱し、その結果、被災者たる労働者の多くがまともな治療や扱
いを受けることができない状況が続きその解決が切に迫られていました。その
ことが吉祥院病院を頼って多くの労働者が訪れた理由だったのです。またより
具体的には、当時、
「滋賀銀行従業員組合の闘い」と言って、組合を分裂させら
れ残った 50 数名の人の内、11 名が労災認定を求め立ちあがった運動がありまし
た。その診断意見書を書き、闘争を支援し始めていたことも理由の一つとして
ありました。
すなわち労働者・被災者の運動が高まり、社会的にもその深刻さと広がりが
認識されながら、その解決の方向を指し示す筈の肝腎の医学的見解が分かれ、
とくに国や使用者側、指定医たる公的医療機関医師の見解はそれら障害を様々
な理由と権威付けで否定していました。それを跳ね返す運動に大きく関わりた
いとの思いを強くもっていました。
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橋本雅弘講演論文「医学医療の階級性について」から
労働省の主張
使用者側の主張
会社指定医の主張
「パンチャー・タ 外国にない
イピスト病」
学問的に不明
診断困難
編物でもなる
運動不足
体質による
労働組合の誇大宣
心因性(ノイロー 伝
ゼ)
「白ろう病」
外国にない
診断基準が無い
オートバイでもな 栄養が悪い
る。心因性
労組の誇大宣伝
体質による
不注意からなる
腰痛症
労働との関係不明
診断困難
軽い物でもなる
先天性 心因性
CO中毒後遺症
文献にない
診断困難
これまでなかった
元来知能が低い
労組の指令
心因性
民医連の教育
第 2 組合のものは
よくなる
慢性CO中毒
文献にない
学問的に不明
これまでなかった
元来知能が低い
心因性
梅毒などのため
慢性CS2中毒
文献と違う
学問的に不明
今までなかった
元来知能が低い
労組の指令
作業中止しても良 民医連の教育
くならない
梅毒などのため
フタロニトリル中 文献にない
毒
動物実験による
労組の指令
不注意から起きる
労組の過大宣伝
民医連の教育
不注意から起きる
てんかん体質によ 労組の過大宣伝
る
開発にはつきもの
(1991 年:
「橋本雅弘講演論文集―『ともに歩んで 30 年』労働衛生(医学)事
始め―頸肩腕障害と吉祥院病院の歩みを中心に」から)
労働者の健康被害の実態を医学会に報告することを仕事とした
1968 年 4 月に吉祥院病院の常勤医となるとともに、6 月から久世診療所所長
の任務を要請されました。また翌年の 1969 年 8 月には、私のもう一つのライフ
ワークである京都府下民間林業労働者のチェンソー等振動工具使用者の出張健
診が始まりました。これらの健診の任務や日常診療とともに、吉祥院病院を訪
れた多くの「職業病」患者の健康状態を整理し、それを産業医学会に報告する
必要性を強く感じていました。
1968 年の金沢における日本産業衛生学会に、先ず初めての報告をしました。
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幸い 1969 年には日本産業衛生学会の「近畿地方会」が「事務機械化作業者等健
康管理研究会」を発足させ、1971 年までに計 14 回開催しました。この研究会
は細川先生が尽力され立ち上げたものですが、私はそこへしばしば参加して、
吉祥院病院で使っていたカルテや検査項目、症例を報告しました。この研究会
の活動は、1970 年の徳島における産業衛生学会において、改めて学会における
「頸肩腕症候群」専門委員会として位置づけられ、全国の大学の公衆衛生、労
働衛生、企業の産業医、神経内科、整形外科医等、約 20 数名とともに私も委員
に任命されました。専門委員会は 3 年間に 17 回の会議を開催し、その作業の中
で、病像、障害の成因、健康診断、健康管理をまとめ、これまで一般的に「腱
鞘炎」あるいは整形外科的に言う「頸肩腕症候群」と異なって「頸肩腕障害」
という新しい障害の定義と病名を世に公表しました。1)2)3)
医学界における反発と運動の封殺
産業衛生学会の専門委員会の 3 年間の作業によって結実した成果のもつ意味
は大きなものがありました。
「医学的な統一見解」ができたことによって、それ
に基づいて問題に当れば、立場を越えて問題解決が図れるからです。
しかしそれは医学界にすんなり受け入れられるものではありませんでした。
とくにその定義について、災害医学会や整形外科関係学会は、
「むしろ混乱を招
く」とか、委員会の構成は申し分なかった筈なのに、
「専門家が加わっていない」
と猛反発と非難を浴びせました。1974 年には電々公社が「プロジェクトチーム
答申」を発し、発症の原因を「本人の性格」、
「仕事に対する労働者の意識」、
「家
族関係」に求め、75 年には労働省は「頸肩腕症候群」の労災認定基準を発し、
それらは学会の成果を活かすどころか、まったく無視し、障害が長期化するこ
とを認めず、「3 カ月で治る」とし、長期化するのは「心因的」的な原因がある
とし、認定の幅を狭め、運動を封殺するために医学的な統一見解を最大限に利
用しました。
京都市民間社会福祉施設職員における背腰痛症、頸肩腕障害の多発と労災認
定闘争
このような状況にも拘わらず、全国の都市圏では様々な職業病闘争が闘われ
ていました。これまでの障害は、パンチャー・タイピストやチェッカー(スー
パーのレジ作業者)など何らかの打鍵作業を行う作業者に起こる障害が中心で
したが、障害児やお年寄りを抱え上げて腰を痛める施設職員の背腰痛症も大き
な問題となってきました。まず発端は 1967、68 年頃、近畿圏の重症心身障害児
(者)施設に働く保母や指導員に腰痛症が多発し社会問題化しました。
京都市北区の待鳳診療所は姫野純也所長を中心に交通事故の「むち打ち症」、
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それに続いて保育所の保育士や調理師の背腰痛症・頸肩腕障害を扱い始め、多
くの患者が集中していました。1973 年にはそのうち京都市内の保育所 11 カ園
の保育士、調理師が背腰痛症のみならず手指や腕の障害を来したとして集団で
労災認定を求めて申請しました。その理由は、保育士の仕事が、典型的な打鍵
作業でないこと、障害児施設のような重度の児童の抱え作業でないことから腰
痛発症の原因を一般化できないとして 2 重の意味で認定の道を閉ざされていた
からです。この運動には私保労(京都私立保育所労働組合)という個人加盟の
労働組合が奮闘しました。保育士ら 23 名が労災申請し、翌 74 年には 3 名を除
いて 20 名が「業務外」の認定を受け、77 年にはその内 9 名が不服審査請求を
起こし、1981 年になって中央の労働保険審査会において 6 名が「業務上」と認
定されて決着しました。そして大阪や京都など公立、私立を問わず、保育所等
社会福祉施設において背腰痛症のみならず頸肩腕障害が多発しており自治体に
対して健康診断実施の要求が高まっていました。
「労災職業病センター」と位置づけられた上京病院
待鳳診療所が職業病と「むち打ち症」患者で手狭になり、1974 年に姫野医師
とともに幾人かの職員が上京病院(「労災職業病センター」と位置づけられた)
に異動しました。私も、当時ようやく始まっていた「振動障害」患者の労災認
定と治療を促進するために要請して 75 年に、異動し活動を開始しました。上京
病院の医局は、当時、松本伸也、北原聖司、姫野純也、鈴木憲治医師を擁して
いました。
京都市民間社会福祉施設職員の「頸肩腕障害・背腰痛症」健康診断の開始と
今日までの経過
私保労や職業病患者は労災認定の運動を起こすとともに、京都市に対して、
(1)健康診断、健康調査の実施、
(2)
「健康管理制度」
(健康管理対策費貸付
制度)の確立を要望しました。1975 年に、京都市民生局の指導のもと、行政と
各施設(保育所、老人福祉施設、障害児<者>施設、児童福祉施設)の代表に
よる「健康管理委員会」と、組合を含む「健康管理協議会」が構成され、
「健康
管理実施要綱」に基づいて、京都市内のあらゆる民間社会福祉施設の職員を対
象とする頸肩腕障害、背腰痛症に関する健康診断が開始されました。
この健診は今日まで 37 年間継続実施され定着してきましたが、2012 年度を
もって廃止されました。この間の成果は大きいものがありました。当初 2,000
人の対象者は、今日、全施設の新入職員を含め、約 6,000 人を包含するまでに
なり、福祉関係職員を対象に、
「ピックアップ方式」によって「要受診者」を選
び出し、約 25 種の職種について健康診断を実施し健康を管理していく体制を確
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立させてきました。その中で、重度の有症者は減少し、軽症化し、有症者への
援助や労災認定の容易化や促進によって、長期に休業を強いられる事例は次第
に少なくなり、初期の頃の「職業病」が多発した頃とは全く様相が変わりまし
た。
また健康診断による障害の早期発見の他に、当初、発症原因について「医学
的にも不明である」とされたことに対して、幾度か大規模な健康調査(疫学調
査)を繰り返し、障害発生の背景や原因を明らかにし、その結果を研修会等で
受診者が共有、また労働条件の改善等によって障害の発生予防をはかってきた
と考えています。このような大規模で継続的な「頸肩腕障害、背腰痛症」の健
診を行っている府県は全国的に見ても皆無です。
病態解明のための様々な活動や裁判への援助
これらの障害が労働と深く関わって発症することを資料に基づいて解明する
作業や、裁判で立証する作業が重要でした。
1) 「頸肩腕症候群」専門委員会でのまとめ作業は、「文部省の科学研究費」
の助成を受けることになり、その作業の結果、1979 年に「頸肩腕障害―
職場におけるその対策」を出版し、私は第 2 章「労働態様と病像・病型
について」の第 5 章「保母の頸肩腕障害」を担当執筆しました。
2) 「吹田保母の健康裁判」では、保育士 T さんの「頸肩腕障害・背腰痛症」
について、1979 年の公務災害申請、86 年の大阪地裁への提訴を経て 94
年の大阪高裁における逆転勝訴判決を得ました。実に 15 年の経過を経て
決着をしました。
3) 宇治市職員の頸肩腕障害の公務災害事案では、1993 年に基金支部に認定
申請し、99 年に京都地裁にて勝利判決を得ました。国の公務災害認定基
準にうたう「障害は発生したとしても概ね 3 カ月で治癒する。治癒しな
いものは私病による」に対して、具体的事例を通じて反論しました。ま
た 80 年代、90 年代には保母の背腰痛症はもちろんのこと頸肩腕障害の
労災認定もかなり容易になり始めました。
海外の動向
これまで「頸肩腕障害」を否定する根拠として使われたのが「海外にない」、
「日本特有な現象である」という理由でした。ところが日本に遅れること約 10
年後に、欧米諸国で同様な障害が多発し大きな社会問題になっていました。
1) 1986 年 4 月、広島における日本産業衛生学会において、学会の研究会に
おいて、
「頸肩腕障害に関する最近の海外の動向」と題して「オーストラ
リアにおける動向」を話しました。豪州でも 69 年に「オフィスにおける
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腱鞘炎」の多発が報じられて以降、70 年代、80 年代と多発し、84 年に
は WHO は、RSI(Repetitive strain injury 反復性緊張障害)調査のため、
米国の医科大学教授ら調査団を送っています。
2) 1982 年 9 月に東京において、当時、国際的に問題になり始めていた「頸
肩腕障害」に関する「ワークショップ」が企画され、
「拘束性の強い作業
による職業性の頸部および上肢障害」のテーマのもとに日本から 6 人と
欧米から 7 人が指定され発表することになりました。私は表題「職業性
頸 肩 腕 障 害 の 臨 床 像
Clinical Features of Occupational
Cervico-brachial Disorders 」(三宅、細川、姫野)として、上京病院で
経験した症例をまとめ発表しました。4)
1990 年代から 2000 年代に入り劇的な変化を迎えた WRMSDs 問題
1) 欧米諸国での障害の多発の状況を背景に、1992 年に国際学会(PREMUS
Prevention of Work-related Musculoskeletal Disorders 「作業関連筋骨
格系障害の予防」)が設立され、3 年ごとに開催されるようになりました。
2) 整形外科学会は、疾患を作業関連性の観点でとらえ効果的な予防対策を
追求すると言う国際的な流れを受けて、作業関連の要因があると考えら
れる頸肩腕症候群を「頸肩腕障害」とすることを提案しこれまでの全否
定を改めました。また 2004 年に、日本整形外科学会労働産業委員会は、
訳本「上肢筋骨格系障害の診断ガイドライン-作業関連性障害の評価基
準―」を発行しました。
3) 滋賀医大垰田和史助教授らは、2006 年に日本産業衛生学会の頸肩腕障害
研究会の約 2 年間の作業によって、
「頸肩腕障害の定義・診断基準・病像
等に関する提案」を発表し、約 30 年ぶりに改訂しました。5)6)
まとめ
私のもう一つのライフワークである「振動障害」の取り組みについてはほと
んど触れていません。これら二つの WRMSDs の取り組みには、問題の発生の
当初から関わったことをはじめ、被害を被った労働者の労災認定・補償などの
救済にとどまらず、健康診断などを通じて障害を早期に発見し、未然に防ぐこ
とも重要な仕事として取り組んできました。幸い両者についての永年の取り組
みによって、障害の発生を大きく減少させ、または軽症化させることができま
した。
ひとつ悔やまれることは、1980 年、90 年代には、広く国内外の学会に目を向
け対応すると言うよりも、国・厚生労働省が強めた労災患者の打ち切りや認定
の締め付け等の攻撃に対して、まったく守勢に立たされ、また診療の場たる院
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所を守ることに多くの精力を費やさざるを得なかったことです。
しかしながらこれらの取り組みを通じて、南ブロックを手始めに、上京病院
を「労災職業病センター」として盛り立て、また 1996 年からは現在の「(財団
法人)京都労働災害被災者援護財団・京都城南診療所」に異動して京都民医連
の1院所として再建を果たすことができました。3 年前に新所長を迎え、今年 4
月から一般財団法人として新しい一歩を踏み出すことができたことは大きな喜
びです。各界の御支援に感謝しつつ稿を終えます。
2013 年 7 月 (みやけしげのぶ)
参考文献)
1)
2)
3)
4)
5)
6)
7)
労働基準調査会:「頸肩腕障害―職場におけるその対策」1979 年
「京都民医連医報」1991 年 1 月、Vol.18 通巻 33 号「特集:公害・労働
者の健康問題」
「民医連医療」1997 年 10 月 303 号「特集:働くもののいのちと健康を
守るために」、「三宅成恒-労働者の健康をめぐる民医連のとりくみの歴
史と到達」
「Journal of Human Ergology」( Vol.11.No.1 Sept.1982 )
「新医協」
(2005 年 6 月 1・11 日合併号)
「頸肩腕障害の定義・診断基準
を巡る議論の動向」滋賀医大社会医学講座予防医学部門 垰田和史
産業衛生学雑誌、49 巻 2 号 2007 年 3 月「頸肩腕障害の定義・診断基準・
病像等に関する提案」
第2回「作業関連性筋骨格系障害」日韓シンポジウム、2012 年 8 月 12
~13 日、ソウル市
8