メッセージの原稿

シリーズ: The Bible
part 35「罪人の友だち」
2016/10/23
あいさつ:ここにいる皆さん、ライブ中継やオンラインで見ている人、心から歓迎します。ライトハウ
スにようこそ。あなたが今日、来てくださり、本当に嬉しいです。
皆さんは中学時代、または、高校時代、どのような友達を作り、多くの時間を一緒に過ごした
でしょうか。僕の中学時代は、強豪校のサッカー部に入っていましたので、部活がほとんどでした。
部活内でできた友達が、万引きをやり始めて、それを教えてもらって、自分も万引きをするようになり
ました。高校時代の最初に作った友達は、タバコを吸う人がほとんどでしたので、自分もタバコを吸う
ようになったり、バイク仲間が多かったので原付に乗り、制服がなかったのでおしゃれな人が多くて、
自分もおしゃれに気を使うようになったりしました。良くも悪くも、このような友達ができたから、
自分はこうなったなと思うことがたくさんあります。
皆さんは、学生時代どのような友達を作ったでしょうか。もし全然違う友達を作っていたら、
あなたの考え方や習慣、進学先や就職にどのような影響を与えていたか想像できるでしょうか。学生時
代に限らず、どのような友達を作るかは、私たちの人生を最も大きく影響します。今のあなたは今まで
築いてきた関係によってできています。そして、あなたの10年後を予想したければ、あなたが今、ど
のような友達を持っているか、どのような人と時間を過ごしているかを見ればわかるのです。
さて、私たちは今年「The Bible」というシリーズを続けています。今日、皆さんが人生の中
で持つことのできる一番の友、他には比べることもできないほど最高の友達を紹介したいと思います。
それは、イエスです。「え、イエスと友達?目に見えないのに?友達って、一緒に笑ったり、スポーツ
したり、コーヒー飲んだり、助け合ったりするもんだろう。心の中の友達って寂しい孤独な人が妄想
で作るもんだ。だからキリスト教は変なんだ。ベストフレンドはイエスなんて言っている奴は、気持ち
悪いんだ。」そう考える人が多くいると思います。クリスチャンでさえ「イエスと友達?神様とか救い
主というのはわかるけど、友達と言われると、どうかな。友達とは思ってないし、イエスも自分のこ
とを友達だなんて思っていないと思う」と感じている人の方が多いかもしれません。
イエスの弟子の一人ヨハネは、一番多くの時間をイエスのそばで過ごした人で、彼自身イエス
に一番愛されていたと自分で思っていました。その彼が書いた手紙でこのように言っています。1ヨハ
ネ1:3-4「3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交
わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりで
す。4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」この手紙
は、異端や間違った教えが広まり始めていた諸教会に対して送った手紙です。それらの教会では、イエ
スが神かどうかも復活したかどうかもどっちでもよくなっていき、キリスト教が、救われたいから(地
獄に行きたくないから)信じるもの、聖書の知識を適用して良い人生を送るためのもの、もう救われた
から何をして生きたっていいんだ、教会にもいかなくてもいいんだ、などの間違った考えが蔓延してい
たのです。現代を生きるクリスチャンでも同じような考えがあるかもしれません。しかし、キリスト教
は救われるための何をすればいいのかという教えでも、神様に認められるためのルールでも、良い人生
を送るために聖書を学んで適用することでもないのです。ヨハネはキリスト教とは、天の父と御子イエ
スとの交わり、友情だというのです。それによって、私たちの人生において喜びが完全になるというの
です。ヨハネは、自分が持っていたイエスとの友情を、私たちも持つことができるというのです。私た
ちが友達に求めること、友達に期待すること、友情からもたらされるすべての良いことを、イエスから
全て完全に得ることができ、完全な喜びを見つけることができるのです。ヨハネは、イエスこそ私たち
に最も必要な友だと紹介しているのです。
しかし、イエスは、本当に私のことを友と呼んでくださるのでしょうか。どのようにして私た
ちはイエスが自分の友だと知ることができるのでしょうか。どのようにイエスとの友情を築くことがで
きるのでしょうか。ルカによる福音書に記されたザアカイという男のストーリーを通して、答えを見て
いきたいと思います。
ザアカイには、友達が誰もいませんでした。彼が取税人だったからです。取税人とは、イスラ
エルを支配していたローマ政府のために働くユダヤ人の仕事で、彼らは同じユダヤ人から税金を回収し、
ローマ政府にお金を納めていました。それだけでも裏切り者と言われるのに、ローマ政府が定めた税
金よりも多く集めた分はすべて彼らの給料となるので、ザアカイも仲間の取税人たちもできる限り高い
税金をユダヤ人たちから搾取し、富を築いていたのです。当時、取税人は泥棒やヤクザのように見られ
ていました。そして、この時、ザアカイは取税人のかしら、ボスであり、人々から最も恐れられ、嫌
われ、憎まれていた、有名な悪人の一人でした。彼が近づけば、みんな逃げていく。誰も彼に近づいて
くる人もいない。一緒につるんでくれる人がいても、彼を恐れてだったり、ビジネス目的だったり、何
か裏があり、友達だと思える人は誰もいなかったのです。
彼のストーリーを書き残したルカは、歴史家であり医者であり、重要な事実、内容は正確に書
く人でした。ルカ19:1-10「1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。2 ここに
は、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。3 彼は、イエスがどんな方
か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。」なぜザアカイは、
イエスを見ようと思ったのでしょうか。その一番の理由は、 で聞いた、イエスのあるひとつのあだ
名にありました。それは、「罪人の友イエス」。ザアカイは考えました。「救い主じゃないかと さ
れるあの人は、一体どんな人なんだろう。罪人の友達になってくれるという話だが、俺の友達にもなっ
てくれるのかな。取税人仲間だったマタイなんか、今ではイエスの直属の弟子の一人だというし。でも
俺なんか、取税人のボス、罪人界のボスだからな。さすがに俺のことを友達なんて呼んでくれないよな。
でも一目でもいいから、イエスという男を見てみたいな。」
それで、ザアカイはいつもより騒がしく人混みに れた通りに出かけて行きました。しかし、
すでに大群衆がイエスを取り囲んでいて、背の低いザアカイには全く見えませんでした。ルカがザアカ
イを「取税人のかしらで金持ち」だと紹介するのは、彼がどんなに悪いことばかりしていたかを手短
に見せるためなのはわかります。それでは、なぜわざわざ「背が低いからイエスが見えなかった」と、
彼の身体的な特徴をわざわざ理由に書いたのでしょうか。大勢の人がいれば、平均的な身長でも見え
ないでしょう。ルカは、私たちも自分が同じ状況にあることに気付かせようとしているようです。私達
も皆、それぞれ自分の罪のゆえに、自分の能力や努力では届かない、神様との関係を得ることはでき
ないと。罪とは、神様の考えに従うよりも自分の考えの方が良い、神様なしで幸せを作ろうとする態
度です。この罪のゆえに、神様との関係が壊れていて、誰も自分の良い行いや宗教的な行いで罪を解決
して、神様に近づくことはできないのです。あなたが気付いていても、気づいていなくても、私たちは
皆、ザアカイのように背が低い、神様との関係には自分からは手が届かないのです。
そこで、ザアカイは、違うプランを思いつき、実行しました。「4 それで、イエスを見るため
に、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられた
からである。」私たちも時々、ザアカイと同じようなことをするかもしれません。自分の力で届かな
いので、十分じゃないので、木の上に登って遠くから眺め、「これくらいの距離が自分にはちょうどい
いんだ。」と。イエスを知るだけで満足していたり、イエスを信じていると言いながら関係が遠かった
り、イエスは自分には関心がないと感じていたり、自分から距離を置いてしまうのです。
しかし、イエスはそう望んでいません。まだ誰も木の上のザアカイに気づいていません。しか
しその時、予想外のことが起こりました。「5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に
言われた。「ザアカイ。」大勢の人の目が一気に彼に注がれます。ザアカイは驚いて、思わず木から
落っこちそうになったことでしょう。イエスはザアカイと、そして私たちと友達になりたいのです。遠
くから見ているだけの手の届かないスターのような存在ではなく、互いに知り合い、一緒に時間を過
ごす友達にイエスはなりたいのです。ザアカイの方からは近づけなかったので、イエスの方から近づい
て、声をかけてくださったのです。
驚いたのはザアカイだけではなく、周りにいた人々も皆、驚き、ざわつきました。「イエス様
が、あいつに声をかけた。あの泥棒野郎に。あいつをお叱りになるに違いない。」しかし、人々の予
想を裏切って、イエスはザアカイにこう言われました。「急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの
家に泊まることにしてあるから。」6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。」イエ
スはザアカイがどこにいるのかを知っておられ、イエスの方から彼に近づき、彼の名前を呼び、時間を
一緒に過ごしてくださったのです。「ザアカイ、友達になろう」と言わんばかりに。
ここで、重要な事実に気づいて欲しいと思います。救いと関係、どちらが先にあったでしょう
か。この時点で、ザアカイは今までの罪を悔い改めて、イエスを救い主として信じていたのでしょうか。
いいえ、その証拠は何もありません。もしあったなら、ルカはそれを書き残していたでしょう。イエス
がザアカイに近づき、声をかけて、一緒に食事をし、彼の家に泊まろうとし、友達になろうとしたの
は、彼がふさわしくなったからでも、十分に良いことをしたからでも、イエスを救い主として信じたか
らでもなく、イエスからの一方的な招待でした。イエスは先に友達になり、関係を築こうとされたので
す。イエスの一番のフォーカスは、私たちの行いや状況ではなく、私たち自身であり、関係を築くこ
となのです。そして、イエスの方から私たちを探し、見つけ、救うために、天の家を離れて、人間と
なっておりてきてくださったのです。ザアカイが木から降りる前に、イエスが先にへりくだって私たち
のところまでおりてきてくださったのです。
イエスがザアカイの家に行かれた時、人々は「イエス様はあいつがどんな奴なのか知らないの
か?あの裏切り者、ローマの犬として働いている取税人、罪人のところに行くなんて。なんでよりによっ
てあいつの家なんかに。救い主という は本当かわからないが、罪人の友達という だけは本当らし
いな。」人々の不満の声が聞こえてきます。ザアカイもイエス様と話しながら、「この方は俺がどんな
人間か知らないのか?すべてのユダヤ人に嫌われているこの俺がどうして嫌われているのか知らないの
か。この家やこの食事を買ったお金がどこから来ているのか知らないのか?いや知っているに違いない
が…それでも、なぜ彼は俺を嫌ったり、拒絶しないんだ?」
その食事の席で、イエスがザアカイとどのような話をしたのか、ルカは何も記していません。
つまり、そこで何を話したか以上に、イエスと一緒にいたということの方が重要だということです。も
し、そこでイエスが重要な真理を話されたならルカは必ず福音書に書き記したでしょう。彼らは一緒
にご飯を食べて、ザアカイの話をイエスが聞き、またイエスの話を全員が聞き、ときに笑いが起こる、
本当に楽しい時間を過ごしました。イエスはザアカイと友達になり、一緒に時間を過ごし、楽しまれ
たのです。もしあなたがイエスの友達になりたいなら、そう願うだけで十分です。なぜなら、イエスの
方が、私たちが願う以上に、そう願ってくださっているからです。イエスと時間を過ごし、イエスを知
ろうとしてみてください。
イエスとの楽しい食事が進む中、ザアカイは心の中で思っていたことでしょう。「この方は、
俺がどんなことをしてきたのか気にせずに、偏見を持たずに俺に接してくれる。この方と一緒にいると、
なんだか自分が大切な存在なんだって感じるんだよな。この方は本当に俺の友達になってくれた。こん
な罪人の俺の友達に。」そんなことを考えていたら、思わず目から涙が れてきました。それに気づい
て少し家の中が静まります。イエスは優しく彼を見つめています。
すると突然、ザアカイが立ち上がって、オフィスから銀行の通帳と税金徴収表を取り出してき
て、イエスの前に置き、こう言ったのです。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに
施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」「イエス様。これは
私が今までしてきた不正の証拠です。見てください。これが私の人生を壊してきた私の罪です。お金や
権威が私の主人でしたが、これからはあなたが私の主です。ずっとあなたについていきたい。変わりた
いんです。だから、財産の半分を貧しい人に施し、今までだまし取ったお金は4倍にして返します。今
まで、不正ばかりしてきたけど、これからは正しく生きたいんです。だって、あなたが私の友達になっ
てくれたから。なんていうか、嬉しくてしょうがないです!」
ザアカイは今までの人生、自分の不正、自分の罪を認めて、深く後悔して、イエスの言葉とイ
エスの愛と恵みを信じて、従って生きていくことを宣言したのです。ザアカイは、木の上から降りてき
た時、今まで何も変わらないままでイエスの呼びかけに答えて、イエスを家に迎えました。そして、今
度は、イエスと一緒に時間を過ごし、イエスの愛と恵みを感じて、「変わりたい」と心から思ったので
す。ザアカイが変わりたいと思ったのは、イエスが経済の原則を教えたからでも、「こうしなければ救
われない」と宗教的な義務を命じたからでもなく、その方がより良い賢い生き方だと思ったからでも
なく、ただイエスと一緒に時間を過ごして、イエスの愛を感じ、神様の恵みに触れられたからです。イ
エスが共にいる喜び、神様に愛されている喜び、そのままで受け入れられる喜び、ザアカイの喜びは完
全になったのです。ザアカイは、イエスとの友情の中に、本当の自分を見つけたのです。
ザアカイの悔い改めの言葉を聞いて、イエスはこう答えました。「9きょう、救いがこの家に
来ました。この人もアブラハムの子なのですから。10 人の子は、失われた人を捜して救うために来た
のです。」イエスはザアカイのように失われた人、つまり、神様に愛され喜ばれている自分を見つけて
いない人、そこにある完全な喜びがない人、神様との関係、友情を持っていない人、失われた人を捜
して救うために来られたのです。あなたはイエスに見つけられて、完全な喜びを得た人ですか?それと
も、あなたは失われた人ですか。
イエスは失われている関係を取り戻すために、天の父がどのようなお方かをまず私たちに見せ
るために来られたのです。ヨハネ14:9「わたしを見た者は、父を見たのです。」イエスがどのように
人々に接したかを見ると、神様が私たちをどのように扱われるのかをはっきりと見ることができます。
イエスは自分の人気を得るためでも、多くの人を従わせるためにでもなく、単純に出会う人々を愛しま
した。イエスはこの世を非難し、有罪判決を下すために来られたのではありません。イエスが来られ
たのは、ご自分の正しさときよさを見せつけて、期待にそぐわない人々をはずかしめるためでもありま
せん。イエスは、失われ人を探して、救うために来られたのです。罪の中に縛られている人を自由にす
るために。孤族で、傷つき、絶望している人に希望を与えるために。イエスは、私たちの罪を裁くため
にではなく、取り除いて、私たちを義とするために来られたのです。義とは、完全に罪が赦され、取り
除かれて、神様との関係が回復した状態のことです。イエスは私たちに神様との回復した関係からくる
完全な喜びと平和を与えたいのです。
イエスが罪人の友だちと呼ばれたのは、私たちにとって最高に良いニュースではないでしょう
か。なぜなら、私たちも皆、生まれ持っての罪人であり、ザアカイのように自分からは神様に近づけ
ないからです。私たちがどのような過去を通ってきたとしても、今どのように生きていたとしても、私
たちの弱さや失敗、罪の深さにかかわらず、イエスは私たちの友となってくださるのです。イエスは私
たちを愛し、価値ある大切な存在と見ています。私たちの罪も恥も汚れも、イエスご自身が十字架での
死と復活によって、一度に全てを解決してくださったので、私たちは神様との関係を取り戻すことがで
きるのです。そして、神様との関係、神様と楽しみ過ごす時間、その中で味わう神様の愛と恵みこそが
私たちを変えていくのです。私たちにその願いと力を与えるのです。
イエスこそ私たちに最も必要な、そして最高の友です。私たちのすべてを知り、私たちを完全
に受け入れて愛し、私たちの痛みと弱さを理解し、いつも友にいて励まし導き、悲しみの涙をぬぐい、
傷んだ心を癒し、恐れと不安を消し去ってくれる。助けが必要なときに一番近くにいてくれる。全世界
を造られた力つよい方。話しかける時、いつも聞いて答えてくださる方。決して裏切らない見放さない
方。完全な味方として守ってくださる方。私たちの重荷を担ってくださる方。何よりも、あなたの人生
を壊し、支配して、不自由にしていた罪の鎖を解き放って、自由を与える方。これ以上の友がいるで
しょうか。このお方が私たちの友で、一緒に時間を楽しむなら、どのように自分の人生が変わっていく
か想像してみてください。自分の価値を正しく知り、生きる意味や目的を見出すようになります。喜び
と安心のゆえに、人に与え、仕えたくなります。神様が喜ばれないことはやめて、喜ばれることをした
いと思うようになります。愛と真実に満ちたイエスに似た人に変えられていきます。
今日、あなたがクリスチャンでも、まだクリスチャンでなくても、イエスを自分の友としたい
と願われる人がいるでしょう。その人は「イエスさま、あなたが私の主、救い主です。私の罪を赦し、
あなたの友達にしてくれてありがとう。あなたのことをもっと知りたいです」と祈ってください。今ま
でクリスチャンだったけれど、イエスとの友情を築いてこなかった人も、イエスとの友情を今から築く
ことができます。「目に見えない方とどうやって友達になるんだろう」と思うなら、どうか教会に来続
けてみてください。教会は、イエスの体であり、イエスが満ち れている場所です。教会で、お互いと
の関係の中で、私たちはイエスを知り、イエスと交わり、イエスとの友情を築くことを学ぶことができ
るのです。またイエスの言葉である聖書を読んで、イエスを知り、祈りによってイエスに話しかけてみ
てください。イエスとの友情を楽しみ、今まで以上に、親しみを感じる関係となりますように。