愚かさの源流 - Aitai net

脳科学では分析できない愚かさの源流
磯千明著
愚かさを分析するのは、脳科学ではなさそうである。社会科学科、心理学の分野であるかもしれえ
ない。しかし、人生経験からの考察が有っても然るべきであろう。小説、
「若春の彩」でも描いてきた
ところであるが、改めてコンパクトに時代の進展に光を当てたいと考える。暴風のような時代の風が
吹き抜け、人間を疎外するその根底を流れる愚かさや堕落を小説として描くことで時代認識の一面を
明らかにしたいと願った。が、必ずしもうまくは行かなかった。惜春の心残りを引きずりながら生き
てきたが、時代の変革に棹差すほどの力を発揮することも無く生涯を閉じようとしている。
改めて、当時の時代背景を分節することにはそれなりに意味あることと思うので、総体としての人
間の愚かさを記述しておきたい。当時の文化的背景を覆い尽していたものは、消費文化であった。
消費文化の本質は、消費の原因を「必要」からではなく、すべてを「欲望」にかえ、ことあるごと
に消費者のあらたな欲望を喚起することにある。
「市場の限界」を突破する永続的な「自己準拠系シス
テム」を高度経済成長期に作り上げてきた。 生活の乱れを単に、敗戦後の家族制度の変化・規範の乱
れによるものと考え、大きな価値観の転換に気づかない人びとが多数を占めていたと言える。ちまた
で、全共闘がセクト間の血みどろな闘いに明け暮れ、傷つけ合い、殺し合った。ヒッピーは真っ昼間
から新宿の地下街で人通りのあることに気を止めることもなくセックスする。一部には、性の乱れを
封建的抑圧からの解放・抵抗であると歓迎するものさえいた。しかし肉欲を商品として市場に売りに
出したのは資本の強欲な利益を求める輩であった。女たちを享楽市場における遊び道具・一種の商品
に変えてしまったのである。占領軍の持ち込んだ、資本主義的交換商品として、女の肉体をこうした
「物質」文化の産物のうちに、文化の具体的・実用的モノを所有したいと望む肉欲のうちに、その肉
体と人格の両面にわたって犠牲をしいられ、その魂と生命の両面からおびやかされた。さらに戦争で
傷つき、焼けつくような渇きを覚えると同時に、荒廃した同じ被害者であるはずの女らの肉欲の犠牲
にした。占領軍の「物質」文明に飲み込まれた退廃文化の本質が「消費文化」である。それらの文化
的破綻は、アメリカ人の子どもを産まされた母親たちや売春・キャバレー・ナイトクラブ・トルコ風
呂などの具体的な現象を通して現われているだけでなく、真実を知る機会をうばわれ、
「聖戦」と信じ
てきた人びとが不意打ち同然に敗戦を知らされ、茫然としているところに、卑猥な書物や刺激的な音
楽、飲んでは踊る「消費文化」の産物、ただ商品の交換に於いてのみ他人と結びつき、充足を見出す
といったパターンを持ち込んだ。我先に最大限の快楽を求め、人びとに片寄った生き方を強いる。豚
が餌桶を愛するように、人々が肉欲を愛することしか教えない「物質文化」の産物のうちに、刹那的
意識を日本に持ち込んできたのである。当時の知識人はそれらの本質を分析するどころか理解する事
さえできなかった。それどころか、多くの知識人が科学技術に諸手を上げて歓迎し、無軌道な資本の
ながれに対して抵抗するのではなく、逆に先導役を担う結果となった。アメリカ発の退廃的な「消費
文化」の本質が、
「資本の膨大な熱い前進運動」であることに気づかず、他人に遅れまいと先を争い、
同じ方向に走り出してしまった。科学的という冠を掛けることで自己満足し、自分が新しくなったと
勘違いした。多数決が、
「民主主義の原理」であると思い違いをし、多数派工作に躍起になった。党派
や会派し群がり、多数者の政治を求めるなど、見当違いの似非民主主義者になった。少数者の意見を
大切にするという民主主義の原理さえ理解しないインテリは庶民からも見放されることになる。貧し
さに植えていた人々は物の豊かさに圧倒され、次々に商品開発に走った。朝鮮戦争を境に高度成長を
遂げた日本の資本は猛烈な勢いで走り出した。ありとあらゆる場面で消費を煽り、モノがものをいう
「消費文化」を得意げに売り込んできた。洋服や日常雑貨・宝石や家等々…1960 年代は一通り循環し
た資本は再編成お余儀なくされ、利益の上がらないものはスクラップ化される時代へと進展した。売
れないモノは市場から排除される制度設計であった。
宣伝・広告さえも消費者の気分で無視される時代
へとなり、消費文化が何処に行き着くのかを見定めることのできない時代に入ったと言える。消費文
化というのは、無限に純粋に個人の欲望を開放してゆく運動であり、それ以前に考えられてきた社会
の基本と本質的に対立するものであった。これまで考えられてきた家族や国家は、個人の欲望や自由
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を一定の枠にしばりつけ、道徳や規範で制度化するものだからである。
世界大戦前の人類の歴史は、
「基本的に暴力が全て正当化される歴史」だった訳だが、第二次世界大
戦後においては、それが反省され、暴力ではなく「法と正義」
「人道と人権」が全ての行動規範となる
べきだというのが世界の常識になっている。基本的には立憲主義を機軸とする体制であり、道義的な
罪悪感や基本的人権の保護を求める原理が根底にある。しかしながら、
「消費文化」は、人間の欲望の
もとめる不定形な自由をそのまま肯定し、その欲望のながれを追いかけることと利潤動機とを一致さ
せることから派生する運動であって、道徳や倫理・規範などと無縁な運動である。無規律で無軌道な性
格をもち、そのために人種や民族、家族や共同体、国家などの集団をこえていく。その結果として出
現したのは、欲望と資本の無軌道な自動運動のなかにさいなまれる人間である。
日本の高度経済構造は、システムとして、永遠に拡大再生産が可能なものという前提条件を盾に走
り出したのであった。
富めるものほど富む現象は、
市場原理至上主義のそれこそ無軌道な出現により、
地球規模で進展し、人びとの欲望がフル回転をしはじめた時代で、明治維新や敗戦後の価値観の転換
よりもはるかに大きな価値観の転換点であった。けれども、この大きな価値観の転換を、人びとは生
活上の日常的身辺的世界の問題として意識することはなかった。循環することで完結していた経済シ
ステムは、使い捨てを「善」とするシステムにとって変わったが、一方で、使い捨てするにもその捨
て場に窮している。大量生産・大量消費・大量廃棄という経済システムが造り出す最後の部分に対して
人びとはのんきであった。人間の生活環境という分母に変調をきたし、持続可能なシステムを破壊し
つづけている。山河は荒れ放題で、ちょっとした豪雨で山崩れが起こり、何処の河川でも直ぐに洪水
が起こり得る事態である。生産性の上昇を追うあまり、廃棄物も量的に上限なしに増えつづけ、ゴミ
処分場が幾つあっても足りない時代がすぐ先に見え隠れしていた。水質汚濁、大気汚染、薬物汚染が、
都会といわず地方都市・農村地帯にまで広がった。今では、原発の廃棄ゴミなど処分にどれほどの負
荷がかかるのかさえ分からない状態にある。それぞれが個人の欲望を追いつづけることで、民主主義
国家が持つ、
「法と正義」
「人道と人権」が全ての行動規範を投げ捨て、自分の都合の良い解釈で物事
に対処する政治的気風を「公の論理」と極め込んだ。日本語の語彙から言えば「公の論理」とは、社
会的に必要欠かさざるものを個人が侵してはならないと言う考えであるが、それらの社会化された論
理を投げ捨ててしまった。民主主義を多数決であるというのは、そもそも思想としての民主主義の範
疇から外れた考えであり、歴史的・社会的概念から受け入れられるべき概念ではない。しかしながら、
日本の知識人や政治家は、愚かにもこのような原理原則を無視し続けることになった。公の論理の正
当性が失われたことで、社会の基本的秩序が崩壊したと言っても過言ではない。しかも「消費文化」
のもつ本質から言えば、人は誰でもモノにとりつかれ、市場原理に多かれ少なかれ支配されている。
自らの欲望を喚起することで、公の論理を失って行く。身近な人びととのきずなを断ち切られていく
個人の限りのない孤独や無力観をしばしば体験する。商品にひめられた、
「幸福である」とみなす思い
込みが裏切られたときの割り切れぬ思いは、
「消費文化」の切っても切り離せない裏面としてあらわれ
る。
しかし、
「事物」が語る言語の本質というものを全く理解できない、いや、理解しようとしないのが
常である。本能的に、
「事物」に魅せられて行くばかりである。
「事物」の言語は、知的な言語を駆逐
することは無いけれども、確かに、人びとに対して鋭敏に語っている。美食も、豪華なホテルの設備
も、豊満な肉体も、ブランドものの衣服も、宝石もしたたかな説得力をもってささやきかけてくる。
そのささやきかけてくることばが耳に届くところに足を踏み入れると、内なる欲望がそのささやきに
耳をすます。それらの商品はことばを発しているのだ。無生物と思われているものが言語を発してい
る。商品は言語として、「意味するもの」であり、その場合に、
「意味されるもの」は欲望をみたすこ
とである。商品のなかに潜む勢力として存在していたこのような記号論的言語性を全面的にひきだし
てみせたのは、使用価値という商品の現実態を覆いいかくす商業宣伝のさまざまな仕掛けであり、そ
れを武器にして猛威をふるう「消費文化」である。 人々は、そのような「事物」の言語にたえずさら
され、その雄弁に説得され、圧倒される。そうしてたびたびブームがおきる。 ブームというものは消
費行為の一つの形である。消費行為のながれにのって、欲望の命じるままにモノを手に入れようとあ
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くせくしたあげく、実際それを手に入れると、かつてはあれほど輝いて見えていたモノもたちまちガ
ラクタに変じる。人びとはモノにとりつかれ、市場原理に支配されて身近な人びととのきずなを断ち
切られていく個人の、かぎりない孤独や無力観に襲われる。商品にひめられた意味は幸福であるとみ
なす思い込みが裏切られたときの割り切れぬ思いは、
「消費文化」の、切っても切り離せない裏面とし
てあらわれる。
「消費文化」のなかで、孤立して欲望する個人としてあつかわれる消費者大衆の日常経
験である。 だが、ブームが去ったのちの荒野に放りだされた孤独をすぐに忘れる。つぎつぎに現れる
商品の言語にとびつきたくなる。大量生産・大量消費・大量廃棄時代の到来に魅了され、多くの人々
はうちなる欲望をおしとどめることができない状態にある。
理知的理解力はすでに崩壊し、
「消費文化」
のなかに取り込まれている。身動きがとれなくなっている。大量消費という新たな時代への対応する
まもなく、資本の熱い膨大な前進運動の前に打ちすえられた。
今時の愚かさの原点は、
「消費文化」の虜となった過去の精神性を負いきれない無残な姿でもある。
モノにとりつかれ、人間の精神性をないがしろに走り出してしまった過去の行為が、ずたずたに寸
断された不連続性によって方向性を失った結果である。高度経済成長期に人間の核となるべき精神性
の炉心を失ったことから生じていると言える気がしている。無規律で無軌道な行いがもたらす精神性
とは、関係性そのものが持続的に立ち行かない性質を抱え込んでいるからである。人々が抱え込んだ
精神性・我欲を野放しにすることで、使い捨ての「消費文化」に身を任せ、モノをむさぼる卑しさは、
無規律・無軌道で人々を堕落せずにはおかない。その資質が形として無責任な行為を許したのである。
市場原理至上主義社会の原理は、利益を上げることが目的であり、利益の上がらない生産システムは、
それが社会的に必要であっても容赦なく切り捨てることを求める価値観であった。本来、どのような
社会であっても「公の論理」が疎外され、利益ばかりを物色しては、成り立たない政治制度設計をし
てきた。原理・原則というのは、物事を考える上でも、事を進める上でも欠かせない真理である。欲望
に駆られて利益を貪っていると、思考が停止してしまう傾向にある。原理・原則がなし崩しに破壊され
る。小利口に立ち回り、目先の御都合主義で政治に介入すれば、原理・原則を失う。それがどうという
ことのない事柄であっても本質から言えば共通点が見られる。
例えば、記念日というのは、本来、日時が定まっているから記念日として成り立つが、小利口な政
治家が、祭日を連休にすれば良いというような馬鹿げた法案を出してきたらそれが通ってしまうのだ。
初めは小利口な政治家に馬鹿にされたぐらいに思っていたが、年数が経つにつれ、祭日である記念日
が何であったのか思い出せなくなった。5 月の連休など「こどもの日」以外は何だったっけ! と、
唖然とするばかりである。連休があることを知っていても、いついつ何の祭日・何の記念日であるか
が定かでなくなるのである。馬鹿げた御都合主義は本質を見失い、その意味するところを見失わせる
には効果的である。まさしくその点からいえば、中江兆民氏のおっしゃる通りということになる。
…だが、よくよく考えて見れば、そうでもなさそうなのである。私はどちらかと言えば、気まぐれ
で、順序立てて本を読んだ経験がないから、右往左往しながら生きてきた。しかし、長い年月を生き
る中で省みれば、日本人の哲学とでもいうべき価値観が「無」であるとは言えきれない気がするよう
になった。日本には古来より読み継がれてきた。語り継がれてきた多くの物語がある。それを単に小
利口な世渡りの人生訓として来たとは思えないのである。竹取物語・源氏物語・るつぼ物語や万葉集・
古今和歌集など世界的にみても長い間これほど読み継がれている作品群はなかろう。この文化遺産は
ただものではない。日本人の考え方に対する共通の価値観を提供し続けて来た意味を問い直してみた
くなる。また、現実的には宗教哲学が存在していた。空海や親鸞聖人の教えの根底には、まさしく宗
教哲学が存していた。おとぎ話をも含めて整理整頓する必要がありそうで気になる。
「日本人は哲学を
持たず、一貫した原理で動くことがないことを論じている」中江兆民著作のことばを引用した記憶が
多々あるが、実際、敗戦後の状況はまさに彼の指摘したとおりであった。高度経済成長を下支えして
いる原理・原則に対して全く無知であったし、消費文化の到来を「新たな哲学に隠蔽された価値観で有
ること」に気づかなかったのである。また、捏造された日本の幻想的な独立国家像などは、GHQ と
何人かの日本人が作った小利口なまやかしである。独立国などというのは、表向きで、首都、東京の
制空権さえアメリカが制圧しているばかりか、治外法権基地がうざうざある。素直な目で見れば、日
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本はアメリカの衛星国であり、属国であるそれを認めようともしない。しかしそれらは哲学がないか
らではなく、姑息に立ち回る人々に対して盾突くことを許さなかった反封建的支配が長く続いてきた
ことへの弊害と考えるべき問題のように感じている。
中江兆民著書の「三酔人経綸問答」や「続一年有半」には、
「一名無神無霊魂」という副題がついて
いる。副題が示す通り、これは彼の信条とする唯物論哲学を述べたものである。敗戦後の日本に於い
て、学問的には哲学を学ぶ機会が何処にでもあった。弁証法的唯物論も、形而上学も、実存主義も読
み解く機会がなかったわけではない。それらの哲学を自分の行動指針にした政党も存在した。しかし
ながら『原理・原則』を正確に説いてきたかというと、甚だ心許ない。儒教的封建制度設計と対峙し、
理論的にその矛盾点を明らかにしたかと問えば、何とも心許ない。
夏目漱石が『草枕』の冒頭に「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい」と書いた。感情主導型の人は「理屈は ともかく」
、他人の気持ちに流
されやすく、理性主導型を 「人の気持ちも解せない」と非難する。しかしながら一般的には、理性は
明晰な判断によって、感情を上から見通すことができると考えるのは一面的である。人々が暮らす日
常は、多くのしがらみに束縛され、人間的・社会的柵に囲い込まれた中で生きている。利害関係がぶ
つかり合い、感情のもつれも重なれば、理路整然と「原理・原則」をつらぬけぬ事情が存する関係性に
縛られている。中江兆民氏が第一回、衆議院議員になった当時とは社会的情勢が違うけれども、明治
時代と比べてみると気骨のある人間が少なくなった。
1960 年代後半からは、メディアが、
「原理・原則」を投げ捨ててしまった。
ニュースさえも商品として使い捨てにする時代に入り、他人の不幸を追いかけ、淫らな映像を提供
することに歯止めが利かなくなった。自立自尊の精神性を失ったジャーナリズムは、大衆からも見放
され、知的理解力が働く場を失ったと言えよう。報道に関わる知識人は、メディアと共に生き抜くた
めに、自分への戒めを解き放し、自己の正当性を主張するために、原理・原則を失った。敗戦後の消費
文化の浸透に手を貸したのである。少なくとも、「原理・原則」を失った哲学は、意味をなさない。逆
に言えば、「原理・原則」のない哲学など存在しないということである。
「原理・原則」、及び父性を失った教育現場に見られる無様な論理の現れ方描けば「秘め事より」次
のようになる。
自主性ということで、
「他人に迷惑をかけることは悪いことだ。しかし、迷惑をかけなければ悪いこ
とではない」というような無意識の公式が頭の中に入っている人間は、授業中に他の教科をしようが
(内職)、ジュースを飲もうが、アクビをしようが何も悪いことをしているとは思えない。他人にどう
いう感じを与えるかは全然問題にならない、したがって礼儀などということは関心の範囲外となる。
このようなタイプの人間をメディアは、受動的で無機質な性質を表すものとして、
「マニュアル人間」
と解している。だが、
「指導待ち」とか「マニュアル通り」との見方は的外れである。原理・原則に従
って行動することができないことの意味を見落とすことになる。自らの内に行動の原理・原則がない、
それらの本質を見るなら、ずばり、
「無脊椎人間」と呼ぶ方が的確である。もっと本質的に言い当てる
なら、団塊世代の両親に、
「父性を持って育てられなかった」というべきだろう。決定的にそうした時
代の影響をまともに受けてしまった人間が大量に送り出されたのが高度経済期の消費文化を拡散し続
けた時代の風にさらされることになった。そのような時代の風に逆らうことも無く漂流した教師たち
は、授業中に「アクビ」をする生徒がいても注意などしない人間だ。生徒が授業中にアクビをするの
は、
「礼儀に反している」という倫理観・観点を持っていない。しかも、「いい子」を通してきた子は、
嫌と言えない人間。嫌と言わない人間像と見ることも可能である。ちょいとおだてられ、山ほど仕事
を抱えてしまう。
学校の仕事だけでも忙しいのに、
教職員組合の執行委員やフリースクールの手伝い。
同人誌の編集を引き受けるなど頼まれると何でも引き受けてしまう。後先を考えないで引き受けるか
ら毎日午前様になる。その上にパソコン・オタクでもある。何とも重宝な人間だ。困ったことがあっ
たら頼み込めば「嫌」と断れない気のいい人間と見られている。同僚たちはそれぞれに自分の趣味を
優先させたり、家族との約束があったりすると、急な会議などへの出席を求めてくる。そうした無理
な活動に動員されることを「礼儀に反している」と咎め立てをすることが出来ない人間を育ててしま
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ったと言える。当の本人は、自分が必要とされていると勘違いしている。原理・原則に欠けている人間
は、約束事の順序性も曖昧で、これだけは断固譲れないと言うような一途さがない。単に一途さがな
いのではなく、本質的に原理・原則を守らねばならぬという概念自体が理解できていない。そのような
人間が存していることを理解せねばならぬ。その様な人間は他者に対し、敬意を払うという気持ちさ
えなおざりにされている。しばしば、他者に迷惑をかけていることさえ大した問題であるなどとは考
えていない人間だ。良い子を通し大人になった人間は、
「礼儀を重んじなさい」との意味を身に染みて
受け止めることが出来ない。教育現場で起きている無作法をそのまま家庭に持ち込んでいるとも見え
る。教育の現場においては、アクビをしようが菓子を食べようが誰にも迷惑をかけていないというよ
うな風潮が満員している。これらの行為を一つ一つ具体的に注意すると守るが、注意しないと守らな
いという態度である。内職はいけないという、と今度はジュースを飲む。それを叱るとアクビをする。
それもいけないというと寝てしまう、といった具合で次々に注意しなければならないことが増すばか
りだ。「礼儀を重んじなさい」と一言で理解されてしかるべき程度の一般的抽象度とおもいきや、
「礼
儀を重んじなさい」と言っても通じない。いけないことを一つ一つ示さなければならない。まるで、
幼児レベルの抽象度であって、原理・原則を示しても無意味になる。
敗戦後の男たちが、この「原理・原則」投げ捨てて、家族の関係性を投げ出し、会社や団体に身投げ
したことが社会のモラルを低下させた大きな要因であると考えるようになった。何故なら、日本の制
度設計が儒教的封建制の上に君臨し続けたからである。敗戦によって日本人の考え方が 180 度変わっ
たというのは幻想であり自己責任を放棄するための口実であり弁解であった。自己の道義心・良心を眠
り込ませることで、戦争で犯した罪悪感に蓋をした。子どもたちの世代が無法なことをしても民主主
義の価値観を、或は、他者に対し敬意を払うことの道義的責任を教えることが出来なかった。何故な
ら、自分自身が原理・原則を投げ出し、我欲を剥き出しに生きているからであり、「消費文化」がもた
らした事物の言語を追いかけ、小利口に立ち回ることに精力を使い果たし、道義的責任を放棄してい
たからである。不戦の誓いや戦争への戦争罪悪感情動は、GHQ の施したプルグラムに捕りこまれた
だけで、本質的に国際的な「法と正義」
「人道と人権」の行動規範を重く受け止めることが出来なかっ
た。自国の犯した戦争犯罪・侵略行為ですら、正当化しようと躍起になり、個々人が現実と向き合うこ
とから逃亡した責任は、情動的に子どもたちの世代に伝染した。
インターネットの掲示板を覗いてみると其れが一目瞭然になる。恥ずかしげもなく、愚かな言動に
恍惚としている姿は尋常ではない。愚かさの原点は、時代的関係性を無視し、バカの本質を顕にして
いる。バカの本質を一言でいえば、自分の欲望を(精神性をも含め)充たすことにのみ身をゆだねる
ことである。ヒトは物事を見たり考えたりするとき、 自分が好ましいと思うものや、 自分がやろう
と思う方向だけを見がちで、 見たくないもの、 都合の悪いことは見えないものである。別な言い方
をすれば、見たくないものは見えない。 見たいものが見えてくるという感性(主観)・野望・思惑に身
をゆだねる。それを堂々と表明するから、バカの本性が丸出しに成る。60 年代の論理状況によく似た
場面がネット上にある。当時、新宿の地下で人通りも気にせずに恥知らずな性交を繰り返す輩が多数
いた。全く同一の人種だ。当時の、
「フリーセックス」を提唱する人たちの理論的よりどころは、封建
的な性の圧迫を解放するというのが主な内容で、そのためには過去のいかなる形式にもしばられない
性の解放でなければならないとし、結婚などは陳腐とみなし、性交は愛があればいついかなるときで
も禁止するべきではなく、性欲を圧迫するのは人間の自然な行為をしばりつけるもので、本能的、具
体的な生理行為を悪とみなす形式主義である。自由な性行為こそ、人間回復だというのである。こう
した性欲を容認し、擁護する人びとは、肉体もまた「衣服」であり、生理行為もまた一種の「言語」
であると論じることにより、人間のもともと「人間的」とみなされる能力は性欲のうちにおのずから
現れる能力であると主張する。さらに彼らによれば、こうした性欲は、どうしたら快感を刺激できる
かという研究を通じて、いわゆる「科学」によって助けられ、審美的な分析を養いことを通じて、
「芸
術」によって飾られる。彼らのいう愛とは、性交そのものであり、性交をしている間だけ愛している
という、肉欲を充たすだけの他人を自己の性欲を充足するためのその場かぎりの手段としか見ず「習
慣や義務にもとづく性行為からの解放」を説きながら、実際には人間を賎しめることを示している。
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こうした性欲を求める人眼の特徴は、本能的欲望を充たすことにしか関心をしめさない一種の片輪で
ある。人間の社会的関係性を無視して社会生活を営むことが可能かと問われれば、否・否・否である。
単なる食み出し者では済まされない愚か者の代償を払わねば社会人として受け入れることなどなかろ
う。社会的責任を放棄した世代の子らが、今どき、愚かさの源流をたどらねば自分が見えてこない状
態にある。自分が何を仕出かすか分からない様な精神性のうつろさを情動的に受け取っているのだ。
子ども等の訳の分からない行動の裏に張り付いた愚かさの源流は、親の世代が無法に生きた証である
といっても良いであろう。人間の欲望にかられることを「善」とした生き方の裏に隠された意味性を
明確に、社会科学的に分析すれば、こうした人間のパターンは、資本主義的市場経済の痕跡をとどめ
ているといえる。すなわち、それぞれの資本家が、ただ商品の交換においてのみ他人と結びつき、充
足を充たすのと同じように、こうした各個人も、ただ性欲と充足という共通の目的においてのみ互い
に結びつくのである…。
「性の退廃と現代アメリカ文化」ベトナム哲学者 フォン・ヒェン氏が言うには、遠い昔、地球上の
人口は一千万人ぐらいで、長い間にわたって増減が少なかったとされている、その時代、女の発情は
三年に一度ぐらいとされている。母体をそこなわないよう妊娠、出産ができるのは十八歳ぐらいだか
ら四年に一人なら母親が三十歳になるまでに子どもは三人前後だ…。三年の授乳期間が終わると母親
は発情するというサイクルであったと推測される。食物が安定すると発情という形態から少しずつ遠
ざかってきた。しかし、種の全滅を防ぐために本能的に近親相姦を排除してきた歴史がある。性が無
秩序であった歴史などない。性欲は抑制されていたと考えるのが妥当で、
「フリーセックス」が本能だ
とする見解は、性の商品化の中で生じた歪んだ性のありようだ。欲望を充たすために無秩序の性を正
当化できるものではなかろう。遠い昔、本能としての発情は未来に生命体を伝えるためのものだから
「性生活」よりも子育てが優先される。ヒトのオトコも本来、オンナの発情期にあわせて発情するよ
うプログラムされていたと考えるのが妥当である。もろもろの動物の発情や出産は、人間の性とは異
なって無軌道・無秩序でないことを皆が知っている。にもかかわらず、封建的な性の圧迫を解放するな
どといいつつ、淫らな行為を正当化しようとするのは、礼節を重んじるこころがなし崩し的に壊れて
きたことと同一軌道を走る資本の無軌道ぶりと平行している
人類は、肉体の美しさを愛することを知り、肉体について高い意識に到達し、肉体を、そのもっと
も完全な美しい形態における精神の現れとみなしてきた。他方では、造形芸術の歴史において、高度
の精神の表現として、芸術的美を象徴とした裸体画もけっして少なくない。しかし、人間の生活面で
は、いかなる民族も、あるほどの文明に達したときには、かならず肉体を幾分覆い隠さなければなら
ないものとなった。あたかも、人間は肉体だけではないとでもいうように。たしかに、肉体を恥じる
ことは、石器時代の人間にとっては、自然本能ではなかった。しかし、文明人にとっては、それはす
でに長い習慣となり、本能にも等しい自然となるまでに至っている。さらに、私たちが、ここで、性
の放任現象との関連で肉体の一面的協調に反対するのは、まさに、人間の精神を投げ捨てて、裸体そ
のものを賛美することに反対しているのであり、女性の価値をその精神的特性や優れて資質において
ではなく、彼女たちの肉体にだけを観たり、女性の価値をバストやヒップ、ウエストの大小で計ろう
としたり、その肉体を、思想や感情の現れとしてではなしに、ただ一つの肉塊として鑑賞しようとす
るなど、女性の肉体にたいする病的な探求に反対しているのである。こうした意味での裸体鑑賞に反
対することは、そのままアメリカ型の頽廃に反対することであり、もっと一般的にいえば、市場主義
的大量生産・大量消費・大量廃棄の「消費文化」による低級な観念は、人間の審美的資質を示すためで
なく、もっぱら野獣的本能を刺激することを目的としているのである。それは愛情を浴場に矮小化す
る観念に結びついている。こうした観念は、女性を侮辱する観念であり、女性を、ただ快楽を充たす
ための道具に変えるものである。だからこそ、私たちは、肉体を一つの価値とみなすことはできるが、
肉体を性欲奉仕の肉塊にすぎないと考えることはできない。そして愛情は肉体を含むが、それはまた
肉体をのりこえ、全面的人間の魂の美しさまで達するものである。
フリーセックスなるものは、人間の内面的生活を軽視し、愛情と肉欲を同列視する、ピッピーの乱
交こそ、彼らの望むところなのである。これはまさに動物的性欲(尤も、動物は年がら年中、性欲に
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惑わされることなどない、それぞれ動物特有の規律がある)にも劣る人間の退廃的な展開である。す
でに人間化され、社会化された性欲を、年がら年中やりまくる下劣な性欲放任の乱交をほめちぎり、
人間の進化過程をも否定し、歪曲することによって、公的生活と私的生活(欲望)を混在させ、病ん
だ社会に適応させてしまう役割を演じている。
それらに一役かっているのがメディアであり、さまざまな意識や感情を人間の個性ではなしに、一
種のパターンとして日常生活のなかに「消費文化」として持ちこみ、
「私的生活への埋没」をよりいっ
そう確実に定着させるのに利用してきた。メディアがこれまで家庭(家族)が果たしてきた役割を、
支配者に都合のいい方向で肩代わりしたという風にも考えられる。というのは、かつて家庭を通じて
個人に作用していた社会や文化・文明の影響を直接的に個人に与えることなど、メディアの媒体なし
には成り立たないからだ。いまや、テレビなしには暮らせないと感じている人びとを大量につくりだ
し、個々人を資本に従属させ、適応させる上で、かつての家庭の役割をメディアが担っているからだ。
性のモラルの問題にしてもこれを抑制するか、ないしは教育するといっても効果が上がらないばかり
か、通俗的になり、他人の個性を理解する力・思考する力が欠如し、理性が養われることがないのだ。
一部には「価値の多様化」して、どう教育してよいのか分からなくなったと、頭を抱えこむ教師が居
るけれど、価値観が多様化したのではなく、それらの共通の根底には理性が培われないために自己の
欲望のおもむくままに、
即刻・完全に充たされることを要求するところから派生するもろもろの問題で
あることが多い。しかもひとつひとつのカテゴリーの認識の欠如と他との関わり合いの接点を探し出
せない乏しい思考力は、物事の本質に迫るための努力を放棄し、洗練されることのない粗雑な感覚的
認識にとどまり、現象と本質を取り違い、自己分裂状態にあってもそれすら自覚されないといった不
幸なあらわれ方をする。それらを単に価値観の多様化と勘違いしている場合がある。
ネット上での検索は、それなりのコンセプトとインテリジェンスが働かない人には不向きはツール
である。事実を積み重ね、それぞれの主張の根拠を丹念に分節する能力に欠ける人間が手を出すと、
誤った情報に振り回されることになる。そもそも、情報にはダータ― ベースが整っていないと意味
をなさない。その点で、日本のインターネット情報は垂れ流しの愚かさ丸出しの世界であることを知
らねばならない。むかし、
「一億総白痴」ということばが流行語になったことがある。
本来、人間はあるべき未来を想像する力や思考する力を有しているからこそ、他の動物・生物との違
いを際立たせる存在である。だが、これに対して、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺め
て、流れてくる音声を聞くだけである点から、テレビは、人間の想像力や思考力を低下させるという
警鐘を鳴らし、1950 年代後半から 60 年代、テレビにかじりついている「一億総白痴」という分節が
あった。大宅壮一氏や松本清張氏らが評論・談話などで表明していた。しかし、これらの発言は軽視さ
れ、考える力が崩壊しつつある現実に愕然としている。どのように対処してよいものか戸惑うばかり
だ。インターネットの情報はヒッピーや「フリーセックス」を提唱した輩の成れの果てであるような
気がしている。わがままで、手前勝手なバカの論理を丸出しに、新宿駅の地下街で性交していた人々
の群れが、社会的に居場所を得られずに、ネット上にたむろしている姿に見えるからだ。ネット上に
は、右翼系の悪質な書き込みが満員している特定の政治的思惑が溢れてもいる。まるで、敗戦後の
GHQ の戯言の羅列で有っても不思議ではない世界だ。
敗戦後の日本を見れば、GHQ の報道規制が強烈であり、本当のことを言えない状態が有ったとし
ても、1951 年 9 月 8 日に締結されたンフランシス講和条約が衆議院を通過した時点以後は、例え、
半独立国家であるところの衛星国とは言え、建前上の主権者として日本語で条約の文節をする機会が
有った。それらの政治的経過については後々描くこととして、古来より伝えられた習慣や認知度から
見る人々の日常・身辺的な出来事に立ち向かう姿勢などが、男尊女卑の差別をなおざりに、GHQ の
洗脳から逃れる機会を失ったことである。敗戦後の愚かさの原点は、当時の GHQ の占領政策による
情報遮断プログラムであったことに機縁しているそれを見逃せというのではない。その内容には、連
合国に対する批判や極東軍軍事裁判に対する批判を禁ずるといった内容に加えて、特に注目すべきは、
検閲制度そのものの存在について、出版、映画、雑誌等が間接的にも言及してはならないとなってい
ることが問題の中核である。占領下で敵国の私信やマスコミを検閲することは当然といえば当然であ
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るが、この検閲の存在自体を秘匿(ひとく)することが義務付けられていたという点では、前代未聞
の情報遮断プログラムであった。実際、多くの日本人は現在でもこういうことがあったことを知らな
い。また、催眠・洗脳の権威であるスタンフォード大学のヒルガード教授もかかわった可能性がある
と推測される、「War Guilt Information Program,WGIP」(戦争罪悪感情動プログラム)という GHQ
のプログラムも存在した。WGIP プルグラムでは、日本の戦争責任について日本人に広く罪悪感を刷
り込むことが目的であったことが、近年、米国の情報公開法などで明らかになった。
サンフランシスコ講和条約について言えば、独立(full power,independent=フルパワー インデペ
ンダント)を示す内容からかけ離れた幻想・見せかけの独立国である。厳密にはこの条約で日本国が
独立したことを示す根拠が無いことを記して置く。サンフランシスコ講和条約の文言を正確に読めば
独立国で無いことが延々と書かれている。事実、第二条以下、第二七条まで、自由にして独立した国
家として、戦争を行い、講和を締結し、同盟を結び、通商を確立するなどの完全な権限、つまり、対
外主権を持つことを厳しく制限する条項が並んでいるのが、サンフランシスコ講和条約である。日本
にある程の自治を認める、
と言ったほどの内容をメディアは、分節せずに垂れ流してきた責務がある。
日本のメディアは、強力な GHQ 権力者に洗脳されたままと見るべきであろう。訳文にも問題はあ
るが、日本人は自分が愚かであることを率直に認めること極端に嫌う傾向にある。自分のしているバ
カさ加減を他人のせいにして騙されたと言って他人のせいにすることに長けている。そこには、堕落
してしまった愚かさの原点ともいうべき精神性と幼児性が張り付いているといって良い。いまからで
も、サンフランシスコ講和条約の最後の一文より、in the English,French,and Spanish languages,all
being equally authntic と書かれた部分、つまり、
「全て等しく正文」を日本語で正式に訳すことぐら
いは、たいして難しいことではなかろう。当時と違って英語を訳せる人々が多数いる時代であるから、
上記の文章につづく、and in the Japanese language(日本語版も作成した)それを正文扱いせずに、正
文を日本語に訳し、正文と同等のサンフランシスコ講和条約文章を制作してもらいたいものである。
日本の一部の支配者たちが小利口に GHQ の権力者に擦り寄り、日本国をアメリカに売り渡した内
容を明らかにすることの意味が、いまでも失われているとは思わない。日本が独立こととして、国際
的に認められて居る自衛権さえもアメリカ次第の法の下では、機能しない。愚かにも、日本とアメリ
カは対等・平等の関係にあると思い込まされていることから脱却せねば、独立国などと言えない。この
ような不平等条約を押し付けられたまま、
「徒党を組んで他国に対し、武力を使用する権利=集団的自
衛権」
を法的に可能であるという解釈を主権者に問うことも無く現政権は押し通せると威張っている。
だが、保守系の憲法学者までが、憲法違反と断じた。2015 年 6 月 4 日に開かれた衆議院憲法審査会
に招致された 3 人の憲法学者全員が、現在、国会で審議中の安保法制を「違憲」であるとし、安倍政
権に牽制をかけた。愚かにも、それでも政府は、多数決で押し通そうとする。民主主義が如何なる価
値観であるかをご存じないバカさ加減である。近代民主国家が持つ立憲主義を否定し、愚かにも、少
数者の意見を尊重するという民主主義の原理に反し、自分らが推薦した憲法学者の意見までも排除す
る阿部政権の傲慢さは、まっこと言えようがないほど崩れてしまった論理でうごめいている。論理的
に破綻している政府をメディアは追い落とすこともできぬほど力を失っている。
今日の日本の姿は、ファッシズムの到来で有り、民主主義革命を起こさねば、世界の時代の流れか
ら取り残され、バブル崩壊による空前の打撃を受ける覚悟をする事だ。選挙制度に問題が有るには違
いないが、市民各位が阿部政権を愚かにも選んでしまった結果であるから、騙されたと言っても始ま
らない。敗戦後に自分らは騙されたのであって、戦争責任がないと逃げ口実に使ったそれをまた、繰
り返すことを許さないために、現政権を選んだ責任・拒否しなかった責任を問うていきたい。
多くの日本人は、自分が知らぬことの責任を何とも思わない小狡い精神に侵されている。死に至る
病を抱え込んでいると言っても良いであろう。日本が民主国家であるという思い込みや原発の安全神
話は根拠のない幻想の物語である。実際には非民主国家であり、国家の制度設計など酷く遅れた国で
あることを認めたがらない。尤も、内閣総理大臣が…、議員の質疑中に、根拠のないウソを捏造して、
堂々とヤジるなど、立憲主義の立場をないがしろにしたり、ポツダム宣言での問いに対し、正直に応
えなったりと散々であるが選挙で選んだ国会議員である。(選挙制度が憲法違反であるという判決を無
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視して選挙を施行した結果であるが…)大馬鹿者の権化でもある彼を選んだのは、国民、或は市民各位
であることを忘れてはならない。選んだ人間の責務を棚上げして、国家の制度設計を負わせている人々
の責任でもあることへの自覚が全くない。自分が愚かな人間を選んで居るという意思などまるで無い
かのように振る舞うことが出来るほどの知的認知力としか言いようがない。敗戦によって日本は 180
度考え方が反転したというのも思い込みであって、賢い国民であるとうぬぼれている。封建的な古い
考えから脱して、民主国家を築いて来たという幻想を抱いているが、政治制度設計が封建的のまま推
移してきたことは、「旧土人保護法」が平成の世まで引き継がれてきた経過を見れば明らかであろう。
さらに言えば、男尊女卑の典型でもある、
「同居ノ家族二居スルモノハ総テ戸主ノ所得二合算スルモノ
トス」という所得税法 56 条の規定が残存する社会に生きている。裏を取らないメディアのニュース
は論外としても、政府及び官僚が流布する回覧板を鵜呑みしていては、主権在民など永遠に来ない事
柄になる。いま、せねばならぬこととして考えるのは、社会科学的な認知機能を発揮して、民主主義
を勝ち取る戦いを暮らしの中に定着させることから始めるのが賢明な選択であると信じる。
人類は経験的に人々が愚かなことをしまうことを知っている。その難儀な問題から自らを解き放そ
うと多くのことを試みてきた。宗教的な分節もその一つである。仏教でいえば、人間の心の有り様を
108 の煩悩に分節し、どの様に悟りを開くか修行を重ねてきた。儒教に於いても然り、イスラームや
キリストに於いても人間の善悪を問うてきた。然るに、それらが容易いことで無いことを指示してい
ると言えるであろう。一部の悟りを開いたものの独占物で在るかの如く説かれるのも不思議ではない。
歎異抄第3章 原文「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわ
く、
「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。…ひたらく言えば、善人でさえ救われるのだから、
悪人はなおさら救われる。ところが、世間の人は常に 「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさ
ら救われる」 と言っている。結論として、欲や怒りや愚痴などの煩悩でできている私たちは、どうや
っても 迷いを離れることができないのを、阿弥陀仏がかわいそうに 思われて本願をおこされたねら
いは、悪人成仏のためですから、阿弥陀仏のお力によって、自惚れをはぎとられ、醜い自己を 100%
照らし抜かれた人こそが、この世から永遠の幸福に生かされ、死んで極楽へ往くことができると…。
しかし、この様に思うことは難儀である。仏にすがってみてもせんないことだ。いたずらに架空の
領域に於いて我が身を救い求めることは、ある種の幻覚・幻想を呼び込むことになる。まるで麻薬に頼
る真理と相似たり。本来人が救われるのは、架空の領域ではなく、ヒトと人とが交わり合う日常の関
係性のなかに存すると考える方が合理的である。だが、その日常とやらも捏造されたニュースや思い
込みが入り組んでいるから、無垢に隣人の言葉を鵜呑みにすること叶わず難儀である。
日々の日常身辺的な出来事は、ぼんやり過ごしていると知らぬ間に、政府広報の回覧板のようなメ
ディアの記事に引き込まれ、何も判らなくても、分かったような気になる。民主主義国家・社会でも
ないのに、民主的な暮らし方をしている気分になる。うたかのバカの論理に騙され、屈辱感さえ感じ
なくなるときには、ボケが始まってしまうのであろう。真に心優しく生きられる社会を創出すには、
ヒトと人が寄り添うように助け合うことが、
「公の論理」として認知されることから始まると思いたい。
それが民主主義の原理に沿った生き方であるからだ…。過去から紡いできた優しい心根を持った精神
文化を取り戻す機会は、大掛かりな宣伝や新たなシステムを構築することを考えるよりも、小さな約
束事を守るという社会的な有り様・社会生活に必要な「公の秩序」を維持する心根・心づくしが生き
生きと大手を振ることが常識になる生き方をする中に生じるにちがいない。ヒトが心優しく生きると
いうことは、公の秩序を破壊する「 官治的自治制」や「消費文化」の大量生産・大量消費・大量廃棄
を善しとする「市場原理至上主義」経済の進展を見て見ぬふりでは立ち行かない思想だからだ。主権
在民は、職業や公の秩序、社会システムの公平性など自ら戦い取る気概がないと叶わない。無法なこ
とや暴力、仲間外れなど社会的弱者をいじめるような思想とも戦わねばならぬ。心優しくが軟弱な思
想であっては、その目的を成し得ないことになる。何故ならば、今日の世界経済の方向性は、市場原
理至上主義だが、強欲な少数の人間が金融資本を操り、強制的に富の強奪する仕組みに組み込まれ、
金融資本が『法』を盾にモラル崩壊を引き起こしているからである。過労死するほど働かせる人権無
視・労働権の剥奪による生活苦など人間らしく生きる権利を取り上げる。それらの推進力である、富
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裕者の強欲を掌る利権を手放させる法的根拠を提示することが求められる時代であると考える。人類
の未来を一握りの富裕層に委ねていては、人類の生存圏を蝕む気球環境を受け入れることになる。日
本憲法における、主権在民の意味を深く考えることは、愚かさから抜け出るツールとして有効な手掛
かりでもある。人間の尊厳は、生存圏が破壊されて立ち行かないことは明瞭だ…。個々の人間が、そ
れぞれの立場に於いての責務を問い直すことから、表の顔である公の論理・帰属意識の正常化が叶う
のではと…、
それらに期待したい。
ヒトが人と共に生きるという公の原理・原則を取り戻すことなしに、
民主的な国の創造など叶わない。主権在民という憲法を保持しながら、主権をないがしろにされてい
る現実に目を向け、 官治的自治制・許認可行政を民のものとする戦いを粘り強く組織し、新たな制度
設計に手を付けなければならない時期に来ていると考える。人間の生活環境という分母に変調をきた
し、持続可能なシステムを破壊しつづけている。気候変動など静かに環境破壊への道標を提示してい
る。廃棄物も量的に上限なしに増えつづけ、水質汚濁、大気汚染、薬物汚染が、都会といわず地方都
市・農村地帯にまで広がった。原発の廃棄ゴミなど処分にどれほどの負荷がかかるのかさえ分からな
い状態にある。日々の暮らし、日常身辺的な出来事を丹念に分節することで真実を知り、伏魔殿に巣
食う悪人どもを追い出さねば民主主義の風は吹かない。民主主義革命の旗をなびかせるなら、マスメ
デイア役割を個々人が背負うことになろう。時代の風は、民衆自身が担わねば吹くことも無いに違い
ない。
おおまかな、未来に対する方向性を書いたが、これらを理解するには、自らが学ばねばならないと
言うことを肝に命じて頂きたいものだ! 人間の愚かさは、持って生まれた習性であると同時にそれ
らを克服しようとしてきた歴史でもある。
「消費文化」は、人類が創り上げてきたそれ等の事柄を台無
しにする力を備えている。
日本の思想的現実に対して、
封建思想にどっぷりと浸かっていることさえ気付かぬ側面に光を当て、
知的理解力を取り戻す戦いなしに、民主主義社会を望むことが困難な状況下にある。原発の安全神話
も幻想で有ったように、伏魔殿の奧に悪の巣窟に身を隠す、官僚が捏造するウソの流布が、主権者で
ある人々の意識・知的理解力を奪い取ることを知らねばならぬ。日本の国を概略的に観るならば、国
粋主義的中央集権国家であると規定する事も可能である。社会主義国よりも、官僚が官治的自治制を
駆使し、
許認可権限を悉く我が物として権限を振るうことで、支配者として君臨している国家である。
なまじなことで、民主主義革命など出来そうにない。それ程、多くの人々はインテリジェンスを失い、
自然科学・社会科学・人文科学分野の意思が日本文化の共通の意志として働かない社会に身を置いて
いることを知らねばならぬ時代に生きている。官治的自治制が民主主義に反した思想であることを多
くの日本人は意識していない。国家の形としての制度設計が、官僚主義的国家像と受け止める程の認
知はしているとしても、制度としての国家像は、前近代的封建社会であると自覚していない。現憲法
下に置いて、地方自治を憲法で保障し、政府が地方自治の本質を侵すことができないとの日本国憲法
(92 条)規定があるけれど、例外規定の山、また山の前に、敗戦前同様に、都道府県は政府の出先機関
のような役割を果たすばかりである。仔細に論議すれば、それほど単純ではないが、しかし乍ら、許
認可権限を振りかざして民主的な制度設定拒んでいるそれを見逃すわけには行かないと考える。敗戦
後の日本は民主国家であるという思い込みを官僚や政治家から、また、GHQ という支配権力が施し
た文明論を鵜呑みにしただけである。薄々は気づいているが、場の雰囲気に波風を立てなくないとい
う日本人特有の歴史的・文化的配慮が働き、
独立国家と呼ぶには余りにも国際的にみすぼらしい姿を曝
している。阿部総理の唱える「戦後レジームからの脱却」が必要だとして改憲を主張する根拠が如何
に軟弱であり、無謀な幻想であるかの一端を知らしめす結果となった。しかし、彼を筆頭とする政治
勢力に日本国民は、無責任に政治を委ねている。これが、日本の現実の姿である。
「他国の主権尊重の
原則」に優先するのは、
「自国の主権に対する侵害」
「自国の安全への直接的な脅威」
「国際法への明確
な抵触」
「人道と人権の侵害」であるが、そもそも、日本国はアメリカの衛星国であり、従属国である。
独立国でもない国が、
「徒党を組んで他国に武力行使をする権利=集団的自衛権」など無い。しかし、
右翼系の人々はネット上で、自国を守る「自衛権」を主張しつづける。まさに、愚かさの源流をつぶ
さに見る想いがする。
ネット上では、自分の心の内に潜んでいる卑しさが公然化することが度々ある。
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相手の表情や仕草などが見えないことでの安ど感から心の内が外に出る。もともと心の内にあった
《私》が、自分を支えていた論理からはずれ、まるで、あらたな自分を発見したかのような驚きと同
時に、卑しさが公然と《私》の内に公然と内面化されるからである。そこにあらわになった《私の内
面》は、限りなく鈍化し、卑しさを恥ずかしげもなく表現する場を獲得する。殺意を感じたり、殺意
を共有してしまったりといった妄想に近い仮の意識を本当の意識として具現することは可能であるし、
他者を自己目的に誘導することさえ起こっても不思議ではない。一般的には不条理な事柄と考えられ
ることであっても自己の意識の内部に公然と住み着き…まるでそれが必然であると思い込むときに精
神の異常が発生する。しかし、そのような場で自分の心の内に葛藤が想起しないのは、自分の都合の
いい情報をあさり、他者を排除するからだ。その情報をあさる行為は、自分のうちに潜んでいた欲望
の捌け口を鈍化させ、うち向きになる。卑しい自分の内面を垣間見ること、それ事態が問題なのでな
く、
そのことで安心してしまい、さらに心が卑しくなることにブレーキがかからなくなることである。
あたかもその卑しさこそが「人間共通のもの」としての認識であると決めつけ、暴走することである。
卑しいもの同士がぶつかりあって傷を負うという心配がないことに安心しているが、実は、そこにこ
そ落とし穴がある。すでに心が内向きになった時点で、填っているのだ。現実の病理が拡大し、抑制
する力をおとしめる効果を持ち合わせている。しかも、内向きになった自分にとって都合の悪いこと
を拒否する心理が強調されているので歯止めがきかない状態が問題になる。制止を振り切って暴走す
る危険性が拡大するといっていいだろう。ネット上では罵りあうことがあるといって反論する人が居
るかもしれないが、それさえも抑制が利かなくなるのはその場から外れて同調するサイトを探しまわ
ることが可能であるかだ。ネット上のある場から排除されても、また別なところに形を変えて出没す
る。際限のない応酬がくりかえされている。情報化時代には、いっそう「何をどう伝えるか、どう受
け取るか」という基本的な問題を意識化してゆかないと思わぬ落とし穴が待ち受けている。疑り深く
…ネット上の情報を受け取る習慣を身につけておいた方が安全である。但し、インターネットはマイ
ナスばかりでないことは自明のことだ。誰とも口を利きたくないときであっても、電源を入れれば画
面を通して自分が存在している世界とは別な空間が出現することで、現実の自分との間合いをとる機
会を提供してくれるからだ。しかし厄介なのは、「ことば」や文章・映像などに張り付いたメタメーセ
ージなど雑然と組み込まれているから無条件に善しとするわけにもゆかぬ。文章を読んでも男か女か
分からないし、年齢不詳の空間でもある。恣意的に自らを偽りその行為を楽しんでいる輩もいる。安
心して言葉の意味性に引きずられることには注意が必要であろう。
何故なら、
平凡な常識的人間の意識は通常、平穏無事である。しかしながら本質的に、人間の意識は不気味な
ものだ。奇妙なものたちの棲息する、底の知れない沼のような世界。その深みに、一体、どんなもの
がひそみかくれているのか、本当は誰も知らない。そこから突然どんなものが立ち現れるか、誰も予
測できない。通常の場合、何かを意識する前の状態では、事物、事象の存在界に対して無である。何
かを意識に上らせたそのときから、絶え間なく揺れ動く心。感覚、知覚が外界に対象を追い、それを
めぐって欲望が走り、感情が湧き、想念が渦巻く。寄せては返す波のように、さまざまな心の動きが
何処ともしれないところから生起して意識の表面を満たす。
「意識の流れ」という表現が示唆するよう
に、表層意識はさまざまな内的動きの連続そのものだ。そういう内的動きの状態こそ、人は普通、意
識と呼ぶ。だが、一見すると絶え間ない流れとも見えるこの意識は、よく観察すると、本当は連続で
はなくて断絶であることを人は知る。
例えば、
ひとつの感情が生起する。
心はたちまち内的緊張の状態に入る。
緊張は一定の時間はたもたれるが、
ある時点にくると弛緩して、弱まり消える。つまり、このひとつの感情に関するかぎり、心は動から
静に移る。そしてまた動いて、次の新しい緊張に入る。感情であるにせよ、意志にせよ、欲情にせよ、
想念にせよ変わりない。しかしこの新しい緊張も、ある時間つづいてやがて消える。人間のこの内的
深淵に棲む怪物たちは、時として、…大抵は思いもかけない時に、怪しい心象(イマージュ)を放出
する。そのイマージュの性質によって、人間の意識は一時的に超現実となる。時空を超え、天国にも
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なり、地獄にもなる。天国とか地獄という意識はイマージュから生じた架空世界でしかないが、その
ようなイメージュを意識の上らせる仕組みが神仏の世界に文学的に表出されることで、身近なものの
ように感じてしまう習慣が潜んでいるのだ。だが、怪物たち(邪悪な心)は、ふだんは表に姿を現さ
ない。ということは、彼らの働く場所が、もともと、表層意識ではないということだ。だから人間の、
あるいは自分の、表層意識面だけを見ている人にとっては、それらの怪物は存在しないにひとしい。
怪物たちの跳梁しない表層意識こそ、人は正常な心と呼ぶ。もし底の知れない泥沼の深みから自由勝
手に、怪物が表層意識に現れてきて、その意識面を満たし支配するに至れば、世人はこれを狂人と呼
ぶ。つまり、そのような表層意識のあり方は、表層意識としてはアブノーマルな事態なのである。そ
してこのことは同時に、彼ら、内的怪物たちの本来的な場所が、表層意識ではなくて、深層意識であ
ることを示唆する。深層意識領域という本来あるべき場所にあって、あるべき形で働く限り、どんな
に醜悪妖異なものにも、それぞれの役割があって、それらがそこにあるということが、時には幽玄な
絵画ともなり、感動的な詩歌をも生みもする。汚物をむさぼり食らう餓鬼の類ですら、深層意識的現
実の世界秩序の中では、しかるべき己の位置を持っている。…だが、人々の心に、大抵は思いもかけ
ない時に、怪しい心象(イマージュ)を放出する。表層意識面に出没し、日常的世界をうろつき廻る
ようになる時、はじめてそこに、人間にとって、深刻な実存的、あるいは精神医学的問題が起こって
くる。イマージュの形成こそ、人間意識の、他の何物によっても説明できない本質を醸しだし、心に
絶えずさまざまなイマージュを、次々に、己の内面を生み出している。生み出されたイマージュの一
部は、いろいろな形で外部に投射される。
通常、
平凡な常識的人間の意識は、文化的に文節された生活体験から獲得した表層意識に従うので、
即、何かの問題が生じるということはない。人間の卑しさというのは、自意識であれ、無意識であれ
それ自体が問題なのではなく、意識した事柄をどのような行為として表現するかしないかが問題の所
在の原点になる。もとより文化的トレンドというものは、時代が変わればいたずらに無用・無益なもの
であったりする。18 世紀にはヒアシンスの球根が大規模な投機の対象となった。日本でもアサガオや
ランなどが投機の対象になったことがある。着物や洋服にしても流行が過ぎれば誰からも見向きもさ
れないガラクタになることを知っている。流行というのは、人間の欲望を誘い出す仕掛けでもある。
別な言い方をすれば、トレンドは目的があって恣意的に作り出された代物であることを自覚すること
が肝要なのだ。消費文化を善しとする大量生産・大量消費・大量廃棄の「消費文化」時代に生きる私た
ちは、少なくとも欲望を喚起する宣伝に囲まれて暮らしている。若春の彩や冥土の土産でもふれたが
消費文化の底流を確認しておきたいと思う。
人は誰でも消費文化の底流を下支えする「モノ」にとりつかれ、市場原理に多かれ少なかれ支配さ
れている。身近な人びととのきずなを断ち切られていく個人の限りのない孤独や無力観をしばしば体
験する。商品にひめられた、「幸福である」とみなす思い込みが裏切られたときの割り切れぬ思いは、
消費文化の切っても切り離せない裏面としてあらわれる。欲望の命じるままに「モノ」を手に入れよ
うとあくせくしたあげく、実際それを手に入れると、かつてはあれほど輝いて見えていた「モノ」も
たちまちガラクタに変じる。人びとは「モノ」にとりつかれ、市場原理に支配されて身近な人びとと
のきずなを断ち切られていく個人の、かぎりない孤独や無力観に襲われる。商品にひめられた意味は
幸福であるとみなす思い込みが裏切られたときの割り切れぬ思いは、消費文化の、切っても切り離せ
ない裏面としてあらわれる。消費文化のなかで、孤立して欲望する個人としてあつかわれる消費者の
日常的な経験である。だが、ブームが去ったのちの荒野に放りだされた孤独をすぐに忘れる。つぎつ
ぎに現れる商品の言語にとびつきたくなる。大量生産、大量消費の時代の到来に魅了され、多くの人
びとはうちなる欲望をおしとどめることができない状態にある。理知的理解力はすでに崩壊し、消費
文化のなかに取り込まれている。身動きがとれなくなっている。グローバル化という資本の熱い膨大
な前進運動の前に打ちすえられた状態にある。企業が消費を故意につくりだしているので必要なもの
を必要に応じて作るのではなく、大量に消費を目的に作るそれらの生産物は、消費されなければ破産
する。そうして大量に処分される。
「モノ」の耐用年数と流行は矛盾するが省みられることもない。消
費を目的に大量生産が可能になったことで、人が生きていく上でどうしてもかかせない生活に根差し
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た消費から、企業が故意に捏造した虚構の欲望にふりまわされる消費に変質してしまった。欲望を喚
起することが企業にとって欠かせない宣伝活動の中核をなしているといっても過言ではない。卑しさ
を捏造する宣伝は、利潤追求の先駆けということになる。市場至上主義経済がもたらす競争社会の原
理は、利益の誘導であり、消費者のあらたな欲望を喚起し、市場の限界を突破する永遠機械的な自己
準拠系システムなのだ。そればかりか、科学技術の発達によって、現実的富の創造は、労働時間の量
に依存するよりむしろ労働時間中に動員される諸作用の働きに依存し、次第に労働者は生産過程の中
心的な働きではなくなった。生産過程の中心的な働きは、人間自身が遂行する直接的な労働でもなけ
れば、労働者が労働する時間でもなくて、労働者自身の一般的な生産力の領域、自然に対する彼らの
理解、そして社会体としての彼らの定在を通じての自然の支配に帰属する。直接的形態での労働が富
の源泉であることを止めてしまえば、労働時間は富の尺度であることをやめ、また、や止めざるを得
ないのであって、したがってまた交換価値は使用価値の《尺度》であることをやめ、また、止めざる
を得ないのである。余剰労働はすでに一般的富の発展にとっての条件ではなくなっている。失業者の
増加によって賃金が抑えられているのではなく、グローバル化という曖昧な概念であるところの利潤
追求こそが市場至上主義であり、派遣労働者を大量に生み出し物品化するのである。強欲な資本主義
は、人々の欲望を喚起することが資本の生き残る道と見定めている。市場原理を尤も具現しているの
は、欲望を喚起し、究極の利益を無作法に収奪することである。派遣労働者の賃金など消費税では物
品として帳簿上処理されるのが現状だ。利益を上げるためなら人を物品扱いすることに躊躇しないの
がグローバル化である。それ以外にも法人税や所得税などの税率がゼロか、極めて低い国や地域に租
税を回避するなどやりたい放題である。タックスヘイブンなどという手法がそれにあたる。税(ta
x)からの避難先(haven)という意味で、租税回避地と訳される。オランダやカリブ海のケイ
マン諸島などが有名。近年、多国籍企業などがタックスヘイブンに所得を移し、納税額を減らす「課
税逃れ」が国際的な問題になっている。
なお、原油価格など本来の生産過程の中心的な原理を離れ、世界の社会的要因によって乱高下する
時代となった。原油を生産する原価などは、全くといっていいほど価格に反映されない事態である。巨
大な市場での独占的価格が形成され、さらに市場の限界を突破し、短期的には投機の対象となって世
界の経済をパニックに貶めることも珍しいことではない。しかも原油価格の本体は一時的な投機マネ
ー乱高下するが、それ以上に強大な金融資本によって下支えされているのだ。投機マネーが逃げ出し
たからといって、原油価格が大暴落するなどと考えてはならない。国際的な年金マネーなどが金融資
本に組み込まれ、金融商品化しているそれを見落としては先が読めなくなる。当然のこと、原油や鉱
石ばかりではない。小麦や大豆、トウモロコシなども金融商品化が進んできている。また、科学技術
の発達は、大規模に生産性の上昇をもたらし、生命の再生産にあてられる生存に最低限必要な一般消
費部分のわりあいが小さくなっている。この一般消費部分のうち、生活水準維持のために毎月固定的
にかかる居住費、光熱費といった必需消費以外の遊びや教養にむけ、使っても、使わなくても良い選
択消費の部分がさらに増大した。にもかかわらず生活にゆとりが出来たかというと、否・否である。
私は、
資本の収奪が人間的な心の豊かさ・品性・他者に対する敬意などを奪い続けている現実に目を
向けることを求めている時代だと考えている。人間の品性や他者に対する敬意を育む上で過剰な欲望
を喚起する宣伝や市場原理に目をつぶれば、人間の卑しさが助長されるばかりだと思う。生活の場を
通しての「やり・とり」が、家事の「外注化」によって失われていくことの大きさを自覚することが求
められているとも考える。人が人として生きていく初歩的な技術は、幼いときすり込み、文化として
継承されてこそ生きる力になると信じるからだ。また、
「やり・とり」可能な生活環境を大人が作るこ
とで、体感的に子どもたちにそのことを伝承できればこれほど効果のある家庭教育はないだろう。最
近では、
「やり・とり」が苦手な子どもが増えつづけている。それぞれが、一方的な感情があるのみで、
ぶつかり合いにならないのだ。自分が発した言葉・とった行動が、
《相手》にどう受け取られているか
を考える余裕のない粗雑な精神ばかりが目につく。他人に敬意を払う余裕を持てる豊かさが望まれる
のではなかろうか。人が生きていく上で、敬意は論理の中でも飛び抜けて重要な概念であるが、今日
では、そうした概念が育ちにくい環境にある。
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人々の心の豊かさを求めることが生きる喜びとなるなら、必然的に卑しさの原点に辿り着く気がし
ている。敢えて「卑しさの源流」を論じる必要もなくなる。ただ、厄介なのは、社会化された制度が
日常生活を脅かすほど身近に迫ってきていることである。
メディアの政府広報を鵜呑みにしていては、
金融資本が幅を利かせ、庶民の生活を蝕むことになるからである。真実を知り、伏魔殿に巣食う悪人
どもを追い出さねば民主主義の風を吹かせることは容易では無いことを延々と書いて来た。個々人が
発信する情報を、それぞれがそれぞれに負うことで、主権者である、民衆自身が担わねば時代の風は
吹くことも無いに違いない。民主主義の風を起こすのは民衆自身であることを自覚し、伏魔殿に立ち
向かう勢力を育むことである。
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