新潟大学人文学部 ヨーロッパ文化(社会文科系)履修コース 2007年度

新潟大学人文学部
ヨーロッパ文化(社会文科系)履修コース
2007年 度
氏
長澤
名
幸恵
卒業論文概要
論文題目
頁
古王国時代の古代エジプト人の思想
―ウナスのピラミッド・テキストを中心に―
2
冨田
直宏
ギリシアにおけるポセイドン信仰
3
大野
恵理香
元首政期皇帝の統治政策
4
北澤
春香
4世紀ローマ帝国における「キリスト教大迫害」に関する一考察
5
影山
華子
ルーシにおけるキリスト教受容の一考察
6
久保
知春
ルネサンス期におけるパラッツォの社会史的考察
―フィレンツェのパラッツォ・メディチを中心に―
田中
雅明
16世紀スペインにおけるインディアス征服戦争論争
―ラス・カサスを中心に―
石見
友里
淑江
淳
綾子
10
アイルランド・ナショナリズムと社会主義
―ジェイムズ・コノリーを中心に―
澤田
9
19世紀後半イギリスにおける女子教育
―ミドルクラス女性と帝国主義の関係を中心に―
諏訪
8
19世紀ドイツ音楽における2つのロマン主義
―「絶対音楽」派と「未来音楽」派の対立―
八木
7
ヒトラー・ユーゲントとドイツの青少年
-1-
11
12
古王国時代における古代エジプト人の思想
―ウナスのピラミッド・テキストを中心に―
長澤 幸恵
ピラミッド・テキストは紀元前2686年から2181年頃の古王国時代末期のピラミッド内部
の墓室の壁面に古エジプト語で刻まれたもので、現存するエジプト最古の宗教文学の作品
である。これは古王国時代の宗教、とくに葬祭信仰を伝える貴重な資料でもある。中でも、
ウナス王のものは最古であり、その出現において当時の思想を最もよく反映していると考
えられる。
本稿では、古代エジプト人の思想が反映されていると考えられるこのウナスのピラミッ
ド・テキストに重点をおき、彼らの来世観、葬制、王権観からピラミッド・テキストで中
心をなしていると考えられるオシリス神の存在について考察している。
オシリスとラーの信仰は、死後の存続という概念を共有していた。つまり、冥界におけ
る夜の時間の後の太陽の日毎の再生や、オシリス神話の中のオシリスの死と復活の中に反
映された氾濫の後の年一回の食物の喪失と直後の再生両方のケースにおいて、その神の生、
死、そして再生は、自然世界のサイクルの中に反映されていたのであり、これはエジプト
人の思想の一つを形成していたと考えられる。しかしながら、後の時代においては、太陽
信仰が王の再生と来世を象徴し続けた一方で、オシリスは一般民衆の不死性を表現するよ
うになった。
ピラミッド・テキストの中にラーとオシリスの両方を含めたことは、古王国時代の宗教
における内在的な競合関係を示してはおらず、ラーとその神官団がヘリオポリスで勢いを
増したときに、王は、空と冥界を通じて太陽神に伴うことを可能にしたラーの子どもであ
るだけでなく、死してオシリスとなるオシリスの息子ホルスの現世における顕現でもあっ
たことを強調しただけのように感じられる。この役割で、彼は、神と冥界の裁判官として
統治したのであった。第5王朝における太陽信仰の発展は、ホルス、つまりそれまでの王の
位置づけを脅かしうるものであったが、ピラミッド・テキストでは、全ての伝統を結びつ
け、ラーが天に君臨した間でさえ地上と冥界で誰もが認める権力を持つことを可能とした。
ピラミッド・テキストは、3柱の主要な神々と彼らの神話を統合し、ホルス王権、ラー
信仰、そしてオシリス崇拝が王の位置づけを強めることを可能としたのだ。エジプト人は、
口承によって受け継がれてきた先王朝の伝統を、ピラミッド・テキストや後の文字資料に
組み込むことで、王の再生がより確実になると考えていたのだろう。
-2-
ギリシアにおけるポセイドン信仰
冨田 直宏
神話は、その土地の風土、環境と関係するところがある。このことは一般に神話が自然
と密着し、自然と共感しあうような生活から生み出されているところから導かれる。なか
でもギリシア神話は、風土、自然の影響を強く受けている。しかし風土、自然の影響がす
べてそのまま神話に反映されているわけではなく、その神格にあらわれているわけではな
い。特に漁業や海に対して食い違いを感じる。以上の疑問より、本論文は海神として重要
なポセイドンの変遷を辿っていくことにより、かかる食い違いが何に根差したものなのか
を考察した。ポセイドンの登場する史資料としてミュケナイ文書、ホメロスの『イリアス』、
『オデュッセイア』、ヘシオドスの『神統記』、アポロドロスの『ギリシア神話』、パウ
サニアスの『ギリシア記』、オウィディウスの『変身物語』を扱った。
まず比較的新しい神話群ではポセイドンの海の神としての働きを見出すことができた。
同時にほかの要素についてもいくつか見て取ることができた。特にパウサニアスの『ギリ
シア記』においてポセイドンの神格がゼウスよりも高いとする地方の話が登場したり、ま
たそれぞれの作品においてポセイドンと馬との関係を示唆する話を見出すことができる。
次に比較的古い神話群の中では、ポセイドンは海の神であるというよりも大地の神として
扱われているようにみえた。話の中でのポセイドンの表現、またポセイドンの名の由来等
を考慮に入れると、大地の属性が強いと考えられる。以上のことからポセイドンの変化を
読み取り、時代と共に大地の属性に海の属性が加えられていき、次第に後者の属性が強め
られていったのではないかと推測した。
かかる変化はどのような経緯によってなされたのか。このことを探るため、ポセイドン
の配偶者として有力であるデメテルを手掛かりとして、古ヨーロッパにおける女神信仰と
ポセイドンの関係を考察した。その結果、古ヨーロッパにおいてポセイドンの前身なので
はないかと思われる神格を発見する。しかしホメロスの中で見られるようなポセイドンと
の性格の差異は大きく、古ヨーロッパとホメロスの時代までの間に何かがあったものだと
推測した。かかる間に起こったものとしてインド=ヨーロッパ語族の侵入に注目した。そ
の結果、古ヨーロッパのポセイドンの前身なのではないかと考えられる神格とインド=ヨ
ーロッパ語族の崇拝していた馬神の結合によってポセイドンという神が生まれたのではな
いかという推測を導き出した。
以上のことからギリシア人はもともと海を知らない種族であったのではないかというこ
とを導いた。そうであるならば、海に対する食い違いもある程度説明がつく。神話はその
地域の風土や自然を反映している。加えて神話は一時期に突然発生したものではなく、当
然歴史性を有しており、昔のことをも反映しているものと思われる。昔のギリシア人が抱
いたであろう海に対する恐怖が神話の中に残されていたのであり、かかる層と古典期以降
海で活躍したころを比較したために食い違いを感じたものと思われる。
-3-
元首政期皇帝の統治政策
大野
恵理香
紀元前27年、内乱を平定したオクタウィアヌスにアウグストゥスの称号が与えられ、元
首政が始まる。アウグストゥスに始まる元首たちは、統治を行なうにあたって、元老院に
対する配慮を必要とした。元老院を無視した行動をとり、勝手に振舞おうものならば、暗
殺や反乱によって殺害され、元老院決議によって暴君として記憶の抹消をされかねないか
らである。その一方で、彼らは自分の望む政策を行なうために、自己勢力の形成に力を注
いだと思われる。明らかな独裁を行なえない以上、自己も含む元老院議員の中で、政治支
配層としての権力を保持できる基盤が必要不可欠だからである。本稿は、こうした皇帝の
帝国統治に関して、ウェスパシアヌス帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝の3人の皇帝をと
りあげ、ユリウス・クラウディウス朝滅亡後の正統な血筋を持たない皇帝たちが、どのよ
うにして自己の望む政治を行なうための権力基盤を作っていったかということを考察した
ものである。
第1章ではウェスパシアヌス帝の治世について考察した。治世初期から改革までの期間に
は、彼は重要なポストにのみ親族を、それ以外には中立派元老院議員を登用している。つ
まりこの期間は、元老院に帝位の正当性を認めさせ、その後の政策を成し遂げるための準
備期間だったといえよう。そして、73,74年の改革で自分の支持層の身分を上昇させるこ
とにより、重要なポストに自分の支持者を登用していくことを可能としたのである。
第2章ではトラヤヌス帝の治世について考察した。彼の即位前に起きたドミティアヌス帝
の暗殺事件は、ドミティアヌス派と反ドミティアヌス派の対立という、政治的に動揺した
状況を生み出した。トラヤヌス帝は反ドミティアヌス派を味方として即位したため、急進
的なドミティアヌス帝とは逆の立場をとった。つまり、伝統的元老院議員重視の政策が、
彼の治世の終わりまで一貫してとられることになったのである。
第3章ではハドリアヌス帝の治世について考察した。彼は属州視察旅行を始めるにあたり、
早急に自己の基盤をととのえる必要があった。そのため、彼は、治世の初期において、革
新的な改革を行ない、新たな勢力基盤の構築と皇帝権力の確立に力を注ぎ、ある程度基盤
が固まった後は、イタリア出身の伝統的な元老院議員への配慮を見せ、彼らをも自己の勢
力に加えていったのである。
以上のように、3人の皇帝の統治政策について考察した結果、一見したかぎりでは共通性
などないように見えるが、内容を突き詰めてみれば、3人とも即位する際にまず自分の勢力
基盤を定めており、それらをうまく利用することで安定した統治を行なっていったことが
わかった。そして、その勢力が伝統的な元老院議員とは異なる場合には、自分の勢力基盤
の登用時期を見極め、伝統的な勢力をうまく統治体制に取り入れていくことが必要とされ
たのであった。
-4-
4世紀ローマ帝国における「キリスト教大迫害」に関する一考察
北澤
春香
ローマ帝国がキリスト教を公認し、国教に指定するようになるまでの転換点として303年
に開始された「キリスト教大迫害」は重要な意味を持つ。「キリスト教大迫害」が何故勃
発したのかということについては諸説が存在する。本邦においては松本宣郎氏と豊田浩志
氏が「キリスト教大迫害」研究の第一人者である。先に松本氏は政治的・社会的観点から
ローマ帝国側に視座を置き、「大迫害」の勃発原因を皇帝側の政策に求めた。彼はディオ
クレティアヌスの導入した分割統治制であるテトラルキア体制を維持するイデオロギーと
して、ローマ伝統の神々と人間との相互授受的な関係を表わす do ut des の概念に注目した。
つまり「大迫害」の目的は、政治的安定のための完全な国家宗教の統一であった。しかし、
豊田氏は松本氏に対する批判的な観点から、緻密な史料の分析を通して、キリスト教会が
勢力を伸ばした結果、政治的性格を強めたと判断し、「キリスト教大迫害」を教会が国家
簒奪を狙ったことに対する帝国の制裁と捉える。本稿の目的は両氏の研究を参考にし、「キ
リスト教大迫害」の要所を概観することでその勃発の意図を考察することである。史料は
主に「キリスト教大迫害」の同時代人である二名の著作、エウセビオスの『教会史』及び
ラクタンティウスの『迫害者たちの死』を用いた。
まず、「キリスト教大迫害」の前史に注目し、ガリエヌス治下においてキリスト教が公
認されていたのか、キリスト教はどの程度ローマ帝国に浸透していたのかを考察した。次
に「キリスト教大迫害」勃発の直接の契機として考えられている腸卜不調事件と軍隊粛清
の関係性について探った。キリスト教は組織として発達し始めていたが、キリスト教の発
展は異教社会との対立とすぐに結ばれるということではなかった。
そして迫害勅令の内容と実施状況を検討し、「キリスト教大迫害」が実は流血を避ける
傾向を持ち、キリスト教徒の撲滅を意図していたのではないということを明らかにした。
また、テトラルキア体制という特質上、迫害の実施は各皇帝の領地によって度合いが異な
るため皇帝の宗教観についても注目し、特に迫害に熱心であったディオクレティアヌスと
ガレリウスについて取り扱った。信仰の篤さの度合いはそれぞれ異なるものの、彼らにと
って最も重視されなければならないのはローマ帝国の秩序と安寧であった。更に、「キリ
スト教大迫害」のまとめとして311年発布のガレリウスによる寛容令を取り扱い、熱心な迫
害帝であったガレリウスが「キリスト教大迫害」をどのように捉えていたのかを考察した。
以上から、「キリスト教大迫害」において重視されていたことは、キリスト教徒の撲滅
ではなく、do ut des の概念の実現であったという結論を得た。軍人皇帝時代という混乱を
経験した皇帝達にとっては、帝国の秩序と安寧は何よりも優先されるべき事柄であった。
しかし一方で、キリスト教も最早迫害を受けるだけの存在ではなく、むしろ迫害という事
実をも利用することによって自らの勢力を拡大させていく程に成長していたのである。
-5-
ルーシにおけるキリスト教受容の一考察
影山
華子
本卒論においては現在、東方正教会の中でも最大の勢力を有しているロシア正教会の原
点に焦点をあて、民間信仰が強く根付いていたルーシ(中世ロシア)の地で、キリスト教がい
かにして受容され浸透していったのか、またその目的は何であったのかを考察した。
そのためにまず、ルーシの土着の信仰について取り上げた。ルーシの地には、すでに自
然の力をさまざまな神格に写して崇拝の対象としていた多神教が信仰され、民間信仰が深
く根付いており、キリスト教が入り込むことは容易ではなかった。
次に、ロシアに現存する最古の史料である『原初年代記』を用い、この史料において初
めてキリスト教受容を果たした人物、オリガおよびキリスト教を国教に定めたウラジーミ
ルについて取り上げた。また、この時代に強大な力を持っていたビザンツ側の歴史からも
オリガとウラジーミルについて取り上げ、検証した。二人のキリスト教受容の目的は、ビ
ザンツと宗教的共通性を創り出し、それによって文化的・経済的交渉をいっそう緊密にし、
ルーシの向上と発展を促すことと、キリスト教的権威によって、公の権力を強化し、キリ
スト教の力を通し公の権力を下部のスラヴ人社会の内部に深く浸透させようとしたところ
に根本的な理由があったと考えられる。また、この二つの国、ルーシ側とビザンツ側の歴
史記述を比べると、いくらか矛盾する点があるが、いずれにせよ、ルーシのキリスト教へ
の改宗はロシアの発展に新世紀を開いたのみならず、ビザンツ側にとっても、富んだ国家
を精神的指導下に入れることができ、大成功を収めたのである。
このようにルーシの地にキリスト教が入り込み、異教時代は終わり、新たな信仰が広め
られていくことになり、ルーシ人はキリスト教世界の一員となるのだが、果たして先祖代々
受け継がれてきた信仰を一片の命令で打ち捨てることができたのであろうか。ルーシの民
間信仰は、社会生活において果たす役割が大きく、人々の信仰の対象であった神々を一晩
で捨て、新しい信仰の対象を迎え入れるのは困難な話である。これらの神々は決して完全
に消え去ったわけではなく、キリスト教導入以後、キリスト教の聖人と混同されたのであ
る。これらの聖人は超自然的な力が付与され、神格化され奇跡を起こすものとして讃えら
れるようになった。つまり、キリスト教が受容された後も、かつてのルーシの神々は完全
に消えることなく、特に民衆の中で聖人と共に生き続けたのである。
以上の考察から、キリスト教化を通じてルーシはビザンツ世界の豊かな文化を受け入れ、
それを糧として自らの文化を形成していったことがわかる。キリスト教の導入はルーシの
文化を豊かにし、そして外交的な威信をも飛躍的に高めることになった。また、ルーシの
地に根付いていったキリスト教は、決して単一的な「キリスト教」ではなく、ルーシの土
着信仰が混ざり合い共生し、現在のロシアにおいていわゆる「二重信仰」の形をとり今で
も生き続けているということが明らかとなった。
-6-
ルネサンス期におけるパラッツォの社会史的考察
―フィレンツェのパラッツォ・メディチを中心に―
久保
知春
ルネサンス建築の代表として、宗教建築である聖堂と並んで盛んに建設されたのが、世
俗建築のパラッツォ (palazzo)である。15世紀後半には小君主や権力者あるいは都市そのも
のの富が増大し、イタリア各都市でパラッツォの建設が華々しく行われた。その中でウル
ビーノ、マントヴァ等の都市では唯一君主のための宮殿としてパラッツォが建設されるが、
フィレンツェでは富裕市民たちの邸宅として100軒近いパラッツォが次々と建てられる。本
稿では、ルネサンス期に市民の邸宅として盛んにパラッツォ建設が行われたフィレンツェ
を中心に、中でも事実上のフィレンツェ支配者であったメディチ家の邸宅であるパラッツ
ォ・メディチを取り上げ、その社会史的機能と意義について考察した。
まず第1章では、当時のフィレンツェの都市空間がどのようなものであったのか、フィレ
ンツェにおいてパラッツォという建築類型が生まれるまでの12世紀から14世紀までの都市
型住宅の変遷と、都市における聖俗の主要建造物を見ていきながら検討した。
その後第2章において、フィレンツェで盛んに建設されたパラッツォの基本的構造につい
て見た上で、具体的にフィレンツェの代表的なパラッツォ建築を取り上げ、15世紀フィレ
ンツェにおけるパラッツォ建築がどのようなものであったのか考察した。
第3章では、一市民の住まいとは異なった側面を見せるパラッツォ・メディチが当時どの
ような意義を持つ建物であったのかを考察した。その際には当時の書簡史料を用い、パラ
ッツォ・メディチの内部空間が宮廷的な豪華さを誇っていたこと、中庭が婚礼の宴会の際に、
大広間の一種としての役割を果たしていたことを明らかにした。また、中庭や広間、寝室
等の壁に取り付けられたベンチは、施主との面会を待つ来訪者のための腰掛けとして使用
され、パラッツォ・メディチは建設当初から、来客の存在を意識して設計されていたと考え
ら れ る 。 そ し て 最 後 に 、 フ ィ レ ン ツ ェ に お け る 公 共 的 な 建 物 で あ る 政 庁 舎 (palazzo
comunale)とパラッツォ・メディチを比較し、そのファサードや中庭、礼拝堂においていく
つかの類似点があることを明らかにした。これらの共通点はメディチ家の当主であったコ
ジモ=デ=メディチによる改築等によって意図的に施されたものであるが、政庁舎と類似さ
せることによって、パラッツォ・メディチには公権力の館としての側面が与えられたとい
える。
以上の考察・分析の結果から、ルネサンス期フィレンツェにおいて富裕市民のパラッツ
ォが数多く建設される中で、パラッツォ・メディチは単なる私的な富裕市民の住まいでは
なく、多くの市民が訪れる社会に開かれた空間であると共に、フィレンツェにおいて、政
庁舎と並ぶもう一つの政治の中心であるとみなされる建物であったということが明らかに
なった。
-7-
16世紀スペインにおけるインディアス征服戦争論争
田中
雅明
クリストバル・コロン(Cristóbal Colón 1451頃-1506)による、アメリカ大陸の「発
見」以後、インディアスにおける統治のあり方や、インディアス征服戦争の正当性の是非
が問題となった。今回、インディアスの征服に関する議論を行った、バルトロメ・デ・ラ
ス・カサス(Bartolomé de Las Casas 1474-1566)、フアン・ヒネース・デ・セプルベダ(Juan
Ginés de Sepúlveda 1489/90-1573)、フランシスコ・デ・ビトリア(Francisco de Vitoria
1485-1546)の三人の人物の議論を取り上げ考察した。
第一章では、コロンによる「発見」から、インディアス問題が浮上するまでの歴史と、
スペイン人コンキスタドール(征服者)の植民活動について述べた。王室と協定を結んだ
コンキスタドールたちは、インディオへの宣教活動よりも、次第にインディアスにおける
富の獲得を目的とするようになった。そして、エンコミエンダの不正運営や、インディオ
の労働酷使や虐待などの問題が浮上するようになると、インディアスにおける統治が問題
視されるようになった。このような状況をうけ、王室によりバリャドリード会議が開かれ、
そこではラス・カサスとセプルベダにより、征服戦争の正当性の是非について論争が繰り
広げられた。
第二章では、セプルベダ、ラス・カサス、ビトリアの、それぞれの征服戦争についての
主張を考察した。セプルベダは、正義に矛盾しない戦争の条件を挙げインディアス征服戦
争を正当化した。また、アリストテレスの自然奴隷説に則り、インディオは生来奴隷であ
るとした。インディオは偶像崇拝や人身犠牲などの習慣に耽り理性を欠く人々であるので、
戦争により支配することは正しいと説いた。それに対しラス・カサスは、セプルベダの見
解に反し、インディオは優れた理性を備えた人々であると述べ、征服戦争が不当であるこ
とを主張した。また、従来使用されてきた「野蛮人」の語を定義し直し 、アリストテレス
の自然奴隷説に基づく戦争の正当化は誤りであるとした。
一方、ラス・カサスと同時代人であるビトリアは、万民法の存在を説き、それを論拠と
して征服戦争の正当性を否定している。ビトリアは、あらゆる人が法のもとで平等である
とし、インディアスにおける万民法に基づくスペイン人の権限を提示した。また彼は、戦
争の権利は万民法に基づく権利であるが戦争を行う唯一の正当原因は、不正が加えられた
ということである、とし、戦争の目的とは防衛であり、戦争の機会と原因を強いて求めて
はいけない、としている。ラス・カサスとビトリアは、同じく征服戦争の正当性を否定し
たが、ラス・カサスは宣教師の立場で征服戦争の正当性を否定し、ビトリアは神学者の立
場で法の観点から正当性を否定した点に相違がある。
-8-
19世紀ドイツ音楽における2つのロマン主義
――「絶対音楽」派と「未来音楽」派の対立――
石見
友里
音楽史において古典主義に続くロマン主義の時代はほぼ19世紀全体を覆っている。ドイ
ツ・ロマン主義音楽界には、音楽に対する考え方、作品の在り方等において2つの楽派が存
在していたことが知られている。
その1つは「絶対音楽 absolute Musik」派であり、メンデルスゾーン、シューマン、ブラ
ームスなどを代表的な作曲家とし、詩的、絵画的な表象やテキストと関係を持たず、ヴィ
ーン古典派で生まれた形式を重んじる音楽を目指した。過去の優れた業績に対する愛と尊
敬の念を強く持ち、交響曲や室内楽を中心に創作を行った。
もう一方はベルリオーズ、リスト、ヴァグナー、ブルックナーらを代表的な音楽家とす
る「未来音楽 Zukunftsmusik」派であり、革新的な傾向を重んじ、「未来」という観念を
重要視し、音楽と言葉が結びついたオペラや交響詩を「未来音楽」として、それらのジャ
ンルで多くの作品を創作した。
両派の対立は音楽家のみならず、批評家、聴衆をも巻き込んだ、ドイツ音楽界を二分す
るものとなった。本論文では、この二つの楽派の対立における理念と現実を分析し、その
結果、以下のような点があきらかになった。
一方の「絶対音楽」派の場合は、中心的な批評家であったハンスリックがもとは「未来
音楽」も支持していたこと、ブラームス自身の思いとは別に周囲の人物から「絶対音楽」
派の中心作曲家として祭り上げられていたこと、伝統を大切にするというスタンスでいる
にもかかわらず社会的には革新派と結びついたこと、シューマンも「未来音楽」を多く創
作し、ブラームスもオペラ創作の意欲が読み取れることが重要なポイントとして指摘でき
る。
他方の「未来音楽」派の場合は、まずヴァグナーが、「絶対音楽」派の理論として援用
できるようなショーペンハウアー理論を無理矢理自分の理論にこじつけていること、「未
来」志向と主張しているにもかかわらず社会的には保守派となっていたこと、反ユダヤ主
義を標榜しつつも、ユダヤ系の人々に頼っていたこと、そしてヴァグナーも「絶対音楽」
を書き、ブルックナーがオペラを創作していなかったこと、が挙げられる。
ではこの対立の本質は何であったのだろうか。両派は互いに排除しあおうとしていたこ
とは事実であるが、実際には「対立」だけではなく「影響を与え合う」という形になって
いたことが重要である。そのようにして、2つのロマン主義は、ともに19世紀ドイツ音楽の
完成を目指し、クラシック音楽を発展させたといえる。
-9-
19世紀後半イギリスにおける女子教育
-ミドルクラス女性と帝国主義の関係を中心に-
八木
淑江
19世紀イギリスのヴィクトリア朝時代(1837~1901)は女子解放の様々な運動が行われ
た時代であり、論文ではとくにミドルクラスの女性に対する教育向上運動を扱った。
第一章では、19世紀中期までのミドルクラスの女性の価値観と教育について考察した。
産業革命後に台頭したミドルクラスは、その経済的豊かさを誇示するため妻や娘を有給雇
用に就かせることを好まなかった。彼女たちの役割として、賃金労働に従事せず、家事や
子育てに専念することが理想とされた。「家庭の天使」と呼ばれたこうした理想の女性像
があったために、ミドルクラスの女性に対する教育は、知育ではなくより良い結婚のため
のたしなみを習得するためのもの、とされた。しかしこの時代、独身男性の多くは兵役に
従事したり植民地への移住したりしたため、結婚できない「余った女たち surplus women」
という問題が生じていた。満足な教育を受けていなかった彼女たちは、親や夫の経済的後
ろ盾を失うと途端に困窮することになり、それが女子教育改革の発端となっていく。
第二章では、19世紀後半の女子高等教育と社会の反応について扱った。この時期、経済
的問題によるミドルクラスの女性の悲惨な生活がきっかけとなり、女子高等教育運動が盛
り上がった。1873年にはガートン・カレッジが開校されるが、それに対する社会の反応は
冷たいものであった。当時発刊されていた少女向けの雑誌『Girl’s Own Paper』を用いて、
女子高等教育を擁護する立場と批判する立場の記事を分析した。そこからは、女子高等教
育運動が一定の成果を上げつつも、社会の中に容易に受け入れられてはいなかった現実が
見えてくる。
第三章では、19世紀世紀末の社会と女子教育について考察した。19世紀を通して、「余
った女たち」の問題は解決されていなかった。帝国主義の時代、結婚できない女性を「家
庭の天使」のなりそこないと見るのではなく、十分な教養を備えて海を渡り、帝国統合の
絆となる「文明の使者」という役割を与えようとする動きが出てくる。「家庭の天使」と
いう19世紀イギリスの理想の女性像は、大英帝国の支配を正当化した理論、野蛮な民族を
文明化するという大儀を与えられたのである。この動きに、高等教育を受け、社会の中に
進出しようとする女性たちが呼応する。女性の過剰人口問題に端を発した教育向上運動は、
帝国主義の時代にいたって、「帝国」の中に新たな役割を見出していくことになるのであ
る。
- 10 -
アイルランド・ナショナリズムと社会主義
―ジェイムズ・コノリーを中心に―
諏訪
淳
アイルランドの社会主義者ジェイムズ・コノリー(James Connolly,1868~1916)は反英武
装蜂起である1916年のイースター蜂起の中心人物であり、特にその死によってアイルラン
ド共和国建国の「英雄」としてアイルランド・ナショナリズムの象徴となった。しかしコ
ノリー賛美が北アイルランド紛争の解決を遅らせる原因であるという認識が広まり、彼の
社会主義者あるいはサンディカリストとしての側面が再評価されるなかで、彼の思想と行
動におけるナショナリズムと社会主義の関係性があらためて問われている。
以上のことを踏まえ、論文ではコノリーの活動期を土地同盟時代、アイルランド社会共
和党結成時代、合衆国時代、第一次世界大戦・イースター蜂起時代に大別し、それぞれの
時代を一章から四章として、彼の活動や著作に見られる主張を時代背景と関連させて分析
した。特に彼の「社会主義的ナショナリズム」の理論に注目し、以下の点を結論とした。
コノリーはイギリス帝国主義支配下でのアイルランド問題の根本的な解決を、社会主義
的所有体系の達成とアイルランド社会主義共和国の建国に見出した。1910年に刊行された
彼の著書『アイルランド史における労働者(Labour in Irish History)』にみられるように、
彼はカトリックとプロテスタント、農民と地主、労働者と資本家といった、アイルランド・
ナショナリズムの歴史的に形成された階級的側面に注目し、アイルランド民族の独立は階
級闘争との関係で捉えられなければならないと主張した。彼は「労働者の共和国(Workers'
Republic)」という表現を好んで使用し、自由なアイルランドは自由な労働者階級によって
つくられなければならないとし、資本主義発展の著しい当時代のアイルランドにおいて顕
在化しつつあった労働者階級を主体とするアイルランド・ナショナリズムを求めた。彼の
社会主義的ナショナリズムとはこうした階級的視点をもったナショナリズム理論であった。
コノリーにとって最大の関心は労働者階級の「自立」をどのように達成するかというこ
とであった。彼はその「自立」を第一には経済的な「自立」であるとして、労働組合運動
を重要視し、サンディカリズムに傾倒した。また、アイルランドの労働者階級は、アイル
ランドの労働者であると同時に、アイルランドという植民地におけるイギリス帝国の労働
者でもあったことから、彼はアイルランドの労働者階級の真の意味での「自立」はイギリ
ス帝国への経済的従属関係を断ち切ってはじめて達成でき、それには社会主義革命という
政治的変革を通過しなければならないと考えた。さらに言えば、社会主義革命を達成する
ことは帝国主義や資本主義からの勝利を意味し、それは同時にアイルランドという「国」
の経済的、あるいは民族的な「自立」の達成を意味する。したがって彼は、アイルランド・
ナショナリズムが真に有機的となるためにはアイルランドに社会主義を打ち立てることが
何よりも重要であると考えたのである。
- 11 -
ヒトラー・ユーゲントとドイツの青少年
澤田
綾子
ヒトラー・ユーゲントについて、戦後初期にはナチズムは青少年を完璧に掌握したという
研究もあったが、最近では再検討されている。私はヒトラー・ユーゲントを統括する側と
される側、双方の役割をまとめ、ヒトラー・ユーゲントと青少年考察した。
ドイツではヒトラー・ユーゲント成立以前に青少年運動が存在していた。ワンダーフォ
ーゲルに代表されるように実生活では行えないような体験や規律、同志関係を学べる場を
求めた運動であった。最初ヒトラー・ユーゲントはナチ党の青少年組織にすぎず、正式な
組織となったのはバルディーア・フォン・シーラハが頭角を現し始めた1928年頃である。
活動にはいかに無意識のうちにナチズムを若者達に注入するかに重きがおかれ、劇や踊り
といった魅力的な題材をもりこんだ開放的要素をとりいれ、スポーツを奨励し、軍隊的要
素をとりこんだものだった。
1933年にナチ党が政権を獲得し、1936年に「ヒトラー・ユーゲント法」が成立すると、
10~18歳の男女青少年が組織に入団することを義務付けられ、他の組織は解散させられた。
ヒトラー・ユーゲントは本格的に軍事訓練をとりいれるようになり将来の国を担う兵士と
しての役割を期待された。もちろんナチ党の後継者を育てるという意味を含まれていたの
はいうまでもない。
当事者である青少年達の環境は多様であった。一方で閉鎖的な伝統と風習に縛られた農
村、他方で景気後退と失業問題にあえぎ無気力が蔓延していた都市部。この両者の問題の
解決を若者達はナチスに託した結果がヒトラーの権力獲得だった。
農村部では閉鎖的な社会からの開放がヒトラー・ユーゲントの魅力であった。スポーツ、
肉体的トレーニング、キャンプは自分たちの貧しい生活を実感し都会の裕福な生活への憧
れを喚起させた。
都市部では労働者への職業教育の拡充や余暇増大、有給休暇の充実をヒトラー・ユーゲ
ントは訴えた。また学校教育にも大きな影響を及ぼすようになり、授業の代わりにヒトラ
ー・ユーゲントの活動が取り入れられるようになった。青少年達は与えられた権力に歓喜
し、開放感を得た。それは将来的、社会的不安から逃れられる瞬間であった。
青少年達はヒトラー・ユーゲントの活動がどのような結果を生むか全く考えていなか
った。「祖国愛」や「冒険心」に狩り立てられ、ただひたすらにその日の楽しみ、将来へ
の楽観的な眺望でいっぱいだった。ナチ党は精神的に未熟な青少年達を最大限に利用する
ことでナチズムを完成させた。青少年達の中にはナチズムという理念について理解も関心
もなかったものも多く存在した。ただ不平不満を解消する理由のひとつがヒトラー・ユー
ゲントだった。指導者達の思惑を知るまでもなく、自分達が解放され、わがままにふるま
える絶好の機会としてヒトラー・ユーゲントは存在したのだった。
- 12 -