ユダヤ人の歴史概観 ◎ パ レ ス チ ナ -北はレバノン、シリア、東はヨルダン、南はシナイ半島に接し、西は地中 海に面した細長い地帯 面積-26,000平方キロ 紀元前12世紀~紀元前7世紀-ペリシテ人というセム系民族の定住→「ペリシテ人の国」 ←「パレスチナ」の地名の由来 7世紀よりアラブ・イスラーム化 ユダヤ人→・紀元前10世紀にダビデ王国を建国←旧約聖書「創成記」の逸話 ダビデがペリシテの巨人、ゴリアテを投げ縄につけた石で倒す ・紀元2世紀、パレスチナがローマ帝国に支配されると、ユダヤ人はパレス チナから追放され、離散する ◎ヨーロッパのユダヤ人 ・18世紀までのユダヤ人に対する迫害-キリスト教側からの宗教的不寛容 ・19世紀の民族主義の台頭→ユダヤ人に対する「迫害」から「排斥」 ドイツ→国粋主義を鼓舞するために政府がユダヤ人に対する偏見をあおる ロシア→ユダヤ人居住区を攻撃する「ポグロム」が多発 →ユダヤ人の側でも民族主義が発生→国家を樹立しようという動き(=シオニズム) シオンの丘=エルサレム ロシアのビールー運動 シオニズムの組織化=テオドール・ヘルツル 『ユダヤ人国家』(1896年) 「我々はいたる所で我々が住んでいる民族社会に溶け込もうと誠実に努めてきた。 求めたものは父祖の信仰の保持だけだった。しかし、それは許されないのである。 忠実な愛国者であり、時には過度に忠実だけれど、結局何の役にも立たない」 ・1897年第一回世界シオニスト会議 「シオニズムの目的は、パレスチナの地に郷土を創設することである」=バーゼル綱領 ↓ パレスチナへのユダヤ人の移民(アリヤー)の促進 ◎アラブ・ユダヤの対立・拮抗関係が現れるのは第一次世界大戦 ・オスマン帝国の支配下にあったパレスチナ→19世紀に国際政治の焦点に 「聖地管轄問題」→カトリック教会とギリシア正教会の争い 1 英国・フランス→カトリックを支持、ロシア→ギリシア正教会を支援 ロシアはオスマン帝国下のギリシア正教徒を自国の保護下に置く権利を要求 →クリミア戦争(1853~56)に ・英国の「三枚舌外交」 1.「フセイン・マクマホン書簡」(1915年7月~1916年3月) アラビア半島と東アラブに独立アラブ王国を建国する約束をアラブに与える →「アラブの反乱」 2.「サイクス・ピコ協定」(1916年) 東アラブを戦後英仏で分割、パレスチナ地方中央部は国際管理下に 3.「バルフォア宣言」(1917年11月) パレスチナにユダヤ人の民族郷土を建設することを支持する →シオニストがパレスチナの英国支配の確立のために尽力することを期待 ↓ アラブに衝撃を与え、ソ連政府がサイクス・ピコ協定を暴露したこともあってアラ ブ民族主義者の中にはトルコと単独講和を結ぶ動きもあった ◎英国による委任統治 ・エルサレムを中心とするパレスチナ中央部=英国の委任統治下に置かれる 1922年-委任統治規約の調印→英国の委任統治が国際連盟で追認 統治規約前文←バルフォア宣言が引用され、シオニズム運動に同情的←英国のシオニ スト、ハイム・ワイツマン(後のイスラエル初代大統領)らのロビー活動 ・シオニズムの思想的展開 ① 労働シオニズム=社会主義思想によって影響される。デヴィッド・ベングリオン (イスラエル初代首相)らによって推進された ② 修正シオニズム=パレスチナの地はトランスヨルダンの一部までを含むと領土的絶 対性を説く。全パレスチナをユダヤ人国家の領域とすることを主張。ウラジミール・ ジャボチンスキーによって提唱された。ベタル(Betar)という戦闘集団を結成し、英国 委任統治政府に対するテロ活動を展開←ベングリオンは、「修正シオニズム」の立場は ユダヤ人国家の建設という目標において英国の妨害を招きかねないと強く反対 2 ・1930年代のナチズムの勃興→ユダヤ人の故国の建設を必要とする声を高めていく パレスチナへのユダヤ人の移住→シオニズム運動側の土地購入や資本の流入 ↓ 先住のパレスチナ・アラブ人の権益や土地の喪失を伴った 多数の小作人や小規模農家を農村から追い立てる ↓ アラブ人の暴動の発生(アラブの大蜂起=1936年)→英国ピール調査団の派遣 →両民族の対立抗争の解決手段としてパレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家に分 割することを提案。 ユダヤ側→独立したユダヤ国家はヒトラーの犠牲者が自由になれる場所と考え、分 割の考えを受け入れる アラブ側→分割案を断固拒否 ↓ セント・ジェームズ会議(1939年2月) ユダヤ人の土地購入に制限、ユダヤ人のパレスチナへの移住はアラブ人の承認がな い限りは認めない →英国は事態を収拾することができなかった ◎第三帝国の「パレスチナ問題」に対する取り組み ヒトラー→シオニズムを同化傾向をとるドイツのユダヤ人コミュニティーに対するアン チ テ ー ゼ と し て 肯 定 的 に と ら え 、 ド イ ツ か ら の ユ ダ ヤ 人 の 排 斥 を 促 進 し よ う とした 1933年~37年=パレスチナはナチスの移住政策の好ましい目的地 「人種的健全(Racial Healthy)」を追求するヒトラーにとってドイツ国内からのユダ ヤ人の流出は願ってもない現象であった ヒトラーの人種的世界観→アジアやアフリカの民族解放や民族運動を支持するもので はなかった。ドイツのヘゲモニーの必然を信じ、また白人ヨーロッパ社会が世界をい ずれ支配していくことを信じていた ↓ ヒトラーの外国政策→当初はイギリスとの良好な関係の維持を考える =「イギリス政策(Englandpolitik)」 ドイツがイギリスに対してその安全保障を約束する代わりに、英国もドイツの領土 拡張政策に反対しないことを期待→英国の中東政策を妨害しない方針 3 パレスチナ・アラブ人→シオニズムや英国に対してドイツの外交的・財政的・物質的 支援を期待 ↓ ドイツ→パレスチナ問題に関しては英国の行政に忠実の立場→パレスチナ人に対して 冷淡 パレスチナにおけるアラブ人の反シオニズム組織=「アラブ高等委員会」(エルサレ ムのムフティー(イスラーム法の解釈を下す法官)であるアミーン・アル・フサイニ ーが指導→武器の供給など支援をドイツに期待←ドイツは一貫して不介入 1938年1月-ヒトラーはドイツからの迅速で、大量のユダヤ人の移住を再度提案 →移住先として明確にパレスチナを指定するようになる ヒトラー→ユダヤ人の影響や存在が完全にない「ドイツ国家」こそ「ヨーロッパ生活 圏」に向けての闘争の前提条件 1938年初頭においてユダヤ人のドイツ経済における活動には根強い影響があった 1938年=1933年のユダヤ人人口の半分もドイツから流出させることができな かった 1938年~39年=ドイツ国内のユダヤ人の財産没収、移住の強制の措置がSS (親衛隊)などによってとられる 第2次世界大戦勃発→ドイツの「生活圏」が東欧に拡大され、数百万のユダヤ人をその 内部に含むことになる ↓ 面積の狭いパレスチナはユダヤ人の移住先としてふさわしくないという考えがドイツ政 府内部で強まる→マダガスカルが可能性のある移住先として考えられる ↓ しかし、実現されずに1942年1月20日の「ヴァンゼー会議」でヨーロッパ全域に 及ぶユダヤ人1100万人を対象に、東方(ポーランド)への移送、強制収容所での苛 酷な労働、殺害など具体的な措置が論ぜられた→ホロコーストに 第二次世界大戦終結後、ホロコーストの実態が明らかになるにつれて欧米諸国でユダヤ 人への同情が急速に強まる ↑ イスラエル国家成立の重要な背景に 4
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