ニューヨークでの活動を振り返って - The Nippon Club

ニューヨークでの活動を振り返って
大沢 元一
Osawa, Genichi
Deputy Consul General in New York
Chief Representative of the Ministry of Finance
Essay from Board Member
私 は 2014 年 7 月
済の中心的地位を独占しており、大蔵大
ウンとミッドタウンの移動から解放され
から在ニューヨー
臣がニューヨークを訪れて金融界の要人
たことが、今回の事務所移転の最大のメ
ク総領事館に所属
と会談することも多く、当事務所には当
リットであった。
)
しつつ、当地にお
時の大臣来訪を記念する写真が多くのこ
ける財務省の代表
されている。
最近の私の業務の中で重みを増してい
るのが、当地の米人投資家(米銀、ヘッ
として活動してい
る。本稿では、私
しかし、1990 年代に入り、日本経済が
ジファンド等)との意見交換である。
及び私の先輩達のニューヨークにおける
停滞する中で、邦銀各行は海外拠点の縮
今や日々の日本株の取引の約7割を外
活動を紹介させて頂きたい。
小を余儀なくされ、ニューヨークもその
国人投資家が占めている。米人投資家
例外ではなかった。
にとって、日本の株、為替等は重要な
投資対象であり、当然、我々の経済政
ご記憶の方も多いと思うが、私のオフィ
スは、2016 年 4 月から総領事館の 18
さらに、邦銀職員にも犠牲者が多く出た
策には厳しい注文がつく。私はなるべ
階に居を構える以前は、戦後長らくダ
2001 年のテロ事件を契機に、当事務所
く自分の言葉で、彼らが日本に自信が
ウンタウンのウォール街に近接したエ
が所在したダウンタウンは金融センター
持てるような説明を心掛けているが、
リアに総領事館とは独立して所在し、
としての性格を失い始めた。トップクラ
一方で、彼らから政策のヒントをもら
通称「財務省ニューヨーク事務所」と
スの米銀の本店はウォール街から姿を消
うことも多い。20 年前に米国留学して
呼ばれていた。
し、比較的新しいビルが並ぶミッドタウ
以来、財務省の中でも予算案の策定な
ンに相次いで移転した。
ど国内関係の業務が多かった私には新
鮮な日々である。
さらに戦前に遡れば、1904 年に始まっ
た日露戦争の戦費調達のため、大蔵省か
幸いにして、リーマンショック以降の
ら駐在員が派遣されたのが、当事務所の
米国経済復活の過程で、メガバンクを
長年の経済停滞を見て悲観的な意見を
始まりとされている。
はじめとする日系金融機関は米国にお
持つ投資家が多い中で、比較的年配の
けるビジネスを順調に発展させており、
米人投資家には「日本の地力を信じて
戦争による中断を経て、戦後間もなく、
その皆様のビジネスをできる限りサ
いる」といった力強い言葉をかけて頂
外債事務処理のため、大蔵省職員が再び
ポートさせて頂くことが現在の我々の
ける方が多い。彼らの多くは、若い頃
ニューヨークに派遣され、当時の金融の
大事な役割である。
1980 年代に東京での勤務経験がある
方々である。
「今の中国その他とは比較
中心であったダウンタウンで業務を再開
し、ほぼ時を同じくして、当該職員は在
一方で、ミッドタウンへの金融センター
にならないほど、当時の東京は輝いて
ニューヨーク領事の身分も有することと
の移行も踏まえて、当事務所も戦後長ら
いた」のだそうだ。私には当時の輝き
なった。
く慣れ親しんだダウンタウンから移転す
の記憶はない。ただ、歴史は重く、消
ることとなった。この 4 月より総領事館
すことのできないものだ。微力ながら、
その後、邦銀各行がニューヨークに拠点
内に新たにスペースを頂き、グランドセ
期待に応えるべく、今後もニューヨー
を本格的に開設するにつれて、当地に
ントラル駅の目の前という地の利を活か
クで、そして帰国後も、政策立案の一
おける邦銀の監督が当事務所における中
して、金融関係者との面談にはほとんど
端を担う者として尽力して参りたい。
心的な業務の一つとなったようだ。特に
の場合徒歩でアクセスしている。
(最近
1980 年代、ニューヨークでは地銀や第
のニューヨークは交通混雑が激しく、多
※写真は昨年のニューヨークマラソン
二地銀も含めて 100 行近い邦銀が支店
くのビジネスマンは徒歩で移動してお
完走時のもの
を構え、積極的に融資を行っていた。
り、私も運動靴を愛用している。地下鉄
当時は、今以上にニューヨークが世界経
もダイヤが乱れることが多く、ダウンタ