新しいさんび - 子羊の群れキリスト教会

新しいさんび
美津子
次々と新しいさんびが生まれて、その早さには驚くばかりです。新しいさんびのただ中にいると、分かる
ことがあります。さんびは天から来て、天へ帰るということです。神がまず私たちを愛して下さって、私たち
が愛を知り、神を愛し、礼拝するようにされたのと同じように、まず神からさんびを与えて下さり(もう少し正
確に言うと、神がまず信仰を与えて下さったので、私たちの内にさんびが起こり)、さんびを与えて下さっ
た方をさんびする。これは霊とまことをもって主を礼拝する礼拝です。私はここに神のよろこびがあり、神の
願いが成っていくということを信じています。
だからなのでしょう。新しいさんびには、その新しい時の神の願いが込められていると思えます。どのさ
んびも美しいし、主をたたえるものですから決して古くはないのですが、しかしさんびが生まれる時には、
その時に求められている信仰があり、その時にふさわしいことが語られ、それを通してその時々に現わさ
れていく神の願いがあるのだと信じるのです。
子羊の群れに与えられたさんびを少し振り返ってみても、その時々に応じて与えられたわけが、分かっ
てくるように思います。オリジナル曲であれ、そうでないものであれ、違いはありません。
リトリートを振り返ると、私たちのさんびの歩みがあざやかに見えてきます。
1 年目は「ブラザーサン、シスタームーン」や「主をほめよ」などテーゼの曲が中心でした。主が造られたも
の、ことごとくが造り主なる主をほめたたえる。単純に主をよろこび、ほめたたえる。子羊のさんびの基調と
なったものです。
2 年目は「愛満ちて」と「白いハト」(「主をほめよ」のメロディに新しい歌詞がついたもの)、3 年目は「主のもとへ帰
ろう」、4 年目は「タリタ・クミ」。この頃からですね、「少女よ、起きなさい」と自立の信仰が求められていると、
一人一人の人が思い始めたのは。
5 年目は「いのちのかがやき」。この頃から、さんびの流れが大きく変わってきました。さんびする者の信
仰や信仰の決断より、主の願いに立つさんびの流れになってきたように思います。
6 年目は、「主の祈り」と「悲しみの人」。あらためて十字架がクリアーに迫りました。
7 年目は、「永遠の白いハト」、「語ろう」、「生きているのは私ではない」。
「永遠の白いハト」が生まれた時、「もうこれ以上さんびはいらない。これ以上のものはないだろう」とまで
思いました。ここに主の願いがあり、いのちがある。これをさんびするだけで主のいのちは流れ、主の願い
が成っていくと思ったからです。
ところが「これ以上はない」と思ったのも束の間、オリジナル曲が次々と生まれてきました。さんびセミナ
ーが新しいさんびの発表の場となり、たくさんの新しいさんびが生まれるようになりました。
8年目(99年)は、98年10月のさんびセミナー発表曲の「憂いのかわりに」、「エロイ、エロイ」や「神の静け
さ」、99年5月の「これに聞け」。
そして、2000年に入ると(正確には99年の年末くらいからですが)、黙示録のさんびに入りました。
黙示録のさんびは、99年10月のさんびセミナーで発表された「御座にいます方と小羊とに」と、そのすぐ
あとに生まれた「新しいうた」の2曲が歌われていましたが、12月に入ると、新しいアレルヤ、「アレルヤ、主
をたたえよ」が生まれました。3人の人に同じメロディが与えられていて、一つの歌詞がつけられていたの
ですが(「愛する者よ、今」、又その後「アレルヤ2」と呼ばれていたもの)、「アレルヤ、主をたたえよ」に変わりました。
そしてさらに、今年に入って一挙に新しいさんびが生まれてきました。「御座にいます方にアレルヤ」、
「わたしは来る、アレルヤ」、「聖なるかな、アレルヤ」 そして実はまだ公表されていない曲がたくさんありま
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す。
今回、「聖なるかな、アレルヤ」が生まれましたが、この賛美によって、たしかに子羊の群れのさんびが
新しい次元に入ったことを感じるようになりました。それについて書いてみたいと思います。
新しい黙示録のさんびとして、まず「天のアレルヤ」があります。「天のアレルヤ」とは、「アレルヤ、主をた
たえよ」で「御座にいます方にアレルヤ」をサンドイッチにした組曲です。
「アレルヤ、主をたたえよ」によって「天のさんびとはこのようなものか」という感動を受けた私たちは、黙
示録のさんびに本当に入ってきたという思いを持ちました。このさんびは、最後のさいごに「主をたたえよ」
がついていますが、ただ「アレルヤ」という歌詞しかなくて、黙示録のことばは入っていないのですが、深く
て透明なさんびにさんびの深みを見せられたように思います。
「天のアレルヤ」は、その一つ一つを独立してさんびしても充分に美しいものです。
翌日は「いやし礼拝」という前夜、一時半頃までかかってこの「天のアレルヤ」をさんび担当の平岡直美
ちゃんがオーバーヘッド用に歌詞を作るのを横で見ながら、私は一つの思いにとらえられていました。「近
いうちに黙示録のさんびだけで礼拝する時が来る」という思いでした。
その時ふと「聖なるかな」を明日の礼拝の中でも歌いたいという思いがしました。御座にいます方の前で
四つの生き物が昼も夜も絶え間なく歌っている歌です。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。
昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者。
(黙示録 4:8)
私は、このみことばにはふしぎな力があるということを長く感じてきていました。かつて私は個人的にこの
ことばだけで祈られたことがありますが、いやしが流れて、熱い力が私をおおうのを感じました。このみこと
ばには天から来る力があると思ってきたのです。
すでに本部には 3 人の方から「聖なるかな」が届いていました。最初に来たのが望月隆太さんの「聖なる
かな」でした。私は届いた順に礼拝の中で一つずつ紹介しよう、明日は隆太さんの「聖なるかな」をしようと
決めました。
そして家に帰り、お風呂に入りました。湯の中に入ったとたん、私の口から一つのメロディが飛び出して
きました。別に歌いたいわけではないのに、口をついて勝手に出てきたという感じです。聖書を読んでい
るとよく曲になりますが、こんなホッとした時に出てくるなんてふつうありません。
ピーター先生の顔がちらつきました。「あなたにはいい録音用の機械を渡してあるのだから、さんびがわ
いたら必ず入れること」とよく言われていたからです。いつも肝心な時には手もとにはその機械がなくて、
消えてしまいます。わずかに残ったのはピーター先生の目の前で歌がわいた時のもの、「はじめに」、「そ
の響きは」、「いにしえの」の 3 曲です。
「今回も機械はないし、又何してるんだと言われてしまうだろうな」と思った時、なんとか残す方法はない
かと考えました。マッちゃん(採譜してくれる村山雅千さん)に電話するのがいいけれど、もう深夜の 2 時だから
起こせない。娘のカセットがあるはずだけれど、こんなに夜遅く探せない。だいいち、今私はお風呂に入
っている。どうしよう。
ここで思いついたのは、私のオフィスの留守電に入れることでした。さっそくガウンをかけて電話をしまし
た。深夜の 2 時に何やってんだ!と思いながら歌いました。こうして残ったものを翌日のいやし礼拝後に、
マナエちゃん(佐藤真苗さん)に採譜してもらいました。私は、その曲は「救いは、御座にいますわれらの神と
小羊からきたる」(黙示録 7:10)だと思い込んでいたのですが、なんと「歌いたい」と前夜言ったばかりの「聖
なるかな」が、ピタリと合いました。というより、そう聞こえてくるからふしぎです。
いやし礼拝では、隆太さんの「聖なるかな」は時間が足りなくて、歌えませんでした。まるで翌日の月曜
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礼拝で、新しい「聖なるかな」を歌うためのようでした。そして夜、オフィスに残っていたスタッフたちとこの
新しい「聖なるかな、アレルヤ」を歌ってみました。
「これは前から知っていた曲だ」と言って、皆、あっという間に覚えてしまいました。余りに単純な曲で 5
つか 6 つの音しかないのだそうです。「ふつう 5 つか 6 つでは童謡なのに、違うものもできるんですね」とマ
ナエちゃんが言います。でも私はいいこと言うなと思いました。主へのさんびは童心に帰って主をほめた
たえる歌ですから、子供のよろこびなのです。
そしてこのさんびは男性の声がピタリと合うのです。男性の声がこんなにも美しいというのは「天のアレ
ルヤ」で知っていましたが、これはそれ以上だと思いました。ふしぎなことですが、隆太さんの「聖なるかな」
とも合うそうで、女性がソプラノで隆太さんの「聖なるかな」を重ねるように歌います。
さんびする者たちが、その声が、一挙に一つになって、まるで一人の人が歌っているかのような静けさと
透明さが伝わってきます。霊の歌だから歌詞がついても霊で歌っているのでしょう。ひびきがハートに伝わ
ってくるのです。これは音ではない、ひびきだと思いました。天から来るさんびのひびきに、地の者のさん
びのひびきが引き出され、歌となって口から出ているという感じです。
余りに単純な曲なので、くり返しくり返し続いても飽きない。それどころかどんどん深まり、又新しくされて
いくのです。新しくハモッたり、新しいバリエーションが生まれてくる。部屋中がこのひびきに震動している
ようでした。ためしにテープに録ろうということになって、小さいマイクを電灯のヒモにぶら下げて録りまし
た。
翌日、教会で礼拝(月曜礼拝)の前にこのテープを流したのですが、入って来たスタッフたちはハッとし
て座り込み、涙を流している者もいました。「主の前にひれ伏すような感動だった」と言います。「とうとう黙
示録のさんびの世界に入ったんですね」と言う人もいました。
そしてさんびしていて気がついたのです。この深いさんびの世界に入ると、声まで変えられ、そして声
だけではない、信仰そのものが変えられると。
私はたった一つのさんびが人を変えるのを見ました。ふしぎなことにその一つのさんびによって、それ
以前のさんびも同じように深められていくということにも気がつきました。
これは今回の「聖なるかな、アレルヤ」に限ったことではありません。たとえば「エロイ、エロイ」によって、
あるいは「ありてあるもの」で、あるいは「ゆるされて」で人生が変えられた、さんびに目が開かれたと言われ
る方がおられるのと同じです。
しかし私は、今回は働き人がさんびするのを目の前で見ていましたから、特にそう感じました。「修道院
に入る気持ちがよく分かる」とさんびしていた男の働き人たちが言いました。私もこれまで、生涯を修道院
で過ごしたい人の気持ちが分かりませんでしたが、このようなさんびを一日中、いや生涯歌い続ける新し
いよろこびがあるということを知ってしまった気持ちです。
さんびですべてが完成する
あらためてこの言葉を味わっています。「さんびですべてが完成する」とは、もはや信じようという決断で
はなく、そのものズバリを知ってしまった、見てしまったという事実なのです。
そして地震から 5 年目の日に、この新しいさんびが生まれたことも偶然ではないと思います。5 年前、地
震のあとの礼拝直前に生まれたさんびです。
♪ いのちある者 今 声あげよ 主に向かい
いのちある者 今 声あげよ 主をほめよ ♪
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いのちに生かされている私たち、今声をあげ主にさんびを捧げたいと思います。そのさんびによって、
天と地は一つ。地はいやされ、主の願いが成ると信じます。
PS
「聖なるかな、アレルヤ」を前夜、あれだけ歌い続けたというのに、翌朝になると私はすっかり曲を忘れ、
歌えなくなっていました。なんとそれは私だけではなく、他の人にも同じことが起こっていました。「まるで私
たちは楽器で、ただの楽器に徹したようですね」と働き人の一人が言いました。私も心から同感でした。
人は天から与えられた「ひびき」を通る管、その「ひびき」を奏でる楽器なのかもしれませんね。この「ひ
びき」にはいのちがあり、人を、大地を、いやし、さんびで満たしていく。
天のさんびが、天に、そして地に満ちますように。
2000 年 1 月 18 日
(「時の声 2000年」より)
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