ドイツ語(木曜 2 限)発表資料 2014/6/12 発表者:酒井友維、永島有季子

ドイツ語(木曜 2 限)発表資料
2014/6/12
発表者:酒井友維、永島有季子、横山羽依
範囲:S.81, Z.15—S.83, Z.30
1) テクスト全訳
凡例: [ ] 文番号及び発表者の補足
( ) 原文中の括弧
【 】原文各頁の先頭
[1] パーペンは失脚後に後任者のシュライヒャーに対して陰謀を企て、同盟を結ぶ相手を保守派陣営
の中に求めた。[2] その時、ヒトラーとの話し合いを通してこの動きに非常に魅せられた大統領の息子
オスカー・フォン・ヒンデンブルクも加わったことは、彼[=パーペン]にとって願ったり叶ったりであ
った。[3] ケルンの銀行家クルト・フォン・シュローダー(資料 17 参照)の邸宅でのパーペンとヒト
ラーの会談の際に、そしてその後機会があって有力な実業家が[この動きに]組み入れられた。[4] 結局
ヒトラーは、大臣の大半がパーペン内閣からの無所属の専門家並びに右翼保守派陣営の代表である一方、
自らが首相となる際にナチ党員がもう 3 人だけ大臣の地位に就くようにするということで「寛大にも」
満足した(フリック―内務省、ゲッベルス―国民啓発宣伝省、ゲーリング―航空省)
。[5] それによって、
1933 年 1 月 30 日にヒトラーの首相への道は開かれた。[6] 2 月 1 日、ヒトラーはヒンデンブルクから 3
月 5 日に改選[を行うこと]についての同意を得た。[7] パーペンはヒトラーを「包囲し」あるいは「飼
いならし」たのだと全く単純に思い込んでいた。
【S. 82】
[8] SA[=突撃隊]とナチ党が街頭でナチスの「権力掌握」を熱烈に祝う一方で、そのブルジョアジー
保守派の[連立]相手はただ大統領制内閣が次の[内閣]に交代するだけだろうと思っていた。
[9] 数週間のうちに、フランス革命とドイツ革命以来のブルジョアジー的民主主義のすべての成果が
完全に消し去られるよう求められた。[その成果とは]政治的三権分立と相互の権力支配、根本的な基本
的権利と人権、労働運動の社会的・政治的成果、文化的・宗教的マイノリティ並びに精神的・身体的障
碍者の権利の尊重[である]。[10] 1933 年に人間を軽視しているのと同じくらい根本的な「文明破壊」
が行われたことは、当時の大半の人々にはわかっていなかった。[11] 自身を新政権の政敵の一員と見な
すことなく、人々はかなり安心して脇目も振らずに先に進むことができた。[12] だが今度は新体制の政
敵が様々な抑圧を予期しなければならなかった。
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国民社会主義発展の原因
[13] 1980 年代に現代歴史学者マーティン・ブロスツァートがナチスの「歴史化」に挑み、その結果
彼はもはやナチスをドイツの伝統と相容れない「未知の運命的な力」による侵略としてではなく、ドイ
ツの歴史的関連から理解しようとするドイツ史の解釈を考えた。[14] 政治からかけ離れた非常に質素な
境遇に育ち、市民生活に完全に挫折したアドルフ・ヒトラーがどうしてドイツでそうした成功を収め、
極めて短い間に熱狂的な歓呼をもって迎えられる「総統」にのぼりつめることができたのか。
【S. 83】
[15] これに関しては社会史の研究によって次のような調査結果が強調されている。[その結果とは]ヒ
トラーの考える世界は広く政治的伝統と合致しているが、とりわけ 1918 年以来ドイツが経験しなけれ
ばならなかった痛みにも合致していた[というものだ]。[16] 他の政党とその指導者は(大抵表向きの政
治的失敗によってすぐに信用を失い)応えることができなかった、ドイツの一般の人々の救済への期待
が彼という人物の中に集約されていた。[17] トラウマとなった 1918 年の軍の敗北後、ドイツでは「第
二のビスマルク」[の登場]が熱望された。
[18] ヒトラーは自力で政治的権力[獲得]への躍進に成功したわけではなかった。[19] むしろ、彼が首
相に就くために障害を取り除き、彼に議会秩序を超えた独裁国家創設のための「合法的」手段を自由に
使用させたのは古くからのエリートの人々だった。[20] 司法機関、官僚機構、軍、教会そして大学の大
部分による意欲的な支援がなかったら、ヒトラーは権力の座に就くことも、[自らの]独裁国家計画を実
行に移すこともできなかっただろう。[21] 上述の機関はヒトラーを支援した時点で国の要求に対する服
従義務をはるかに超えていた。[22] 嫌悪すべき議会制度と軽蔑する外国に対する彼の非妥協的な態度は、
古くからのエリートの大部分も持っていた多くの固定観念を集約していた。
[23] 従って 1933 年以前には既にドイツ国内自体に独裁支配のための条件が揃っており、それ[=そ
の条件]は権力譲渡後の恐怖政治によって初めて作られたのではなくむしろそれ[=恐怖政治]を可能に
し、
それ[=恐怖政治]によってヒトラーは 12 年間権力の座を保持すると同時にドイツを奈落へと引きず
り落とし、想像もできないような不法行為を働いたのだった。
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2) 文法・構文
◇ 現在分詞(文法の教科書 S.71-72)
原則として不定詞に-d を加えて作る(例外:sein, tun の場合は seiend, tuend となる)
。形容詞的用法
と副詞的用法があり、
「〜している」
「〜しつつある」という意味を表す。
・ 形容詞的用法(付加語として)
[10] ein ebenso fundamentaler wie menschenverachtender >>Zivilisationsbruch<<
(訳)人間を軽視しているのと同じくらい根本的な「文明破壊」
・ 副詞的用法
[14] Wie konnte Adolf Hitler, aus politikfernen und sehr einfachen Verhältnissen kommend, der im
bürgerlichen Leben völlig gescheitert war, in Deutschland einen solchen Erfolg verbuchen und in extrem
kurzer Zeit zum frenetisch bejubelten >>Führer<< avancieren ?
(訳)政治からかけ離れた非常に質素な境遇に育ち、市民生活に完全に挫折したヒトラーがどうし
てドイツでそうした成功を収め、極めて短い間に熱狂的な歓呼をもって迎えられる「総統」にのぼ
りつめることができたのか。
◇ 過去分詞(文法の教科書 S.72)
作り方については文法の教科書 S.52 を参照。完了形・受動表現に用いられる他に形容詞的用法・
副詞的用法・絶対的用法があり、他動詞の場合は「〜された(受身)
」
、自動詞の場合は「〜した(完
了)
」の意味になる。
・ 形容詞的用法(述語として)
[2] Dabei kam ihm auch Oskar v. Hindenburg, der Sohn des Reichspräsidenten, zupass, der bei einer
Unterredung mit Hitler von diesem sehr angetan war.
(訳)その時、ヒトラーとの話し合いを通してこの動きに非常に魅せられた大統領の息子オスカー・
フォン・ヒンデンブルクも加わったことは、彼[=パーペン]にとって願ったり叶ったりであった。
注)述語として用いられるのは完全に形容詞化した過去分詞のみである。
・ 副詞的用法
[11] Zählte man sich nicht zu den politischen Gegnern des neuen Regimes, konnte man ziemlich unbesorgt
zur Tagesordnung übergehen.
(訳)自身を新政権の政敵の一員と見なすことなく、人々はかなり安心して脇目も振らずに先に進
むことができた。
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3)歴史的背景
・NSDAP(ナチ党)と戦後の反革命運動
1918 年、ドイツで革命がおこりドイツ帝国が崩壊すると同時に、その動きに反発する反革命勢力も政党組
織を始めた。反革命運動における一つの中心となったのはドイツ司法部であり、既出の共和制ドイツにおけ
る司法の強い権限において国民社会主義の暴力を伴った運動を助け、ソ連的共産主義の排斥に努めた。また
議会は当初から憲法に与えられた広範な権限を行使できず、立法権を保持できなかった。
それでも実際は暴力による国民社会主義的運動はカップ一揆、ミュンヘン一揆において一揆という形にお
いては失敗した。ヒトラーは敗戦後軍に復帰したのちミュンヘンでドイツ労働者党に入党する(この入党は
軍の上官にも支持されていたようだ)。そこではベルリンへの対抗や地方分割主義、中産階級の窮乏をうけて、
反ドイツ文化としてのボリシェヴィキとユダヤ人を同一視・排斥しようとする運動が高まり、他団体も活発
に活動していた。経済悪化を受け、1923 年政府側はルールを占領するフランスに対して降伏する形をとるよ
うになったが、この経済悪化を受けて大量に流入した困窮者をかかえ、突撃隊・オーバーラントなどの武力
組織を待機させていたナチスは暴力行為を起こさざるを得ない状況になった。しかしグスタフ・フォン・カ
ールがバイエルンで反動的極右独裁体制を樹立させながらもベルリン進撃をためらったこともあり、一揆は
失敗、ナチスは全土で禁止された。
ただその後一年もたたないうちに極右民族主義ブロックとしてバイエルン州議会選挙で第一党になったり
するなど、数人の指導者の下ワイマール共和国の一時的安定の水面下で全土に勢力を広めた。この背景には、
一揆では失敗したもののその敗因は市民の不支持ではなく、むしろ市民は同情的であったこともあるだろう。
つまりこの敗北はナチスの思想を変えるに至らなかったのだ。
・国民社会主義とナチズム
国民社会主義は国家社会主義ともいい、ドイツのナチズムに限られたものではなく、明治期からの日本に
も徳富蘇峰の皇室中心主義(平民主義ののち)、高山樗牛らの日本主義など同系列とみなされた思想が存在し、
1900 年代の初めからフランス・イギリス・オーストリアなどでも国家社会主義を掲げた政党が生まれている。
ドイツでは第一次世界大戦以前からナショナリズムと社会主義を結びつける思想が見られたが、ナチの国民
社会主義は特にこれに加えて反ユダヤ主義・反マルクス主義を前面に押し出している。
国民社会主義は本来、現代的な哲学的、法律学的、社会学的、経済学的諸概念とは相いれないものであり、
あらゆる権力を大統領に集中すべきだとする全体主義を目指す。つまり権威はそもそも身分の上下を前提と
し、それに基づく指導権は国民の委託したものでないのだ。その一方国家は人民を抑圧する圧政の体制では
なく、全体の利害を見守り特殊な諸団体による侵害から防衛する実態であるととらえる西欧の一つの伝統と
はまだ絶縁してはいなかった。ドイツの国民社会主義は権威を絶対なものとすることでドイツ国家を再び最
高の価値を体得するものとしようとし、1934 年までは特に宣伝された。
参考文献:
『ビヒモス』 フランツ・ノイマン著 岡本友孝・小野英裕・加藤栄一共訳 みすず文庫 (1963)
『アドルフ・ヒトラー 「独裁者」の出現の歴史的背景』 村瀬興雄著 中公新書 (1977)
『シリーズ・ドイツ現代史Ⅰ 20 世紀ドイツ史』 石田勇治著 白水社 (2005)
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