2015 年入学式 式辞 - 清泉女学院大学・清泉女学院短期大学

2015 年入学式
式辞
新入生の皆様、入学おめでとうございます。また、ご家族の皆様にも心より大切な
娘さんのご入学をお祝い申し上げます。
私は学校法人清泉女学院理事長として、また清泉女学院の設立母体の聖心侍女修道
会のシスターとして、本学のモットー「心を育てる」ことと「真善美の探求」および
「祈り」をテーマとして、皆様を歓迎する式辞を述べたいと思います。
最初に、
「イエス・キリストの心に学ぶ」ことについて、次に二人のシスターズを紹
介してお話します。
学長先生は先ほどの式辞の中で、
「心を育てる」の主語は大学ではなく、皆さん自身で
す、とおっしゃいました。確かに自ら、自分の心を成長させたいと願っていなければ、
どんなによい環境や教師や友人、家庭にめぐまれても、残念ながら、
「育つ」ことがで
きません。
しかしながら、清泉の姉妹校では小学校、中高、大学でも、
「心の教育」を根本に据
えています。それぞれの年齢に応じて、心と知のバランスをとりつつ成長できるよう
に、学校のカリキュラムや教科外活動は工夫されています。この大学には他の大学以
上に「心を育てる」配慮をしています。
シスターズにとって、心を育てる一番の教師は、イエス・キリストであり、その「柔
和謙遜な心」に引き寄せられ、受け入れられてと気づくことにより、自分の心を育て
ることを学んでいます。その学びには限度がありません。
私たちは、時として、したいと思うことは出来ず、したくないと思っていることをし
てしまう弱さを体験します。そんな自分の弱さ、心の傾きに気がつくとき、その揺ら
ぐ不確かな心をそのまま、神のみまえにさらけ出して祈ります。主よ、ごらんくださ
い、私の心を導いてください、助けてくださいと神に自分の心を向け、お話しするこ
とによって、次第に心が変えられます。自分は一人で生きているのではない、神様と
また、多くの人々に支えられ、赦され、生かされていると新たに気づき、本来の自分
自身を取り戻すという経験を繰り返します。
あるとき、イエスは弟子たちに言われました。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い
者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみこ
ころに適うことでした。」
(マタイ 11:25-26)
イエスは神を”父よ“と呼びかけ、父の”みこころ“に適うことが何であるかを教
えてくださいました。シスターズは皆、神様のみこころに適うものとなること、つま
り、神様がよろこばれる人間に、日一日となっていくこと、変えられていくことを何
よりも大切にしています。
神の喜びとなることは、イエス自身が生涯求めていたことであります。それは特に身
近な人々への親切な思いと小さな行いを重ねることであり、苦しみ、悩む人々の心に
近づき、何か助けることができるかを思いめぐらすことでもあり、世界のあらゆると
ころで不正に抑圧されている人々を知り、その人々と連帯してより人間らしい社会を
建設することでもあります。
イエスはまた言われました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
」と。
(マ
タイ 11:28-29)
私は通常、東京に住んでいますが、毎日といっても言い過ぎでないほど、電車が遅
延し、人身事故があったことを知らされます。新聞記事やニュースで親子や親しい間
柄であるのに憎み合い、遂には殺してしまう事件も絶えません。実に、人生の裏街道
は苦悩で織り込まれた織物のようです。こうして入学式をお祝いする私たちにも、必
ず重荷があり、あるときには担いきれず、悲鳴を上げるか、自暴自棄になるかもしれ
ません。そのような人生の苦悩をすべて味わい尽くされたイエスは、全ての人が本当
の「安らぎ」を味わえるよう招いています。
「柔和謙遜なわたしに学びなさい」とイエスはいわれました。「イエスの柔和謙遜な
心」? きっと、初めて聞くという方がたも多いでしょう。
「イエスの柔和謙遜なここ
ろに学ぶ」ということ、それは清泉生が 2 年、4 年、さらに生涯かけて覚え、学び続
けるようにとの呼びかけだと思ってください。
さて、次に二人のシスターズを紹介します。一人目は聖心侍女修道会の創立者聖ラ
ファエラ・マリアです。彼女は 1850 年、スペイン南部のアンダルシアに生まれました。
二人目のシスターは、長野県南信の諏訪に生まれて、この修道会に最初の日本人とし
て入会し、長野県で教育に生涯をささげ、100 歳で 2 年前に帰天されたシスター藤森
さとです。
ラファエラ・マリアは、自分では意図せずに、様々な出来事を通して修道会の創立
者となり、清泉女学院の創立者としても仰がれている方ですが、
「自分の生涯は絶えざ
る愛の行為であるように」との決心を常に新たにしていました。人の前に立って総長
として修道会を導いていた時も、その職を辞して人の目に映えない単純な仕事しかで
きなかった時も、さらには殆ど職を失った人のように過ごさなければならなかった時
も、どんなときでも、父である神とキリストのみこころに適う者となることを最も大
切にし、何事もこころを込めて行い、周りの人々が幸せになるように祈り、小さな善
い行いを重ねていった方でした。時として自分を理解してくれない姉妹たちに対して
も、ひどい不信頼をしめされた時にも、苦い、恨みの心を抱かず、常に、親切で柔和
で謙遜に仕える前向きの姿勢を保ち続けました。そして人目に隠れた生活は総長を辞
してから 32 年間つづきました。
いつも神に心を向け、神を信頼していたラファエラ・マリアの「柔和で謙遜な心」と
行いは神のみこころに適い、死後、ラファエラ・マリアの徳が知られ、多くの人々に
慕われて、遂にカトリック教会はその死後 52 年たって、1977 年、彼女を聖人として
宣言しました。そのため、清泉は日本では小規模の学校で、いわゆる有名校ではあり
ませんが、聖ラファエラ・マリアを知っている人は世界中に大勢いて、聖ラファエラ・
マリアを創立者としている清泉の姉妹校も世界各地に沢山あります。
次にシスター藤森さとです。彼女は諏訪高女(現・諏訪二葉高校)二年生のとき、
街の本屋の書棚で見つけた 2 冊の本(トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』
とアウグスティヌスの『告白録』
)がキリスト教を知るきっかけとなり、その後、東京
女子大学の国文科に入学しました。その大学図書館の正面に刻まれた「およそ真なる
ことを求めなさい」という聖書の一節(フィリピ 4::8)が、
「真理とは何か?」を生
涯考えさせるきっかけとなったと、随想録『信濃路でのモザイク』に書いています。
東京女子大学はプロテスタントの信仰を持った偉大な人々が多く、彼らと接する機会
に恵まれ、
「何のための大学生活か?」と深く考え始めました。4 年生になったころに
は、キリスト教にも行き詰まり、仏教の法華経も学ぼうとしていました。
その頃の藤森さとさんの祈りは、聖書の詩編の祈りでした。
「神よ、あなたの道を示し、その小道を教えてください。真理のうちにわたしを教え
導いてください。
あなたはわたしの救い、何時の日も、わたしはあなたを待ち望む」
(詩編 25:4-5)
そんな悩みの中にさまよっていたある日、親切なクラスメイトとの出会い、カトリ
ック教会の教えをサルバドール・カンドウ神父から学ぶ機会を得て、心を覆い尽くし
ていた疑惑の雲が消えて、希望と喜びに満たされた経験をしました。そして洗礼を受
け、東京の麻布三河台で清泉寮という学校を始めていた聖心侍女修道会に出会い、生
涯をイエス・キリストのみこころに倣い従う奉献生活(修道生活)に導かれ、戦後、
まもなくから長野で教育に身をささげることになりました。箱清水の清泉、こちらの
短大の幼児教育科はシスター藤森が心を注いで育てた学校です。
心を育てることは皆さん自身がしていくことでありますが、こうしたシスターズの
心と祈りが、皆様自身が自分の心を育てる参考になればうれしいです。
シスター藤森が箱清水の校長時代によく話していらした人間の尊さについて、最後
に付け加えたいと思います。
人間の尊さは不滅の魂と天賦の賜物をもっていること、一人ひとりが他の誰とも取
り替えることのできない全能の神による傑作であることに由来します。天賦の賜物は
であるタレント、才能を持っていない人は誰一人としていません。一人ひとりが自分
に与えられているタレントに気づき、これをよく成長させ、社会の善と平和な世界を
築き上げるために、自分のペースで全力を尽くしましょう。どのタレントも限界があ
ります。しかし限界あるタレント、能力を出し合って、互いに補い合い、助け合うこ
と、また互いの不完全さを赦して、協力し合うこと、そのことを清泉女学院の学生生
活の間にしっかりと学んでください。
この学び舎で「心を育てる」という大切なことを、読書、それも、じっくり読み味
わう味読、静かに考えること、自分と異質な人々や思わぬ出来事から学んでください。
自分によびかけられている小さな細々とした声をかき消さず、その奥にある真実と出
会って、喜びに満ちた人生を形成する 2 年間、あるいは 4 年間となりますように心よ
りお祈りし、私の式辞を終わります。