変わり始めた薬物事犯者の処遇

変わり始めた薬物事犯者の処遇
――― 受刑者処遇法と薬物事犯者の処遇 ―――
小森 榮 (弁護士)
2007 年 1 月
はじめに
2
1 薬物事件での受刑者とは
3
2 受刑者に対する薬物処遇プログラム
7
3 仮釈放者に対する簡易尿検査
10
4 段階的な社会復帰を
15
1
変わり始めた薬物事犯者の処遇
はじめに
平成 19 年の元日、私は受刑中の元被告人から何通も年賀状を受け取り、改めて、昨年施行
された受刑者処遇法について考える機会を持ちました。
従来、刑事施設に収容されている受刑者の取り扱いは、明治時代に制定された監獄法によっ
て定められてきたのですが、それが 100 年ぶりに改革され「刑事施設及び受刑者の処遇等に関
する法律」
(本文では略称を用いて「受刑者処遇法」といいます。
)が平成 18 年 5 月に施行され
ました。これによって、ようやく面会や文通に関する規制が大幅に緩和されたのです。以前は、
文通や面会はあらかじめ届け出た近親者に限られ、弁護士といえども、特別な手続をしなけれ
ば面会はできませんでしたが、この法律によって、受刑者が外部の人と手紙をやり取りし、ま
た面会することもできるようになったのです。
年賀状のやりとりが、
ようやく実現したのです。
受刑者処遇法では、
受刑者の円滑な社会復帰に向けた処遇の充実、
受刑者の生活水準の保障、
外部交通の保障・拡充といった基本的な理念や目的が明確に規定されるなど、様々な改革が行
われました。そのなかに、薬物事犯で受刑している人たちを対象に、薬物乱用の習慣から脱し
て、円滑に社会復帰することができるよう、薬物依存離脱指
導をすることも盛り込まれています。
改革は、ようやくスタートを切ったところですが、法律が
整備されたことで、
今後の方向が見え始めたように思います。
この機会に、薬物事犯に対する教育の現在と目標について、
考えてみましょう。なお、本文は、
『季刊刑事弁護 48 号1 』に
掲載した「もう一歩踏み込んだ薬物事件の弁護術・第 10 回・
変わり始めた薬物事犯者の処遇」という私が執筆した記事を
下敷きに、一般の方に読んでいただきやすいよう、大幅に書
き改めたものです。
1
現代人文社刊 http://www.genjin.jp/keiji-bengo/keiji-index.html
2
変わり始めた薬物事犯者の処遇
薬物事件での受刑者とは
受刑者中で目立つ覚せい剤乱用者
わが国では、乱用される薬物として覚せい剤が多いため、薬物事件のなかで覚せい剤取締法
違反の数がとくに多くなっています。近年、覚せい剤の流通量が減少していることなどから、
覚せい剤取締法違反での検挙者数も減少傾向
覚せい剤取締法違反
にあり、平成 17 年では 13,346 人2でした。
うち 実刑,
6,884
このうち、約 7,000人が実刑の判決を受けて
有罪人員,
12,093
います3。
以前に比べて少ないとはいえ、
この人数は、
受刑者のなかでは目だって大きな比重を占めており、平成 17 年末の在所者数でみると、男子
受刑者の 5分の 1(21.2パーセント)
、女子受刑者の 3
1/5
分の 1(34.8 パーセント)を占めるのが、覚せい剤取
1/3
締法違反で懲役刑に処せられた人たち4なのです。
受刑者の中で、覚せい剤事犯者がとくに目立つよう
になったのは、第三次覚せい剤乱用期と呼ばれる状況
になったころ、つまり、平成 7年ころからです。この
ころ、わが国で密売される覚せい剤が急激に増加し、
一般の青少年にまで乱用が広まり、毎年 2万人前後が覚せい剤の所持や使用で検挙されるよう
になったのです。それ以降、平成 13 年ころまではこうした状況が続き、当時は、全国の刑務
所では、男子受刑者の約 3分の 1、女子では約 2分の 1が覚せい剤事犯で占められていたもの
です。
覚せい剤取締法違反で裁判を受ける人のなかには、大量の覚せい剤を密輸した人や、密売人
2
3
4
法務総合研究所編『平成 18 年版犯罪白書』
最高裁判所事務総局編『司法統計年報 2 刑事編平成 17 年』
平成 17 年矯正統計年報
3
なども含まれています。密輸や密売でお金を得る行為は営利犯としてきわめて重い罪に問われ
ますが、現実には営利犯の人数は少数で、平成 17 年に覚せい剤取締法違反で裁判を受けた人
の 3.6パーセントに過ぎません5。つまり、覚せい剤事犯のほとんどは末端の乱用者だというこ
とになるのです。
受刑で薬物乱用から離脱できるか
では、末端の薬物乱用者に懲役刑を科して刑事施設に収容することで、薬物乱用問題を解決
できるのか。しばしば、このような問いが投げかけられます。
乱用者は治療のために刑事施設に収容されるわけではなく、あくまでも刑事罰を受けている
のだから、薬物からの離脱は中心課題ではないということもできるでしょう。しかし、問題解
決につながらないなら、そもそも厳しい刑事罰を科す根拠が揺らいでしまうわけです。国は、
受刑者が薬物乱用から離脱するきっかけをつかむことができるよう、処遇する責任を負ってい
ると私は考えています。
では、現実はどうでしょう。覚せい剤受刑者は,他の受刑者と比べて、再犯の危険性が高い
といわれます。社会復帰した後、再び罪を犯して刑事施設に収容される率(再入率)が 50 パー
セントを超え、特に出所後の3年間が再犯の危険性の高い期間となっているのです6 。残念なが
ら、受刑という経験だけでは、薬物の再乱用を歯止めする効果は期待できないようです。
受刑者は、薬物が手に入らない環境で生活しています。入所当時は辛い思いもするでしょう
が、日課をこなすことにまぎれて、次第に薬物のことなど忘れていく人が多いようです。受刑
した経験を持つ人の多くが、施設にいる間は薬物なしで生活することに、特に苦労しなかった
と語ります。しかし、これはあくまで仮の安定感なのです。薬物乱用に対する自分の気持ちは
何ひとつ変わっていません。施設で何年過ごそうと、社会復帰して、再び薬物の誘惑にさらさ
れると、まるで冷凍保存されていたものが解凍されたように、
「使いたい気持ち」がよみがえっ
てくるのです。
薬物を遮断するだけでは、ほんとうに依存から回復することは困難です。受刑している期間
に、自らの薬物問題に向き合い、依存を克服し、薬物を使わないという生活パターンを身につ
けなければならないのです。
5
6
筆者の算出による。基礎となる数字は法務総合研究所編『平成 18 年版犯罪白書』112 頁より
法務総合研究所編『平成 16 年版犯罪白書』310 頁
4
受刑者に対する教育指導が変わる
覚せい剤事件で刑事施設に収容された人の再犯率が高いという現実は、従来の刑事施設の処
遇や指導が、薬物乱用の改善にあまり効果を及ぼさなかったということの現われです。では、
これまでは、薬物乱用問題を改善するための教育・指導はなかったのでしょうか。
実は、
これまでも薬物事犯者を収容する刑事施設のほとんどで、
薬物乱用から離脱するための教育が、何らかの形で行われてきた
のですが7 、その成果は限られたものだったようです。従前の教育
は、施設ごとに実施の手法や内容がさまざまで、回数が少ないも
のや、施設職員による講話形式やビデオ視聴などが中心というも
のもあったようです。また、参加希望者を対象に実施していたた
め、薬物事犯で受刑した人のごく一部だけが参加している状態であったことも、十分な成果を
あげにくい要因であったでしょう。
受刑者処遇法で、薬物事犯受刑者に対して改善指導の受講を義務付けたことに対応して、効
果的な指導のあり方を確立するために、
「薬物依存離脱指導の標準プログラム」の策定などが進
められてきました。その内容については後述しますが(7 頁)
、受講者の自発性や意欲を引き出
す手法が取り入れられており、刑事施設で行われる指導のありかたが、変わりそうです。
次項では、そのポイントを検討してみます。
仮釈放者に対する簡易尿検査
さらに、受刑者が社会復帰した後も薬物を断ち続けることができるように見守る、
「仮釈放者
に対する簡易尿検査」が、すでに実施されています。
仮釈放とは、刑期の満了前に、一定の事項(遵守事項)を守ることを条件として、刑事施設
から仮に釈放され、社会内で残りの期間を過ごす制度です。社会復帰したばかりで薬物の誘惑
にさらされながら、断薬の決意を貫こうとする努力を支援するために、仮釈放中の覚せい剤事
犯者に対して、本人の自発的意思に基づく簡易尿検査が行われています(10 頁)
。
尿検査というと、薬物事犯の検挙を思い浮かべる方が多いかもしれません。たしかに、捜査
の過程で尿検査を受けた結果、覚せい剤や麻薬の使用が発覚して、逮捕される人たちがおおぜ
7
法務総合研究所編『平成 16 年版犯罪白書』312 頁
5
いいます。尿検査は、薬物犯罪の取り締まりに欠かせないものです。しかし、それだけではあ
りません。日本では、まだなじみが薄いのですが、薬物依存者の回復支援機関では、社会活動
をしながら断薬を続ける人たちの努力を支援する重要なものとして、尿
検査が行われています。第3項で取り上げる「仮釈放者に対する簡易尿
検査」は、取り締まりのためではなく、社会復帰支援のために行われる、
わが国では初の試みなのです。
刑事施設内での教育と、施設を出てからの支援、これはいわば車の両
輪です。この両輪がそろったことで、大きな前進を期待することができ
るでしょう。次頁から、刑事施設内での教育と、施設を出てからの「仮
釈放者に対する簡易尿検査」の現状を概観してみることにしましょう。
しかし、これで十分なのでしょうか。私には、まだ大きな要素がひとつ欠落しているような
気がしてなりません。残されている課題について、最後に少し検討してみたいと思います。
6
変わり始めた薬物事犯者の処遇
2 受刑者に対する薬物離脱指導
グループワークが中心に
前述したように、受刑者処遇法で、覚せい剤受刑者に、薬物離脱指導に参加することが義務
付けられました。この機会に、これまで行われていた薬物乱用防止教育のありかたを見直し、
より効果的な教育を行うために、標準プログラムが作られています。ここでは、
『犯罪と非行
148 号』に掲載された「薬物依存離脱指導の標準プログラム(案)
(抄)8 」に基づいて、新し
いカリキュラムの内容をみてみましょう。
最大の特徴は、グループワークを中心にしている点です。グループワークとは、ダルクや NA
(ナルコティクス・アノニマス)などで「ミーティング」として行われているもので、薬物依
存からの回復をめざす当事者が集まり、自分
の体験を率直に話すことで、自分の問題に気
づいたり、同じ目標に向かうメンバーの話を
聞いて勇気付けられたりします。薬物依存か
らの回復は、長く厳しい道のりですが、こう
した自助グループに参加することで、互いに
支えあって薬物のない生活を続けようとする
ものです。
これまで、
受刑者に対する教育は、
とかく「指導者が教える」形式で行われることが多かったのですが、こうした方式を取り入れ
ることで、参加者が自分の薬物乱用をみつめる機会が生まれやすくなるでしょう。
なぜ、グループワークなのか、犯罪白書 16 年版から引用します。
「グループワークでは、10 人程度の少人数のグループを編成し、覚せい剤依存者同士が、覚
せい剤を使用するときの気持ち、状況、覚せい剤を使用して得たもの、失ったものなどについ
て話合いをします。そして、受刑者は、それを通じて依存の事実を認めるようになり、乱用の
ために多くのものを失ったことを自覚し、自分が何をしなければならないか理解することが期
8
名執雅子「刑事施設における薬物依存離脱指導」犯罪と非行 148 号(2006)45,46 頁
7
待されるのです9 。
」
ダルクや NA など薬物依存回復団体のメンバーが参加者の話し合いに参加し、
断薬体験談など
を話すこともあります。
薬物依存離脱指導カリキュラムの例10
項 目
指導内容
方 法
オリエンテーショ
ン
受講の目的と意義を理解させる。
(カリキュラムの説明、動機付け)
講義
薬物使用チェック
リスト作成
薬物の薬理作用と
依存症
薬物の薬理作用と依存状態が形成される過程、回復のため
の方法など薬物依存症について理解させる。
講義
視聴覚教材視聴
薬物を使用してい
たときの状況
グループワークの方法を説明し、共通する問題を全員で真
しに考える構えを持たせる。薬物を使用していたときの状
態を振り返らせる。
講義
視聴覚教材視聴
薬物使用に関する
自己洞察
どんなときに薬物を使用していたのか考えさせ、薬物に依
存する背景を明確にし、自己理解を深める。
グループワーク
薬物使用の影響
薬物使用の良いところばかりでなく、周りに掛けた迷惑や
引き起こした問題、社会的責任など、薬物使用以外にも問
題点があることに気付かせ、罪障感を喚起する。
講義
視聴覚教材視聴
薬物依存からの回
復
依存症の認識と再使用を防止するための方策を考える姿勢
を持たせる。やめ続けることに成功した人たちとその活動
について紹介し、依存症からの回復への希望を持たせる。
視聴覚教材視聴
講話
グループワーク
読書指導
薬物依存離脱に関
する今後の決意
薬物使用の損得について具体的かつ現実的に考えさせ、薬
物使用と自分自身のこれからの人生に関する洞察を深めさ
せる。
グループワーク
再使用防止のため
の方策(危機場面
について)
再使用防止の方策を考える第一段階として①再使用のおそ
れのある場面や状況、②薬物に頼りたくなる場面や状況を
具体的に考える。
グループワーク
SST
再使用防止のため
の方策(対処スキ
ルについて)
再使用のおそれのある場面や状況に関し、①薬物に頼らず
に回避する方法、②その方法を身に付けるためにはどうす
ればいかを考える。
グループワーク
出所後の生活の留
意事項と社会資源
の活用
出所後の留意事項について注意を喚起するとともに、民間
自助グループの活動について情報提供する。
講義
視聴覚教材視聴
名執雅子「刑事施設における薬物依存離脱指導」犯罪と非行 148 号より引用
9
法務総合研究所編『平成 16 年版犯罪白書』314 頁
10名執雅子「刑事施設における薬物依存離脱指導」犯罪と非行 148 号(2006)46 頁
8
矯正施設でのグループミーティング
2005 年7月、毎日新聞に、刑務所で行われているグループワーク(ミーティング)の様子を
報じた記事がありました。インターネットでも読むことができます11 。
記事の一部を引用して、その概略をご紹介しましょう。
府中刑務所の一室に、覚せい剤使用で実刑判決を受けた 31~64 才の男性受刑者 14 人が集ま
った。いずれも過去に 1~7 回、薬物犯罪で服役した経験があるという。グループミーティング
は受刑者同士の話し合いを通じて自分が抱える問題を自覚し、更生に役立てる手法だ。府中刑
務所は、薬物依存者のための民間自助団体「日本ダルク」を招き、昨年4月から実施している。
刑務官が「再び覚せい剤を使う前に、また刑務所行きだとか、大事な人のことを思うとか、
ないの?」と尋ねた。
「生活が順調だったら、覚せい剤なんかやらない。何もかもうまくいかない時に、もうどう
でもいいや、とやる」
「現実から逃避しているんだよ」
「目の中に入れても痛くない自分の子の顔を思い浮かべても、やりたい状態になるとだめ」
誰もが真剣に聞き、語る。一人の受刑者が、日本ダルクの近藤恒夫代表に問いかけた。
「逮捕
されなかったら、今も使い続けていた。一人ではやめられない。どうしたらやめられるのか」
近藤さんは「自分はだめな人間と思っていたら、やめられない。
『苦しい』
、
『困った』と言う
ことは恥ずかしいことではない。ちゃんと言えないと、誰も助けてくれない」と語りかけた。
約1時間半に及んだグループミーティング。36 歳の受刑者は「これまで(薬物使用を)通報
されるのが怖くて、他人に本音を言えなかった。みんなの話を聞いて、自分と同じ苦しみの人
がいたと分かった。話を聞いてもらって安心する」と話した。40 歳の受刑者も「みんなの話を
あんど
聞いて、自分と同じだと安堵感があった」と語った。
府中刑務所の杉本勉首席矯正処遇官は「受刑者たちは悩みや問題を抱えているのが自分だけ
ではないと実感し、自分から積極的に話をするようになった。出所後も仲間と頑張ればやめら
れるかもしれないと希望を持つようだ」と効果を分析した。
薬物依存症 犯罪者の矯正教育 府中刑務所のグループミーティング
2005 年 7 月 12 日 毎日新聞より
11
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/aitakute/archive/news/2005/20050711org00m1001060
00c.html
9
変わり始めた薬物事犯者の処遇
3 仮釈放者に対する簡易尿検査
社会復帰の最初の段階
薬物乱用者にとって、再犯のリスクが大き
いのは社会復帰の初期段階です。刑事施設に
いる間は薬物の誘惑にさらされることもなく、
薬物事犯者の多くはとりたてて困難もなく薬
物を断った生活に適応しているのですが、社
会復帰してしばらく、様々なストレスや誘惑
に直面するなかで、自分の意思で薬物を断ち
続けることは、決して容易ではありません。
覚せい剤事犯者を対象に、社会復帰の初期
段階で、覚せい剤の誘惑を断つ努力をサポー
トするのが、全国の保護観察所で実施されて
いる、簡易尿検査を活用した処遇です。平成
16 年 4 月から、仮釈放中の覚せい剤事犯者に対して、本人の自発的意思に基づく簡易尿検査が
導入されているのです。12
仮釈放とは
釈放される受刑者の半数以上は、定められた収容期間が満了する前に、仮釈放によって社会
復帰しています。仮釈放とは、刑期の満了前に、一定の事項(遵守事項)を守ることを条件と
して、刑事施設から仮に釈放され、社会内で残りの期間を過ごす制度です。
仮釈放された人は、保護観察に付され、保護観察官や保護司から生活指導等を受けながら、
更生に努めます。もしも、仮釈放期間中に、遵守事項に違反したり、違法行為等があった場合
には、仮釈放を取り消され、再び刑事施設に戻されることがあります。
12
生駒貴弘「簡易尿検査を活用した保護観察処遇の実施状況について」犯罪と非行 148 号 69~81
頁
10
この尿検査は、覚せい剤事件で受刑し、仮釈放中の人(成人)を対象に、保護観察所で行わ
れます。
どんな検査なのか
覚せい剤などの薬物を使用しているかど
うか、簡便に、そして確実に判定する方法
が尿検査です。正式な判定のためには、精
密な分析装置を用いて化学的な鑑定をしな
ければなりませんが、簡易検査キットを使
用すれば、覚せい剤など特定の薬物使用を
ある程度の精度で見分けることができます。現在、医療機関などでは何種類かの尿中薬物の簡
易検査キットが使用されています。写真はその一例ですが、保護観察所でもこのような簡易検
査キットが使用されます。
検査するときは、対象者が自分で採尿し、その場で検査キットを開封し、付属のスポイトで
尿を落とし、保護観察官と本人が状態を確認して、結果を判定するのです。全国では、数種類
のキットが使われています。
自発的意思
この検査は、あくまでも本人の自発的意思に基づくものと位置づけされており、本人が検査
に応じることを拒否した場合には、強制されることはなく、また拒否したことで不利益を受け
ることもありません。また、検査の回数や頻度についても、本人の自発的意思をベースに設定
されます。
なぜ検査をするのか
「これは、薬物使用を摘発するための検査ではなく、薬物を使っていないことを証明し、達
成感を得ると同時に、家族との信頼関係を深めるためのものです。
」この制度を説明する資料に
は、こんな表現がみられます。
もし、摘発するための検査なら、抜き打ちで実施するのですが、薬物を使っていないことを
証明するのが目的なので、①本人の自発的意思に基づいて、②あらかじめ定めた日時に、検査
が行われます。尿検査という短期的な目標を設定することで、目標に向けて薬物使用を回避す
11
る行動を経験し、検査をクリアすることで、さらに回避行動が強化され、定着していく・・・。
こうして、断薬が身についていくのです。
実は、この制度をもっとも歓迎しているのは、仮釈放者の家族ではないかと、私は思います。
受刑中の家族を持つ人たちは、釈放の日を待ち望む反面、
「またクスリを使い始めるのではない
かと思うと、不安でたまらない」ともいうのです。こうした不安が嵩じると、本人を追い詰め、
悪い循環が生まれるとわかっていても、不安にさいなまれるのだといいます。
検査によって陰性結果を知らされることで、家族は不安からいくらか開放されることでしょ
う。陰性結果が積み重なると、信頼感が生まれ、家族の関係も好転するはずです。本人や家族
に対して説明する際に、保護観察官が強調するのは、尿検査の陰性結果が、こうした好循環を
もたらすという点です。陰性結果は、不安な思いで見守っている家族をもサポートすることに
なります。
陰性結果が確認されれば、
本人も前向きになり、
保護観察官の指導にもよい効果が現れます。
断薬への努力を評価し、
薬物への欲求を回避した具体的な例や、
出会った危険などをとりあげ、
積極的な指導を展開することができます。一部の保護観察所では、検査結果の通知を受けた保
護司が、その後の指導でこれを活用し、カウンセリングを行っている例もあります。
家 族
本人に対する監
視・干渉を強める
本 人
本 人
自信を失い、断薬の
決意がゆらぐ
家族の態度に苛立ち、
家に居づらくなる
不安と疑いに支配される
悪循環
家 族
また薬物を使うの
ではと不安
?
本 人
薬物乱用を再開
12
本 人
夜遊びが増え、薬物
乱用仲間と接触
家 族
よいパターンの定
着を支持する
家 族
本 人
尿検査の陰性結果に
安心し、喜ぶ
よいパターンが定
着する
尿検査で陰性結果を重ねる
好循環
本 人
家族の信頼に励ま
される
!
本 人
覚せい剤回避の生
活・行動パターンを
開始
家 族
本人を信頼するよう
になる
もしも陽性になった場合は
では、陽性結果が出た場合は、どうなるのでしょう。
こうしたキットを使って行う簡易検査は、正式な鑑定とは違うものです。わずかながら誤差
があり、また化学構造が似ている物質に対しても、陽性反応を示すことがあります。簡易尿検
査の結果、陽性結果を示した場合や、判定がつきにくい場合は、別な種類のキットを用いて、
再度の簡易検査を行う場合もあるといいます。
この検査は、本来は犯罪を摘発するために行うものではありませんが、実際に陽性結果が出
たときには、覚せい剤を使用しているおそれがあることになります。きちんとした判定をする
ためには、自ら捜査機関に出頭し、真偽を確認する必要があります。基本的には、保護観察官
が同行して、警察や麻薬取締部へ出頭することになります。
これは、検査導入の面接時から、対象者にきちんと説明し、また、対象者が検査に応じる意
思表示をする際にも確認する事項です。もちろん、簡易検査の結果だけで薬物を使用したと決
め付け、対象者を非難するようなことはありませんが、係員の対応は厳正です。対象者が捜査
13
機関への出頭を拒む場合は、本人の居住地を管轄する捜査機関に対し、保護観察官が通報しま
す。
ところで、実際にどの程度の陽性結果が出ているのでしょうか。平成 16 年 4 月から 17 年
12 月までの間で、3,853名の対象者に対して、延べ 8,355回の簡易尿検査を行った結果、陽性
結果となったのは 8件だけでした。保護観察所での簡易尿検査の段階で陽性反応を示したケー
スの多くは、その後捜査機関での正式な検査の結果では陰性となり、最終的に陽性となったの
が、上記の 8件です13。
保護観察所の資料
13
法務省保護局「簡易尿検査を活用した保護観察処遇の実施状況について」平成 18 年 5 月 19 日
14
変わり始めた薬物事犯者の処遇
4 段階的な社会復帰を
ここで取り上げた2つの施策は、たしかに大きな改革です。しかし、薬物乱用からほんとう
に離脱するには、もう1点、重要な要素が欠けていると私は考えています。
薬物事犯者の円滑な社会復帰のために、ぜひとも検討しなければならないのが、段階的な社
会復帰という点です。いかに優れた教育プログラムも、社会生活のなかで実際に薬物のリスク
にさらされながら、使用を回避するという体験を通じて獲得することがなければ、絵に描いた
餅に終わってしまいます。また仮釈放者に対する尿検査についていえば、薬物使用の回避とい
う行動パターンを身に付けるためには、
現状の平均的な仮釈放期間はあまりにも短いでしょう。
教育も、尿検査も、薬物事犯の受刑者が再び社会と接触を強化し始める、ある程度長い期間の
なかでこそ、有効に作用するはずです。
具体的には、施設内処遇で段階的に社会との接触を強化し、また、仮釈放を早期化して社会
内処遇の期間を長くすることです。これで、施策の効果は大きく向上するはずです。実際に、
治療共同体ではこうした処遇が行われ、
成果を挙げているモデルがあるのです。
私が思い描く、
一歩先の薬物事犯者処遇の参考として、治療共同体についてご紹介します。
本サイト内には、治療共同体モデルに基づいて運営されているオランダの薬物依存者回復施
設の例を紹介しています14 。ご参照ください。
治療共同体という試み
刑事施設に多数の薬物乱用者を抱えており、
しかもその人たちの再犯率が高いという事情は、
日本だけではありません。わが国よりはるかに深刻な薬物乱用問題に悩んできた欧米の各国で
は、早くから、薬物依存の回復を支援する刑事施設での処遇が試みられてきました。
様々な手法や理論のなかで、注目されているひとつに、治療共同体(Therapeutic Community)
と呼ぶモデルがあります。もとは、精神科病院の長期入院者を運営に参画させて、自発性や自
立性を尊重した治療環境を作るモデルとして始められたものですが、現在では、欧米だけでな
14
http://www2u.biglobe.ne.jp/~skomori/sov/topf.htm
の薬物常用者支援部門
15
薬物常用者支援刑事拘禁施設 ブクト刑務所内
くアジア諸国の多くの刑事施設でも導入され、薬物依存のある受刑者の処遇に成果をあげてい
ます15 。
薬物依存治療の権威である小沼杏坪氏は、治療共同体について次のように説明しています。
「欧米では、回復途上の薬物依存者たちが共同生活をしながら、各種のミーティングを通じ
て入寮制の社会復帰施設を共同運営しながら、社会適応能力を身につけていく治療共同体(TC;
Therapeutic Community)という地道な活動が多くみられる。その多くは、厳密なヒエラルキー
構造を有した管理体制の中で薬物依存からの回復をめざすという、社会福祉の領域での対策の
例である。
治療共同体においては、最低でも1、2年の
間、共同生活をしながら、炊事・洗濯・営繕・
農事・売店・渉外・広報印刷など施設運営に
かかわる種々の作業班に配属され、従事する
ことになる。なかには、刑務所並みに厳しい
ルールのところもあるが、最低限、①薬物の
使↑オランダの刑務所内の治療共同体施設
用のないこと、②暴力をふるわないこと、③性
的な問題のないことがルールとなっている。入
所直後には、通信、外出・外泊などの自由もないが、入寮者どうしの相互評価によってランク
が上がり、共同体のなかで果たすべき役割や責任が重くなるにつれて、次第に自由度が増す仕
組みになっている。また、施設のスタッフは薬物依存からの回復者が多くを占めており、入所
者の回復の良い目標となっている。
この治療共同体という社会のミニ・モデルのなかで 1 年以上過ごすことができれば、すでに
十分に薬物依存からの回復途上を歩んでいることになる。また、社会復帰する際には、共同体
のなかで覚えた炊事・洗濯・清掃・大工仕事などの技能が就職にも役立つのである16 。
」
また、社会内の薬物依存の治療施設として、多くの治療共同体が宗教団体や福祉法人によっ
て運営されています。米国では、そのプログラム・治療成績などを勘案しながら、NIDA(National
Institute of Drug Abuse)などから、運営予算が支給されています。こうした社会内の治療施
設が、ドラッグ・コートの受け皿になっているのです。
染田惠ほか「調査対象国における注目すべき薬物乱用防止・薬物乱用者処遇等対策の概要」法務
総合研究所編『研究部報告 27』76 頁
16 小沼杏坪ほか訳「ドラッグ・コート」丸善プラネット 2006 342 頁
15
16
薬物離脱を成功させるキーワード
治療共同体モデルでは、
薬物を使わないで生きるという新しい行動様式を身につけるために、
平均して 1~2 年の期間を通じたプログラムが行われています。偶然にも、現在わが国では、覚
せい剤事犯に対して科される刑期は、1 年以上 2 年未満が最も多く17 、数字の上では、治療共同
体モデルの期間とちょうど合致しているようにみえますが、しかし、問題は、その期間を通じ
て、どのような処遇が行われるかという点なのです。
治療共同体では、
一般的に、
入所当時は外部と厳しく遮断された環境のなかで過ごしますが、
成果をあげるにつれて自由度が高くなり、同時に社会との接触が多くなっていきます。また、
施設を出て社会復帰した後も、一定期間は面接や尿検査、カウンセリングを受けること、NA な
どの自助グループに参加することなどが求められます。つまり、段階的に社会生活の幅を広げ
ながら、
長期にわたってプログラムに参加するという一連のシステムが用意されているのです。
施設内と社会復帰後をつなぐ、段階的で一貫した処遇、これが治療共同体から学ぶべきキーワ
ードではないでしょうか。
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法務総合研究所編『平成 18 年版犯罪白書』117 頁
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