新ヒラリ ズム 3の 1 貧しい 陽羅 義光 おそら く誰 でも子 供の頃 は、 「貧 しいこ と」は 恥ずか しい ことだ ったは ずだ。 ともだ ちが 持って いるも のを 持って い ない、と もだ ちが行 けると ころ へ行けな い、 ともだ ちが自 慢す るのを 、 黙って聞 いて いなけ ればい けな いのは子 供心 に屈辱 でさえ ある。 それで も大 人にな ると誰 でも(とは 云 えぬまで も半 数くら いは ) 「 貧し いこと」 は恥 ずかし いこと ではな くな る 。 世の中 の仕 組みを 知れば 知るほ ど、 ( 生 まれなが ら の お金持 ちは別 とし て)大凡 正直者 は貧し いま まなの だから 、 「貧しい こと」は恥ず かしい ど ころか、 誇り でさえ ある人 間もい る。 「言葉 が多 すぎま す」と 云っ て亡く な ったマザ ー・ テレサ はこう 云っ ている。 【あると きお 金がほ しい、 お金 で買え る 総て、要 する に余分 なもの 、贅 沢な食べ 物と か余計 な衣服 、が らくた 一 般が欲し い、 という 欲望が うま れます。 要る モノは 益々増 えま す。一 つ が手には いる と次の ものと なっ て、結局 は際 限もな く不満 を生 じると い うことに なっ てしま います 。も し何か買 わな ければ ならな い時 は、最 も 粗末なモ ノに なさい 。貧し くあ ることを 誇る べきで す。私 たち の背後 に そっと忍 び寄 る小 さ いキツ ネに 気を付け なさ い】 こうし た考 え(思 想)を 持てる 者は 、 選ばれた 人間 なのだ ろう。 詩人茨 木の り子は 『マザ ー・ テレサ の 瞳』のな かで 【静か なる狂 と呼 びたいも の】 と、讃 えてい る。 平凡な 庶民 は、仮 に「貧 しい こと」 が 恥ずかし いわ けでな くとも 、貧 しいから こそ 、せめ て着る もの くらい は 、みすぼ らし いもの にした くな い、せめ て食 べるも のくら いは、 粗食 に したくな い。 これは 贅沢 でもな く、見 栄でも なく 、 これも庶 民の 誇りな のだ。 かくべ つ親 心とな るとそ うい うもの で 、家が貧 しい からこ そ、子 供に はみじめ で恥 ずかし い思 い をさせ たく な い。 飢餓大 陸の 人たち を思え ば、 お前は 恵 まれてい るほ うだ、 なんて 台詞 は親の逃 げ口 上でし かない 。 マザー ・テ レサは むろん 、素晴 らし い 人格であ り、 選ばれ た者だ 。 マザー ・テ レサの 教えは 、物 品に於 い て貧しく ある ことを 誇れ、 心情 に於いて 貧し くある ことを 嘆け 、もし 心 情に於い て貧 しくな ければ 、物 品に於い て貧 しくあ ること を誇れ るは ず だ、とい うも のであ ろう。 けれど もマ ザー・テ レサ の宗教 心が 、 ( 決して選 ばれ た者で はない )庶 民の誇り 、貧 しいか らこそ の願 いにま で 届いてい なか ったと したら 、マ ザー・テ レサ の偉 大 な活動 は、 残念な が ら今後広 がる ことは ないで あろ う。
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