斎藤久六氏パステル画展 ∼光と樹∼ 奥村 靖 <風土> 心を動かされる

斎藤久六氏パステル画展
∼光と樹∼
奥村
靖
<風土>
心を動かされる作品は例外なくその画家の育った土地の風土をその底に宿し
ている作品です。どんな天才でも無から創造することはできません。必ず、そ
の画家の体内に培われた先人の模範があり、その心身をはぐくんだ風土がある
わけです。画家の体内に蓄えられたものが作品の中に強く現されているほど、
見る人に確かなものとして感じさせることができます。
氏はまさに自らを育んだこの東北の自然、その象徴ともいえる樹木と、その
芸術的な感性を育んだ東北の光をテーマにしてこれらの作品群を生み出しまし
た。同じ環境で育ったものとして、それらの作品は素直に私の中に入り込んで
きます。
ざわめく木々のはむら、揺らめくこもれ日、匂い立つ腐葉土、凛とした花々
朝日や夕日に映える幹、
この絵をみているだけで、胸がキュンとなるような懐かしさと愛おしさを感じ
ます。
ともに東北の地に生まれ、生きてきたという共感を覚えます。
<石の文化、木の文化>
昨年 3 ケ月かけて、スペインを巡ってきました。国土の 4 割を占める赤茶け
た中央台地。地平線まで続くオリーブ畑や草生地。紀元 1 世紀のローマ時代か
ら中世を経て、現代に続く石の建造物。そうした風景を見ますとここの人たち
は、人間の手で自然を作り変えてきたということを実感させられます。
日本は木の文化です。縄文以来自然の恵みを頂きながら自然と調和して生き
てきました。特に東北は落葉広葉樹林帯の文化です。ブナ、栗、コナラ、トチ
などの森の恵みを享受して生きてきました。自然と調和し、自然の季節ごとの
デリケートな変化を見守って生きてきました。
氏の作品が東北の樹を見つめつづけ、描いた背景にはそうした縄文以来営々
と自然と調和を図ってきた東北人の心があるのだと思います。
石の文化の特徴は一言でいうと人間中心主義の文化です。石の建造物を建て、
地平線に至るまでオリーブや牧草を植えて、自然を作り変えるという生き方は、
全ての価値の中心に人間が存在します。日本は全く違います。山川草木悉皆仏
性という言葉があります。山や川、木々や、草すべてのものに仏が宿るという
考え方で、人間ですら草や木々と同じ自然の一員です。日本人は自然に対して、
謙虚に生きてきました。
氏の作品を見ますとそういう日本人の視点で自然を見つめているのを感じま
す。東北人は日本の中でも特にそうした思いが強いと思われます。
そういう生活者の視点を持ち合わせた東北人の代表者の一人が宮沢賢治だと
思います。私はこの絵を見ていますと、賢治が描いた「雪渡り」や「風の又三
郎」などの一場面と重なるのを感じます。まさに氏の作品は自然がもつ厳しさ
とやさしさを素直に見つめ、時にはその直接的な美しさに感じ入り、時にはそ
の風景の中に自分の心象風景を投影させて描いた作品です。
<日本的な視点>
氏の作品は一見西洋画の伝統的技法で描かれているようで、極めて日本的な視
点で描かれています。日本の、東北の風土で培われた感性が無意識のうちにそ
うさせるのだと思います。例えば、日本の伝統的な山水画などの特徴を示す言
葉に「界を限って、奥を限らず」という言葉があります。代表的なイメージ作
品としては上野の国立博物館にあります、長谷川等伯の「松林図屏風」です。
霧の中に浮かぶ松林を描いた水墨画です。この絵は天地左右は屏風という枠組
みの中に限られていますが、奥は霧に包まれて不明です。ルネッサンス以降の
西洋画の多くは一点消失型の遠近法で描かれています。日本絵の多くは空気遠
近法や高遠法、つまり遠くにあるものはよりうっすらと、又遠くにあるものは
上に描くといった描き方です。これは中国の山水画からも学んだ画法です。で
も等伯が描いた奥の表現は中国の画法とも異なるのです。中国の山水画の多く
は仙人が住む山水境を描いていて、現世における理想境です。その遠近法は現
実世界における空間的な遠近を表現するものです。しかし、等伯が描いた霧に
包まれた朧な空間はこの世からあの世につながっている奥で、単なる幾何学的
な現世空間ではないのだと思います。そのような空間を描くには、一人の人間
の一つの視点で見る視覚的な遠近では表現できないのですから、浮遊する魂の
目で見ることになります。奥を見る視点は一つではなく多元的です。同時に複
数の視点が見ることきない奥を見つめるわけです。視点が一つでないというこ
とはものを映す陰影も統一的ではありません。浮世絵などに見る、陰影を排し
たべた塗りの画法などはまさにそうした視点で描かれるところからきているの
だと思います。葛飾北斎の凱風快晴などの富士の絵は、ヘリコプターに乗って
空中から見て描いたように描かれています。魂の視点で対象を見るわけですか
らそのような視点も許される訳です。
氏の作品の中にはそうした多元的な視点で描かれたものがたくさんあります。
光と影がちぢに交じりあったものもあります。そうした作品ほど魂の視点で描
かれているわけで、作者の心象が強く反映しているといえます。そうした作品
は眼前にある対象を単純に美しいと感じているだけではなく、自己の芸術的情
感をより強く打ち出したものということができます。
そして作品のいくつかには限りのない奥を感じさせるものがいくつかありま
す。
ほとんどの作品に共通してあるのは暗い影と、明るい光との混じり合いです。
70 年も生きてくると、この世は楽しく明るいことばかりではありません。むし
ろ辛く、苦しく、暗いことの方が多いのかもしれません。
すべての絵は明と暗のバランスで構成されています。ほとんどの絵が一日ほ
どで描かれた即興詩ともいえる作品ですので、明と暗のバランスがどのような
割合で構成されているかで、そこに描かれた現実の暗さと明るさを感じること
ができます。ただしより暗い色彩で描かれた絵の中にある、かすかな明るさの
なかにこそ、より暗い現実を乗り越えようとするより強い思いが希望の光のよ
うに描かれているのを感じます。
氏の作品群で描かれた明るさの中にはそうした暗く、厳しい現実を乗り越え
ようとする氏の意志と願いが込められているように感じます。
「風たちぬ、いざ生きめやも」こうした作品に触れるとそうした言葉すら思
い起こされます。そのそこにあるのはやはり粘り強く生きていこうとする東北
人の生き様です。これらの作品群はまさに東北の風土の中から誕生したという
ことを強く感じさせられ、共感させられます。
<即興詩>
作品は 1 日 1 点、1 年以上にわたって描かれたと聞きました。これはまさに絵
画における即興詩であり、即興曲です。即興で詩や曲をつくるのは才能と技術
を併せ持っていて初めてできることです。絵画でそれをすることは更なる高い
技術と才能が要求されると思います。そしてそれを 1 年以上継続したというこ
とは熱い情熱と強い意志があってはじめて可能なことです。普段飄々としてい
る氏のなかに、これほどのエネルギーがあったというのは驚きです。心から敬
意を表したいと思います。
しかもそこで表されているのは風景との交歓です。それを見る作者の心象が
投影されています。色と形を用いた絵画による即興詩です。まさに心のおもむ
くままに自由に筆を走らせ誕生させた作品です。ですから見る人に直接的にそ
の心情を感じさせてくれるわけです。
<作品347>
400点を超える膨大な作品群を前にして、私が一番驚かされるのはその作
品の量ではありません。1 点の作品の質であり、その深さです。どの 1 点でもそ
の作品とじっくりと向き合ってみることをお勧めします。
作品 347
例えば作品347.すべての作品に暗さと明るさが同居しているわけですが、
この作品もその下の部分に暗い緑と青で描かれた沈鬱な森の姿が描かれていま
す。その上部にはその森に覆いかぶさるように燃える朱色の紅葉が描かれてい
ます。闇の世界に襲い掛かるように描かれた緑色は水の飛沫を思い起こさせ、
あたかも東北を襲ったあの忌まわしい黒い波であり、暗い海の底のようにも感
じられます。そしてそこに覆いかぶさる朱色は津波のあとに私たちが目にした
気仙沼湾の紅蓮の炎の情景などを思い起させます。この絵を描いたとき、作者
の心にそうした情景が去来していたのかどうかはわかりませんが、目にする私
にはそのような厳しい現実の情景が投影されているようにも思えるのです。そ
の上に描かれた細い枝は弱く、切れ切れの静脈のように描かれ、光の矢によっ
て傷つき、血を流しながら老いて、朽ちていく現実世界における人生の厳しさ
をも投影しているように思えます。
しかし、この絵の素晴らしさは眼前に展開する厳しい現実が、3 重の同心円の
ムーブメントを感じさせる巧みな空気遠近法により、青い空の空間と溶け合い、
同心円の中心点の向こうへ、見るものを誘い込むところにあります。一陣の風
により、近景の葉がざわめき、枯葉が後ろの空間に舞い飛び、それぞれが固有
の形をとどめないまま、全体が中心のかなたへと昇って行くような動性を感じ
させる。中心へと導くピンク色の帯はまるでルネッサンスやバロックの寺院の
蒼穹を飾る宗教画のように、空を舞う天使が神のいる天上に上っていくような
印象すら与えられます。そうした情勢を思い浮かべてその絵をみていると、私
の耳には「ハレルヤ」の歌が響いてくるようにも思われます。暗く重い現実世
界から神のおわす天上世界を目指して、魂が飛翔して行き、神の栄光を賛美し、
神の恵みを感謝するハレルヤの歌声が聞こえてくるような情景です。
人はその苦悩や煩悩が深いほど神の恵みを強く希求します。
この作品は重く傷ついた人間社会の現実を受け止め、希望の光を求めてそこ
から抜け出ようとする願いを込めて描かれたもののように思えます。
秋の紅葉という何気ない風景の姿を借りて表現された心象風景。私にはその
様に感じるわけです。