rつタク‐2ガ r口7タフイ_】彰名孝

ロマ ラ ソ ン じ
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ゃ
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―
な
昨年 San―
向 か うTGVに 乗 る。 Toulouseは
都 市 Tou10useに
酌
一
tiagoの
道 を歩 い た時 、 晩泊 ま つた所 で あるが 、街 は殆 ど見 て居 な い。 今回 は町 の
る
くと先ず宿 を探す。 地 図 を貰 い探す と、巡 礼 の宿 が 見 つ か つ た。 其処 に泊ま る事 に し、荷
フ ラ ンスの他 の町 の 白 さに比 べ て 、
物 を預 けて町 の 観 光 に 出掛 ける。 Toulouseは
997了
0828i控
岡市美原町30‐24
1 ぶ 0 2 1 3 ! 5 ( 2 1 2 汎3 6 6 9
茶褐色 の町 である。近 くに石材 の産地がな いのであろ う。 町 は煉 瓦で 出来 て い る。
2ガ r口7タフイ_】
rつタク‐
彰
名孝
1984年9月15日第 1号 発行 ∼
15月
2つ
1日 私 Bordeauxに
の St.Emilionに
Emilionの
/3 キ
Aurelienと
ど 月 ′7日
戻 り先 ず 宿探 し、荷 物 を預 け MedOcと
向か う。 Bordeauxを
この 街 には友 達 がお り、今 回会 うこ とに成 つて居 る。 昨年 の 6日 間走 で会 つた 男 で 、
反 対側 、内 陸部
中心 に西 にMedoc、
東 に St.
葡萄畑 が広が る、広 大 な世界的 な ワイ ンの 出地 であ る。
る と広 大 な森林や 草地 が 見 えて来 る。 雄 て車窓 の右 も左 も ・
BIEれ
lm
一
の葡 萄畑 とな る。 Bordeauxか
ら 35キ ロの Sait一
Emilionの
駅 には小
時 間 を要す るのん び りと した旅 だ。 乗 つて 居 る人 の数 も少 な い。 着 いた駅 は無人 の 様 だ。
何 人 かが居 り、鉄道 か ら北 に向か い丘 を 目指 して緩や か に登 って 行 く。 皆 目指す所 はl司じ
ロほ ど先 の 町 Sait一
EmiliOnの
町 だ。 町 の歴 史地 区や葡 衛畑│を
含 む辺 りの 景観 は 世界遺産 となってい る。
新 芽 を出 したばか りの葡 萄畑 を見 なが ら進 ん で行 くと、途 中 か ら片側 に駐車 して い る草
の 列 が 目に付 く。 此処 へ は列 車 よ り、草 で来 る人 の 方 が 多 いので あ ろ う。途 中 の Cha一
teau(こ の言葉 はフラ ンス語 で元 々 は城 を意味す るが 、 大邸 宅や 、 ワイナ リー を も意 味
す るよ うにな つた)や色 々な アイナ ノー の行 き先案内等 を眺 めなが ら歩 を進 め る。 丘 の 上部
に岩 が剥 き出 しに 成 つ て居 る所 が あ り、入 り回の様 な物 が 見 える。 石灰岩 を李Jり買 いた 地
中に ワイ ン を保 管 し、塾生 を待 つの で あろ う。
Sait―
Emilionの
歴 史は古 く、先 史時代 に遡 る。 この 地 に最初 に葡 萄 を植 え
ー
た の は古代 ロ マ 帝国 の人達 で 2世 紀 の こ ととい う。 中世 には巡 礼者達 が 此処 を通 る様 に
な り、質 の 良 い ワイ ンの産地 として広 く知 られ るよ うになった。人 口は 2000人 余 りで ある
が 、街 は正 に ワイ ンの 町で あ る。 ワイ ン博物館 、沢 山 の ワイ ンカ フェや バ ー 、試飲 を供す
る店 、 ケ ー スや 瓶 で ワイ ン を売 つて 居 る店 、お よそ ワイ ン に関す る物 な ら何 で もあ る。 値
段 も ピン き りで、一 本 1000円 程 度 の ものか ら 200万 円程 の物 が並んで い る。僕 も広 場 のバ
ー に入 り、 St.Emilion産
の ワイ ンを 2つ ほ ど飲 んでみた。 ワイ ン通 で無 いの で
あろ うか 、2杯 のやや上等 の フイ ン よ りは若干 劣 つて もボ トル 2本 の 方が僕 には合 つて居 る
様 に思 えた。
地図 をみ る と、 St.Emilionを
St.が
Spainで
含 め この辺 りの 地名 には殆 どこの Saintや
付 い て 居 る。 パ ツの 通 りの名 も矢 鱈 とこ の 聖 が 初 め に付 く もの が 目に付 く。
も同 じだ。 之 の地 の人達 は余 程 Saintが
云 う 50代 の 男だ。着 く 日にちは 3日 程前 か ら連絡 していたが 、時間 は
知 らせ て居 なか つた。彼 は英語 が 余 り得意 では無 いが 、何 とか此方 の 云 う事 を理解 しよ う
Bordeauxを
で 、1.5キ
造 の本拠 地 とな つてい る工 場 も見てお きた い と思 った。 町 に着
観光 も し、 Airbus製
好 きな のであろ う。
として色 々確認 を して くる。言葉 が不 自由で もそ の意思 があれ 意志疎通 の 方法 はあ るのだ。
電話 の結果 4時 に こち らの宿 に来 る ことで合意す る。
4時 前 に宿に戻 り待 ってしヽ
る と、rll定
刻 に彼が遣 つて 来 た。彼 には 2つ 程頼 み たい こ とが
一
あ つた。 一 つ は Andorraに
行 つてい る間余計 な荷物 を預 かつて 貰 う事 、 も う つ は
此処 か ら先 レー ス 会場 まで 一 緒 に行 く ことであつた。 どち らも快 く引 き受 けて呉れ荷物 を
_彼 は今勤務 中で あ り、長居 は出来ない の だ。
引 き取 つて帰 つて行 つた。
ら戻 るバ スの 時間 にバ スの 終点 で待 ち合 わせ る約 束 も した。 只 この約
束 が守 られ な い場 合、僕 は レー ス に必要 な荷物 は何 も無 くな つて しま う事 に成 る。 然 し、
Andorraか
輛 され た事が ハ ッキ リ分か るまでは僕 は人 を信用す ることに してい る。
其 の 後又散策 に 出 かけ、夕食後宿 に戻 る。 部屋 は比較的大 き く 6人 が 泊 まれ る様 に成 つ
て居 るが、今 日の宿 泊客 は 4人 である。部 屋 には台 所 、 シ ャ ワー 、ト イ レが 付 い てお り長
期 の 滞在 には向 いて居 る。
一 日Toulouseの
町 の観 光 をす る。 Touloseは
人 口 50万 に近 く、フ
印
ラ ンスで は大 都 市 で あ る。 町 の 中心部 は水 に 囲 まれ てい る。 西側 には湾 曲 した 幅 3-40
0メ ー トル の川 が 流れ 、東側 には この湾 曲に沿 う様 に運河 が 流れ てい る。 この水 で 囲 また
中心部 の 弓状 の幅 は 2キ ロ程 で あ る。
フ ラ ンス は 平地 が 多 い の で 、何 処 で も連 河 の利 用 が 盛 ん だ 。 此 処 を流 れ て い る川 は
Caronnc)llと
いい 、 Bordeaux、
Medocを
通 り大西洋 に流れ 込む。メ││や
運河 の岸 は 安全 で走 った り、歩 い た りす るには恰好 の 場所 だ。 場運 河沿 い には木 立があ り
夏で も快適 に走れ そ うだ。
川 に 幾 つ か の橋 が 架 か つて居 り、東側 に も立派 な教会や教会 系 の病 院 と して使 われ た大
き く立派 な建物 が あ る。 東側 か ら見 る と川 沿 い に立 派 な建物 が 見 える。 美術 学校 の建物 と
劇場 であった。
Tou10useの
町 は碁盤 目状 の 道 は少 な いが 、 Place du Capito一
leと 呼ばれ る中心部 の広 場 か ら放 射状 に道 が走 り、それ程 歩 き難 い町 ではな い。 其 の 大
ー トル に 渡 り行われ てお り、又別 の
きな通 りの 一 つ では蚤 の 市、骨董 品 市が 4-500メ
道 では生鮮食料 品 の 市 が 行 われ て いた。 蚤 の 市 の 元祖 は パ リと云 う人 もあるが 、似 た様 な
■ 00キ
ロマラソ ン じ ゃ あ ∼
な
吹 い て居 な い物 が 多 い。 其処 か らは 九十 九 折れ に下 つ て い く。 途 中には彼 方此方 に ス キー
場 が あ り、滑 つ て居 る人 も見 か ける。 更 に幾 つかの リノー ト地 を経 て 、首都 のAndo―
る
rra la Villaに
い。 先 ず 宿 を株 す。 町 の 中心 部 の道 路 を介 して 5つ 星 と 2つ 星 ホテ ル が あ る。 先 ず 5つ 星
が0 2 i 3 f 5 ( 2 i 23〉
1669
ぃ
のホテ ル で宿泊代 を訊 く。170Euro[22000円
強]。 2つ 星 の 方は 30Euro,
こち らに泊ま る事 に決 め る。 元 よ り5つ 星 に泊 まる気 な どは無か ったが 、 ほぼ同 じ場所 で
2つゑJキ ど 月′7日
星 の 差 が ドレだ け の金銭 的 な差 にな るか を後 学 の 為 に知 って お きたか つただ け の話 で ある.
市は中世 か らあ つた様 だ。今 では欧 米 の 風物 詩 で あ り、彼 方此方 で見 られ る。 大 きな道 路
の 中央分離 帯、街 の 広場 、教 会 の周 り等彼 方此 方 の 町 で市が立 つ の を 目にす る。 Tou―
loouseで
も僕 の 泊 ま っ た宿 の傍 の 教会 を取 り巻 く様 に も う一 つ の 市が行 われ て い た 。
趣 味 の 目を持 った人 な ら郷 り出 し物 が 見 つ か るだ ろ うが 、僕 にはそ う云 う才は無 い。
部屋 は直 ぐに利用 出来、荷物 を置 い て散策 に出かけ る。 目抜 き通 りの 両側には巨大 な店が
並ぶ。酒類 、煙 草、香 水、宝飾 品、衣類 、靴 、バ ッグ、 ス ポ ー ツ用 品、家電 、時計 、 カメ
ラ 、IT機
器 な んで もあ る。僕 は煙 草 の こ とは分か らな いが 、葉巻 の種類 の 多 さ、刻 み タ
バ ヨが大小 の透 明 な バ ケ ツに入 つた もの 、今 までに見 た事 もな い物 をみ る機 会 を得 た。香
欧州 の 香港的役割 を担 い繁
一
栄 して い るので あろ う。 香港 との違 いは海 や港 が 無 い事 、高層 ビル は つ も無 い事 、 人 々
港等 は 自由貿易港 と して栄 えた所 で あるが、Andorraは
公園 も多 く、広 い植 物 園 もあ る町 で あ る。宿 の 北 の 方 の運河 の 手前 の公 園 の 中 には 日本庭
一
文化 の 国 で あ り、異国文化 に
園 もあ り、 応 それ な りの 体 をな してい る。 Franceは
対す る興味や吸収 力 の 高 い 国 で あ る。 そ の 表れ が この様 な 日本庭 園 の設 置 であ ろ う。 この
のホテル の壁 には蛇 の絵 と其 の 漢字 が 書 かれ て い た。 今年
他 に も Blanquerorと
間半弱 の旅 である。
急流 の川 にそ つた 細長 い町 で 、高層建築 は無 いが 、建物 は どれ も超 モ ダ ン、古びた物 は無
f997T0825i鶴岡市美原町30‐24
1984年9月 15日第 1号 発行 ∼
着 く.3時
が蛇 年 と知 つ ての展 示 であれ ば 、見事 と云 うほか な い。 又 この 後 泊 ま るAulerian
の家 の僕 の 泊ま つた ベ ン ドカ バ の 模様 は漢字 であ った。
の動 きに落 ち着 きが有 る事 であろ う。
ヨー ロ ッパ にはAndo‐ rraと 同 じ位 小 さな国は少な くとも 5つ ある。今回 でその全 て
を訪 れ た。 これ らの 国 に共通 して言 える事 は どの 国 も経 済的 に豊 かで 、独 自の暮 らし文化
は 日本 を凌 ぐ筈 だ。 小 さい事 は
に誇 りを持 つて居 る点 だ。 どの 国 も一 人あた りの GDPで
決 して悪 い事 で は無 いのだ。 人 口減 少 が 始 ま つ たわが 国 では政府 、 マ ス コ ミ界 が仕切 りに
翌朝 マ イ ク ロバ ス でAndorraに
向 か う。切符 は昨 タバ ス発着所 の窓 日で 草内で買 う
事 を確 か めて 置 いた。 カ ー ド支払 い も OKと の 事 であ っ た。 バ スの運転 手に この 旨告 げ る
企 業 の生産 力が落 ち、利 益 が減 る。利益 が減 つて 困 るのは誰 か ? 企 業 であ り、そ の 裏 に
が 、 カー ドで取扱 い は出来 な い と言 われ る。 到 着先 の 事務 所 で決 済 出来 な い か訊 くとこれ
い る資本 家 であ ろ う。政 治家 も困 る。税収 が 減 り、 自分達 の 自由裁 量幅 が 減 り、大判振舞
や
〕
駄 同であ る。 運賃 は往復 62Euro,こ
れ も窓 日の 話 よ り若 干高 い。 話 が 違 うで は無
いか と怒鳴 りた い気持 ち もあ るが、此処 で は何 の役 に立 ちそ うもな い。15人
乗 りの バ ス
で 、 4-5人
しか乗 つ て居 なか ったが 、傍 で聞 い て居 た人 が 自分 は電話 で Andorra
の 事務所 に電話 を して カー ドで 買 えた ので 、買 え る筈 だ と云 い電話 を掛 けて呉れ る。 之 で
切符 の件 は一 件 落着。 何処 にで も親切 な人 は居 るもの で、感謝 の意 を伝 える。
バ ス は空港 に立ち寄 つた後 、一 路 西 を 目指 して走 る。道 は良 く、時速 120-130キ
程 で あ ろ う。 2時 間 ほ ど走 る と前方 に 出 が 見 えて来 る。 Pyrenees山
そ の弊害 を喧伝 してい る。何故 か ? 人 口が減れ ば 、労働 人 口が減 る。労働 人 口が減れ ば、
い悪 さが 出来な く成 る。 マ ス コ ミは政治や資本 の代弁 を してい るに過 ぎな い。
何年 か前 San Marinoに
行 つた こ とが あ る。 此処 はAndorraよ
りは遥 か
に国土 も小 さな国 で 、人 口 も 3万 人台で あるが、 この 国 が 現存す る世界最古 の 共和 国 であ
る。1700年
に渡 り、独 立 し続 けた 国 で ある。勿論原爆 を作 る国家予算 は無 い。 大 きな
国だ けが危険 な殺 傷機材 を開発保 持 し うる。 この点か ら見 る と、世界 の平和 は小 さな独 立
ロ
国 の集合 体 の方 が 確 立 出来 る可能性 が 高 いの では無 いか ?
共 の 山中にあ り、北 東 は フ ラ ンス と南 東 は スペ イ ン と国境 を接 す る人 口
日本 は未だ世界 の 経済大 国 で あ る。原爆 も持 ち得 る力 を持 つて 居 る危 険 な国で ある。 最
近最 大 の危惧す べ き政治的動 きは憲 法改正論 であ る。 現政権や維 新 の会 は看 過 で きな い程
7万 程 の小 国で あ る。 面積 は琵琶 湖 の 3分 の 2程 の 山国で あ る。 以 前 か ら訪れ た い と思 つ
右傾 化 してい る。 天皇制 の 強化 を図 り、戦争 の 準備 を図 りた い意 向 あ りあ りだ。 未 来 の 平
てお り、昨年 の Santiagoの
和 を考 え るな ら、先ず今 の 平和憲 法 を守 る必要 が あ る。 平和 を考 える時 、 これ ら小 国 の歴
Andorraは
脈 で あ る。
道 を歩 いた 時 も試 みたが、果 たす ことは 出来な か っ た。
バ ス は谷 合を徐 々 に高度 を上 げて行 く。左手 には鉄道 も見 える。国境 の傍 まで行 つてい る
様 で ある。Franceの
国境 のAndorrano町
は名 前 の通 り峠 の町 で標 高 2050mに
、Pas de la Casa、
あ る。 勿 論 まだ雪が残 つて居 り、木 々 もまだ芽 を
史が 貴重な指針 と成 る様 に思 う。
首都 の Andorra la Vellaは
は 25000人
標 高 1000mを
やや こえ る所 にあ り人 口
程 で あ る。 町 には立派 な病院や 体育施 設 もあ る。 川 沿 い には整 備 され た遊
歩道 が あ る。先ず上流 に向か つて右岸 の遊 歩道 を上 って行 く。傾斜 地 を利用 し幅 の狭 い段 々
畑 で野 菜 を作 っ て居 た り、鶏 を飼 ってい る家 を見か け る。 決 して 土地 自体 が豊 かでは 無 い