小繋事件

戒能通孝著
小繋事件
一三代にわたる入会権紛争一
岩波新書
515
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ヵー
き
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張して、権利主張を行なったoその結果学んだのは、自分の権利、自分の基本権をまもるのは、
題が、他の場所でもくり返し発生しているのである。小繋の農民はいわねば
は小さな東北の一部落である。しかしその部落で起こっていることと基本的には同
に対する同情からでない。それよりもこの小さな部落で起こっていることは、
いうものの、存外私たちの身近かなところでくり返されている日常的な問題と
を持っているからではあるまいか。私はその意味でとの書を遠いところにあ
件でなく、読者自身の問題として読んでいただけたら、この上ない幸いであ
持ち、他人ごとならず思うようになっているoの
ろ単
う純
かでセンチメンタルな農民
そだ
れは
半世紀にわたる部落民と山地主の間にある祖父母・父母・子の三代、五十
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入会権をめぐる紛争だが、なぜとのような地方的事件について何百、何千と
小繋は盛岡の北五十キロほどのところにある小部落であり、小繋事件はその部落で起こって
らず不文よく意を尽しえなかったことをお詫びしなければならないと思っている。
力によってできたものでないことを明らかにし、ご援助に感謝するとともに、それにもかかわ
とができたのである。記述の責任は、もちろんのことすべて私にある。しかしこの書が私の独
貸して下さった布施柑治氏など、実に多くの方々のお世話と援助を受けながら、これを書く乙
る茨城大学の小林三衛氏と麦書房の篠崎五六氏、先考布施辰治弁護士の残された貴重な資料を
との著書は名目的には私個人の著書である。しかし実質的には小繋事件に関心を持つすべて
の人、わけでも昭和二十八年八月、小繋に農村調査のため入って以来、今日まで事件の推移を
忠実に見守ってきた早稲田大学の畑穣氏と当時調査に同行した人々、当時調査には同行しなか
ったが調査報告に感動し、昭和三十年以来小繋に定住し、事件の処理に当ってきた藤本正利氏、
小繋事件の弁護人としてすでに九年もの問献身的に尽力され、今後も尽力していただけるであ
ろう岡林辰雄、竹沢哲夫の両弁護士、小繋に対して他人ごととは思えない情熱を傾けておられ
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昭和三十九年二月
戒
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通
孝
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自分自身であるという単純ではあるが苦難にみちた原則である。私はそれがいかに
し同時にいかに輝かしいものであるかを、特定の事件を通じて明らかにするつもりで
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均三
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利欲と執念凶
反抗する裏切者・・・
草蒋の忠臣とその家族問
天皇陛下の裁判所からみた農民の立場問
生産力の発展を阻害するものとしての権力の作用回
荒れる官憲郎
権力の踏みつぶした基本権・:・:;%
官許された暴力行為邸
火事 η
小堀喜代七||埋もれた東北の農民運動家印
石また叫ぶときがくる・::::::・
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農民のおとなしさが生んだ罪日
ボスと陸軍と山地主必
農民にも財産管理の力があった詔
名義と事実担
国内に作られた植民地::::::::・日
岩手県二戸郡小繋村 8
山守としての地頭と坊主ロ
山林支配と旧藩ならびに明治初年の岩手県却
僻地生活の一世紀・
所有権にも差別がある・::::::1
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見捨てられた正しい立場m
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権利は自分の手でしか守れない
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訴訟請負人の登場と食い物にされた農民の利益四
農民をみない「農民知事」と弁護士m
たち
焼酎作戦と肩たたき凶
残されている不実さの証拠国
いまだに苦闘する農民たち
平和は裏切ではかえらない脱
小繋事件と藤本君附
山村を急襲した百五十人の武装警m
察官
小繋事件と検察官服
裁判所のみた小繋事件出
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しかし未来は築かねばならない
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いきどころがなくなる可能性もあるのである。
に、農民は自己の入会権さえまもれないということが明らかになるならば、農民には離散以外
よりも全日本農民に今後の農業をどうすればよいかの希望をふきとむにちがいない。だが反対
るのである。政府がその採取権を認めるとともに、それを近代化し、四十戸程度の部落につい
ている折角の入会地千町歩余の合理的利用を援助する気持になれば、小繋は東北農民、という
れてはいなかったのであるが、さればといって地べたに寝たり、米を生のままで食うととはで
きなかった結果として、否応なしに山に入り、建築用材、薪その他の必要品を山からとってい
小繋事件は、小繋部落、旧小繋村という人家約四十戸の小部落で起とっている局地的事件で
ある。けれどもこの事件の持つ客観的意義は、農民が自分なりに声をあげ、自力で権利をまも
ろうとした場合、警察・検察庁・裁判所などがそれをどう裁くかの記録であり、その意味では
生きた法律学・政治学のテ Iマとして検討に値いすると私は考える。これは小さな一例だが、
例外的な事件でなく、原則の一表現にほかならない。小繋の人々は、要するにいままで保護さ
知れないのである。
ころいまの国家機構の下では保護されない産業であることを、証明すζる
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いてきた。もし事件が今後五年とか十年とかいう短期間に、農民にも
十なら、事件はそれ自体としては小さいが、しかし日本農業の未来
は現在の国家機構の下でも繁栄する産業になる道をつけられるよう
できないか、できても三十年後、五十年後まで待たねばならないと
認されるまで、との訴訟は続くほかない宿命を負っている。過去
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小繋
うしても必要な山である。したがってその必
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ら部落の山であることを確
れ繋事件は部落の人々が納得できる解決が得られるか、あるいは部
人になってしまうまで続くにちがいない。小繋山は部落.のあるかぎ
ている。
事件は部落の人数名が小繋山に立ち入って材木を伐ったという理由
されているけれども、乙の事件が仮に片づいても、なおまだ半永久
小繋事件は、岩手県二戸郡二戸町字小繋(もと小鳥谷村小繋といい、そ
以前には小繋村という独立の一村であった)にある小繋山と総称される同
めぐって、大正六年以来今日までの五十年、形を変えつつくり返されて
ある。それは祖父母・父母・子・孫の三代・四代にわたる訴訟事件であ
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現在の日本は私有財産制の上に立っている。ところが私有財産として保護されるのは、どん
な財産か。小繋事件は、いままでのととろ裁判所を含む政府諸機関の保護する財産が、貧之人
所有権にも差別がある
1
3
の財産でないととの告白を続けてきた。大企業の財産は保護せられ、資本に付着する人間労働
力の支配にまで高められていたというものの、貧しい農民が手と足とを使って生活の糧をとる
ための財産は、余りにもないがしろにされていたのである。農民が旧来の村山に立ち入って草
木を採取する権利、それは民法でも入会権という名で保障されているのだが、一たび民法の条
文を離れ、実地について保護を求めると、その保護を受けるのはラクダが針の穴を通るよりむ
だすというような試行錯誤の連続が、そうした普通の人々の特質ではあるまいか。私にはそれ
だからこそこの事件には興味がある。凡人は凡人らしく行動し、その故にまた失敗する。だが
小繋部落の人々は、過去五十年にわたり「闘っている」というよりも、「闘いを余儀なくさ
れている」のである。だからといって彼らが英雄であるわけでなく、全く普通の人である。彼
らのエネルギーは立派だが、しかしそのエネルギーは燃えきりもせず、しばしば停留し、つま
らぬ間違いもしでかしていたのである。迷い、ためらい、ときには暴走し、次の瞬間には逃げ
考えているのである。
語られているような感じがしないわけでもないのである。希望と告白、それは小繋事件が私た
ちの前に一切の扮飾抜きで提示してくれる事実であって、それだけでも検討に値いすると私は
ない。小繋事件には、そうしたわれわれの心の記録が確かにあり、ある意味では自分の気持が
を求めはするが、それにもかかわらず、それではいけない、こうありたいと思う心がないでは
ど、ある意味では私たち自身の心があるのである。私たちも目先の利益になるいやらしいもの
とは何かという問題を具体的に観察する機会も与えるにちがいない。事件を調べれば調べるほ
の立場から献身する人間の美しさも生まれていることである。それだけにこの事件は、「道徳」
つかしくもあるのである。だがそれにもかかわらず小繋の農民は、過去五十年、泥まみれにな
って闘い続けてきたのである。「法の目的は平和である、だがその手段は闘争である」。ドイツ
の大法学者イエlリンクは、『法のための闘争』の冒頭でこのようなことを述べてはいたが、
それを地でいったのが小繋事件だといってよいと思われる。
小繋事件に含まれるもう一つの問題は、人が一旦苦しい立場に立ったとき、小利を追い、大
利を忘れる人間の醜さや、エゴイズム、裏切り、厚かましきなどがあるとともに、純粋に無私
4
その故にこそ励ましゃ協力や団結が必要なのであって、それらの要らない英雄なら、その人一
人いれば十分である。私はそれを意識しつつ、凡人の凡人らしい記録として、乙の事件の成り
行きを書くことにするのである。
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所有権にも差別がある
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2 僻地生活の一世紀
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岩手県二戸郡小繋村
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小繋のもう一つの特色は、この百年間に家畜がいちじるしく減っていることである
示す特質がありそうである。
旧幕時代の小繋村は、耕地わずかに二十三町八反歩、水田は当時一町歩余、ほか
エなどの畑であった。住民は地頭(名子主)としてのちしばしば登場する立花喜藤太を
自作農十七戸、名子十二戸、奥羽街道の旅行者を相手にする宿屋、飲食店、茶店
戸であった。耕地はその後百年間に、畑地のうち約五町歩が水田に転用され、山畑十
開墾されたため、いまでは水田六町六反八畝と畑二十八町歩に変っている。だが百年も
耕地僅かに十町歩しか増えない農村は、全国にも少ないのであって、乙の辺に小繋の
もなかったことは、まず注目をひいてよいのだと思われる。
トタンぶきの家がならんでいるけれども、その他の宇は全くの小字である。中
びに字下平の人家は、農家三十四世帯、非農家(国鉄職員、行商人、教員
幕末から今日までの百年間、多子家庭が非常に多いにもかかわらず、世帯
いない。いいかえれば小繋の養い得る世帯の数は、大体において農家三十戸が
その他のものは何かの形で部落外に流出しなければならず、農村としてこの
九六メートル、年間平均気温十度三分という寒冷地、部落の中心は国道をはさんでヲラぶき、
繋駅南部に散らばっている字東田子および字西田子の五字から成る山間いの村である。標高二
くと、一軒の貯材場を兼ねた新築の邸宅の裏手にでるだろう。邸宅は鹿志村事務所、小繋事件
一方の当事者になる鹿志村亀吉の三代自に当る人の持家である。邸宅の管理者鹿志村光亮氏は
村にはほとんど居住していない。本邸はいまでは盛岡にあり、また茨城県那到湊にもあるが、
小繋駅傍の鹿志村邸は、初代亀吉以来の住居であり、奥羽新国道の用地として鹿志村氏所有名
義の土地若干が買収されたので、その補償金で改築されたのだとのことである。
小繋部落、すなわち旧小繋村は、鹿志村邸付近の字新館林から始まって、その北方二キロほ
どのととろにある人家四十戸ほどの字小繋ならびに字下平といわれる部落の中心部、それに小
んで作られているから、それが完成すれば旧道になるのだが)に沿い少しばかり北に向って歩いてい
まだ淋しい。しかしこの駅に下車し、駅前を通っている国道奥羽街道(いま新国道がすぐ前になら
小繋駅は盛岡から鉄路約五十キロほど北上したととろにある国鉄東北本線の小さな駅である。
との停車場は、もと信号所だったととろを改築したためか、小繋部落のなかにはなく、駅前は
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の幕末には、立花喜藤太家だけでも五十頭、全村では百頭近い馬がいた。ところが現在
一頭、馬二十一頭、山羊十頭、鶏百三十六羽いるだけであり、豚は飼うという話がでてい
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まだ何頭もいないようである。山羊や鶏の数は時期的な変動が多いので、必ずしも固定的に考
える必要はないだろう。また耕転機の普及に伴って馬耕が減り、南部馬の名声も消えつつある
それを助ける国家権力が、部落をして百年も渋滞させていたのである。
のである。「それは鹿志村のせいだ」、部落の人々はいま声を大にして叫ぶのだが、鹿志村氏と
らである。要求のでないところには対策はない。部落は百年間無視せられ、忘れ去られていた
もその山が人に奪われていたために、部落が常に分裂し、交渉の精神も団結も持てなかったか
もかかわらずその交渉が、百年間放置されていたのである。それは部落が山の村であり、しか
ある。小繋部落の人々は、このことをここ数年来ようやく知るようになっている。だがそれに
嵩にかかって押しかぶせてくるのだが、対等の立場で交渉すると、存外真剣に応対するもので
やっと辿り始めただけである。役人は、初めからひるんだ態度でお願いにまかりでるならば、
くれたはずである。ところが部落のエネルギーは、過去百年間遂にその方向に結集せず、いま
術の改善なり、栗、漆、くるみ、桑、煙草などの栽培について相談に乗るくらいのことはして
もに動かし得ない事実である。だがその役人風を吹かしすぎ、徒らに傍観しているだけの役人
に対しても、小繋部落の全員が結束して交渉を進めていたら、せめてものこととして、営農技
の日本国が、「予算がありません」とばかり、ただ徒らに傍観しているだけであることも、と
旧大日本帝国が、人民に対してケチ、尊大かつ役人風を吹かしすぎていたことも、また現在
とは、考えられないことである。
た理由であって、とれなしには百年もの問、ある部落が旧時代そのままの営農状態をくり返す
激しい大道路傍の部落を放置して、百年前のままにさせておいたのは、何かの理由があったか
らにちがいない。すなわちその理由こそ同時に部落の結束を弱くさせ、営農の発達を妨げてい
部落を停滞させているだけでなく、後退させていることは、決してみよいものではないのであ
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る。政府・岩手県・旧小鳥谷村・一戸町などが、国道に沿い、トラックや
オ三輪の往来が
けれども国鉄東北本線は部落の横を走っており、その上に国道奥羽街道は部落を貫いているの
みか、部落の主要な家並みは国道沿いにならんでいるほどだから、交通の便は非常によく、も
し農林省なり岩手県なりがほんの少しだけその気になれば、開発は決して不可能ではないので
あった。それにもかかわらずこの百年間、政府も県も営農上の発達に何一つ援助を行なわず、
由によるのだろうか。一つには平地が狭く、部落全体が山ばかりの僻地だからにちがいない。
幕末以来の百年間、耕地がほとんど増加せず、家畜が逆に減っていることは、一体どんな理
なることはないのである。
は、牛はまだ入っていないと同じであって、一頭や二頭の飼育では、損乙そあれ、何一つ得に
時勢だから、馬が減るのは自然の勢いかもわからない。だが馬に代って牛はなぜ増加えぬのか。
百年前に馬百頭が飼えたところなら、牛もまた百頭単位で飼えるはずである。ところが小繋に
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僻地生活の一世紀
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山守としての地頭と坊主
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していた約二十町歩の山林のような箇所に関しては、昔から喜藤太家の専用権があったかも知
私はそのなかの一部分、たとえばいまなお「別当山」と呼ばれ、かつて喜藤太の孫善一が専用
持っていたであろうこと否定できない。だが喜藤太一人が村山・村野の九七%を専有し、名子
のほか立ち入れないことになっていたと仮定するならば、薪はもちろん、村で飼われていた他
の五十頭の馬には飼料がなく、死に絶えていなければならないといった理窟である。
明治初年地租改正に伴って行なわれた山林原野官民所有区別処分という政策は、いまからみ
ると全くとんでもない政策だった。それは政府が民衆から山を取り上げるための政策であって、
全国約五百万町歩に上る国有林野は、これによって作られたのだといってよい。けれども小繋
村の場合には、理由必ずしも明らかといえないが、村内山林原野のうち九O%までは民有の証
拠ありと認められ、うち荒畑・山畑など、村民各自持とみてよいものは各自の名前で民有の地
券を交付され、他方村民総体の使用に供されていたと認められる山林原野四十数筆は、村民総
体を代表する意味において立花喜藤太名義で民有の地券が交付されたと考えてよい模様である。
二十五町歩だけが自作農十五戸、宿屋など商店七戸によって少しずつ所有されているというよ
うな状態であったなら、正直のところ小繋部落の生活は想像できないものにならねばならな
なるほど喜藤太は、輩下に十二戸の名子をかかえた地頭であり、その名子の手をかりで五
の馬を所有しておったから、小繋村山・村野の使用ないし収益について、かなり強い発言権
小繋部落の山林原野千八百十四町歩、うち官有地百七十一町歩を除けば、約千六百五十町歩
が民有地、その九七%にも近い千六百町歩が立花喜藤太一人のもの、残り五十八町歩のうち二
十三町歩が部落の本家の一人片野源吾の、また十二町六反歩が米田喜七の私有地であり、他の
公簿上千八百十四町歩を越えることになるのである。
小繋は山の村である。そこには幕末から今日まで、せいぜい三十町歩前後の耕地しかないが、
そのほかに二千町歩の山林がついていて、村の生活を支えてきた。山林の実測面積は恐らくも
っと広いかもわからない。しかし明治十年五月、地租改正に伴う山林原野官民所有区別処分が
この村について行なわれた当時、官有地に編入されたもの百七十一町歩余、その他の山林原野
は民有地に編入せられたが、うち部落民の一人立花喜藤太名義で地券を受けたもの千百十五町
八反歩余、それ以外のものの名義で民有の地券を受けたもの五十八町歩余であって、全体では
千三百四十五町歩の山林原野があることにされていた。ところがこのうち喜藤太が受けた民有
の山林中、西田子七十二番の二という箇所三百二十町三反歩余(通称「ほど久保山」)は、明治三
十六年になり、七百八十九町三反歩と誤謬訂正されている結果、小繋部落山林原野の総体は、
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は、昭和二十六年七月三十一日の盛岡地裁判決だけであり、この判決は私の『入会の研究』を
ほぼそのままに踏襲しているように思うから、最後の結論はひどくおかしいが、しかし判決の
有の地券を受けたのだろうか。後にあげる判決のうち、乙の点について正しい理解を示し
なぜ小繋村もしくは小繋村村民総体の所有名義で地券を受けず、立花喜藤太個人所有名義で民
下平・新館林・西田子・東田子の各地にある旧立花喜藤太所有名義によった山林原野の全
「小繋山」と呼んでいる。それでは旧小繋村村民総体の共用に供さるべきである小繋
現在の小繋部落、すなわち明治二十一年町村制以前の小繋村は、昔から今日まで、小字小
この点は特に詳論する必要がないと思っているのである。
ても考えられないことであり、また後に挙げる判決もさすがにそうとは認定していないので、
部が立花喜藤太一人に属し、他のものはこれについて何の権利もなかったとは、常識からい
れないことを否定はしない。けれども小繋山と総称されている旧小繋村山林原野のほとんど全
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理論およびその史料的裏付けに関するかぎり、私自身が執筆しても同じことになると考え
だが同判決以外の他の小繋事件判決は、累世喜藤太と名乗る小繋村の名子主(地頭)
歳坊と名乗る村の寺院長楽寺の住職を同視して、千歳坊が旧時小繋山の山守を命ぜら
たので、千歳坊、すなわち喜藤太が民有地券を交付されたのだというような、徳川時代の
に関する無知識をそのまま曝露したものが少なくない。
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ζと自体不可解であり、
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千歳坊は旧時代において小繋山の山守だった。したがって千歳坊こと喜藤太がすなわち山守
であり、そして山守であるところの喜藤太が、山守としての資格において小繋山所有者にされ
たのだとの見解は、昭和七年二月十九日の盛岡地裁判決に現われて以来、その上訴審諸判決
乙れを俗人の喜藤太と同視することが、そもそも間違っているのである。
侶だったから、当然妻帯者ではないのであって、相続による世襲という
であり、宗旨は天台宗に属していた。本寺は盛岡の法輪院、代々の住持は法輪院で得度した僧
小繋村細工沢から伐りだした桂の木で地蔵尊を彫刻し、ここに残して去ったと伝えられる古寺
をおいて東北鎮護にあて、また嘉祥三年には慈覚大師(円仁僧亘)が陸奥恐山開山ののち巡錫し、
長楽寺は、口碑によると延暦二十年、坂上田村麻呂がエゾの叛乱を平定した当時、勝軍地蔵
藤太を同視することが、いかに初歩的な誤りか、発見するのは何でもないことである。
が幕府・諸藩によってもまた支持されていたことを想いだすならば、累世の千歳坊と累世の喜
り、何となくおかしくなるくらいだが、それで裁判されてはたまったものでないのである。
徳川時代の記録上、「小繋御山」または「小繋御預山」の山守として、ときどき千歳坊の名
がでてくることは事実である。では累世千歳坊と呼ばれていたと伝えられる小繋村長楽寺住職
と、累世喜藤太と名乗っていた小繋村の地頭とは、はたして同一人物だったのだろうか。徳川
時代の制度上、真宗を除く他の仏教諸宗派が僧侶の肉食妻帯を厳禁し、しかもこの宗門の法律
見解からまず取り上げる。それは法制史に関する初歩的な知識を欠くために生まれたミスであ
とは、のち改めて検討することにして、こ乙では千歳坊と立花喜藤太とが同一人だったという
学教授中田薫の鑑定が、南部藩林制に関する無知識もしくは調査不足に由来する誤解であるこ
小繋山が旧時代において南部藩の藩有山だったという大正六年訴訟当時の鑑定人東京帝国大
はないのである。
づいているが、正直にみてこれにはいささか驚かされた。俗人と坊主が同じ人、まさに冗談で
十月二十六日盛岡地裁刑事部判決ならびに同三十八年五月八日仙台高裁刑事第二部判決にもつ
(昭和十一年八月一二十一日官城控訴院判決、昭和十四年一月二十四日大審院判決)、および昭和三十四年
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それでは長楽寺住職千歳坊と、村の地頭立花喜藤太は何の関係もなかったのだろうか。私は
現在千歳坊が累代どの家からでているかの記録を持っていないので、すべての証明はできない
が、幕末から明治初期にかけての千歳坊が、喜藤太の一族だったことを否定しようとは思って
いない。すなわち昭和九年六月一日附で小鳥谷村村長上里太一郎が認証した明治五年のいわゆ
る壬申戸籍ならびにその後の記入によると、明治五年当時の住持立花教観(六十五歳)は、先々
代喜藤太の次男であり、先々代喜藤太の養女リヨ(五十五歳)と婚姻していたように見受けられ
る。さらに当時の長楽寺戸籍には、弟子として立花法行(二十五歳)と法行の妻トミ(二十議)が
っており、法行は当代喜藤太の長男、トミは先代喜藤太(当代の誤りかも知れない)の三女(養女)
僻地生 i去の一世紀
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そうではなかったのである。
預山」は、一体藩に「所有地ノ如ク進退致来」った実跡があったかといえば、実のととろ全く
「拙僧御預り山」と書かれていたことがあるけれども、南部藩林制上の「御山」もしくは「御
のだろうか。小繋山は、記録上「小繋御山」と書かれていたこともあり、また千歳坊によって
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として半ば本陣的宿房であるととろの長楽寺の後跡を継ぐために喜藤太家の子供のなかから供
給されていたことは、彼らが喜藤太の縁者だったととを想像させるとはいうものの、喜藤太と
千歳坊が同一人だったと推定するのは無理である。千歳坊教観と、その弟子法行は、なるほど
明治十一年には喜藤太との合家を許可せられ、各 妻を連れて喜藤太の戸籍に入っている。け
れども両者が別人であるかぎり、「小繋御山」の山守千歳坊が、山守の資格において南部藩の
旧藩有山につき、民有の地券を受けたという論理には筋がなく、そのこと自体明らかに誤って
いるのである。それでは旧藩期における「御山」とは、はたして「藩有の山」を意味していた
盛岡市法輪院の末寺長楽寺の住職が、原則としてみずから求めて出家したわけでなく、慣習
ものであるととは、疑いを容れる余地がないのである。
である。徳川時代宗門の法律が、との点についてひどくやかましかったとと、ならびに教観・
法行の妻が戸籍に記載されるようになったのが、明治政府による僧侶の肉食妻帯許可に基づく
一人ではなかった。喜藤太が僧侶になれば公然妻帯できず、喜藤太家は断絶する
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だったとと、大体において想像されるととである。だがそれにもかかわらず、彼らは絶対に同
できないのは残念だが、恐らくそうした人はあまりなく、千歳坊と喜藤太とは原則として縁辺
寺に弟子入りさせ、氏寺のようにしていたことは、十分にあり得べきことである。喜藤太の子
供ではなしに、本寺法輪院から派遣された住持が累代の住持のうちどれだけいたか、いま証明
天台宗は徳川家の宗旨であり、そのせいか天台宗の寺院には寺領を持つものが少なくなかっ
た。ところで長楽寺の寺領の有無は明らかでないけれども、同寺には少なくとも宿坊の設備が
あり、村の本陣のような役割をしていたようだつたから、村の地頭立花喜藤太が自分の子を同
いを容れる余地がない。
という乙とになっている。教観・法行とも法輪院で得度を受けたこと、長楽寺が天台宗法輪院
の末寺であるととも、ともに同戸籍上明らかであって、少なくとも小繋事件の訴訟記録として
提出された古文書に関するかぎり、その文書にある千歳坊と喜藤太は全くの別人だったとと疑
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小繋山について立花喜藤太名義の民有地券がだされたのは、明治十年五月のことである。し
かしその理由をもし小繋山は旧藩有地だったのに、千歳坊が山守として管理していたととろか
ら、千歳坊の管理権を尊重し、喜藤太名義で民有の地券を交付したということに求めるのであ
れば、そもそも藩有山とは何物か、旧時代の林制を一瞥しなければならなくなる。「御山」、
「御預山」とは一体何か。大正六年訴訟当時の鑑定人、東京帝国大学教授中田薫は、「御山」
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る)ならびに文政・弘化にかけて行なわれた再検地の節、作成された一村全図地割小絵図であり、
これらの文書によって南部藩封内の山林原野を分類すると、その主要なものは大体つぎのよう
になっていた。山林原野は元来藩の持高には算入されず、禄高外におかれていたとはいうもの
の、山林は藩の収入に無関係ではなかったし、また農業上も重要な意味をもっていたことなの
御忠信極立書上帳、御取分極立書上帳、日の目林北野形林諸木書上帳、寺社境内諸木書上帳から成ってい
ところで現在の岩手県の地域のうち、県南の一部が仙台藩・一関藩の旧領地であり、県北の
一部が八戸藩の旧領地だったことは事実だが、旧小繋村を含む二戸郡が南部藩の領地であり、
同藩林制の支配下におかれていたこと明らかであるところから、ここでは南部帯林制上の「御
山」とはいかなるものか、明らかにすればよいと思われる。南部藩林制上の基本になるのは、
弘化三年、封内の代官・山奉行に命じて作成させた御山帳(総御山諸木書上帳、御立林諸木書上帳、
山林支配と旧藩ならびに明治初年の岩手県
うと同人が南部藩林制の知識を皆目持たず、半ば当てずっぽうに書いた無用の註記であって、
少なくとも結果において裁判を誤るにいたった罪、重大なものがあるといわねばならない。
2
0
がなぜ藩有山であるかの理由を述べず、「御山(藩有山)」と註記しているが、この註記は実をい
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三運上山藩が輪伐を行なう山林であって、一種の藩営林である。藩はこの種の山林に
もの。藩内に数カ所あるだけだった。
二御側囲山御留山と同じ性質の山林だが、山林経営の資金が藩主の手元金からだされた
山守株は一種の利権のようなものになり、なかには売買された事例すらあった。だが御留
山守が、本来山林監視人であり、山林所有者でなかった乙とは、性質上当然だったと思わ
雑木が繁茂すると用材の生育に有害だったので、山守をしてその雑木を伐らせていたところ、
山守は用材もあわせて失敬し、藩主もある程度それを黙認しているのが常であり、そのために
一御留山藩用の用材あるいは薪炭を確保するための山林であるが、その主要目的は、江
戸藩邸の火災または非常の飢僅に備えたのであって、後者は飢館のとき材木を伐りだし
などにして売りだした上、その金で士卒窮民を救おうというのだったから、平時には伐木を
じ、有給の山守をおいて樹木保全に当らせていたのである。けれどもこの種の山林であっ
面より信頼度が高かったといわれている。
で、記録は一般に正確であり、絵図のごときは、明治初年改租の節、各村に命じて作らせ
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いて材木を売る場合、代価を徴して売るといわず、材木商人に運上銀を献上させ、木材を
するといっておったので、運上山の名前がでたもののようである。田名部槍山はその最も大
なもの、年聞に木材十万石を売り、運上銀二万二千両以上を徴していたが、敢えて売買とい
僻地生活の一世紀
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曙欄湘間
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ないのは、いわゆる武士の商法の然らしめるところだったにちがいない。
四御預山多少雑木の生える草山であって、村民に預け、山役銭多少を徴して草・雑
採取を預けた村の村民に任せたもの。藩の山帳に「御預山」、「御村預山」と肩書
れであり、乙の種の山林は二戸郡のみにあり、他の郡にはなかったもののようであ
山」の所有者でなかったのは当然である。
の米・酒・人夫などを提供されたことがあり、慣習は全く区々ではあるが、しかし山守が「御
はしばしばである。そしてその山守は、山林の監視、藩との交渉などの勤務の報酬として若干
していた山である。この種の山であっても、産物の保続を図る必要から、山守がおかれたこと
七御山制札・ナタ札・鎌札などの必要がなく、地元村民が自由に立ち入って草木を採取
というまでもあるまい。
われていたけれども、その売買は山守の利益にかかるのであって、山林の売買ではなかったこ
ら若干の謝礼をとっていたことは事実だったようである。そのために山守株の売買もまた行な
木を行なうのが御札山であるといい、第二説によると、藩側が積極的に山林育成の必要を認め、
ナタ札、鎌札などを発行し、その札を持たないものの入山を禁止する山であると解している。
との種の山林におかれている山守は、前者であれば村方の代表者であり、後者であれば藩の代
表者という乙とになるわけだが、一般に山役銭の全部または一部が給せられ、あるいは村方か
伐木を禁じて育成を待ち、家作用あるいは薪炭の採取に必要があるごとに、藩の許可
つきで行なわれていたといわれるが、乙の点には若干疑問がある。
六御札山御札山の意味については二説がある。第一説によると、一般通常の「御山」
〈後記)であって、樹木がやや繁茂したときに、地元ω
村で民
らを藩
てか
制札
立に
て願
てもらい、
利益を受ける耕地が、地形上数反歩・数町歩に限られている場合には、耕地の売買は
たのはもちろん、下流村民をひきいて植林に努めたことは当然である。なお水の目林によって
水の目山は、要するに下流人民の耕地保護のためにあったもの、山守が上流側の伐木
流の村民から選任され、特に藩から給与を与え
らは
れな
るかったようである。水の目林・
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五水の目林いまでいう水源酒養林である。したがってその山守は水利の利益を受け
ない。
は、その預った一村または数村の村民が自由に使用できただけでなく、売買もまた自由にでき
たので、明治初年山林原野官民所有区別の節、買得の証人を立てて民有となったものが少
22
八高の目林検地の節、一度田畑として書き上げられたことのある荒田・山畑の類を林に
仕立てたため、地自転換を行なって林とし、百坪につき銭二十文の山役銭を課することにした
もの。岩手県全体で千百二十七町歩あったといわれるが、二戸郡には全然ない。
九居久根林宅地に接続する林であって、宅地同様にみなされていたもの。宅地は旧時に
僻地生活の一世紀
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23
酬棚引刊日小和
は無税だったので、居久根林もまた無税であった。
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十御忠信植立山人民が私費で植林し、滞主に献じたもの。植立ののち功を賞
いってみれば名誉を買うための手段であった。
十一御取分植立山婚が人民に命じて用材樹を植林させ、成木ののち藩と人民とが分収す
ることを定めたもの。場所・樹種・数量・分収の割合などは、老職連署の書面を渡し、後日の
紛争を避けるようにしていたのである。
十二私植林人民が私に植林したもの。その採取は植林者の自由であった。
小繋事件に直接関係のない旧南部藩林制の記述は、大体乙の辺でやめてよい。だがこれによ
って明らかであることは、小繋関係文書のなかに現われる「御預山」、「御山」の語は決して藩
有山という意味でなく、またこれらの山における「山守」は村側の代表者ではあるが、御悶岡山
や運上山の山守のように藩の代表者ではなかったことである。小繋山が「御山」と書かれたの
は、要するに「御山帳」に載っている山、すなわちただの山というのと同じであって、旧南部
藩が藩有地のごとく進退しきたった山との意味ではないのである。小繋山はまた小繋村代表者
としての千歳坊に対して預けられていた「御預山」だったかも知れない。しかし「御預山」と
は、地元村(村民総体)に自由な使用を認めていた山林原野にほかならない結果、村民は慣習も
しくは彼らの決めた村極めに従ってその山林原野を収益し、草木の保続を計ればよいとされて
いたのである。小繋山は、御留山でも、運上山でも、御札山でもなかった。つまり滞はその管
理に介入せず、農民もまた管理について溝の保護を求めていない山林原野だったのであって、
乙れを指してただ「御山」という文字があるだけで「藩有山」と断定した中田薫鑑定は、当
推量にすぎなかったのである。
小繋村四十戸、山林原野二千町歩としてみれば、小繋は山に不自由しない村だったといえる。
その結果、山林の管理方法は若干ルーズであり、毎年二百十日、長楽寺境内地蔵堂前に村
帯主が必ず集って、御神酒上げという簡単な神事を行なってから萩刈りを始めるというように、
萩刈りの時期・方法についての慣習が今日まで続いているとはいうものの、その他の点につ
ては一般的規則はなかったもののようである。分家を御神酒上げに出席させるか否か、家屋の
新築を認めるか否かについてさえ、御神酒上げの寄合で承認されればよいのであって、こ
なくとも山の産物に関するかぎり、用材・薪・栗の実・桑・くるみ・きのこ・山ぶどう・わら
びなどは豊富にあり、山入りすれば村民はほぼ自由にとれるようになっていた。山守は、それ
にもかかわらず、野火を防いだり、山の大木を商品として売りだすことを禁じたり、あるいは
土地所有者でもなければ、独立の立場で山林原野の管理権を持っていたものでもなく、
らみれば一種の代表者にすぎなかったとと、上記南部藩林制上の「御預山」、「御山」の性
藩側の命令を村氏に伝達したりするために必要だったようである。だがその山守は山
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2
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顧みて明らかだといってよいのである。
は、当時の実状を伝えるものとして引用に値いすると考える。
有の申請を行なわず、官有地として無税のまま従来通り収益するに如かないとする考え方が、
当然のとととして現われたからである。岩手県自身も乙の事実は間もなくして承認する。たと
えば明治十三年岩手県が作成した「岩手県山林顛末調査並意見」と題する報告は、当時の処分
が官有地の抹消にあったことを嘆じつつ、国有林の復活強化を強調するにとどまるものだから、
私としては必ずしもその趣旨には同感できないが、しかしそのなかに現われる次のような文言
明治八年二月二十七日岩手県第二O号達によると、県は県下各山林原野につき、買得の証書
あるものはもちろん、証書がなくても証人によって所有の証明ができるものは民有の地券を交
付するとし、実際において調査を担当した僚属は、口頭で民有の申請を提出するように、各村
旧庄屋・山守などを勧誘していたようである。勧誘を受けた側にしてみると、それは若干不気
味であった。というのは山林原野を民有として地券を交付せられると、地券に記載された地価
の百分の三を毎年地租として負担しなければならないのであって、それくらいならばむしろ民
有化必ずしも地元村民の利益を保障するものではないのであった。
けれども明治初期山林原野官民所有区別当時の実際上、山守もしくはこれに準ずる村方有力
者たちが、岩手県山林処分の実施にあたり、きわめて有利な立場にあったこと、無視できない。
岩手県は、県令島惟精の個人的裁量によったのか、あるいは僚属の法令解釈の結果そうしたの
かいまでは不明だが、全県下山林原野を努めて民有にする方針で山林原野官民所有区別処分を
行なうこととし、その趣旨を示すものとして、明治八年二月二十七日の各区戸長・副(副戸長、
大区の長を戸長、小区の長を副戸長と呼んでいた)・組総代宛
O達
号第
を二
公布した。岩手県のとの
方針は、全県下山林原野を官有にする方針で所有区別を実行し、地元村民から山林保守の意思
を喪失させた山梨県あたりの方針と相反するのではあるが、処置について誤るところ多く、民
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官山トナシオキ、無税ヲ以テソノ草木ヲ刈伐使用センニハト、コレ一ナリ。一村ナイシ数村
共用ニカカルモノハ一己ノ私有トナルヲ便トセズ、コレ二ナリ。コレラノ故ヲ以テ人民多
「明治八年、地租改正事務局乙第三号ノ出ルニ及ピ、ソノ意旨ヲ誤解シ、売買証文ナキモノ
ハ保証人ヲ立テテ出願セシメ、依ツテコレヲ民有トナシ、カツ民林ヲ多クスルハ政府ノ旨意
ルベシト誤認セルガ故一一、ソノ調査組漏一一流レ、証書、保証ノ真偽ヲ札スコトナク、イヤシ
モ願出ヅレパスナハチコレヲ民林トナシタリ。:::現今既一一民有ニ帰シタルモノ、山林
十一万三千町歩、草野大凡八万三千町歩、合ハセテ二十九万六千町歩トス。然レドモ官林官有
地ナホ大凡七十万町歩ヲ残シ、処分ノ杜撰ナリシニ対シテハ民林甚ダ多キニ至ラザリキ。然
所以ノモノハソモソモ亦故アルナリ。改租ノ時ニ当リ、人民狐疑シテ意へラク、官ヒソカニ多
ク民林一一セヨト勧ムルノ情況アルハ、宣山税ヲ重クスル意一一非ザルナキヲ得ンヤ、知カズ多
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明治初年岩手県が採用した山林原野民有方針は、民衆の側にまだ山林の自主的開発意欲ので
ないところに持ちこまれた政策であるだけに、眉につばをつけさせるような話であったこと疑
方有力者の聞に行なわれた闇取引である乙とに、まず注目する必要があると思われる。その上
にこの達の内容は、売買証書のあるべきことを強調し、あたかも証書さえ偽造すれば、証書上
の買受名義人が山林原野の所有者になり得ることを、明らかに示唆しているようなものである。
9・
との達が人民に対する布達でなく、戸長・副戸長・組総代に対する布達であり、むしろ県と村
岩手県の山林原野に関する民有地券の発行は、前記明治八年第二 O 号達に始まるのであるが、
たこと、当然想定せらるべきである。
六一頁以下参照 )0だが岩手県の場合には、それだけが唯一の理由ではなしに、他の理由もあっ
員聞の伺・指令・回答などは、とこでは省略するととにしておきたい(戒能通孝『入会の研究』二
について行なわれた官庁内部の往復文書、たとえば地租改正事務局と府県ならびに同局派出官
券税軽減の目的から代表者名で民有地券を受けるよう、むしろ奨励していたからである。これ
岩手県は、それでは一体いかなる理由によって、本来村持とすべき山林原野の大部分につい
て、村方有力者個人を所有者として表示する私有の地券をだしたのだろうか。私はその理由の
一部が、当時の吏僚の親切心からでていることを承認する。というのは、余りに多くの人名を
地券の上に現わすと、相続等のあるごとに地券の書換を必要とし、その都度最低五銭の証印税
(印紙税)を払わねばならない規則になっておったので、明治の吏僚もさすがに気がさして、地
を負っているのである。
もしくは数百名共有の名義で民有地券を発行すべきだったのに、山守・旧庄屋など村方有力者
一人を所有者として表示する地券を発行することがいかに多かったかを推測させるのであって、
のち岩手県で発生した山林紛争の大部分は、明治初年におけるこの誤った手続きに、その原因
」
調査並意見」にいわれる「一村ナイシ数村ノ共用ニカカルモノハ一己ノ私有トナルヲ便トセズ」
という箇所である。これを裏から読むならば、岩手県が山林原野官民所有区別の際、本来は村、
というよりも村民総体(もちろん世帯主に限られるのであるが)の名を一枚の地券に記載し、数
特に高くはならなかったがらである)。だが問題は、こうして県が民有申請を勧誘したことよりも、
民有地券の交付に当り、その所有名義を村方有力者一人もしくは数人とし、実は村持山林原野
の大部分を、個人所有形式にしている点に、さらに大きく現われる。すなわち前記「山林顛末
番安い下閉伊郡で十四銭八厘、小紫を含む二戸郡では七十二銭九厘であζり
の、
計算からいけば、山税は
られた地価は割合安く、一町歩につき全県平均で一円八銭七庫、一番高い紫波郡で三円四十五銭五鹿、一
えない(もっとも岩手県は、結果においてそれほど民衆をだましてはいない。というのは山林原野につけ
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山林ではなくして、山守株の売買証書のある場合、あるいは売買証書はかつて全然
僻地生活の一世紀
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数十年前に売買があったように仮装して売買証書を作ったもの、さらには村の人々が共謀して、
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の事例は千を越えていた)、とくに問題が起こらなければ、個人所有の民有地券が発行されていた
のである。それが明治十三年の調査では民有地二十九万六千町歩の大部分を占め、さらに明治
十五年の調査では五十一万百三十一町歩余に上る民有山林原野の大部分を占めていたのである。
後年岩手県で私有林野について訴訟が多発したととは自然である。岩手県自身、所有者の調査
をせずに地券をだし、民有申請を行なった旧山守や旧庄屋などを、所有者にしてしまったわけ
だから、彼ら本来の個人持私有地と、村山・村野としての一村総持民有地の区別ができず、山
林原野の価額が高くなるに伴って、名義的所有者が村山・村野まで私有地化し、村民の抗争を
ひきだす素地を作っていたのである。
小繋村所在約千六百町歩余の小繋山につき、明治十年五月、村の地頭(名子主)であるととも
に旧庄屋だった立花喜藤太名義で民有の地券が交付されたのは、岩手県が明治八年以来採用し
ていた県内山林原野民有化政策の現われにほかならない。明治十年ともなると、いくぶん岩手
県庁内の空気が変り、島県令の初期民有化方針に批判的な意見が生まれていたこと疑えない。
けれども先例は先例であり、小繋山同様の山林原野がすでに多数民有地にされていた以上、旧
来からの民有申請の分について差別取扱いをするとともまたできなかったことだろう。立花喜
藤太が、自己名義による小繋山の民有申請について村の重立衆の同意を得ていた
だが、彼らが正面切って県庁に苦情を持ちだしても、どの道それは駄目になる話、
村の明示または黙示の同意、そして恐らくは区長・伍長その他有力者連印の下
提出しているにちがいないと想像されるから、喜藤太は必ずや村方代表者たるの
小繋全山の所有者になったこと、疑いを容れる余地がないのである。
小繋山は旧来藩有地ではなかった。それは弘化年代の御山帳に記載された山林原
と、疑う必要がないというものの、「御山」の「御」は、「御百姓」の「御」と
的な「御」であり、「山」というのと同じであった。小繋の山を小繋村代表者が民
ある。隣村で同種の山が官有地に
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におかしなことでも何でもなく、ごく自然かつ普
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なったとて、小繋山が官有地にならねばならない理窟はなく、隣村は民有の申請をし
から官有地になり、小繋山は民有の申請をしたから民有地になったと解しても、
の手続上、少しも不思議はないのである。問題は要するに小繋の村山を喜藤太私
ことだけ、しかもそうした私有化が岩手県では一般的現象だったとするならば、当
的方針の下に所有者となったのである。少しもおかしくないのである。
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民を責めるのは誤っている。喜藤太は山守だったから所有者になったのではな
僻地生活の一世紀
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3 国内に作られた植民地
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いたったこと当然といってよい。だがそれにもかかわらず、鹿志村が「ほど久保山」を
売り込んだ後にあってすら(明治四十年十一月三村民が地租分担をしていることは
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名義と事実
小繋山の地租分担は、明治四十年二月、鹿志村亀吉が乙れを買い受けた後は、唆昧にな
いるようである。だが鹿志村は後述のように小繋山のうち「ほど久保山」約八百町歩を陸
に売却し、村民に交付すべき一万円ないし一万二千円を交付せず、村民から低利で借用
にかけて、小繋村民が地租分担に応じてきたことは明らかだった。
券を交付された耕地・宅地に関しては、旧時代以来の慣例とはちがってみずから直接に
他方小繋山に関する税金だけは、喜藤太を通じて納税する乙とになったのであって、地租
の効果は、まずそうした手続上の変化に現われていたのである。喜藤太が発行した小繋山
分担金の受取証書は、大部分保存されていなかったか、保存されていても大正四年の小繋
に際して焼失してしまったのであるが、現在でもまだ立花鶴松の分八枚、立花長之助の
立花長治の分三枚、計十三通が残っていて、少なくとも明治十五年八月から明治四十年
えば辛い話にちがいなかった。けれども田畑の地租納付を庄屋を通して行なうことは、旧時代
以来の慣例であって、そのこと自体だけを取りだすと、別に新しいことだったとはいえないよ
うである。いいかえれば小繋村民は、自己の私所有地であると認定され、各自につき民有の地
間五十銭足らずの地租をださねばならなくなったのは、現金の之しい小繋村にとり、辛いとい
ころがそれが民有にされたため、全村で毎年二十円前後の地租をだすことになり、各戸
小繋山は旧時代においては無税であるか、少なくとも無税に近いものだったようである。と
あった。
る地券を交付されているのである。それでは喜藤太が地券を交付された結果、何か
について起こったのだろうか。別に何の変化も起乙らなかった。ただ小繋山が民有
ため、地租(明治十年以降は地租は地券面記載の地価の三%から二・五%に下げられて
村民は喜藤太を通してこれを納付しなければならないことになったので、各自の
太方に持参して、喜藤太から受領証をもらうととになったのが、自につく変化といえ
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た小繋山が、五十筆に近い土地に分けられ、そのに
各ついて立花喜藤太が私有の確証とされ
頭立花喜藤太名義で民有の地券を授与された。旧時代には単に「御山」(くり返しいう
「弘化三年の御山帳に記載された山」という意味であって、藩有山の意味ではない)
明治十年五月、小繋山はこうして岩手県の明治初年の山林原野民有化の方針に従
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とにしているのであって、その意味からすれば鹿志村が村民に変って地租納付の義務を負うに
国内 11:作られた植民地
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に対する固定資産税)納付と土地所有とは、現在では全く別の話であって、法律の文面にお
さえ、一年の途中で土地を売却したものも、その年度の固定資産税を払わねばならないと
ているけれども、旧時代および明治初年当時には、納税すなわち所有であるとの観念が官にも
民にも動かせないほど根強く惨みこんでいたのであって、明治十三年八月三十日大審院判
明治十四年三月二日大審院判決など、これを認めた判決も明治初年には少なからず存在する。
小繋山は小繋村の村山だった。私はここではまだ「入会」という言葉を使わなくてもよいと
訴訟当時にも証明された事実であって、この点については別に争いがないのである。地
1
法津家、わけても検察官ならびに裁判官の一部である。所有権は、所有物を使用
村山・村野の使用・収益が、新土地所有者の出現にもかかわらず、従来通り続いてい
は、健全な常識を持つものならだれにもわかることである。ところがこの健全な常
理解できないか、あるいは故意に理解できないように装おうのは、大学で民法の講義
が小鳥谷村に合併され、その一大字になったのちも、ずっと続いていたのである。
両家も、少なくとも五十年以上以前から小繋の御神酒上げに参列し、小繋山に立
されていたのである。要するに小繋山は田子分、小繋分の二区に分れ、後者には村
名が入ることになってはいたが、所有名義のいかんにかかわらず、村外の数名を含
の管理する山であったことには変りがなく、この事実は明治二十一年の町村制によ
し、さらに字朴館(ホオノキダテ)のうち小繋に接近して開墾地を作った外谷円助・野刈
三郎方に隣合わせているところから、小繋山に立ち入って薪などを採取していたこ
考える。というのは、東北地方の用語例に従うと、入会とは一一ヵ村以上が同じ土地に立ち入っ
て木を伐り草を刈る場所のことをいうのであって、小繋山のように小繋村民だけが入っている
場所には、村山もしくは単に「山」ないし「野」といっていたからである。「山」とは土地に
大きな起伏があるところというよりも、むしろ「木の生えているところ」のことであり、「野」
とは平坦な土地というよりも、むしろ「草の生えている土地」の意味である。小繋山は、いう
までもなく、そうした山野である。小繋村のうち南部にある西田子、東田子両部落の人々と、
北部にある小繋(小字)、下平、新館林三部落の人々は、距離の関係上山入り箇所が決っていて、
双方とも無理に遠方まで薪や草を採りに入ってはいなかったようである。また小繋村外ではあ
るが、旧小鳥谷村のうち笹目子部落の笹目子鍋助・若子内成松の両名は、住居が新館林米国伝
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する権能であって、一旦所有名義を得たからには、所有者が任意にその所有物を処分
と当然ではないか。その権能が制約され、自己所有名義の山野について村の捉に従わねば
ないことは、所有権の性質に矛盾する。こうした物事の考え方は、法律家にはむしろ有り
であって、その考え方そのものが、入会の理解を常に妨げているのである。小繋事件もま
うした考え方に煩わされた。だからこそ五十年も訴訟が続いているのだが、実のととろこ
国内に作られた植民地
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ど誤った観念はないのである。
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叫掛川十円十
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所有権は、物に対する最も包括的な支配権である。けれども米は食えるが着る
布は着れるが食うととができないなど、所有権の対象になる物の性質に従って、支配の
違うのは当然のことである。それでは山の村にとって村山がどんな風に支配されるかという
らば、その山は結局建築用材・薪・木の実・きのこ・わらびなどを年々変りなく村民に提供
れるようにしておかねばならないのであって、村山に求められるとの性格が変らないかぎり、
昔の「小繋御山」が名目的に立花喜藤太私有の山に変っても、村山は村山以外のものとしてあ
ることはできなかった。明治十年五月の地券発行は、この意味で小繋山の性格に変動を与えた
わけでなく、また喜藤太・村民双方とも、そんなことは考えることができなかったのである。
然であった。
小繋山は喜藤太持ちになっても村山だった。そこには何の変化もなく、また変化のないのが
農民にも財産管理の力があった
山に依存する山村の農民と、海に依存する漁民の聞には、気持の上の類似点がいくらもある。
残念なことは、両者とも生産者ではなくて、自然が与えてくれる物を拾いとる拾い屋であ
とである。それはある面からいえば、彼らの性格をいちじるしく強くする。というのは、彼ら
が拾い屋であるかぎり、どうしても拾う場所を確保するために、漁区や村山をまもるにつき必
死にならねばならないからである。彼らの拾い屋としての弱点が、それにもかかわらず嫌にな
るほどあることは、もちろん否定できないけれども、それがいかにして克服され、生産者に変
っていくか、そこにこそ小繋事件の一面があるのである。
私は小繋事件に関しても、農民が拾い屋から生産者に転換しなければ、結局において勝てな
いと考える。だが当面の問題としては、小繋山に立ち入って、自然が与える建築用材・薪・栗
の実・桑・山繭・くるみ・きのこ・わらびなどをどうしても必要とする小繋部落の人々が、小
繋山の管理についてどういう立場をとらねばならないか、また土地所有名義が唆昧な「御山」
という名目から立花喜藤太所有に変っても、なぜ山を自己の物として旧来のままの管理を続け
ねばならなかったかを検討することにより、まず小繋事件発生の背景を取りまとめておこうと
のの一人である。
小繋事件の当事者が自力で小繋山の合理的開発利用計画を立てないかぎり、漁民が海からく
3
9
思っている。拾い屋の生産力は確かに低い。したがってこれを非難するのは容易だが、拾い屋
以外のものになるための精神と知能とが、だれからも与えられようとしなかった事実に着目し、
私は村山管理に関する伝統的な考え方の理解を何よりも痛切に検察庁および裁判所に求めるも
3 国内に作られた植民地
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る漁獲を当てにしなければならないのと同様に、山に生えている樹木・草などを当てにしなけ
ればならないのは当然だった。魚も草木もみずから作りだしたものではなく、自然が与えたも
のにほかならない。ただ海は広く果しがないことと、魚は何かのはずみである漁区にだけ集っ
て一挫千金の機会を与える可能性があるのに反し、山には一定の自にみえる区画があり、草木
の供給量に大体の平均値があって、特別に多くもならないし、特別に少なくもならないので、
その平均値を確保するために山林管理の条件を明らかにし、村民各自をしてそれを厳格にまも
らせねばならないことが、海よりも一層必要であるという点で、慣習ないし村極めが一層よく
発達しているといえないことはないのである。
しろ自然な話である。
官や裁判官に対しては、こうしたことがらは一種のバカバカしきを感じさせるにちがいな
だがその検察官もしくは裁判官も、学生としてロ!?法の講義を聴いた当時には、ロ
契約(条約も)を必ず儀式化し、儀式のやり方にほんの少しでも誤りがあると、その
らなくてもよいと考えていたことを教えられていたにちがいないのである。山林管理
認は、こうして普通には要式行為である。いわんやその変更にいたっては、もっと厳
行為であって、儀式を伴わない条件の変更が、何の拘束力をも持たないと考えられるのは
村山・村林の管理条件が、村民の習性化する程度まで身体に穆みこんでいなければな
ことの結果として、山の多い村落では、何かの意味でその条件を確認するための儀式
それを山の神の祭りというような形で現わすのが普通である。小繋で行なわれている
神酒あげ」と呼ばれる簡単な儀式、毎年旧三月二十五日・七月二十四日・九月二十九
にわたり、村内愛宕山や子安地蔵の境内に各世帯から世帯主もしくはその代人が集っ
一杯ずつ飲むという単純な寄合だが、厳粛に行なわれているのである。都市生活に
に決っているのである。
たら顔を洗って食事する。別に理論ではなしに慣習である。同様に山入りの道具を鎌だけにす
るか、詑や山万をも持参するかというようなととは、理窟ではなしに習性的慣習になっておら
ないと、山村管理の条件はなかなかまもられにくいわけである。山林管理条件は、との意味で
は何よりも習性化しておらないと都合が悪い。その習性化した条件を、不文の慣習のままに
ておくか、それとも「契約」・「村極め」などという文書にして、一年に何回か村民を集めて
み聞かすようにするかは第二次的な問題であって、何よりも大事な乙とは山の荒廃を防ぐ乙
入会の山野、あるいは村山・村林の管理条件は、とうして昔からその村、その部落の人々に
はほとんど自分の習性になっているという程度まで、身体で理解しているようである。朝起き
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0
村山・村林の管理条件には、沿革的にいえばだれか村の有力者が発案し、「お神酒あげ
の他の儀式を伴った寄合にかけ、その同意を受けて定まった人為的なものがあるかもわから
国内 IC('乍られた植民地
3
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ンであって、村民の異議を許さないほど強力でなければならないとの意味である。だがどんな
村山は村民総体の総有地である。ということは、村山の管理規則の廃止もしくは変更に
ては、提案者は予め対立が生まれないように諒解をとりつけておくか、あるいは非常なワ
まで、腕みあいを続けていかねばならないことになるのである。
総有ではなく、合有であると法学的には説明される。しかし一村限りの村山は、対立があるに
しても村対村の形をとらず、村内の人々が二派あるいは数派に分れ、解決がつくまで、もしく
は事件自体としては解決しても、感情の対立が残っている場合には、その感情的対立が治まる
であるとを問うととなく、儀式を伴った寄合に議題をかけ、全員の一致を得るととである。
村入会の場合には、こうした寄合が村別に聞かれねばならないから、甲村(甲部落)の意見と
村(乙部落)の意見が対立し、村対村の喧嘩になるととがあり得るという意味で、数村入
然のことである。ではその儀式化とは何か。それは数村入会の場合であると、一村限りの村山
こうして村山・村林の管理規則ならびにその確認行為まで外形化し、儀式化されているのが
普通である以上、その規則の廃止・変更がもっと強く儀式化されねばならないのは、さらに当
があるのである。
けでなく、違反者を簡単に発見できるという点で、抽象的な規則の立て方よりもはるかに効果
は実際上できないのであって、道具による山入りの制限は、実用的目的を十分に達成できるだ
なくスーパーマンには通用しない。しかしスーパーマンが滅多にない以上、鎌で木を伐ること
ないが、鈴は持っていってもよいという意味である。これらの道具による制限は、いうまでも
ぃ。だが人為的であるにせよ何にせよ、その条件を農民の習性化するには、農民に具体的に理
解できる形式で現わしておくことが必要である。たとえば農民に対し一定齢級以上の木は伐っ
てもよいが、それ以下の木は伐つてはいけないとか、直径何センチメートル以上の木は伐って
もよいが、それ以下の木は伐ってはいけないとかいったような法律家好みの表現は、実をいう
と全く通りにくい言葉である。それらは机上の言葉としては厳格だが、いざ実際になると暁昧
であり、少しも実用的ではないのである。その結果農民は、「刈る」のはよいが「伐る」のは
いけないとか、「伐刈ともに妨げなし」とかいうように、行動と結びつけて条件を現わすのが
普通である。「刈る」とは「鎌刈り」を意味し、鎌以外の道具を持って山入りしてはならない
との意味であり、「伐る」とは山万・鈴を用いて伐るととであり、のとぎりは持参してはいけ
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区別した。だが岩手県内における木材需要を推算すると、薪炭だけで「管内ノ全戸数ハ
千六百七十三戸(明治十二年一月一日調ニヨル)ニシテ、一戸ニ付一ヶ年ニ費消ス
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十万町歩に上る官有地と民有地を
岩手県も明治初年の山林原野官民所有区別により、
に物凄いワンマンでも(否、国家権力ですら)、適当な代償を提供せずに村山・村林を
村を離散させるととはできないのであって、提案には自然の限界があること言をまたな
国内に作られた植民地
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43
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,
拾六棚(壱棚ト唱フルモノハ縦六尺・横六尺)、又多数ト云フベカラズ」、ほかに「鉱山・製塩・
造酒・鍛治等ノ営業一一係リ費消スル薪炭ノ概略ハ四拾七万五千七百八拾棚」、こうした大量の
薪炭は正規の払下もしくは売買では供給できないので、「大抵盗伐過伐ヲ以テ支弁スルト見倣
サザルヲ得ズ」というのは、明治十四年七月二十二日岩手県令島惟精が農商務卿河野敏鎌宛提
だが他方において、全員一致主義が貫かれているならば、村民にとって致命的な
をすると、村八分的報復を受けることになるのである。
賛成したことだからその決議事項を破る乙とはできないのであって、もし
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そる
して一旦決議が成立すると、自分も
なしに決議を呑まねばならないととにさせられてい
力者層が談合すると、小百姓は自力ではその大百姓たちのしたことに反対で
「全員の一致」というと、少数意見の完全な尊重のようにみえるとはいうもの
ずしもそうでない。少なくとも小事についてはまずボス取引があって、村方の支
の一致を計っているのである。
ことは、渋々でも動議を認めねばならないというのであって、両者相合せるとと
ちださない乙とは村民を拘束できず、また内心反対でも儀式的寄合の席上反対発言が
乙の両者はもちろん不可分である。すなわち有力者だけ内々の約束をしておいて
山林原野の利用方法は、こうして国家ですら基本的には変え得なかった。いわんや国家より
弱体の村内有力者が名目的所有者になったにしても、村山管理規則の変更には、村民一同の同
意とともに、その同意を儀式的な寄合で確認させるという形式的手続が要るのは当然だった。
く当り前の話ではなかろうか。
断で建築用材や薪炭材などを伐りだすことは「盗伐」だったかも知れない(前記「開申」による
と盗伐量は正式払下量の二倍以上になるとされている)。だが農民からみれば土地の所有名義が官に
帰しても村山であることには変りがなかったから、農民はみずから自制して、伐出しに制限を
つけてきたのである。官が農民の山入りを禁ずれば、農民は山に火をつける。だが口で盗伐と
騒いでも、農民の立ち入りを認めていれば、農民は山を大事にし、自己の生活を保全する。全
る必要があったからである。岩手県の立場からみると、官有地に編入された山林から、官に無
わらず無事どうやら今日まで保続されてきた。なぜか。いうまでもなく農民に山林を保続させ
出した「山林法律編成方御諮問ノ義ニ付開申」にもみえている。岩手県の山林はそれにもかか
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4
させる ζとはできないし、また詐欺的な方法で動議を無理に通しても、決議がまじめにまも
できない。小百姓・名子など普段は顔もあげられない人々でも、自分を絞め殺す
とかいうかも知れないし、また彼らが何もいわなくても、彼らの代弁者として反
る人が通例出現するのである。動議の提出者は、それをなだめ、説得しなけ
圏内に作られた植民地
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れることはないのである。いいかえれば明示の、しかもある程度まで積極
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れぬと、決議違反者に対して効果のある制裁はできず、決議違反者自身の方も、違反行為
い乙とと意識するととはないのである。それでは村山の管理規則は成り立たない。村山の
な管理規則は、村民の習性としてなじんでいる旧来の規則を保守するか、あるいは全員の
4
み上げることができるのであった。
ではさすがに薪ストーブが入っている)、山にいけば薪だけは十分あり、どの家も家のま
房設備は不完全をきわめ、囲炉裏の煙は眼を痛めていたほどだったというも
心から一時間も一時間半もかかるところに居住して、荷物以下に電車に押しこま
になって職場にかけこまねばならない生活に比較して、どちらが貧しいかは考え
わからない。家は小さく汚ないが、小繋には何といっても空気がある。寒冷地で
をひろい、わかかや争かひやかか小を取り、萩を刈って馬を飼うという一
町歩、実測面積二千町歩をはるかに越す山林にかこまれておりながら、山林の新し
を発見し、他の人々を説得したり、ひっばったりする能力を持った人が現れなかったから
がいない。山林原野が二戸当り何十町歩とあるにしても、落穂拾いのようにして天産
ているだけでは、所詮なかなか豊かにはなれないものである。けれども山まゆをとり
事実だったようである。なぜか。小繋村数十戸の人々は、固有地を合わせて公簿面積千八
村民に説明し、全村民が異議なく ζれを了承しなければ、村民の山に対する収益を排除すζる
とができないのである。官がその立ち入りを「盗伐」とわめいても、地元の人々が心を合わせ
れば、「盗伐」はなお平気であって、現に岩手県自身、明治十四年当時においてすら、正規払
下げの二倍を越す材木が官有地から伐りだされていることを自認するほどだったのである。調
査不十分でなお二倍という。調査をよくすれば三倍・四倍になるのだが、農民の側からみれば
それは「盗伐」でも何でもなく、ごく普通の収益行為にすぎなかったのである。
小繋は貧しい人々の村である。それはいま始まζ
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でなく、昔から今日まで変りのない
けでなく、仮に官有地になっても同じであって、官有地になったら収益権がなくなることを
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用収益が続いたのは、右の立場からみれば当然であOる
それは小繋山が民有地になったときだ
した明示の合意によってこれを変えるしかないのであって、ここに村寄合の全員一致という
常に強固な原則が、全国どの村、どの部落にもしみ透っていたのである。
小繋山が旧南部藩時代の「御山」から、立花喜藤太名義の民有地に変っても、昔ながらの使
4
6
食事はヒエや粟やソパを食ぃ、着物はみすぼらしいというものの、せめても
小繋で需要されている薪の量は、明治十四年岩手県報告の「一戸平均二十六棚」
に低く、十五棚から二十棚程度のようである。これは家屋が山国にしては一般に小
しいのであるが、それでもなおわれわれの家庭ではなかなかできないぜいたくの
圏内に作られた梅民地
4
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にはけちけちせず、生活の拠りどころを囲炉裏に求めるような生活は、あくせくし
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は柵山梅八はもと立花梅八といって喜藤太の息子だが、喜藤太の子善次郎の妻ヒデの叔父村
権十郎らと共同して酒造業を始めようとし、それには一定の財産資格が要るととろから、喜
太の知らないうちに彼の印を冒用し、小繋山の所有名義を移し、事業がうまくいったらまた
記を返すつもりでやったのだとの説である。事情の詳細は、乙の口碑でもまだはっきりしない
ものがある。だが、どの道この取引は部落の人々には内緒で行なわれ、地租は相変らず部落
に小繋山を手離したとみるよりも、私はもう一つの口碑の方が信用できると思っている。それ
博労が若くなければできない商売だとしたならば、老齢の喜藤太が馬の売買に失敗したた
明治三十年には七十二歳、馬の売買はどうみても喜藤太には無理だった。
しい。喜藤太は明治五年当時の戸籍によってもすでに四十七歳になっていた。幕末から明治初
年にかけて村の地頭で通っていた喜藤太には、恐らく五十をすぎてから県内・県外をかけまわ
り、気力・体力ともに要る博労をする力はなかったにちがいない。明治五年に四十七歳とし
のような事件であった。村の口碑の一つによると喜藤太が柵山らに山を売ったのは、彼が馬の
売買に失敗し、その穴埋めのため売ったのだともいわれるが、乙の口碑は一種の誤伝であるら
明治初年の山林原野官民所有区別の当時、岩手県がいいかげんなととをして、村山・村野の
類につき、旧山守・旧庄屋らを所有名義人とする民有地券をだしたのが小繋事件の伏線だと
たら、その地券を受けた立花喜藤太が、明治三十年十一月十五日、小繋山全体を岩手郡巻堀村
柵山梅八、村山権十郎、山口清吉の三名に売買による移転登記したことが、その第一ラウン
ポスと陸軍と山地主
民が愚かなエゴイストであってよい時期はもう過ぎた。農民とそ日本で最も賢い頭と遅しい精
神を育てねばならないだけでなく、それ以外どうにもならない時期がきているのである。
小繋の闘争は、いままでのところ表面的には負けてきた。しかし表面的には負けながらも
内面的には一歩一歩勝ち進んできたのであって、いまではようやく対峠の一番苦しい段階
り抜けているようである。だが対峠から反攻に移り、いままで散々農民を痛めつけてきた
をして、農民の前に手をついて謝罪させるには、まだまだ多くのととを学ばねばならない。
きとまれてしまった。
を送らねばならないわれわれに対し、若干のノスタルジアを呼び起とすようである。小繋
しくはあるが静かであった。その静かさのなかに石が投げ乙まれ、農民は否応なしに闘争に
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8
人々に分担させていたのだから、部落自身登記の移転を知っていたとみるととはできないので
あって、部落が全くよい面の皮だったととだけは疑いない事実である。
3 圏内に作られた植民地
明治三十年、小繋山の所有名義が柵山ら三名に移ったのが、こうして何らかの実質的取引
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成果だったのか、それとも梅八が喜藤太の印を冒用して売買がないのに登記の名義だけを移し
たのかわからぬが、一度小繋山で味をしめた先例が生まれると、居食いのまま生活が次第に苦
ったこと、それは乙の山の時価が相当上り、金子にとって二千五百円の投資が有利な投資だっ
たことを示している。だが他方、明治二十五年頃、現在の国鉄東北本線が開通し、奥羽街道往
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谷村に合併され、その一字になっていた
来の貨客から駄賃づけ収入を失った小繋村(当時
す鳥で
はわからない。けれども彼が二千五百円で買い受けた小繋山は、その後きわめて有利に利用さ
れている。金子は小繋山を抵当に青森県の八戸商業銀行から五千円を借り受け、明治三十四
三月十四日、抵当権設定登記をしているが、それは自分で払ったらしく、同年十二月二十八
には抹消されている。小繋の広漠とした山野が銀行に対する抵当物件として五千円の担保に
の「村の人々との入り組んだ事情とはいかなることなりや」との質問に対し、「乙れは村の人
々が自由に乙の地所へ入り、自分のもの同様に草の刈り取り、薪伐り、放牧などをいたしおり、
私のものになってもほとんどその地所に手を入れずにいた関係であります」と証言していたと
とろをみると、小繋山が村山・部落山であるととを承知の上、買い受けたのだと推測しても、
恐らく誤りではないのであろう。金子は一体何のためこうした山を買ったのか、それはいまで
地裁で「該地所については村の人々と入り組んだ事情があった」と証言し、さらに裁判長から
言は得られなかった。だが金子は大正六年の第一回小繋訴訟に当って証人として出廷し、盛岡
喜藤太はかなり長生きしてはいるけれども、明治四十四年、九十一歳で死亡し、裁判上の証
ったであろうこと、当然推測できることである。
本来喜藤太の持山でないことを承知で買い受けている以上、彼なりに山の利用方法を考えて買
だけを預かっている村山までも売らねばならなくなっていたこと、他方金子は金子で小繋山が
家はこの頃にはすでに没落し、相当無理な条件で、いわば一種の信託的所有者として所有名義
をひたがくしにかくし、地租は部落から集めて金子方に持参しているところをみると、喜藤太
金子が小繋山を買い受けた事情はもちろんはっきりしていない。ただ喜藤太の方がとの取引
に移ってしまった。
百円だして山を買うととにし、登記はついに明治三十一年十一月七日、他所者の金子太右衛門
いことである。はたしてその翌年、明治三十一年十月前後になると、喜藤太は二戸町の金貸し
金子太右衛門に泣きついて、「義侠的に小繋山を買ってくれ」と申しいで、金子もまた二千五
しくなった喜藤太とその一族が、小繋山で金稼ぎをしようとする気になったのは、やむを得な
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のだが)の人々には、山はますます重要な生活の資源になっており、万一のときにはワラビの根
を掘ってでも食うことができる大事な地所になっていたこと疑えない。
喜藤太が小繋山を金子に売ったのち、小繋部落と喜藤太・金子聞に対立ないし衝突があっ
ととは、裁判記録にはでていない。けれども喜藤太が無断で部落の山を他所者に売ったこと
3 国内 11:作られた植民地
5
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部落にわかったら、いざこざが起こらないわけはなかったし、また山を買った金
では使えない山ではどうにもならないととの結果として、これを他に売却し、転売
たようである。
派手にすぎ、陸軍が金子から直接に「ほど久保山」を買ったのでは、汚職騒ぎが持ち上って売
買がどうなるかわからないことを懸念した銀行が、金子に売り込み運動から手をひかせ、万
の場合に備えたのではなかったろうか。七千円は当時はまだ銀行にとっても大金だった。金子
が売り込みに失敗した場合、一番困るのが銀行ないし銀行の貸付責任者であるかぎり、木内支
配人が躍起になってまだ弁済期もきていない貸金の督促をしたととも、無理からぬ事情があ
れたら小繋山を競売にかけるとくり返しいっていたことは、金子自身ならびに同銀行支配人木
内俊郎の法廷証言で明らかであるところからみても、乙の金の使途には何となくくさいところ
があると私には思えて仕方ないのである。銀行も金子が「ほど久保山」を陸軍に売り込み中で
ある乙とは知っていた。ところが銀行は返済期もきていないのに弁済を強要し、期日に遅れた
ら競売すると強調する。それをもし私なりに推測すると、金子の売り込み運動が泥くさい上に
商業銀行は弁済期(明治四十年五月三十一日)がまだとないのに七千円の返済を督促
当権設定登記をしていることは、「ほど久保山」J
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運動
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うである。金子はこの金を持って上京し、大事なときにも岩手県には帰っ
他方八戸
明治三十九年十月二十九日、金子がふたたび八戸銀行から七千円を借りだして、小
である。
つかみたい気になったのは自然である。その結果、話がどこをどう通ったのかいまでは不明
が、陸軍が岩手県内で軍馬育成所を探していることを聞きとんで金子太右衛門は、小
ち「ほど久保山」といわれている西田子七二番地の二、七百七十八町歩を陸軍省軍馬
売り、代金のうち金一万円を小繋部落に提供すれば、残額は自己のものにできるとの
りつけた。金子がのち法廷で証言したところによると、陸軍の軍馬育成所拡大は続いてお
小繋よりもっと悪い土地が一反歩四円で買われているところから、「ほど久保山」な
歩五月で売れる見込があり、部落に一万円与えても三万円前後の儲けがあり
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とである。だが小繋の人々も、一万円という夢のような大金の話にとうとうつられ、
に乗ってしまった。基地を作る、その代りに港湾、学校、公会堂:::。いまでもざらに
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当事者が公言していないから、事情はいまではつかめない。だがいずれにせよ金子もついに
あきらめて、明治三十九年末もしくは明治四十年の初めには、八戸商業銀行に小繋山の処分
任せたようである。そうなると銀行ははなはだ早い。木内支配人は八戸町黒沢万太郎、工
士の二人を使い、買い手を探していたところ、乙乙に登場したのは茨城県那珂湊出身の北
での成功者鹿志村亀吉という人だった。鹿志村は北海道でラッコ、オットセイの密猟をやり
国内 IC.('乍ちれた植民地
3
5
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儲けした人だといわれているが、のち小繋を根拠に朝鮮・満州でも手広く林業をしていたとこ
ろをみると、彼は漁業より林業で一山あてていたらしく、山林のことは小繋に乗りこむ以前か
ら相当詳しく知っていたにちがいない。
けたことも、証拠としては全くでていない。他方売主の金子もまた契約当時は東京にいたとい
い、契約条件の交渉はもちろん、契約書の作成にすら参加していないというのである。売買の
ことは銀行任せ、それで一万七千三百円の取引が成立したことは、二戸町の金貸しと北海道帰
りの一旗組の話にしては、少しばかり太っ腹にすぎるところが確かにある。
第二に代金が、ある意味では安すぎることである。岩手県の民有山林原野は、明治初年改租
の当時、地租賦課の基礎になる地価決定につき、地元民が予想したところより安く定められ、
全県平均で一町歩につき一円八銭八厘、二戸郡では平均七十二銭九厘に評価されていたけれど
も、この評価は、わけでも日露戦争後大幅に引き上げられ、十倍に上っていたというものの、
なお取引の時価よりもはるかに低かった。小繋山公簿面積千五百八十二町歩(最初の面積から鉄
道用地として日本鉄道会社に売った分だけが減っている)、地価は一町歩当り六円七十三銭程度であ
っても、鹿志村の代表者として長男清太郎が小繋に行ったのは、取引の終了した四月十四日の
ことであり、鹿志村が契約前に現地調査を行なったことも、植林について小繋部落の同意を受
行に寄託され、その結果、明治四十年二月十二日には金子から鹿志村に対する所有権移転登記
が、また三月九日には抵当権の抹消登記がそれぞれ行なわれているのである。
明治四十年一月の金子・鹿志村間で行なわれた小繋山の取引は、何だかえたいの知れない取
引のようである。第一に明治四十年当時の一万七千三百円といえば、感じとしてはいまの一億
円よりはるかに大きな財産だが、これだけまとまった取引をするに当り、鹿志村が現地に行っ
て小繋山の調査をした跡が全然ないのである。大正六年訴訟当時における鹿志村側の主張に従
一月二十七日、小繋山四十八筆に関する売買が成立し、代金一万七千三百円で売渡証書が作
成されていることは事実である。当時の山林地価は総計して一万六百六十円七十銭、そのうち
「ほど久保山」七百八十九町三反七畝二十五歩が二千七百円、他の四十七筆が合計して七千七
百六十円七十銭であり、明治初年の地価に比較して十倍くらいまで上っている。代金は即日銀
銀行や黒沢・工藤らが何といって鹿志村に説いたかはもちろんわからない。だが明治四十年
5
4
る。鹿志村が乙の地価の一・七倍弱で小繋山が買えたのは、時価による山林の取引ではなしに、
一種の冒険取引だったからにちがいない。すなわち小繋山には売主金子のいわゆる「入り組ん
だ事情」があって、自分の物でも自分の自由にはならないが、他方「ほど久保山」を陸軍に売
りこむ話が進んでおり、その売りこみに成功すれば、一万円を部落に渡し、差額を自分のもの
にできるとの事実である。鹿志村が一万七千三百円だして買ったのは、その利権であり、され
ばこそ鹿志村は小繋山の林相さえ調べずに、小繋山全部を金子から買うことにしたのである。
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が、登記代人に右の事情を話せといってやりました。
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裁判長証人が右地所を鹿志村に売る際、毛の上は共有である事情を同人に話したか。
金子そのことは鹿志村も承知のはずです。私はその当時東京に在住し、直接話しませ
ととを十分に暗示するものといえよう。
裁判長との間で次のような質問応答をしている乙とは、売買の目的が山でなく、利
も安心しておれるのであって、乙の点は後にあげる判決も別に否定していないのである。
けれども他方金子・鹿志村間で行なわれた小繋山の取引が、実は山の取引ではなしに、
ど久保山」を陸軍に売りこむ利権の取引であるかぎり、銀行が小繋山の性質から、金
省聞の話の進行状況を鹿志村に説明し、鹿志村もその事実を確かめた上で買い受けた
えない。明治四十年頃としては大金の一万七千三百円を払う話である。山をみず、地質を調
ず、地元民と話しせず、しかも一と財産ともいうべき代金を払うというからには、他に目
あるのは当然である。大正六年の訴訟当時(大正七年五月十四日付記録)、売主金子が盛
思っている。すなわち小繋山に関する立花喜藤太のような場合には、喜藤太は部落民総体の財
産としての小繋山を預かり、所有名義を貸しているだけにすぎないので、村民総体の同意なし
にその所有権を譲渡する権限なく、その譲渡は要するに他人の物の売買にほかならない。喜藤
太にも金子にも、小繋山は売ることができない。部落は登記上の名目的所有者がだれに変って
旨は、名目的に個人所有地であって、実質的には部落総持の入会地にも当然適用さるべきだと
それでは一体鹿志村は、小繋山が小繋部落の村山であることを知って買ったのだろうか。小
繋部落の立場からみれば、鹿志村が小繋山の性質を知って買ったか、知らずに買ったかは、ど
ちらでもよいことである。なぜならば入会権は登記がなくても第三者に対抗できること、明治
三十六年六月十九日および大正十年十一月二十一日の各大審院判決がとっている立場であるだ
けでなく、学説も一般にこれを支持しているのだから、所有者が変っても入会ζ権
と(
〉 村山たる
がなくなるわけはなく、従前通りの使用収益を継続できるからである。私はこれらの判決の趣
る。
にかかっていたのであって、山林としてみた小繋山の評価にはかかってはいなかったようであ
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理でない。金子が乙とでいった「登記代人」とはだれか、私の推測では八戸商業
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J 吟
小繋山全部を一万七千三百円と評価することは確かに安い。しかし陸軍との話が進んでい
はいうものの、陸軍が買うか買わないかまだ確定していないとき、一種の期待権取引に一
千円以上をだすことは、若干の冒険にはちがいなかった。価額の高低はその売りとみの可
L
訴訟記録のこの部分は、いまの裁判を傍聴したことのある人には奇異だと思う。
事なことを質問せず、裁判長が弁護士から予め提出されている質問要項によって質
のでは、靴をへだててかゆきをかくといったようなものであり、中途半端な対話に終
圏内に作られた植民地
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配人などのことであり、また金子のいわゆる「そのこと」とは、小繋山が村山だという事実
けでなく、「ほど久保山」売買についての陸軍省との交渉状況をも含むのだと考えるのである
が、関係者が死亡してしまった現在では、証言を求め得ないこと、まことに残念な話である。
売主の金子とて、自己に不利益な事情だけを「登記代人」にいわせるはずはあり得ぬし、また
それでは売買は成立しない。売買が実際成立し、契約書と引き換えに鹿志村が現金一万七千円
以上を銀行に寄託したというからには、それに見合う利益は必ずあり、そしてその利益とは
少なくとももう一押しだけすれば「ほど久保山」が売れ、四万円前後の代金が入る見込以外に
なかったのである。
農民のおとなしさが生んだ罪
一口乗ると、あとは何が起こるかわかったものでないのである。
はあるまいか。小繋の教訓は、こうしたところにも一つある。「手は手をまもれ」、汚れた話に
し、のちにひどい自にあったのだが、この種のことがらは、いまなお必ずしも絶無でないので
かめない理由にしているわけである。小繋部落の人々も、その汚れた行為を暗黙のうちに承認
である。小繋山がこんなことになったのは、もちろん小繋事件のスタートを悪くし、真相がつ
の運動費のことを詳細には語れない。いえば陸軍省からも怪我人が現われ、自分も傷つくから
ンフレがあり、その上に相当多額の売りこみ運動費を負担していたらしいからである。彼はこ
外儲けてはいなかったようである。明治三十一年から四十年までの九年間、日露戦争によるイ
四十年初、一万七千三百円で鹿志村亀吉にそれを売り渡した。利益は名目的には莫大だが、
こうして明治三十一年末、二千五百円で小繋山を買い受けた金子太右衛門は、九年後の明治
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ところで金子太右衛門から小繋山を買い受けた鹿志村側の主張によると、鹿志村は山林売買
のすべてが完了した明治四十年四月十四日、長男清太郎を小繋に派遣し、立花喜藤太方に字小
繋・字新館林・宇下平・宇東田子・字西国子の住民を招き、「係争土地等を金子より買受けた
るに付、今後造林に着手する旨披露した際、造林経営の必要上、部落民に対して生立木の伐採
を禁じ、ただ植林を妨げざる範囲にて草刈および放牧ならびに枯損木、枯枝、伐倒木の枝の採
取を許容し、その代価として部落民各戸より一ヵ年五人宛の人夫を被告鹿志村方に提供するこ
とを約せしめたととろ、全員異議なく乙れを承認した」と称している。この主張はいうまでも
なく書面によって裏付けられているわけでなく、また後年いわゆる鹿志村派になった部落民の
一部すら認めていないことなので、まさに鹿志村の片口である。だが一体こんなにも都合のよ
いことが、実際問題としてあるのだろうか。私はむしろその点とそ山地主としての鹿志村が、
部落民に対していかに偽証を強要していたかを、暗示する鍵だと考えているくらいである。
園内に作られた植民地
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~
小繋事件の最初の訴訟、すなわち後述大正六年の訴訟当時、鹿志村側のいう通り、人夫とし
て一年五人あるいは三人ずっ、一家から無償労働が提供された旨、証言したもののあるとと
鹿志村は山の取引が完結した明治四十年四月頃、自身で、もしくは長男清太郎を通じ、部
民に挨拶したにちがいない。だがその挨拶は、恐らく小繋山の名義上の前主金子太右衛門が
でなかったこと明らかである。
んなの邸宅とはいいながら、喜藤太方で一席ぶつだけで入会権を解消させるのは無理である。
いわんやこの席には、鹿志村側の主張を全部認めても、区長山本勘助ら村の重立ち衆は出席し
たことになっていないのであって、どこからみても部落民全体が入会権を放棄するような会合
買主鹿志村亀吉の意を受けて、その長男清太郎が明治四十年四月頃小繋に行ったとしても、
まず初めにしなければならないのは、部落民との接触である。農民、わけでも山村の農民は、
他所者には他所者であるという理由だけで警戒し、口をきかないのがいまでも普通のことであ
る。ど乙の馬の骨かわからない鹿志村清太郎なる人物が、小繋部落にとびこんで、いかに旧だ
ほどである。
とて、員のように殻を固くとじた農民がやすやすと応じるはずはなく、おとぎ話にもならない
太の旧名子若干が、山人足を昔通りだしていたことは事実かもわからない。だがそれにもかか
わらずとの種の人夫は、小繋山の火入れなど、山を保守するため部落にとって必要なことであ
り、所有者がだれに変ろうと、部落としてやらねばならないことをやったまでの話である。問
題はそうしたことでなく、鹿志村個人のために無償の労役奉仕が提供されたか否かであるが、
乙とをそんな風にみていくのは、どうみても虫がよすぎる話ではあるまいか。明治四十年四月
十四日当時、鹿志村は部落には全くなじみのない新顔であって、挨拶すらすんでいなかった。
その新顔が突如として村に現われ、造林するの、伐木するなの、人夫五人差し出せのといった
事実である。また鹿志村が小繋に邸宅を設けず、喜藤太方に居住していた当時において
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っていた軍馬育成所売りこみ運動の継続を誓い、「ほど久保山」が陸軍に買われたら、金子同
様に金一万円を部落に差しだすことを約束し、金子が部落に対して引き受けたことを再確認し
たのだといわねばならないようである。小繋部落には背も今も現金がなかった。そこに一万円
もだす人が出現した乙とは全く魅力的なことであり、表面はともかくも、内心は部落民を喜ば
すに足るのであった。そこで鹿志村が喜藤太や山本勘助、片野源吾ら部落の重立ち衆には個別
に諒解をとり、喜藤太を、おちぶれてはいたが、まだ「だんな」と崇める小百姓・旧名子らを
喜藤太方に呼び、酒一合、手拭一本程度の振舞で納得させたというのなら、もちろん筋の通っ
た話になる。農民がそれに対して反対しなかったこと、いまにいたってとやかくいっても遅す
ぎる。「ほど久保山」はその後わずかに一年内、鹿志村が小繋山の売買契約をした一月二十七日
から起算してさえも八ヵ月足らずの明治四十年九月十七日、陸軍省に軍馬育成所として買いと
国内に作られた植民地
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られ、同日登記が終るとともに代金の交付を受けている。
陸軍省は「ほど久保山」(岩手県二戸郡小鳥谷村字西田子七十二番地の二)七百八十九町三反七畝
二十五歩の代金として、鹿志村にいくら支払っているのだろうか。それを確定する一番直接か
っ正確な方法は、陸軍省が鹿志村から受けとった「ほど久保山」代金の受領書もしくはその写
しを提出させる乙とにちがいなかったのではあるけれども、なぜか裁判所はその提出を命じて
いない。それは陸軍が「ほど久保山」買収価額を公表することにより、他の同種の土地買収に
支障をきたすことを恐れたため、裁判所に提出方を拒否したのかもわからぬし、あるいはその
他の理由によったのかもわからない。だが裁判所は大正六年の訴訟当時から正確な買収代価を
明らかにしようとせず、小繋部落内の証人により、伝聞として知ろうとしているため、直接の
証明はいまではできない。証人になったのは次の三名、必ずしも正確でないかも知れないこと
残念だが、陸軍省側の記録のなくなった今日では仕方のないことである。
第一番目の証人立花佐太郎は、喜藤太方の分家であり、原告の一人になった人物だが、彼に
よれば鹿志村が「ほど久保山」の代金としていくら受けとったか不明だが、「部落から鹿志村
に対して一万円だけは寄越してもらいたいと交渉したと乙ろ、一万円の金はやるが、金をやれ
ば使ってしまうから、こっちで預かっておくということでありました。その期間は十年であり
ました。証書は棚山半治が取ったかも知れぬが、火災(大正四年)の際焼失したかも知れません」
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ありました。それは今より十三年ばかり前のことでしたが、鹿志村亀吉、山本幸吉、棚
あったか。
閉その山を中山軍馬補充支部に売却する際、鹿志村亀吉らが証人方に集り相談したことが
答知りおります。
問証人は「ほど久保山」を知りおるか。
というのであって、まことに頼りない言明しかしていない。すなわちこの種の言明を通して推
察すると、喜藤太の分家や旧名子は、喜藤太家没落後もまだ部落では一人前に取り扱ってもら
うことができず、大事な相談はしてもらえないのみか、結論として一万円の支払い交渉があっ
たことだけを知らされていたにすぎないことを知り得るのであって、そうした重立ち衆の押し
つけが部落の結束を弱めていたこと、いうまでもない事実である。
次いでこの点に関する第二番目の証人は、喜藤太の息子亡善次郎の妻ヒデであり、同人と裁
判長聞の質問応答は、次のような形で訴訟記録にも残っている。
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山半治、立花市太郎、立花寅松ら五、六人が私宅に集り相談したのでしたが、私が
敷において襖越しに聞くところによれば、その山を三万五千五百円で売渡したとのこ
代金は鹿志村が受け取りました。その山は村の山ゆえ、その売却代金のうち一万二
村にやって村には何の関係もないことにして、さらにその一万二千円を鹿志村にお
答
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より借受け、その利息を支払う代りに鹿志村が山に植林するとのことでありました。
閉その話はだれかいったのか。
答襖越しに聞き、私がその座敷に行ってみないから、だれがいったかわかりません。話声
でもわかりません。
閉その山が村のものなら、なぜ売却代金のうち一万二千円だけしか村に渡さぬのか。
答それはわかりません。残金をどうしたのかわかりません。
彼がいったのは次の通りの言葉である。
の指導者であるとともに、鹿志村の背信を憤り、全財産を棄てた人、それだけに彼のいうこ
は単純なでたらめとだけは考えられないようである。大正七年七月二十日の盛岡地裁法廷で、
証人といえるから、真偽のほどは確定できないが、証言をしたのは小堀喜代七、大正六
「ほど久保山」売渡代金に関する第三番目の証人は、乙の流説に関する証人であって、伝聞
伴って、鹿志村はもっとずるいことをしたとの評判まで立っていた。
熱心だったかを暗示する)、そして立花市太郎、米田又次郎の両名は大正六年訴訟当時、鹿志村側
の切り崩しにあって前者は鹿志村ともども被告の立場をとり、後者は訴訟から逃げてしまった
ので、証言そのものが得られないことである。ヒデの証言にはその結果直接の裏づけが欠けて
いる。だがヒデの証言と同旨のことは部落中に知れわたったととであり、その上時間の経過に
とは行ったのだが、途中で退席して話をきかず、後日米田からヒデ証言通りの話をきいたにす
ぎないこと(乙の点もまた福地警部補調書にでているのであって、警察がいかに鹿志村のため民事訴訟に
山本幸吉は部落民の一人米田又次郎に誘われて喜藤太方に同居中の鹿志村のところに行ったこ
立花ヒデはこの証言をしたために、のち大正十一年十二月二日、岩手県福岡警察署福地警部
補から半ば拷問的取調べを受け、証言を変え、偽証を認めるよう強制されている。けれども作
成された福地警部補調書によれば、右の証言は、「事実をありのままに申し上げたはずであり
ます」というのであって、警察側の希望した証言の変更は得られなかった。警察がなぜ証言の
変更を求めるようになったかの事情は後述するが、しかし民事訴訟に警察が介入し、偽証の自
認を要求したにもかかわらず証言が変らなかったとと自体、少なくとも要旨において右のよう
なことがあった事実を示している。大正十一年十二月十一日の福地警部補調書は、その意味で
ヒデの証言を裏書きするものであり、彼女が自分の考えで虚偽の陳述をしたのでないことの傍
証とみることが十分できる。残念なのは立花喜藤太だけでなく、ヒデの証言中に名前がでてい
る柵山半治、立花寅松(寅松が大正六年訴訟の発案者であることは後述する)が死亡しているとと
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「鹿志村は育成所に四万七千円で売り払いましたが、しかし同人より内一万六、七千円は金
子にやることにしであったとのことですから、その一万六、七千円を金子にやり、また部落民
二万円をやることにせば、自分には残らぬことになるので、鹿志村は部落民に対しては三万
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千円で育成所に売ったと嘘をいい、部落民にやるべき金を年五分の利息で自分に預けてくれと
申し、その代りに部落の者などには木を植えてやると約し、その約定書を作ったとのことです。
然るにその後、約定書が火災で焼失したので、それをよいことにして、小繋山はおれの山だと
いいだすにいたったのであると、山本勘十郎らから聞いたのであります」。
小堀喜代七が訴訟のため産を投げ、身を苦しめ、家族にさえ安住の地を失わせながら小繋部
D
だがこの種の調査不備の責任は、小堀が負担すべ
落民を助けたのに、陸軍省が「ほど久保山」買収代金として鹿志村民いくら支払ったか、正確
な調査をしていなかったことは遺憾である
きものなのだろうか、それとも事件を引受けた弁護士が負担すべきものなのだろうか。小堀は
その頃まだ弁護士布施辰治とは出会っていない。事件を引き受けたのは金子亀次郎という弁護
士であって、正直のところあまり頼りになれそうな人ではなかったようだ。小堀がこの弁護士
を真の相談相手と考えず、万事独力で片づけようとしたのは、事情仕方なかったとはいいなが
ら、何としても失敗だった。大事な訴訟には信頼できる顧問が要る。小繋にそれが欠けていた
ととは、出足を悪くする原因の一つだったこと争えまい。
「ほど久保山」について陸軍省が支払った代金が、三万五千円だったのか、四万七千円だっ
たのか、陸軍省がなくなり、書類の分散・廃棄された現在では、恐らく確かめる道がないだろ
う。だが鹿志村自身、一万七千三百円だして売りこみ利権を買ったこと、鹿志村の前主金子に
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しでも、小繋山の売却をみずから希望したわけでなく、債権者八戸商業銀行から強要されて
却したことを考えてみるならば、「ほど久保山」は恐らく金子の想像していたように、反
一町歩当り五十円、七百八十九町歩として、恐らく四万円前後には売れたにちがいない。
村がそのなかから前金として金子に支払った分、彼自身若干の運動費をだしたかも知れな
と、さらに部落の重立ち衆にいくらかの口ふさぎ料は払ったかも知れないから、彼自身の
に残ったのは、二万円以下だったとも想定できる。けれども鹿志村が部落に交付すべ
を交付せず、植林の約束で預かったことは事実であるらしく、部落の人たちはそ
の山に木を植えるつもりで、無償で働きにでたのである。
時価三億円とも五億円ともいわれる小繋の杉ならびに唐松人工林の始まりは、まさに
といえばいえようが、こうした考え方があれば乙そ、部落の人々は不平もいわず、植林に
だしたのである。明治四十年前後には、東北本線開通のため、奥羽街道の貨客も跡絶
ら追い、山子にしてしまうであろうとは念頭に浮ばないところ、人を信ずること
有地になるという観念はなかった。鹿志村は「ほど久保山」を陸軍に売りこんで何千
ている上に、一万円を部落から植林費用として預かった。彼がその上に欲ばって、農
起原を持つのである。部落の人々にとって、「ほど久保山」を除いた残りの四十
積七百九十三町歩、実測千町歩、恐らく千二百町歩をはるかに越える山林が、鹿
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114li
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上もっと悪いことには馬商売の捕りもすぎている。かつては南は沼宮内、北は福岡(ともに小繋
から二十キロくらい)あたりまで馬をひいて駄賃をもらっておったのに、その駄賃収入もなくな
ってしまったから、植林は格好な仕事であった。山は部落のもの、植林費一万円はあり、その
上に鹿志村氏は造林の腕があるといっている。「ほど久保山」が売れてホッとしたというのが、
部落の人々の偽らない気持だったにちがいない。
あるらしい。
なかった。「価値ある男になる機会を放棄した男」、「利巧馬鹿」の典型が鹿志村亀吉という人で
軒なみ百万円農家にした上に、自分は尊敬され、五百万、一千万の年収を保障されるのは夢で
みても五百町歩なら十五億、三十年を一期に輪伐するだけでも、年間組収入は五千万円になり、
搬出は秩父の山から東京に持ちこむよりも問題にならないほど容易である。一町歩三百万円と
小繋は杉の適地である。その上に国鉄駅はすぐ傍にあり、国道も横にあるのであって、木材の
私は小繋の駅に立ち、もし鹿志村が部落を裏切らず、村の森林技師として奉仕していたらど
うなっていたろうかと考えた。小繋山の人工造林地は、小繋全山のわずか一割か一割五分、目
測したところせいぜい一割二分程度であって、あとはただ天然の雑木山になっている。ではな
ぜ八割五分以上、九割近くまで造林ができないかといえば、鹿志村が大正四年の小繋大火を境
に、小繋山は自分の山だといいだしたからである。鹿志村は小繋山の所有権を主張することに
よって、部落の人々を立ちすくませたが、同時に自分も立ちすくみ、造林できなくなっている。
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ある。
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鹿志村が「ほど久保山」を除いた小繋山全部の所有権を主張するかぎり、小繋山には一割二
分程度しか造林はできない。もし全山に造林し、林保護のため部落民の立ち入りを禁じたらど
うなるか。薪もとれなくなった人々は、いまは鹿志村についているにせよ、明日は鹿志村邸に
火を放ち、鹿志村とその家族とに抱きついて火中にとびこまねばならないようになるのである。
それを避けるには天然の雑木林を多く残し、鹿志村のいわゆる盗伐が行なわれでも損にならな
いように食いとめておかねばならない。バカげた話だが、これはいうまでもなく事実である。
私欲、それは私欲にとっても敵なのではあるまいか。私は小繋でそれをしみじみと感じたので
問内 1 1: 作られた植民地
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