3<学問とは> 学者の仕事は芸術家のそれとまったく違った運命のもとに

3<学問とは>
学者の仕事は芸術家のそれとまったく違った運命のもとにおかれている。というのは、
それは常に進歩すべく運命づけられているのである。これに反して、芸術には進歩という
ものがない。すくなくとも学問でいうような意味の進歩はない。ある時代の芸術品が新し
い技術上の手段や、またたとえば遠近法のようなものを用いているからといって、こうし
た手段や方法の知識を欠く作品にくらべてそれが芸術として優れていると思うのは間違い
である。正しく材料を選び、正しい手法に従っているものでありさえすれば――いいかえれ
ば、こうした手段や方法を用いてなくても、主題の選択と制作の手続きにおいて芸術の本
道をいくものでありさえすれば――それは芸術としての価値において少しも劣るものでは
ないのである。これらの点で真に「達成(エルフュレン)」している芸術品は決して他に取
ってかわられたり、時代遅れになったりするものではない。もとより、作品の評価は人に
よって様々であろう。だが、真に芸術として「達成」している作品について、それが他の
同様に「達成」している作品によって「凌駕」されたとは、だれもいうことはできない。
ところが、学問の場合では、自分の仕事が 10 年たち、20 年たち、また 50 年たつうちに
は、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上
の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。たと
えこれと同じ運命が他の文化領域内にも指摘されうるとしても、学問はこれらのすべてと
違った仕方でこの運命に服従し、この運命に身を任せるのである。学問上の「達成」はつ
ねに新しい「問題提出」と意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れと
なることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければなら
ない。もとより、学問上の仕事がのちのちまで重んじられることもありうる、たとえばそ
の芸術的性質のゆえに一種の「嗜好品」として、あるいは学問上の仕事への訓練のための
手段として、しかし、学問としての実質においては、それはつねに他の仕事によって取っ
てかわられるのである。このことは――、繰り返して言うが――たんにわれわれに共通の運
命ではなく、実にわれわれに共通の目的なのである。われわれ学問に生きるものは、後代
の人々がわれわれよりも高い階段に到達することを期待しないでは仕事をすることが出来
ない。原則上、この進歩は無限に続くものである。かくて、われわれはここで学問の意義
はどこにあるかという問題に当面する。というのは、この運命の下に置かれている学問と
いうのが、いったい有意義なものであるかどうかは、決して自明ではないからである。事
実上終わりというものを持たず、またもつことの出来ない事柄に、人はなぜ従事するので
あろうか。
(マックス・ウェーバー著 尾高邦雄訳『職業としての学問』より)