源 氏 物 語 と き の こ 小沢 晴司 結論から申し上げれば、かくなるお題を掲げ てはみたものの源氏物語には直接「きのこ」を 表す語はみられないようです。 世界的古典「源氏物語」が書かれたことが初 かん こう めて記録にあらわれたとされるのが寛 弘 5 年 (西暦 1008 年)の 11 月。2008 年はそれからち ょうど千年目になるとして、京都を中心に「源 氏物語千年紀」と称し様々な行事が企画されま した。折しもその秋京都府立植物園では関西菌 類談話会との共催事業で第 17 回「きのこ展」が 開催されるので、僭越ながらブームにあやから んと「源氏物語ときのこ」の解説パネルを展示 することをもくろみました。 さて源氏物語にはどのようなきのこが出てく るか、それはどのような場面で用いられるのだ ろうかと好奇心を携え、訳本や原本にあたる真 摯な研究姿勢にはこだわらず(このような労力 を惜しむ生半可な作業が後述するような禍根を うむので反省しないといけないのですが) 、 ただ ちに松谷茂京都府立植物園長や山本淳子京都学 園大学教授など京都で活躍中の源氏物語研究者 や源氏物語にでてくる植物に知見のある有識者 などにたずねました。 「きのこ、でてきたかなー。なかったのとち ゃうか。 」 「源氏物語には食事風景もほとんどないし、 料理にもきのこはでてこなかったのでは。 」 専門家の見解にひれ伏し、源氏物語の中での きのこ探しはすぐに放念。 廣江美之介「源氏物語の庭」などによれば源 氏物語には海藻やシダなどを含めて 100 を超え る植物の名が見出されるようですが、しいたけ やまつたけなどきのこの名は報告されていませ ん。平安時代にきのこが知られていないという こともないのになぜ紫式部は源氏物語の中でき のこに触れなかったのか、そのあたりの事情を さぐりながら展示パネルの内容をまとめられる 12 千葉菌類談話会通信 25 号 / 2009 年 3 月 沈香:香老舗松榮堂にて撮影.標本は 21×12×4.5cm. かしらん。 早速、小川真「マツタケの生物学」等の書籍 をあたれば、源氏物語より時代は少し下るもの もろとき の、宇治拾遺物語の中納言師 時云々の物語で怪 しい僧が演じる芝居の種明かしの中に松茸の語 が用いられていることなどの紹介があり、平安 時代きのこは隠語として公では避けられる言葉 だったのではとの論がありました。きのこでは ありませんが、土佐日記や平安時代に成立した さいばら と考えられる宮廷歌謡催馬楽に記述される、 ほ や すしあわび さだお 老海鼠や鮨 鮑 、栄螺などの海産物の語が肉体 の一部の隠し表現ではとの説もあるようであり、 その形状から隠語に用いられる動植物名が古い 時代から知られていて、公の表現で「たけ」な どきのこの語がはばかられたとの推察はありえ るかもと合点。が、源氏物語千年紀に因み源氏 物語ときのこのつながりを解説するのにこの分 野に深入りすると雅な雰囲気から遠ざかるおそ れも。紫式部ご本人もきのこが隠語なので源氏 物語で使いませんでしたと記録を遺しているよ うでもなくこの方面での探求からも身を引くこ とにしました。そこできのこを含めた菌類全般 に視野をひろげて無理にでも源氏物語との接点 をさぐることにします。 光源氏が様々な姫君と会うときなど香立つ様 が描かれますが、助川ひろみ「沈香騒動記」や、 中村祥二「香りの世界をさぐる」によれば香の じんこう 一つ沈 香の生成過程で樹脂が生じる際、ヒダナ シタケ類の関与がある場合や、樹脂が沈香の成 分を醸成させるのに麹菌の仲間が関わっている ことの記載があります。振り返れば周知のとお り沈香木は東南アジア等熱帯諸国のみに産し日 本では得ることができません。源氏物語などに も描かれる日本の伝統文化の一つ香の芸道等は、 熱帯の森林環境がなくては成立しないのです。 いにしえ 恐るべし 古 からの地球的規模の国際交流の 事実。 もう一度廣江美之介「源氏物語の庭」をみれ ば、源氏物語の中で身分の高い登場人物が青い 衣服をつけている場面があり、その青は麹菌の みやび うで、 雅 の情景の中にきのこの影を追うばか りです。 注釈 住吉社:大阪市内の古い神社。江戸時代まで、社 のあたりは白砂青松の浜辺だったという。 蔵 人:天皇の秘書的役職。官位五位以上に許さ れる御所清涼殿への昇殿が、蔵人は六位 でも許された。 麹塵色:中国で麹菌は黄系色の天子の色をあらわ すが、日本では緑がかる。 麹 菌:日本で普通に存在し酒の発酵にも利用さ れる。子嚢菌に属するがきのこ(子実体) は作らない。 沈 香:東南アジアのジンチョウゲ科の樹木内に 生化学的な作用等でできた香成分をたく わえた部分。 きくじん 色である麹 塵色であるとの記述もありました。 きくじん つるばみ この、麹 塵色とされる青白 橡 色について、 平安期の法令集「延喜式」では刈安草、紫草、 灰、薪を用いて作るとされていますが、麹菌の 作用があるということまでは書かれていません。 なお、昨年府立植物園のきのこ展に展示したパ ネルでは、早まって麹菌が麹塵色を作ると表現 し展示してしまいました。遅まきながら当日ご 覧になりました方々ほか関係の皆様へ反省と修 正をご報告させていただければと思います。 みおつくし さて青い衣服について源氏物語 澪 標 の帖 に描かれる箇所は次のとおりです。 「松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らした ると見ゆる表の衣の、濃き薄き、数知らず。六 くろうど 位のなかにも 蔵 人 は青色しるく見えて… すみよししゃ (住 吉 社 の浜の松原に、まるで花紅葉のよう に様々な色の衣服を来た者達がいる中、六位の 蔵人は青の服で目立ち…) 。 」 す ま 京都での権力争いから一時須磨に身をひいた 源氏が、やがて京に呼び戻され、内大臣に昇進 し、多くの従者をつれ住吉社へ参詣する場面で あかし す。かつて須磨から明石に移った源氏と恋仲に なった明石の君も、 この日参詣に来ていました。 が、より立派になるかつての恋人に気付かれぬ よう、彼女は立ち去ります。かくのごとく、源 氏物語には直接きのこを表す語は見られないよ 参考文献 小川真(1978) マツタケの生物学,築地書館 廣江美之助(1980) 源氏物語の庭,城南宮 松川仁(1980) キノコ方言原寸原色図譜,東京新聞 山崎青樹(1985) 草木染染料植物図鑑,美術出版 中村祥二(1989) 香りの世界をさぐる,朝日選書 助川ひろみ(2000) 沈香騒動記,千葉菌類談話会通信 16 号 17 号合併号 奥沢康正(2003) キノコを薬と副食にしたかかわりの歴 史,日本菌学会会報第 43 巻第 3 号 4 号合併号 藤本宗利(1997) 源氏物語の「食ふ」,源氏研究第 2 号 翰 林書房 福田邦夫(2005) すぐわかる日本の伝統色,東京美術 小沢晴司(2008) 源氏物語と京都御苑の森,京都御苑ニ ュース 99 号 吉岡幸雄(2008) 源氏物語の色辞典,紫紅社 ウェブサイト 源氏物語の世界 渋谷栄一, http://www.takachiho.ac.jp/~eshibuya/ 青色あれこれ,有職装束研究会 綺陽会, http://www.kariginu.jp/kikata/iro-ao.htm 協力:香老舗 松榮堂 ------------------------------------------------本稿は関西菌類談話会・京都府立植物園主催第 17 回き のこ展 2008 パネル展示内容を修正、加筆したもの 千葉菌類談話会通信 25 号 / 2009 年 3 月 13
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