始皇帝期の避諱 ―里 耶 秦 簡 J1⑧ 461簡 「 更 名 扁 書 」 A20・ A21の 解 読 ― 渡邉英幸(愛知教育大学) 里 耶 秦 簡 J1⑧ 461簡 は 、 遷 陵 県 の 官 吏 が 統 一 前 後 の 用 語 ・ 用 字 の 改 訂 を 一 覧 に し て 掲 示 し た 「 扁 書 」 と 考 え ら れ て い る [1]。 以 下 、 こ れ を 「 更 名 扁 書 」 と 呼 ぶ こ と に し よ う 。 公 的な用語や用字の規定は、秦の国制や観念を反映している可能性が高く、類い稀な史料 的価値を有する。すでに游逸飛氏の包括的研究をはじめ、張春龍・龍京沙、胡平生、邢 義田ら諸氏がその内容に検討を加えており、解明された点は少なくないが、なお検討を 要する部分も多い。ここで取り上げる条文も従来その意味が正確に解読されていない。 以下に私見を提示し、大方の批正を仰ぐとともに、学界の注意を喚起したいと考える。 「更名扁書」は上下二段に分けて用語や用字の規定を箇条書きで示している。ここで 取 り 挙 げ る の は 、 上 段 の A20「 曰 產 曰 族 」 [2]と A21「 曰 五午曰 荆 」 の 二 条 で あ る 。 游 逸 飛 氏 は A21条 に つ き 、「 曰 A 曰 B 」 の 構 文 を 「 故 稱 A 、 今 稱 B 」 の 意 味 と し 、「 五午」 を 「 楚 」 と 通仮関係にある異体字と解釈して、 「 楚 」か ら「 荆 」へ の 改 称( 避 諱 )と 理 解 し て い る [3]。 「 荆 」 が 荘 襄 王 の 諱 「 楚 」 の 避 諱 字 で あ っ た こ と は 夙 に 知 ら れ て い る 。 し か し 「 五午 」 を 「 楚 」 の 異 体 字 と す る 解 釈 に は 疑 問 が あ り 、 さ ら に A20条 の 「 產 」 か ら 「 族 」 へ の 変 更 の 実例は全く認められず、後述のように里耶秦簡ではむしろ「產」字の方が有意に用いら れている。したがって「曰A曰B」を「故稱A、今稱B」の意とする解釈は誤りである。 他 の 諸 氏 も 概 ね 「 A → B 」 の 改 称 と 解 釈 し 、 A21条 に 対 し て 各 自 の 解 釈 を 提 示 し て い る が [ 4 ] 、 や は り A 20 条 「 曰 產 曰 族 」 の 方 は 全 く 説 明 で き て い な い 。 こ れ ら は 「 曰 A 曰 B 」 を 「A→B」の更名規定と早合点したために陥った誤解であると考えられる。 ではこの両条はどのように解読すればよいのであろうか。実はこの「曰A曰B」構文 は 、た だ 一 つ の 想 定 を 加 え る だ け で 、驚 く ほ ど 容 易 に 解 読 す る こ と が で き る 。そ れ は 、 「A」 ・「 B 」 両 字 以 外 の 、 第 三 の 文 字 か ら の 用 語 改 訂 の 可 能 性 で あ る 。 ま ず A 2 0条 「 曰 產 曰 族 」 を 解 読 し よ う 。「 產 」 と は 何 か 。 周 知 の よ う に 「 產 」 は 秦 簡 に お い て 「 生 」 と 通 じ 、「 う む ・ い き る 」 等 の 意 味 で 使 用 さ れ て い る 。 実 際 、 里 耶 秦 簡 で も 「 產 」 字 の 使 用 例 が 既 発 表 分 で 24例 認 め ら れ る [5]。 と こ ろ が 興 味 深 い こ と に 、 里 耶 秦 簡 では、その同義字である「生」が今のところ一字も確認できない。この用字の特異さは、 時期的に先行する睡虎地秦簡と比較することで一層明らかとなる。すなわち睡虎地秦簡 で は 「 う む ・ い き る 」 等 の 意 味 で 「 生 」・「 產 」 両 字 が 混 用 さ れ 、 と く に 「 生 」 の 用 例 が 圧 倒 的 に 多 か っ た [6]の に 対 し 、 里 耶 秦 簡 で は 、 全 て 「 產 」 字 に 統 一 さ れ て お り 、 例 え ば 人 間 の 「 生 き 死 に 」 を 表 現 す る 場 合 で も 、「 死 産 」 な る 一 見 奇 妙 な 表 現 が 使 用 さ れ て い る ( J 1 ⑧ 534・ 894な ど )。 こ う し た 用 字 傾 向 の 偏 差 は 、 戦 国 後 期 の 秦 で は 問 題 な く 使 用 さ れていた「生」という文字が、統一前後を境に、少なくとも公文書の領域から消失し、 代 わ っ て 「 產 」 字 の み が 専 ら 使 用 さ れ る よ う に な っ た 事 実 を 物 語 っ て い る [7]。 次 に 「 族 」 で あ る 。 先 の 「 生 → 產 」 を 念 頭 に 置 け ば 、「 產 」 で は な く 、 や は り 何 ら か の 別字からの呼び換えではないかと推定される。この推定に基づいて文献・出土文字資料 を 通 覧 す る と 、「 族 」 と ほ ぼ 同 義 で 、「 生 」 と 全 く 同 音 通 仮 関 係 に あ る 字 と し て 、「 姓 」 と い う 字 が 浮 か び 上 が っ て く る [8]。 -1- こ の 推 定 を 導 く 根 拠 と な る の は 、 や は り 睡 虎 地 秦 簡 で 使 用 さ れ て い た 「 姓 」 が [9]、 統 一 以 後 の 秦 簡 で 消 失 し て い る 事 実 で あ る 。 周 知 の よ う に 統 一 秦 は 始 皇 二 十 六 年 、「 た み 」 を意味する呼称として「黔首」を採用したが、これは統一以前の用語の「百姓」を呼び 変 え た も の で あ る 。 実 際 、 睡 虎 地 秦 簡 で は 「 百 姓 」( 資 料 a .)、 龍 崗 秦 簡 ・ 里 耶 秦 簡 で は 「 黔 首 」 が 使 用 さ れ て い る ( 資 料 b .。 張 家 山 漢 簡 で は 「 民 」)。 さ ら に 漢 代 史 料 で は 人 の 姓 を 「 姓 ○ 氏 」 と 記 載 す る こ と が 通 例 だ が (資 料 e.・ f.) が 、 興 味 深 い こ と に 里 耶 秦 簡 で 〇 は 同 様 の 事 例 を 「 族 王 氏 」( 資 料 c.) と 表 記 し て い る 。 こ れ は 「 姓 」 と 書 く べ き と こ ろ を ○ 「 族 」 と 表 現 し た 事 例 で あ ろ う 。 同 様 に 『 奏 讞 書 』 案 例 三 「 南 、 斉 国 族 田 氏 」( 資 料 d.) ○ も 、「 姓 田 氏 」 の 意 味 で あ り 、 秦 の 用 字 例 を 踏 襲 し た 表 現 で あ っ た こ と が 判 明 す る 。 以 上 の よ う に A20「 曰 產 曰 族 」 は 、「 產 と 曰 ひ 、 族 と 曰 へ 」 と 読 み 、「〔 生 を 使 用 せ ず に 〕 產を使用し、族を使用せよ」の意味であったことが判明した。それでは次に、従来の研 究 で 解 釈 の 割 れ て い た A 2 1 「 曰 五午 曰 荆 」 を 改 め て 考 え て み よ う 。 A 2 0 の 検 討 結 果 を 踏 ま え れば、当該条も表記されていない何らか別の字からの呼び換えを定めたものであった可 能 性 が 高 い 。そ れ は 何 か 。や は り「 楚 」字 以 外 に あ り 得 な い と 考 え る 。ま ず「 荆 」は「 楚 」 の 避 諱 字 と し て 周 知 の 文 字 で あ り 、「 荆 と 曰 へ 」 と は 「〔 楚 を 使 用 せ ず に 〕 荆 を 使 用 せ よ 」 の意味であること、ほとんど疑いを容れないであろう。 で は 「 五午 」 と は 何 か 。 こ こ で 想 起 す べ き な の が 、 戦 国 ・ 秦 漢 期 の 「 楚 」 が 、 長 江 流 域 から淮水流域・泗水流域を含むきわめて広大な地域を指す概念であり、しかもその範囲 が 時 期 と と も に 転 移 し て い た 事 実 で あ る 。 例 え ば 『 史 記 』 貨 殖 列 伝 に は 、「 西 楚 ・ 東 楚 ・ 南 楚 」 と い う 地 域 概 念 が 見 え て お り 、「 東 楚 」 に は 東 海 ・ 呉 ・ 広 陵 が 含 ま れ て い る [10]。 こ の 事 実 と 、 先 の A 2 0の 検 討 結 果 を 踏 ま え る な ら ば 、「 五午 」 は 「 楚 」 で は な く 、 陳 偉 氏 や 張 春 龍 ・ 龍 京 沙 両 氏 が 想 定 す る よ う に 、や は り「 呉 」で あ っ た と 考 え る べ き で あ ろ う [11]。 言うまでもなく「呉」とは、戦国楚が最後に拠点とした長江下流域の地域的呼称である。 つ ま り「 五午と 曰 へ 」と は 、秦 が 戦 国 末 に 征 服 し た 長 江 下 流 域 を 、征 服 前 の 自 称 で あ る「 楚 」 と は 呼 ば ず に 「 五午( 呉 )」 と 呼 称 せ よ 、 と 定 め た 条 文 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 お そ ら く は 広 大 な 旧 楚 領 の 中 で も 、 淮 水 流 域 の 陳 を 含 む 西 部 を 「 荆 」、 長 江 下 流 の 東 部 を 「 五午( 呉 )」 と 呼 称 し た の で あ ろ う 。 補 う な ら ば 「〔 敢 へ て 楚 と 曰 ふ 毋 れ 。〕 呉 と 曰 ひ 、 荆 と 曰 へ 」 と なる。 以 上 の よ う に A21「 曰 五午曰 荆 」 は 「 五午→ 荊 」 の 呼 称 変 更 で は な く 、 簡 文 に 現 れ て い な い 「 楚 」 と い う 字 の 使 用 を 禁 止 し 、 こ れ に 替 え て 「 五午( 呉 )」・「 荆 」 二 字 を 使 用 を 義 務 づ け た規定であったと考えるべきである。 ○ ○ a. 上 節 ( 即 ) 發 委 輸 、 百 姓 或 之 縣 就 ( 僦 ) 及 移 輸 者 、 以 律 論 之 。」 49 ( 睡 虎 地 秦 簡 『 效 律 』 第 49簡 ) 〇 〇 b. 啓 陵 鄉 廿 七 年 黔 首 將 □ 大 男 子 一 人 ( 里 耶 秦 簡 J1⑧ 233) c. 宂 佐 上 造 臨 漢 都 里 曰 援 庫 佐 宂 佐 年 卅 七 歲 ○ 為無陽衆陽鄉佐三月十二日 族王氏 凡為官佐三月十二日 ( 里 耶 秦 簡 J1⑧ 1555正 第 一 欄 ) ○ d. ● 今 闌 曰 、南 齊 國 族 田 氏 、徙 處 長 安 、闌 送 行 取( 娶 )為 妻 、與 偕 歸 臨 菑 、未 出 關 得 。 它 如 刻 ( 劾 )。 ( 張 家 山 漢 簡 『 奏 讞 書 』 案 例 三 、 第 18- 19簡 ) -2- ○ e. ● 状 辭 曰 公 乘 居 延 中 宿 里 年 五 十 一 歳 姓 陳 氏 ( 居 延 新 簡 E.P.T68:68) ○ f. ● 用 神 龜 之 法 以 月 鼂 以 後 左 足 而 右 行 至 今 日 之 日 止 問 」 直 右 脅 者 可 得 姓 朱 氏 名 長 正 西 (下略) ( 尹 湾 漢 簡 YM6D9A) 以 上 の 考 察 に 大 過 な け れ ば 、「 更 名 扁 書 」 A 20 条 は 「 生 」 の 使 用 禁 止 と 「 產 ・ 族 」 両 字 の 使 用 を 、A21条 は「 楚 」の 禁 止 と「 呉 ・ 荊 」の 使 用 を 定 め た 条 文 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 いずれも禁止対象の文字を表記しない、すなわち当該簡牘上でも忌避が徹底されている 点に特徴がある。忌避の理由は何であろうか。それはやはり避諱であった可能性が高い と考える。とくに後者の「楚」の忌避は、疑いなく始皇帝の父親・荘襄王の諱を避けた ものであっただろう。問題は前者である。現存する秦代史料には、始皇帝の周囲に「生」 なる諱を持った近親者が確認できない。少なくとも、彼の祖父や曾祖父の諱でなかった こ と は ほ ぼ 確 実 で あ る [12]。 で は 一 体 、 誰 の 名 で あ っ た の か 。 この疑問に答えることは難事だが、手がかりはある。それは里耶秦簡の文書史料から 浮かび上がる避諱の原則である。里耶秦簡では、始皇帝在位中の年月表記では「正月」 を使用し、二世皇帝治世では「端月」が使用されている。この事実は、始皇帝本人の諱 「正」が生前は避けられず、死後に避けられていたこと― すなわち秦代の避諱は死後 避 諱 が 原 則 で あ っ た 事 実 を 示 し て い る [13]。 こ の 原 則 と 、「 生 」 の 忌 避 が 睡 虎 地 秦 簡 で は 徹 底 せ ず 、 里 耶 秦 簡 に 至 り 徹 底 し て 避 け ら れ て い る 状 況 か ら 推 測 す れ ば 、「 生 」 と は 、 (1)荘 襄 王 の 死 去 よ り も 後 、 (2)統 一 よ り も 前 に 死 去 し て い た 、 (3)荘 襄 王 と 同 じ く 始 皇 帝 の 尊 属 に 当 た る 近 親 者 の 諱 となる。この条件に合致する人物は始皇帝の母親帝太后(秦王政十九年死去)だけである [ 1 4] 。 然 り と す れ ば 、 私 た ち は こ の 「 更 名 扁 書 」 の 出 現 に よ り 、 こ れ ま で 不 明 で あ っ た 始皇帝の母親の諱を、はじめて突き止めたことになる。 以 上 の よ う に 、 始 皇 帝 治 世 下 に お け る 「 生 」・「 楚 」 の 忌 避 [15]と い う 事 実 が 判 明 し た 。 「始皇、死を言ふを悪む」とは著名な説話だが、実際には「死」ではなく「生」が忌避 さ れ て い た こ と に な る 。 こ の 事 実 は 、 文 献 資 料 の 史 料 批 判 [ 1 6] や 、 重 要 語 句 の 解 釈 に も 影 響 を 及 ぼ す 可 能 性 が あ る 。 な お 本 稿 は A2 0 ・ A 2 1 条 の み を 取 り 上 げ て 概 略 を 示 し た も の だ が 、「 更 名 扁 書 」 全 体 お よ び 相 関 問 題 を 含 め 、 近 日 中 に 定 稿 を 公 表 し た い と 考 え る 。 注 [1 ]張 春 龍 ・ 龍 京 沙 [ 2009]、 胡 平 生 [ 20 09]、 游 逸 飛 [ 2011]、 邢 義 田 [ 2012] 参 照 。 簡 は 幅 広 の 木 版 上 に 上 下 二 段 に 分 け て 箇 条 書 き が 並 ん で お り 、Aは 上 段 、Bは 下 段 を 示 す 。 文字はあまり上手には見えない。胡平生氏は正式な詔令・文書ではなく、県吏が各種 の 詔 令 ・ 文 書 か ら 抄 録 ・ 掲 示 し た 名 称 変 更 の 彙 編 で あ り 、「 扁 書 」 と 称 す べ き も の と す る 。 な お 簡 牘 番 号 は 当 初 8- 4 55 号 と 報 告 さ れ て い た が 、『 里 耶 秦 簡 ( 壹 )』 の 簡 番 号 は J1⑧ 461と さ れ て い る 。 以 下 、 本 稿 で は 『 里 耶 秦 簡 ( 壹 )』 の 番 号 に 従 う 。 [2]「 族 」。 原 釈 文 は 「 疾 」 と す る が 、 陳 偉 主 編 [ 2012] 157頁 の 字 釈 に 従 い 改 め る 。 [ 3]游 逸 飛 [ 2 011 ] 95頁 参 照 。 游 氏 は 「“ 楚 ” 与 “ 五 ”、“ 午 ” 皆 属 魚 部 韻 、 亦 可 通 仮 」 と する。しかし「五」と「午」の同音通仮は確実としても、肝腎の「楚」との通仮事例 が示されていない。韻が同じというだけで「楚」と見なすのは根拠が薄弱である。 -3- [4]例 え ば 張 春 龍 ・ 龍 京 沙 [ 2009] は 陳 偉 氏 の 意 見 を 引 き つ つ 「 五午」 を 「 呉 」 と 解 釈 し 、 「 秦 以 “ 荆 ” 称 “ 楚 ”、 簡 文 意 爲 呉 地 亦 称 荆 」 と 述 べ る 。 ま た 邢 義 田 [ 2012] は 「 五午」 を 「 啎 」 と 解 釈 し 、 顔 師 古 の 「 逆 也 」 と い う 訓 詁 (『 漢 書 』 嚴 延 年 伝 注 ) を 引 き 、 戦 国秦は楚国を貶めて「啎」と呼称していたが、統一後に楚を悪言する必要がなくなっ た た め 「 荆 」 に 呼 び 換 え た の だ と 論 じ て い る 。「 五午 」 字 の 解 釈 は 意 見 が 分 か れ て い る が 、 当 該 条 を 「 五午」 か ら 「 荆 」 へ の 呼 び 換 え と 理 解 す る 点 で は 選 ぶ と こ ろ が 無 い 。 [5]里 耶 秦 簡 の 既 発 表 分 で は 、「 產 」 字 が 2 4 例 ( J1⑧ 100、 ⑧ 461、 ⑧ 486、 ⑧ 490( 3 )、 ⑧ 495( 4 )、 ⑧ 501、 ⑧ 519、 ⑧ 534、 ⑧ 537、 ⑧ 793、 ⑧ 894、 ⑧ 918、 ⑧ 984、 ⑧ 1020、 ⑧ 12 84 、 ⑧ 1 4 10 、 ⑧ 1 45 5、 ⑧ 1 86 6、 ⑧ 22 14 ) 確 認 で き る 。 こ れ に 対 し 、「 生 」 字 は 今 の と こ ろ 一 例 も 確 認 で き な い 。 同 じ 統 一 秦 期 の 律 令 を 含 む 龍 崗 秦 簡 で も 、「 生 」 は 見 え ず 「 產 」 の み が 1 例 用 い ら れ て い る ( 第 38簡 )。 [6]睡 虎 地 秦 簡 に お け る 「 生 」・「 產 」 両 字 の 使 用 状 況 は 下 表 の 通 り 。 篇名 「生」 「產」 編年記 1 5 秦律十八種 6 ― 法律答問 9 3 封診式 1 1 爲吏之道 ― 1 日書甲種 132 3 日書乙種 117 ― 合計 266 13 *語書・效律・秦律雑抄には用例確認できず [7]最 近 公 表 さ れ た 岳 麓 書 院 蔵 秦 簡 ( 第 三 分 冊 ) の 裁 判 案 例 『 為 獄 等 狀 』 四 種 に お い て も やはり「生」ではなく「產」が用いられているようである。ちなみに張家山漢簡でも 「 產 」 の 用 例 が 多 い が 、『 奏 讞 書 』 に は 「 生 」 字 が 一 例 確 認 で き 、 漢 が 秦 の 用 語 を 継 承しつつも、再び「生」字を使用しはじめたことを示す。 [8]「 生 」 と 「 姓 」 の 通 仮 は 先 秦 ・ 秦 漢 期 の 文 字 資 料 に あ ま ね く 確 認 で き 、 ほ ぼ 同 字 と 言 っ て よ い 。 秦 の 青 銅 器 銘 文 で は 春 秋 中 ・ 後 期 の 宋 出 秦 公 鐘 (『 殷 周 金 文 集 成 』 270) に 「 萬 生( 姓 )是 敕 」の 用 例 が あ り 、漢 初 の テ キ ス ト で は 馬 王 堆 帛 書『 十 六 経 』・『 老 子 』 乙 本 、銀 雀 山 漢 簡『 孫 子 兵 法 』・『 孫 臏 兵 法 』、張 家 山 漢 簡『 蓋 廬 』な ど に「 百 生( 姓 )」 の 事 例 が あ る 。 白 於 藍 [ 2012] 746~ 747頁 を 参 照 。 [9]睡 虎 地 秦 簡 の 「 姓 」 字 は 全 部 で 1 4 例 、 す べ て 「 百 姓 」 の 熟 語 で あ る 。 [10]『 史 記 』 貨 殖 列 伝 に 淮 北 ・ 陳 ・ 汝 南 か ら 江 漢 平 原 を 「 西 楚 」、 彭 城 以 東 の 東 海 ・ 呉 ・ 広 陵 を 「 東 楚 」、 衡 山 ・ 九 江 ・ 江 南 ・ 豫 章 ・ 長 沙 を 「 南 楚 」 と す る 認 識 が 見 え る 。 [ 1 1] 張 春 龍 ・ 龍 京 沙 [ 20 09]。 案 ず る に 「 五 ( 吾 )」 と 「 呉 」 と の 通 仮 は 金 文 資 料 に 実 例 が あ り 、 攻 敔 王 光 剣 (『 殷 周 金 文 集 成 』 11654・ 11666)は 「 呉 」 を 「 敔 」 に 、 攻 敔 王 夫 差 剣 (『 集 成 』 116 37・ 11 638 ・ 11 639 ) も 「 敔 」 も し く は 「 五攵」 に 作 る 。「 五 」・「 吾 」 は 疑 い な く 同 音 通 仮 字 で あ る ( 白 於 藍 [ 2012] 239頁 )。 従 っ て 「 五午」 は 「 敔 」 と 同 音 で 、 恐 ら く 「 呉 」 の 別 字 体 で あ っ た 可 能 性 が 高 い 。 た だ し 張 春 龍 ・ 龍 京 沙 [ 2009] が 「呉」から「荊」への呼び変えのごとく解釈している点には従えない。 -4- [12]因 み に 始 皇 帝 の 祖 父 孝 文 王 の 諱 は 「 柱 」、 そ の 父 昭 襄 王 の 諱 は 「 則 」 も し く は 「 稷 」 と 伝 え ら れ て い る 。『 史 記 索 隠 』 秦 本 紀 武 王 四 年 ・ 昭 襄 王 五 十 六 年 条 を 参 照 。 [ 1 3] 秦 ~ 漢 初 の 避 諱 に つ い て は 生 前 避 諱 説 ( 李 学 勤 [ 19 81]・ 劉 殿 爵 [ 198 8]・ 影 山 輝 国 [ 2005]・ 来 国 龍 [ 2008]) と 死 後 避 諱 説 ( 龐 樸 [ 1977]・ Mansvelt Beck[ 1987]・ 鶴 間 和 幸 [ 2001]) と が 対 立 し て い る 。 既 発 表 分 の 里 耶 秦 簡 で は 二 種 類 の 正 月 表 記 が あ り 、 「 正 月 」が 32例( 確 認 紀 年 は「 廿 九 年 」~「 丗 五 年 」)、「 端 月 」が 3 例( J1⑥ 3「 元 年 」、 ほか紀年不明2例)確認できる。前者は始皇帝の治世下、後者は二世皇帝の治世下の ものと推定される。これは始皇帝の生前はその諱「正」が避けられていなかったこと を 示 し 、 龐 樸 ・ Mansvelt Beck・ 鶴 間 和 幸 ら 諸 氏 が 論 ず る 「 卒 哭 而 諱 」( 生 前 は 諱 ま ず 、 死後に諱む)の原則に合致する。 [14]そ も そ も 礼 制 で は 子 が 親 の 諱 を 避 け る 場 合 、 亡 父 の み な ら ず 亡 母 の 諱 を も 避 け る こ と が 原 則 で あ っ た 。『 禮 記 』 曲 禮 上 に 「 卒 哭 乃 諱 。 禮 不 諱 嫌 名 、 二 名 不 偏 諱 。 逮 事 父 母 則諱王父母、不逮事父母則不諱王父母。君所無私諱、大夫之所有公諱」とある「卒哭 乃諱」が、父のみならず母の諱を含むことは文脈から明らかである。これに秦漢時代 の 女 性 ( 母 親 ) の 地 位 が 後 世 に 比 べ 相 対 的 に 高 か っ た と す る 「 母 の 原 理 」( 山 田 勝 芳 [ 19 97]・ 下 倉 渉 [ 20 01 /2 0 05]) の 指 摘 を 合 わ せ 考 え る な ら ば 、 後 世 の 例 と は 異 な る ものの、秦代に皇帝の亡母の諱が避けられていた可能性は否定できないと考える。 [15]た だ し 関 沮 周 家 台 秦 簡 の 医 学 書 に 含 ま れ る 第 344簡 や 、 岳 麓 書 院 蔵 秦 簡 『 占 夢 書 』 第 6 ・ 1 6簡 な ど に は 「 生 」 の 使 用 例 が あ る 。 ま た 睡 虎 地 秦 簡 で も 、『 日 書 』 で は 「 楚 」 字が避けられていない事実が早くから指摘されてきた。これらは、避諱が定められる (すなわち対象者が死去する)以前に書写された書物であったか、私的な蔵書のため 書き換えが徹底されなかったものと考えられる。公的・私的な書物における避諱の別 に つ い て は Mansvelt Beck[ 1987]、 影 山 輝 国 [ 2005]、 来 国 龍 [ 2008] 参 照 。 [16]例 え ば 『 史 記 』 秦 始 皇 本 紀 三 十 四 年 、 李 斯 が 焚 書 を 進 言 し た 著 名 な 言 説 中 に 「 百 姓 」 や「今諸生」などの語句が見える。こうした用字は、少なくとも当時の記録そのまま ではなかった可能性が高い。ただ、言うまでもなく用字例のみでこの言説自体の史料 的価値を論ずるのは危険であろう。 【参考文献】 (日文) ・ 下 倉 渉 「 漢 代 の 母 と 子 」、『 東 北 大 学 東 洋 史 論 集 』 第 8 集 、 2001年 同 「 秦 漢 姦 淫 罪 雑 考 」、『 東 北 学 院 大 学 論 集 ( 歴 史 学 ・ 地 理 学 )』 第 39号 、 2005年 ・ 鶴 間 和 幸 『 秦 の 始 皇 帝 ― 伝 説 と 史 実 の は ざ ま 』( 吉 川 弘 文 館 、 2001年 ) ・ 山 田 勝 芳 「 中 国 古 代 の 「 家 」 と 均 分 相 続 」、『 東 北 ア ジ ア 研 究 』 第 2 号 、 1997年 (中文) ・ 白 於 藍 編 著 『 戦 国 秦 漢 簡 帛 古 書 通 仮 字 彙 纂 』( 福 建 人 民 出 版 社 、 2012年 ) ・ 陳 松 長 「 秦 代 避 諱 的 新 材 料 ― 岳 麓 書 院 藏 秦 簡 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MANSVELT BECK, "The First Emperor's Taboo Character and The Three Day Reign of King Xiaowen: Two Moot Points raised by the Qin Chronicle unearthed in Shuihudi in 1975." T'oung Pao( 通 報 ) LXXIII, Leiden, 1987 -6-
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