《夫・髙田三郎を語る》 髙田留奈子先生講話「祈りのまち・長崎からいただいたもの」 2009年3月 22日 長崎・カトリックセンター大ホール 典礼聖歌の合宿でお話するのは※注1今回で3回目になります。初めから3回とも来ていらっしゃるグルー プもおありになりまして、本当に皆さま熱心に参加して下さって、有難い、と思っております。 そして今回は、長崎の色々な合唱団の方、学校の先生、かなり有力な方もいらして下さっていると伺っ ておりますので、私はまず先に、夫は長崎と本当に深い縁がございまして、今日ここで典礼聖歌のお話を するということを、本当に夫は喜んでいると思います。それですから初めちょっと、長崎で夫がした色々 な事を話したいと思っております。 平成2年でございますが、ここ、※注 2 カトリックセンターで、夫は、典礼聖歌の講演と実習をいたしまし た。私も一緒に来たのでございますけれども、その時、夫は、そのすぐ前に※注3初めてイスラエルの巡礼に まいりまして、そこで3世紀に発見された本当にキリストが架かった十字架を見ました。その感動をここ でお話ししたという事を、今もはっきり憶えております。 ※注 4 「十字架賛歌」というのがございまして、※注5復活祭の前に※注6聖週間という時があるのでございます ....... が、そこでその歌が歌われます。夫は、その聖十字架を見た時に「あゝ、十字架賛歌を作ってよかった」 と、ここで、涙ながらに、もう、感涙にむせびながら話したという事を、今でもよく憶えております。 そして長崎の地というのは、古い徳川時代の※注7あの迫害の頃から密かに信仰を守っていらした隠れ切支 丹という方が、ずーっと信仰を守っていらっしゃいまして、そして、午後、演奏して下さる浦上と大浦の 教会は、プティジャン神父様が※注8隠れ切支丹を発見なさって、そこで再会の喜びがあったという、古い古 い伝統がありますし、日本のカトリックの中心といっていいところでございます。 それですから、ここはながーい迫害に耐えての信仰を守っていらしたという、その習慣というか、その 伝統がありますので、ここではちょっと他とは違う信仰を皆さん持っていらっしゃるように感じておりま す。 神様がいらっしゃるという事は空気のようにあたりまえ。生まれてすぐ洗礼を授けていただいて、女の 子が生まれるとマリア様にお捧げしようと親が思って、※注9ここの修道院にはたくさんの修道女が入ってい らっしゃいます。 また、ある神父様は「僕は神父になるのはあたりまえだと思って育ったよ」と仰しゃるように、東京と か、そういう都会では「修道院に入るって言うと大変、親が反対したりする訳ですけれども、ここは古い 古い素直な、神様はやさしい、守って下さる、大切な存在として、ずっと根づいて来た訳でございます。 そういう事が、夫が典礼聖歌を作るうえに、また、信仰の上に本当に為になったと申しますか、色々と エピソードがございますので、ちょっと、ひとつふたつお話ししましょう。 ※注 10 「お告げの祈り」というのがあるのです。今回はなさいませんが、朝の6時、12 時、夕方の6時と、 「お告げの祈り」というのをいたしますが、それを夫が作曲いたしましたのですけれども、その初演は、 ここ長崎の「お告げのマリア会」というところでいたしました。そういう懐しい想い出もございます。 また、色々な修道院、ことに女子修道院からお招きをいただきまして、何回も典礼聖歌のお話をいたし ましたが、ある時、長崎純心聖母会のシスター達の為にお話するように呼ばれました時のことですが、※注 11 『主の祈り』というのがございます。昔のことばで言いますと「天にましますわれらの父よ」というそれ 1 でございますが、それを、シスターがたは毎日機械のようにくり返してくり返して習慣的にとなえていら した。そこへ夫が「主の祈り」の歌い方、そのことばのひとつひとつに込めた作曲の思いをお話した時に、 ... あとであるシスターがお手紙を下さいまして、 「今まで、 空(から)念仏みたいにただ称えていました...もった ... いないことをいたしました。 」というお手紙をいただいたと申しまして、夫は大変喜んでおりました。 それから「お告げのマリア会」にも何回もお呼びいただいたのですけれども、そこのシスターがたは、 畑仕事もなさったり、本当に普通の生活をしていらっしゃる、そういう姿に、夫は、マリア様という方は .... 今私たちが御絵や御像にみるような栄光に輝くマリアとしての姿ではなくて、ほんとうに普通の方で、 ※注12 エジプトまでイエスを抱いて逃げていらっしゃった、身体も丈夫なしっかりした女性で、地味で目立た ない方。まさに、こちらのシスターがたにその姿を発見いたしまして大変感動いたしました。そしてこれ は典礼聖歌ではございませんが、女声合唱曲の※注13『マリアの歌』というのを作ったのですが、その時、こ の長崎での皆様からいただいた印象が本当に役に立っております。 シスターがたは夫によくお手紙を下さいまして、 「先生のためにお祈りしております。 」と、必ず結びに はお書き下さいます。私は、いつでしたか「あなたみたいに祈られた人がいますか?」と言ったのですね。 そうしたら主人は怪訝な顔をしますので「ベートーベンやバッハだって、そんなにあなたみたいに祈られ て、あの名曲を書いた訳ではないでしょ」と言ったことがありますが、ほんとうに、この典礼聖歌を作っ てまいりましたその源流と申しますか、一番の源(みなもと)に隠れて流れているのは、この長崎の素直な 古くからの信仰だと思います。 けれどもまたそれは一面、あまりにこちらの信仰は慣れていらっしゃるというか、あたりまえでしらっし ゃるし、また、長い間、迫害に耐えて密かに守っていらっしゃる事が多いようです。それですから、あま り、ここから日本全国にむかって、典礼聖歌の運動とか、そういう事はございませんでした。 また一方、この男声合唱による典礼聖歌合宿。回を追うたびに皆様が増々真剣に深くお歌いになる。そ れですから、今日の午後の演奏会を、長崎の方がお聴きになって、やはり典礼聖歌とはこういう風に味わ って、祈って、深く、心から歌うものだという事を、きっと分かって下さると思います。 そういうわけで私は、今回の集まりは今までの合宿とは違って、また、別の意義があるのではないかと 思います。 そして、この夫の典礼聖歌について限られた時間、ちょっとお話いたしますけれども、これは※注14「第2 バチカン公会議」という会議がございまして、今まではラテン語で唱えていたミサを、各国語でしてもい い、という事になった時に、その祈りのことばの作曲を司教団から夫が命じられた訳でございますが、夫 はちょうど、※注15 イザヤという預言者が、神様から「誰かわたしのことばを伝える人はいないか」と言われ た時に、 「私がここにおります」と言ってそれをお受けした。そういう気持ちをそのときに持って、自分の 残る生涯は本当に一生懸命、自分のすべてを捧げて典礼聖歌に打ち込もう。 」と決心した訳でございます。 それですから、種々と苦しいこともありました。言葉の問題とか、何回も書き直したり、作り直したり もしなければならなかったとか...けれども夫は、 「神様のことばを預かっているのだから、神様のお考え をその通り曲で表わさなければならない」そういう決心をいたしまして、音をひとつ選ぶにも、祈って、 毎日祈っては書き、また、歌詞を黙想しては書く、という、まぁ、※注 16 このお仕事が公に終わるまでには 20 年かかったのですけれども、その間は、修道院の修道者のようだと言われる程、祈って、苦労して書き あげた曲です。 2 そして皆様が、何回も典礼聖歌の合宿にいらしたりして、日本の各地で男声合唱の典礼聖歌が広まって まいりました。と言うのは、ちょうど皆様は、―ま、若い方もいらっしゃいますけれど―大体この日本の 高度経済成長、日本の戦後からのこの復興を助けていらした方達、本当にご苦労をおかけした皆様です。 けれども、お仕事が終られた時点で、今度は日本の精神、文化の高揚のためにこうして一所懸命歌って 下さっているという事は、これからの日本にとって何よりも尊い大切な事だと思います。 そういう訳で、今、いろんな政治の世界、もう見るに忍びないような、汚職とか色々なことがあったり、 また、世間でも殺人。そんな乱れた世の中になってきておりますけれども、ちょうど※注 18 預言者アモスとい う人が出た頃....アモスというのはその前にもたくさん預言者がいましたけれども、文字で書き残した最 初の預言者。その人は何でもない普通の農民だったのですが、そういう人が書いた、その時代が今の世の 中にそっくりの時だったのです。 そのように皆様も神様の言葉を預かって、歌って、感動して、そしてそれが日本のために大きな役に立 つ、その役割を担っていらっしゃる訳です。 長崎でも、これからも、もっともっと積極的に本当の信仰はこういうもの、祈りというものはこういう ものです、典礼聖歌はこういうものです、という風に、どうぞ皆様、長崎の方も今回のこの合宿を機に、 一層神様の光栄のためにお尽くしいただきたいと思います。また一般の全国からお集まりになった方たち、 信仰は自分で得られるものではございませんけれども、皆様は強い信念を持っていらっしゃる、その固い 信念―“神に立ち戻れ”というのは今日お歌いになると思いますけれども―、本当にその方その方が正し いと思う事、これだけは曲げられないと思う事、そういう想いを各々の曲にお託しになって、これからも 一層歌っていただけたら、日本のこの乱れた世相もだいぶ変ってくるのではないかと思います。 今日、皆様の午後からの演奏を楽しみにしております。どうぞこれからもほうぼうで、日本の国の為に、 夫が書き残した曲をあちこちで歌っていただいて、日本の国が神に立ち戻れるように、その一員として皆 様それぞれの自覚と固い決心をもって、今日の午後の演奏会に参加していただきたいと思います。 有難うございました。 (拍手) 監 修 髙田留奈子 講話録音記録より書き起し 片山 和弘 (東海メールクワィアー) 3 髙田留奈子先生講話『祈りのまち・長崎からいただいたもの』 注釈 注 1. (今回で3回目) ①2008 年1月 13日、仙台・カトリック元寺小路教会 ②2008年7月 27日、東京・カトリック松原教会 注 2. (ここカトリックセンターで) 1990年9月 30日 典礼聖歌研究会主催「髙田三郎先生を迎えて典礼聖歌研修会」 注3. (初めてイスラエルの巡礼に) ①1990 年8月、ナザレ、ガレリア等聖地を巡礼 ②1992 年8月、各地で歌ミサと聖地にちなんだ典礼聖歌を献歌 ③1995 年8月、 〃 〃 注4. (十字架賛歌) 典礼聖歌番号 332 十字架賛歌(クルーチェム・トゥアム) 主の十字架を崇め尊み 見よこの木によって その復活をたたえよう あまねく世界に 喜びが来た 典礼聖歌番号 336 十字架賛歌(2)(クルクス・フィデーリス) けだかい十字架の木 その葉その花その実り すべてに勝る尊い木 いずこの森にも見られない うるわしい幹 幸いなくぎ尊いからだを担った木 注5. (復活祭・イースター) キリスト教で最も重要な祝日。木曜日の晩から3日間をかけてキリストの受難と死と復活を記念する聖なる 過越の3日間、3月下旬から4月下旬の間に祝われる。 注6. (聖週間) 復活祭直前の一週間を指す。キリストの受難と死を直接思い起こす受難週である。 また、復活祭前の約 40 日を四旬節(受難節)と呼ぶ。 注7. (あの迫害の頃から) 1549年8月、フランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教は、信仰と、海外交易をもくろ む大内、大友、大村氏ら地方大名、あるいは天下人・織田信長の後盾の下、急速な勢いで信者を増やしてい たが、信長亡きあと、九州におけるキリスト教勢力のあまりの強大さを恐れた豊臣秀吉(侵略、植民地化を 危惧)によって発布された「伴天連追放令」(1587年)から、その迫害の歴史が始まる。長崎における「26 聖人殉教事件」(1597年)は秀吉の時代のことである。 時代は江戸に移り、2代目将軍徳川秀忠発布による「キリスト教禁止令」(1614 年)を契機に“鎖国令”が敷 かれ、徳川幕府による弾圧は全国規模に拡大して一層厳しく(踏み絵、島原の乱など) 、17 世紀末にはキリ スト教禁止令が徹底されることになった。 4 注8. (隠れ切支丹) 徳川幕府により「キリスト教禁止令」が発布された事によって全国で多くの宣教師、信者が殉教。 1640年代半ばには信徒の信仰生活を導く司祭が一人もいなくなった結果、以後 200 年、幕府の厳しい探索の 手を逃れた信徒だけで信仰を守っていく事を余儀なくされた。 しかし、司祭不在の状態で時代が進むにつれ、本来のキリスト教信仰を保つことは難しくなり、既存の宗教 や伝統との融合によって土着化した独自の信仰が受け継がれることになった。これを『潜伏キリシタン』と いう。 そして、1865年に大浦天主堂が建てられると、潜伏キリシタンがプティジャン神父のもとを訪ねて信仰を表 明(信徒発見) 、この歴史的出会いから潜伏キリシタンはカトリック教会との結びつきを取り戻したが、一部 の人々は教会に戻らず潜伏時代の信仰形態を保つ道を選んだ。厳密には、この人々を「隠れ切支丹」と呼ぶ が、一般的には『徳川幕府のキリシタン禁制後も密かに信仰を持続した信者』と理解されている。 注9. (修道院) キリスト教(カトリック)で、多くの修道者が厳格な規律のもとに共同で修業を積む所。 注 10. (お告げの祈り) これはミサそのものとは直接関係なく毎日、朝、昼、夕の3回祈る、キリスト教の長い伝統的な祈り。 『お告 げ』とは、ルカ福音書一章における天使のお告げ、即ち「受胎告知」の事であり、全人類に向けられた福音 である。神が人となられた神秘を、マリアへの祈りを唱えながら黙想する。 注 11. (主の祈り) キリストの弟子たちが「わたしたちはどう祈ったらいいのですか?」と訊いた時、キリストが教えられた天 の父に向かっての祈り。 ミサ中で、つつしんで“主の祈り”を唱えましょう、と、司祭の先唱に続いて会衆が「天におられる私たち の父よ、みなが聖とされますように、みくにが来ますように....」と唱和する。以下、 「みこころが天におこ なわれるとおり、地にもおこなわれますように。私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい。私たちの罪をお 赦し下さい、私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救い下さい。 」 なお“主の祈り”は典礼聖歌の作曲が始められた最も初期のもので、当初は「文語体」 “天にましますわれら の父よ....”であったのが、後に「口語体」に変わった為、改めて作曲が為されている。 注 12. (エジプトまでイエスを抱いて逃げていらっしゃった) イエスが生まれ、占星術の学者達がその幼子を拝み贈り物を献げて帰ったあと、主の天使がヨゼフの夢に現 われて「ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている。子供とその母親を連れてエジプトに逃げ、私が告 げるまでそこにとどまっていなさい。 」と言った。そのお告げに従って、エジプトに逃れ、ヘロデ王が死ぬま でそこにとどまった。 (マタイ福音書 2 章 13∼15) 5 注 13. (マリアの歌) 村上博子の詩に作曲された4曲からなる女声合唱組曲(1.街角で、2.カットグラス、3.病、4.答)指揮・鈴木 茂明、合唱・コーロ・コスモスにより初演された。(1991 年 1月) 栄光に輝く聖母マリアといった偉大な女 性像ではなく、街角で見かける、いつでも親しく手を差しのべて下さる、普段着のやさしい、しかし心の勁い 女性が描かれている。 ちなみに、典礼聖歌として作曲された聖母賛歌は次の6曲である。 1.しあわせなかたマリア 4.元后あわれみの母 2.救い主を育てた母 5.天の元后喜びたまえ 3.天の元后、天の女王 6.母は立つ 更に、典礼聖歌以前、1959年作曲、髙田三郎の宗教作品第 1号は「雅楽の旋法による聖母賛歌」(ラテン語 テキスト)でした。 注 14. (第2バチカン公会議) 1962∼1965年、キリスト教信仰の伝統を現代社会の状況に即してよりよく伝えることの必要性を確認し、そ の為の自己改革を教会自身に促がすために開かれた会議で、特に典礼の重要性が強調されたところに当会議 の特徴があった。そして、今後の典礼のあり方についての決定を収めた「典礼憲章」が発布(1963 年 12 月) された事により、カトリック教会の典礼国語化の道が本格的に開かれたのである。 (参考:2005 年 4月、西脇純神父講習テキスト) 注 15. (イザヤという預言者) 旧約・イザヤ書 6 章 7-8(イザヤの召命)。彼(天使セラフィム)は私(イザヤ)の口に火を触れさせて言った。 「見 よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取りさられ、罪は赦された。 」その時、わたしは主の御声 を聞いた。 「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。 」わたしは言った。 「わたしがここにおり ます。わたしを遣わして下さい。 」 注 16. (このお仕事が公に終わるまでには 20年かかった。 ) 典礼聖歌の作曲は 38 年間にわたり、亡くなる直前まで続けられた。ここで留奈子先生が話された“公に終わ るまでには 20 年かかった。 ”というのは、年間を通して行われるミサに必要、充分な 200曲以上の聖歌が「典 礼聖歌・合本」にまとめられて発刊(1980年)されるまでを指している。 「合本」発刊後にも「来なさい重荷 を負うもの」 「平和の祈り」 、 「神のみわざがこの人に」(遺作)など 12曲の典礼聖歌が作曲されている。 注 17. (預言者アモス) アモス(Amos)は「重荷を負うもの」の意。紀元前 8 世紀のイスラエル、ヤラベアム 2世時代の政治と宗教、 社会的堕落を厳しく非難。神の義なる審判の宣言、そして悔い改めと民族(イスラエル)の回復を語った。 ユダヤ王国出身の牧夫とされ、 「アモス書」全 9 章は旧約聖書 12小預言書の中に配列されている。 (参考:ウィキペディア) 文責:片山和弘 6
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