詳細7月分 - 山口大学

住民一時立入り中継所でのスクリーニング作業に参加して
概要
福島第一原発事故で、20km 圏内が立ち入り制限の警戒区域となり、着の身着のまま避難した住人は貴
重品も生活用品も取りに戻ることが出来ない状態が続いていた。これに対して政府は5月中旬より、区
域を指定して住人やペット回収人などの一時立入(1世帯あたり2名、2時間を限度)をはじめている。
希望者は3万数千人といわれ、8月中には一巡させるとしている。20km 圏の境界に4カ所の中継所(図
1)が設置され、立入り前と立入った後の人間及び持ち出し荷物の放射線をチェックするスクリーニン
グ作業が始まった。
小規模で始められた立入り(注1)であったが、7月よりマイクロバス50台(1台あたり20名乗車で
県外からも貸し切り)を運用する規模となり、経産省原子力安全・保安院の主導の下、自治省(福島県
および各地自治体)、厚労省(本省および災害医療センター)、文科省所轄機関などからスタッフが動員
された。文科省は放射線計測の「専門家」を動員、7月2日には全国 13 大学から 20 名が携わった。こ
れ以外に、警察、消防、医療関係、自衛隊はもとより、東京電力だけでなく電気事業連の各電力会社、
原子力関連団体からも、総勢では立ち入り住民数を遙かに越えるスタッフが一時帰宅をサポートするた
めに動員されている。なお、1,2日の千人規模の立入りは、7月3,4日には行われず、自治体関係
者の立入りに対するスクリーニングのみになるという。
注1:文科省から各大学へのスクリーニング作業に関する協力依頼は5月はじめにあった。その後、6月に入ってサ
ーベイメータなどの問い合わせがあり、第一クルーの出動要請は6月21~29日で、7月1日からは第2クルー。
具体的行動
前日(1日)、午後7時に、福岡県庁西隣の自治会館402会議室に集合し、事前ミーティング。2日
には南相馬市馬事公苑、田村市古道体育館、広野町広野中央体育館の3カ所の中継所でスクリーニング
を行う。私はマイクロバス6台で住民120名の立入を支援する広野中央体育館(注2)にて立入者の被曝
線量記録係を割り当てられた。
注2:広野町はいわき市の北側の太平洋岸に位置し、福島第一原発 20km 圏に隣接する。5 月に一部が計画的避難区
域に指定された。
当日(2日)
、午前6時55分県庁玄関前から、放射線計測器などの資材と原子力安全保安院職員、県
庁職員、国立大学からの派遣者と一緒に約30名がバスに乗り込み、広野町に向けて出発。
福島市内では郊外の住宅の屋根瓦の一部が破損し、ビニールシートがかかっている程度で、
(県庁では
建物の一部が傷んだということも聞いたが)地震の被害はあまり見られなかった。(図2)
バスは東北自動車道を南下。郡山JCTから磐越道に入ったところで、路肩の一部が損壊して、工事
が行われていた。また、郡山盆地の磐越道では路面が波打っているようで、バスは上下に振動して進ん
だ。阿武隈山地では特に地震の影響は見えず。東南に下って、いわきJCTから常磐道を北上し、広野
ICで高速道を降りて、広野中央体育館には8時40分に到着した。
(図3)常磐道は広野ICから先は
警戒区域のため、カーバリアで閉鎖され、ガードマンが立っていた。ICを出てすぐの路肩が崩れてい
たのは地震によるものだろう。町役場付近の一部の家屋の屋根瓦に損傷が見えた。海岸から近いはずだ
が、霧の中に広野火力発電所(注3)の煙突が見えるだけ。
1
注3:東京電力広野火力発電所。全 5 基で総出力は 380 万 kW。津波の被害を受け停止しているが、7 月には運転再
開の予定と伝えられている。地震の時に運転していたのは 2,4 号機のみ。他の 3 基を含めて、原発停止をカバー
するため、修復次第、全基運転するのであろう。
9時過ぎから立入する大熊町の住民が集まり始め、9時半に受け付け開始で、名札、問診票、防護服、
軽食を渡されて着席。私も医療スタッフの一員として、問診票の確認・回収を手伝う。
10時に中継基地運営責任者(原子力安全保安院の T 氏)が挨拶、医療班統括者(厚労省職員の I 氏)
を紹介。立入の概略が説明された後、警察からは帰宅した住宅で盗難があった場合の措置についても説
明(図4)。休憩後、東電社員が防護服の着用方法、持ち帰り荷物の袋の扱い方、などを説明。長袖長ズ
ボンであれば、防護服の上着とズボンは付けなくてもよいが、靴カバー、頭部カバー、マスク、手袋は
支給品を必ず付け、ポケット線量計とPHSを一人ずつ持つこと、など。
11時に一時帰宅の地区毎に指定されたマイクロバスに住人、安全管理者(引率者)、放射線管理者(各
バス2名)が乗り込む。この日、広野中継基地からは警戒区域に住民104名と、スタッフ(バス運転
手6名、消防、警察も併せて)37名が立入った。
11時半からスクリーニングの体制、方法、記録の説明。
12時より昼休み。県庁近くのコンビニで購入の弁当を食する。ゴミは持ち帰り。
14時半、スクリーニングの受付、測定チームの担当者は防護服を身につけて待機(図5)。スクリー
ニングの測定は6レーン。うち、5レーンは電事連(北海道、東北、四国電力からの派遣者)が、1レ
ーンは国立大学と茨城県職員が構成。
15時、住民の帰還が始まる。警戒区域に立入った全ての者は、ホットゾーンが設定されたスクリー
ニングテントに入り、受付で氏名・荷物の袋を確認。スクリーニングのレーンではGMカウンターで頭
の天辺から足先まで、および持ち帰った荷物の袋をあけて、放射線量を計数。基準の 13kcpm を越えた
ケースはなかった(注4)。スクリーニングが終わると住人は防護服等を外し、ホットゾーンから一般ゾー
ンに移り、記録係にポケット線量計を確認してもらって、休憩所に荷物を持って移動。その後、避難場
所へと帰宅。線量記録係としては特に難しい業務ではなかったが、一人、年配のご婦人が、
「私の持ち帰
った荷物の放射能はどれだけですか」といわれたが、それは GM サーベイのところでないと分からぬこ
とで、大丈夫な値でした、という回答ではなかなか納得してもらえなかった。
注4:スクリーニングでは大口径 GM カウンターでサーベイし、13kcpm 以下であればパス。13kcpm 以上 100kcpm
未満であれば拭き取り除染、100kcpm 以上であれば自衛隊のテントで除染を受けることになっている。この数値は
原子炉内での作業後のスクリーニング基準に準拠しているのであろうが、GM でのカウント数なので、線量等量に
換算してどの程度かは知らない。当然、安全な水準に設定しているのであろう。
15時30分、スクリーニング終了。頭痛を訴えた老婦人が医務室で薬をもらっただけ。自衛隊は第
6特殊武器防護隊が除染テントを用意して(図6)
、消防は救急車を用意して待機していたが、霧模様の
天気でさほど気温が上がらなかったこともあり、とくに何もなかった。大熊町への立入者の被曝量は3
~16μSv(7 月 1 日に行われた双葉町への立入りでは、この倍程度の被曝量だったという)。
立ちいった地域で差が認められるが、16μSvの1名を除いて2~3μSv/hというところか。
でもこれは放射線管理区域に相当するので、警戒区域指定(立入り制限)は続くだろう。
参考に、図7にスクリーニング作業の流れ、図8に説明を示す。
15時45分、スタッフのバスは福島市に向かい、17時半、県庁玄関前で流れ解散。
2
18時20分の東京行き特急で帰任の途に着く(東京1泊)。
福島第1
広野町
図1 福島市、福島第一原発および4カ所の中継所○の位置関係
図2 福島市郊外に残る震災の跡
3
図3
一時帰宅中継基地の広野中央体育館(右奥の水色屋根)とその前に設営された
スクリーニングテント小屋(白色)
、および自衛隊の除染テント(左手かまぼこ形)
図4 体育館内で一時帰宅説明の合間の休憩時間
図5 スクリーニングの準備完了
4
図6 自衛隊の除染部隊のテント
図7 福島行きの前に文科省より提示されたスクリーニングの流れ図(資料を求めなかった
I 大学の教員は見ていなかった)
5
図8 前日のミーティングで渡された作業手順
参考(用語の説明)
EOC 非常災害対策センター
OFC オフサイトセンター
DMAT 災害医療派遣チーム(独立行政法人国立病院機構災害医療センターに事務局を置いて H17.4 に
発足)DMAT(Disaster Medical Assistance Team;災害急性期に活動できる機動性を持ったトレーニ
ングを受けた医療チーム)
現地では災害医療センターのスタッフおよびDMATのメンバーが経験もあり、中心的に動いていた。また、
宮崎県の医師のように、トリインフルで全国からの支援をうけて活動した経験者も大いに頼りになる存在で
あった。
FEPC 電気事業連合会 電力会社の連合会
TEPC 東京電力
中継基地で作業する人は、それぞれの団体のロゴ入りの上着を付けていた。私の場合、全くの私服で
腕章もなく、持参していたフイルムバッチを胸に付け、かろうじてスタッフの印とした。今後参加する
人は山口大学の文字の入ったゼッケンでも付けるとよいだろう。ともあれ、貴重な体験をすることが出
来た。今後の危機管理を考えると若い人に参加して欲しいし、個人的というより大学法人としてのボラ
ンティア活動といえるので、管理者にはしかるべき配慮をお願いしたい。 (2011.7.5 HM)
6