四コママンガ むかし 広報やすぎ 平成 2 7年 12 月号 エッサ さ ん だ い た エッサくんと行く 昔 さんぽ さんじゅうのとう こ う へ ん 三代で建てた三重塔(後編) ぜんげつごう (前月号からのつづき) とう かく た し だれ と ほう く あ かく た 棟 りょう覚 太の死 に誰もが途 方 に暮れましたが、覚 太 こ ゆのすけ とみ や け し ごと とみ や け かんせい の子 ・由助が「富 谷 家の仕 事は富谷家で完成させる」と ちか し ごと ひ つ 誓い、その仕事を引 き継 ぐことになりました。ところが こう じ はじ え きょう お しょう な しばらくすると工 事 を始 めた恵 教 和 尚 が亡 くなり、そし ゆのすけ な ゆのすけ にん てまた、由 助 も亡 くなってしまいました。由 助 には3人 こ ちょう な ん ただいち とう うつわ の子 どもがいました。 長 男 の唯 市 は棟 りょうの器 があり、 じ なん けいすけ ちょう こ く たく さんなん よしすけ せっけい とく い 次男の計助は彫 刻 が巧 みで、三 男 の芳 助 は設 計 が得 意で ちょう な ん ただいち とう つ ふたり おとうと した。そこで長 男 ・唯 市 が棟 りょうを継 ぎ、2 人の弟 と きょう りょく し ごと とみ や け さんだい 協 力して仕事にとりかかりました。まさに富 谷家三代の ほこ し ごと いど 誇りをかけて、この仕 事に挑 んだのでした。 とう ただいち もと おお し ごと 塔をつくっているとき、唯 市 の元 にこの大 仕事 をさせ だい く ただいち どう てほしいとたくさんの大 工 がやってきました。唯 市 は道 ぐ て い もの せっけい ず 具 の手 入 れをおろそかにする者 、また、すぐに設 計図を み もの けっ やと 見ようとしない者 は、 決して雇おうとはしませんでした。 うで よ だい く むずか こう じ なぜなら腕 の良 い大 工 でしかこの難 しい工 事ができない おも と思っていたからです。 ねん とみ や け さんだい すぐ だい く て 1859年 、 富 谷 家 三 代 と優 れた大 工 たちの手 によって、 さんじゅうのとう かん せい く りん ほう とう どう き う なみ 三 重塔が完 成 しました。九 輪 の宝 塔 などの銅 器 は宇 波、 かな ぐ るい しんまち や ね がわら ほそ い しょく に ん やす ぎ 金具類は新 町、屋根瓦は細井の職人がつくり、安来のす ぎ じゅつ ばらしい技 術も おお つか 多く使われてい と み や きょう だ い ます。富 谷兄弟 かん げき は、感 激 のあま く ろう わす り 苦 労 を 忘 れ、 なみだ なが よろこ 涙を流して喜び ました。こうし さんじゅうのとう て 三 重つ塔 は33 ねん き ひ へ 年もの月 日 を経 み ごと かん せい て見事に完成し たのです。 ▼ 清水寺三重塔 の工作図板。 ▼拡大図。はっ きりと三重塔が 描かれている。 清水寺三重塔の工作図板(清水町) やすぎ再発見 清水寺の宝物館の中に、 9 枚の切板をはりつけた高さ 3 メー トル、 幅 1.4 メートルほどの板が納められています。この板は、 芳助の三重塔の設計図といわれており、富谷家から清水寺に 寄進されたもので、三重塔の付属品として県の指定文化財に 指定されています。 この板を間近で見ると力強い線で三重塔の 全姿が緻密に描かれているのがわかります。 線は定規を使わず筆と墨つぼを利用して書か れており、当時の大工技術の高さを伝えてい ます。 古紙配合率70%再生紙を使用しています
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