第3回「有機化合物の基礎」

有機化学Ⅰ
講義資料
第3回「有機化合物の基礎」
第3回「有機化合物の基礎」
有機化合物の種類は、まだ合成されたことがないものも含めれば無限にある。これを
系統的に理解するためには、原子のつながり方の特徴に基づいて分類し、一般的に成り
立つ原則を理解することが必要である。今回は、前半に有機化合物の表記法・命名法・
分類について学ぶ。また、後半では有機化合物における「分子間相互作用」について学
ぶ。
1. 炭化水素
最も基本的な有機化合物は、炭素と水素のみからなる物質である。これを炭化水素
hydrocarbon と呼ぶ。最も身近に存在する炭化水素は次のようなものである。
名称 天然ガス・都市ガス
プロパンガス
ライター・カセットコンロのガス
ガソリン
灯油
主成分 メタン methane (CH4)
プロパン propane (C3H8)
ブタン butane (C4H10)
炭素数4∼12程度の炭化水素
炭素数9∼15程度の炭化水素
メタン以外の炭化水素は、炭素­炭素結合を持つ。炭素­炭素結合には単結合・二重
結合・三重結合がある。すべての結合が単結合である炭化水素を飽和炭化水素 saturated
hydrocarbon、 二 重 結 合 ・ 三 重 結 合 を 持 つ 炭 化 水 素 を 不 飽 和 炭 化 水 素 unsaturated
hydrocarbon と呼ぶ。後で学ぶが、二重結合は1つのσ(シグマ)結合と1つのπ(パ
イ)結合から成る。また、三重結合は1つのσ結合と2つのπ結合から成る。このため、
不飽和炭化水素はπ結合に特有の化学反応性を示す。一方、飽和炭化水素はσ結合のみ
から成っている。σ結合は安定であるため、飽和炭化水素の化学反応性は極めて低い。
まず、飽和炭化水素を見ていこう。飽和炭化水素は、アルカン alkane とも呼ばれる。
炭素原子の数が1∼3個のアルカンは、それぞれ1種類のみ存在する。
H
H H
H H H
H C H
H C C H
H C C C H
H
H H
H H H
methane
ethane
propane
実は炭素数3のアルカンには、3つの炭素が環状につながったものも存在するのだが、
しばらくは環状構造を持たないものに限定して考えることにする。
炭素数4のアルカンは、2種類存在する。
–1–
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H H H H
H H H
H C C C C H
H C C C H
H H H H
H C H
H
H
H
butane
isobutane
ブタンは4つの炭素原子が一列に並んでいる。このようなアルカンを直鎖アルカン
straight-chain alkane と呼ぶ。一方、イソブタンの炭素原子の並びは途中で枝分かれし
ている。このようなアルカンを分岐アルカン branched alkane と呼ぶ。ブタンとイソブ
タンは異なる物質であり、物理的性質も化学反応性も異なっている。このように、構成
原子の種類と数は同じだが、原子のつながり方が異なる物質のことを構造異性体
structural isomer と呼ぶ。
炭素数5のアルカンには、3つの構造異性体がある。直鎖のペンタンと、分岐したイ
ソペンタン・ネオペンタンである。
H H H H H
H H H H
H
H
H
H C H
H C C C C C H
H C C C C H
H C C C H
H H H H H
H C H H
H
H
H
H C H
H
H
H
isopentane
neopentane
pentane
炭素数6だと6種類、炭素数7だと9種類の構造異性体が存在する。だんだん書くの
が大変になってくる。もう少し簡便に書く方法が2つあるので、紹介しておこう。
一つは、簡略構造である。これは、組成式と同じように複数の同一原子を下付き数字
で示し、同時になるべく炭素のつながり方を明示するように書く方法である。
CH4
CH3CH3
CH3CH2CH3
分岐アルカンの場合は、分岐している部分を炭素から線を下に伸ばして書くか、また
は炭素の右側にかっこに入れて書く。
CH3CHCH3
CH3CH(CH3)CH3
CH3
同じ置換基が2つついているときは、炭素から線を上下に伸ばして書くか、またはか
っこに入れて下付きの数字をつける。
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CH3
CH3C(CH3)2CH3
CH3CCH3
CH3
CH2 が繰り返されている時は、かっこに入れて下付きの数字で表してもよい。
CH3(CH2)4CH3
CH3(CH2)3CH3
CH3(CH2)2CH3
もう一つの簡便な記法は、骨格構造である。これは、炭素­炭素結合を線で示し、炭
素原子および炭素と結合している水素原子をすべて省略する表記法である。
注1:エタンをこの記法で書くことは滅多にない。ただの線分と紛らわしいためである。しかし、
エチレンを二重線で書くことはよくある。
骨格構造には、間違えやすいポイントが2つあるので、注意すること。1つは、「結
合線の両端には必ず炭素原子があり、その先にはさらに水素原子がある」こと。線の末
端が水素原子であると誤読する人が非常に多いので、要注意である。たとえば、下の2
つは異なる物質である。
H
もう1つは、「炭素原子だけを書いて水素原子を省略する」記法は存在しない、とい
うことである。たとえば、下のような書き方は誤りである。
C
C
C
C
C
C
C
C
C
C C C
C
古い本ではこのような記法が見られることがあるが、現在では全く使われていないた
め、真似をしてはいけない。必ず、「炭素も水素も両方書く」か「炭素も水素も両方省
略する」かどちらかにすること。
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
問:イソペンタンを簡略構造、骨格構造でそれぞれ示しなさい。
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
–3–
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2. アルカンの命名法
炭素数が増えると異性体の数はどんどん増える。これらの異性体の名前はどうすれば
よいだろうか。1つずつ異性体に別の名前を与えていては、有機化学の教科書はアルカ
ンの名前だけで埋め尽くされてしまうだろう。そこで、分子構造から一意的に名前をつ
ける方法が考案された。この方法は、IUPAC(国際純正・応用化学連合 International
Union of Pure and Applied Chemistry)によって決められているため、IUPAC 命名法
(IUPAC nomenclature)と呼ばれる。また、組織的命名法、系統的命名法と呼ばれる
こともある。
IUPAC 命名法は膨大な規則の集まりであるため、すべてを一度に学ぶことはできな
いが、基本的な規則は知っておこう。アルカン(環状構造を持たないもの)については、
次の手順で命名する。
1. 直鎖アルカンの場合は、炭素数によって決められた名前で呼ぶ。C1∼C10 までの
直鎖アルカンの名称を次の表に示す。これらの名称は英語名とともに覚えておくこと。
炭素数
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
組成式
CH4
C 2H 6
C 3H 8
C4H10
C5H12
C6H14
C7H16
C8H18
C9H20
C10H22
名称
メタン methane
エタン ethane
プロパン propane
ブタン butane
ペンタン pentane
ヘキサン hexane
ヘプタン heptane
オクタン octane
ノナン nonane
デカン decane
注2:メタン、エタンは “th” であるのに対して、ブタン、ペンタン、ヘプタン、オクタンは “t”
であることに注意。メタンを “metane”、ブタンを “buthane” と書くのはよくある間違いである。
2. 分岐アルカンの場合は、まず結合している炭素原子の最も長い並びを見つける。こ
おや
れを主鎖 parent chain または親炭化水素 parent hydrocarbon と呼ぶ。主鎖は、書かれ
た構造式上で直線状につながっているとは限らないので、注意深く調べること。
CH2CH2CH3
CH3CH2CHCH2CH3
CH3
CH3CH2CHCH2CH3
CH2CH2CH3
CH3CH2CCH2CH3
CH2CH2CH3
そして、主鎖に結合している置換基(次に説明する)の名称を、置換基の結合してい
る炭素の位置番号をつけて、主鎖の名称の前につなぐ。
–4–
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1
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2
3
4
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5
1
CH3CH2CHCH2CH3
2
3
CH3CH2CHCH2CH3
CH3
CH2CH2CH3
4
(3-methylpentane)
5
6
(3-ethylhexane)
位置番号と置換基の間にはハイフンを置く。また、英語で書く時は、置換基と主鎖の
名前はまとめて一語にする。
2つ以上の同じ置換基があるときには、倍数を表す語(2: ジ (di), 3: トリ (tri), 4: テ
トラ (tetra), 5: ペンタ (penta), 6: ヘキサ (hexa))を置換基の前につける。位置番号は
コンマで区切って並べる。
2
3
4
1
CH2CH2CH3
CH3CH2CCH2CH3
(4,4-diethylheptane)
CH2CH2CH3
5
6
7
2つ以上の異なる置換基があるときには、置換基をアルファベット順に並べて記述す
る。2番目以降の置換基名と次の位置番号の間にもハイフンを入れる。
1
2
3
4
5
6
7
8
CH3CH2CHCH2CHCH2CH2CH3
CH3
(5-ethyl-3-methyloctane)
CH2CH3
なお、主鎖の番号のつけ方には2通り考えられる。例えば上の例だと、右から順に
1,2,3,…と番号を振ると、
「4-エチル-6-メチルオクタン」という名前になる。このような
場合、「なるべく数字が小さくなるように番号をつける」ことになっているので、「3」
が現れる上図の番号付けが正しい。
この他にも、主鎖の選び方が複数通りある場合など、複雑な規則が多数定められてい
る。詳細を記憶する必要はないが、興味があれば IUPAC の命名法規則を参照のこと。
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
問:イソブタン、イソペンタン、ネオペンタンの系統的名称をそれぞれ書きなさい。
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
3. アルキル基
アルカンから水素原子を一つ除いたものをアルキル基 alkyl group と呼ぶ。アルキル
–5–
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基は、多くの有機化合物の部分構造となっている。アルキル基の名前は、元のアルカン
の名前の末尾の “ane”(アン)を “yl”(イル)に置き換えたものである。
CH3–
methyl
CH3CH2–
ethyl
CH3CH2CH2–
CH3CH2CH2CH2–
butyl
propyl
分岐したアルキル基の命名法は少し面倒である。詳しい命名規則は省略し、よく使う
ものの慣用名(系統的名称ではないが使用が認められている名前)を次に示す。これら
の名称も覚えておくこと。特に、イソブチルと sec-ブチルは混同しやすい。
CH3
CH3CH–
CH3
isopropyl
CH3CHCH2–
CH3
isobutyl
CH3C–
CH3CH2CH–
CH3
CH3
sec-butyl or s-butyl
tert-butyl or t-butyl
sec-は secondary(セカンダリー)、tert- または t- は tertiary(ターシャリー)と読
む。それぞれ「第二級の」
「第三級の」という意味である。
「第○級」というのは有機化
学において重要な概念であるため、もう少し詳しく説明する。
炭素原子は4本の結合を作ることができるので、他の炭素原子と結合できる数は最大
4である。1個の炭素と結合している炭素原子を第一級炭素 primary carbon と呼ぶ。
同じように、2個・3個・4個の炭素と結合している炭素原子をそれぞれ第二級炭素・
第三級炭素・第四級炭素 secondary carbon, tertiary carbon, quaternary carbon と呼ぶ
(「第」をつけずに「一級炭素」「二級炭素」などと呼ぶこともある)。
CH3
CH3CH2CH3
CH3CHCH3
CH3
CH3CCH3
CH3
アルキル基の場合は、水素が取り除かれた炭素原子の種類によって、第一級アルキル
基・第二級アルキル基・第三級アルキル基と分類する。水素が取り除かれた炭素原子は
3本の結合しか持たないため、「第四級アルキル基」は存在しない。また、メチル基は
いわば「第0級」に相当するが、そのような呼び方はせず、単にメチル基と呼ぶ。
CH3
CH3CH2–
CH3CH–
CH3
CH3C–
CH3
–6–
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­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
問:右のアルカンの系統的名称を答えなさい。
­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­­
4. 官能基
官能基 functional group とは、有機化合物の性質を特徴づける原子または原子の集ま
りである。実際上は、飽和炭化水素以外の構造があれば、その部分を官能基と考えるこ
とができる。この講義で学ぶ主な官能基は、次のようなものである。
官能基
O
C
炭
素
・
水
素
以
外
の
原
子
を
含
む
も
の
含
む
も
の
炭
素
・
水
素
原
子
の
み
を
OH
O
C
H
C N
O
C
–OH
–NH2
基の名称
化合物の種類
接頭語
接尾語
カルボキシル
carboxyl
カルボン酸
カルボキシ
carboxy
∼酸
-oic acid
ホルミル
formyl
アルデヒド
ホルミル
formyl
∼アール
-al
シアノ
cyano
ニトリル
シアノ
cyano
∼ニトリル
-nitrile
カルボニル
carbonyl
ケトン
オキソ
oxo
∼オン
-one
ヒドロキシ
hydroxy
アミノ
amino
R–オキシ
R-oxy
フルオロ
fluoro
クロロ chloro
ブロモ bromo
ヨード iodo
∼オール
-ol
∼アミン
-amine
ヒドロキシル
hydroxyl
アミノ
amino
アルコール
アミン
–O–
‒
エーテル
–X
フルオロ
fluoro
クロロ chloro
ブロモ bromo
ヨード iodo
ハロゲン化
アルキル
C C
–
アルケン
­
C C
–
アルキン
­
–
共役ジエン
­
∼ジエン
-diene
–
芳香環
­
­
C C
C C
(なし)
(なし)
∼エン
-ene
∼イン
-yne
–7–
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官能基を持つ化合物の系統的命名法は、アルカンよりも一層複雑である。ここでは基
本的な方針だけを紹介しておく。
1. 主要な官能基を決める。複数の官能基がある時は、上記の表で上にあるものが主要
な官能基となる。
2. 主要な官能基を含む、炭素原子の最も長い並びを見つける。これが主鎖となる。
3. 主鎖を表すアルカンの名称を元にして、最後の e を主要官能基を表す「接尾語」
で置き換える。必要なら、主要官能基の位置を番号で表す。
–OH
4
3
1
2
(butane)
CH3CH2CH2CH2OH
(1-butanol)
4. 主要官能基以外の官能基の名称は、「接頭語」として主鎖名の前に置く(分岐アル
カンの置換基と同じ)。
4
3
2
1
CH3CHCH2CH2OH
(3-chloro-1-butanol)
Cl
5. 主鎖が二重結合・三重結合を含む場合は、主鎖のアルカンの名称の “ane” を “ene”
(二重結合)または “yne”(三重結合)に置き換えた上で、上記の規則で官能基名を付
け加える。
5
4
3
2
1
CH3CHCH=CHCH2OH
(4-chloro-2-penten-1-ol)
Cl
5. 有機化合物における分子間相互作用
5-1. 物理的性質と分子間相互作用
前節で「官能基は有機化合物の性質を特徴づける」と述べた。どのような性質が特徴
づけられるのだろうか。化学的反応性については今後詳しく学ぶので、ここでは主に物
理的性質、特に融点・沸点と溶解度について見てみよう。これらの性質を支配している
のは、分子間相互作用の大きさである。
沸点はどういう要因で決まるのだろうか。沸点とは、液体状態の物質が(1気圧の外
圧のもとで)気体になる温度である。液体は分子同士が引力で引きつけ合って凝集して
いる状態であり、一方気体は分子が熱エネルギーによって引力を振りほどいて、自由に
運動している状態である。分子間の引力が強いほど、それを振りほどくために多くの熱
–8–
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エネルギーを必要とする。つまり、沸点が高くなる。融点についても同じことが言える。
つまり、分子間の引力が強いほど、融点は高くなる。
熱エネルギー
液体
気体
有機化合物の分子間相互作用として重要なものが3つある。それらは、双極子相互作
用、水素結合、London の分散力である。
5-2. 双極子相互作用:極性分子同士の分子間相互作用
プロパン (CH3CH2CH3)とアセトアルデヒド (CH3CH=O)は、分子量はほとんど同じ
であるが、沸点が大きく異なる(プロパンの沸点は –42.3℃、アセトアルデヒドの沸点
は 20.2℃)。このことから、アセトアルデヒドの分子間相互作用はプロパンよりもずっ
と強いことがわかる。
プロパンとアセトアルデヒドの構造上の大きな違いは、アセトアルデヒドが酸素を含
んでいることである。酸素は電気陰性度が高いので、炭素­酸素結合は分極しており、
酸素が負に、炭素が正に帯電している。正の電荷と負の電荷は互いに引き合うので、2
つのアセトアルデヒド分子の間には引力が働く。このように、分極した共有結合が持つ
正負の電荷による相互作用を双極子相互作用 dipole interaction と呼ぶ。
CH3
δ–
O
δ+
C H
δ+
H C CH3
δ– O
注3:
「双極子(電気双極子)」とは、同じ大きさの正負の電荷がわずかに離れて存在する状態の
ことである。
分極した結合を持つ化合物を極性化合物 polar compound、分極した結合を持たない
化合物を非極性化合物 non-polar compound と呼ぶ。双極子相互作用は、極性化合物同
士の場合のみ働く。
5-3. 水素結合:強く正に分極した水素原子とローンペアの相互作用
今度は、アセトアルデヒドとエタノール (CH3CH2OH)を比べてみよう。エタノール
–9–
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の沸点 (78.4℃)は、アセトアルデヒドよりもさらに高い。同じ極性化合物でも、エタノ
ールの場合にはアセトアルデヒドでは現れない特別な分子間相互作用があるのではな
いか、と推測される。そこで、分子構造を比較してみる。エタノールに存在して、アセ
トアルデヒドに存在しない官能基は、O–H 基である。
O
CH3 CH2 O H
CH3 C H
O–H 基の水素原子のように、強く正に分極した水素原子は、特別な性質を持ってい
る。すなわち、ローンペアの原子軌道と水素の原子軌道の混ざり合いが起こり、部分的
な共有結合を作ることができる。これを水素結合という。
δ+ δ–
H O
O
O–H
水素結合を持つ物質は必ず分極した結合を持つので、双極子相互作用と紛らわしい。
H とローンペアを持つ原子(上の図では O)との間に「部分的な共有結合」がある、と
いう点で、双極子相互作用と水素結合は明確に区別して考えた方がよい。
水素結合に関与する原子は、通常 N, O, F のどれかである。つまり、下図のような組
み合わせで水素結合が起きる。水素結合に関わる水素原子を持つ化合物を水素結合供与
体(水素結合ドナー)と呼ぶ。また、水素結合に関わるローンペアを持つ化合物を水素
結合受容体(水素結合アクセプター)と呼ぶ。
N H
N
N
N
F H
O H
hydrogen bond donor
F
O
O
F
O
hydrogen bond acceptor
N, O, F を含む化合物で水素結合が強い理由は主に二つある。一つは、これらの元素
の電気陰性度が高いため、水素との結合が強く分極していることである。このため、水
素原子供与体として働きやすい。もう一つは、価電子のローンペアが 2p 軌道(または
2s と 2p の混成軌道)にあり、水素原子の 1s 軌道と大きさが似通っているため、軌道
の相互作用が大きいことである。このため、水素原子受容体として働きやすい。
– 10 –
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5-4. London の分散力:非極性分子同士でも働く相互作用
非極性分子同士の相互作用についてはどうだろうか。全く分子間相互作用が働かない
とするといくら温度を下げても気体のまま存在することになるが、これは事実に反する。
従って、非極性分子同士であっても、何らかの分子間相互作用は働いているはずである。
この相互作用の原理は、Fritz London(1900~1954、ドイツ・アメリカの物理学者)に
よって、量子力学を使って解明された。これを London の分散力 London’s dispersion
force と呼ぶ。London の分散力は、運動している電子と原子核の間の相互作用が平均
化されて現れる力である。
引力
(ある瞬間)
時間平均
引力
(別の瞬間)
2つの原子
分極は残らないが
引力は残る
London の分散力は、双極子相互作用や水素結合よりもずっと弱い相互作用であるが、
非極性分子を含むあらゆる物質で働く力である(もともと London が解析したのは希ガ
ス原子の間に働く力だった)。また、London の分散力は、2つの分子に属する電子が
極めて近い距離に来たときにのみ働くため、分子同士の接触面積が大きいほど強くなる。
同じような原子から成る2つの分子については、原子の数が多い(分子量が大きい)方
が分子同士の接触面積が大きくなるため、London の分散力が大きくなる。
注5:分散力の説明として「電子が運動することによって一時的な分極が発生し、その間に力が
働く」とされることがあるが、物理的に正確な説明とは言えないので、「たとえ話」程度に受け
取っておくのがよい。分散力を正確に記述するためには、量子力学と摂動論が必要なので、ここ
では詳細には立ち入らない。
以上をまとめると、有機化合物における分子間相互作用は、次のように分類できる。
非極性分子
極性分子
ローンペアと
正に分極した水素原子
Londonの分散力
双極子相互作用
van der Waals
相互作用
水素結合
London の分散力と双極子相互作用をまとめて van der Waals(ファン・デル・ワー
ルス)相互作用と呼ぶ。化合物の種類によって働く相互作用が異なることに注意しよう。
– 11 –
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また、分子間の相互作用の大きさには序列があり、一般的には「水素結合>双極子相互
作用>London の分散力」となる。
5-5. 溶解度と分子間相互作用
「何が何に溶けるか」という問題は、有機化学では案外重要である。ほとんどの有機
化学反応は溶液状態で行われるため、
「溶けない」物質は反応できないからである。
「似
たもの同士は溶け合いやすい」あるいは「極性物質は極性溶媒に溶けやすい」とよく言
われるが、この説明だけでは分子レベルで何が起きているのか理解できない。上で学ん
だ分子間相互作用の考え方を使って、溶解度の違いについて考察してみよう。
ある物質(A とする)が溶媒(S とする)に「溶ける」時に起きる分子間相互作用の
変化を考えてみる。A の周りには最初は A しかいなかったのだが、S に溶けた状態では
A は S で囲まれている。一方、S の周りにも最初は S しかいなかったが、A を溶かし
た状態では周りの S の一部が A で置き換わることになる。
Aの周り: Aのみ
Sの周り: Sのみ
Aの周り: Sのみ
Sの周り: AとS
A が S に「溶ける」かどうかは、この状態変化に伴う分子間相互作用の変化によっ
て決まる。A と S の混合後に相互作用が大きくなるか、または同程度なら、A は S に
溶ける。逆に相互作用が大幅に小さくなるようなら、溶け合わずに分離していた方が安
定になるため、A は S に溶けない。極性物質(特に水素結合できるもの)と水の場合は
前者のケースで、非極性物質と水の場合は後者のケースになる。
分子間相互作用の変化
A
A
S
S
混合前
S‒S, A‒A相互作用
混合前
混合後
A‒S相互作用
混合後
S‒S, A‒A相互作用 > A‒S相互作用
A = 極性物質, S = 水
A = 非極性物質, S = 水
注6:分子間相互作用は引力なので、全体のエネルギーを低下させる。従って、「相互作用が大
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きくなると溶け合う方が安定になる」ことは簡単に理解できる。それでは、「相互作用が同程度
でも溶け合う方が安定になる」のはなぜだろうか。これは、系の「乱雑さ」が全体のエネルギー
に寄与するためである。A と S が分離している状態よりも、溶け合った状態の方が「乱雑さが
大きい」と見なせるため、全体のエネルギーが低下する。熱力学で「エントロピー」について学
べば、この効果を定量的に考察することができる。
6. まとめ
・ 最も基本的な有機化合物は、炭素と水素のみから成る炭化水素である。
・ すべての結合が単結合である炭化水素を飽和炭化水素、二重結合・三重結合を含む
炭化水素を不飽和炭化水素と呼ぶ。飽和炭化水素はアルカンとも呼ぶ。
・ すべての炭素原子が一列に並んでいるアルカンを直鎖アルカン、途中で枝分かれし
ているものを分岐アルカンと呼ぶ。
・ 直鎖アルカンは、炭素数によって決まる名前を持っている。C1∼C10 のアルカン名
は覚えておくこと。
・ 分岐アルカンの名前は、直鎖アルカンに置換基が結合したものとして命名する。
・ アルカンから水素原子を一つ取り除いたものをアルキル基と呼ぶ。
・ 第一級・第二級・第三級・第四級という名称は、
「炭素原子がいくつ結合しているか」
を表す。メタン以外のアルカンの炭素原子は第一級炭素から第四級炭素に分類される。
また、メチル基以外のアルキル基は、結合位置の炭素原子の種類によって第一級アル
キル基から第三級アルキル基に分類される。
・ 官能基とは、有機化合物の性質を特徴づける原子または原子の集まりである。本講
義では、カルボン酸・アルデヒド・ニトリル・ケトン・アルコール・アミン・エーテ
ル・ハロゲン化アルキル・アルケン・アルキン・共役ジエン・芳香環などを取り扱う。
・ 有機化合物の物理的性質は、分子間相互作用によって大きく影響される。特に顕著
に影響を受けるのは、沸点と溶解度である。有機化合物の主要な分子間相互作用とし
て、双極子相互作用・水素結合・London の分散力がある。
・ 双極子相互作用は、分極した結合があるとき、正負の電荷が引き合うことで起きる
相互作用である。
・ 水素結合は、強く正に分極した H 原子とローンペアの間で部分的な共有結合を作る
ことによる相互作用である。通常、N, O, F 原子に結合した H 原子と、これらの原子
のローンペアの間で起きる。
・ London の分散力は、あらゆる物質の間で起きる分子間相互作用である。極めて近い
距離でのみ働くため、分子間の接触面積が大きいほど強い相互作用になる。
・ 分子間相互作用の強さは、一般的に「水素結合>双極子相互作用>London 分散力」
の順になる。
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名城大学理工学部応用化学科