7章 海洋生物資源研究のあゆみ

 7章 海洋生物資源研究のあゆみ
7.1 海洋生物資源研究の歴史 人類にとって海は太古の昔,まったく未知の領域であった.これは今の人類にとっての
宇宙がそうであるのと同様であろう.漁師たちは食料資源としての魚介類を求めて手作り
の小船で沿岸域に出漁し,また,潜水夫たちは貝や海綿などを求めて海に潜り,なかには
真珠や珊瑚といった貴重品をたくみに採集するものもいただろう.彼らは当然,海に棲む
生き物の性質やそれらが棲む海についても経験的に多くの知識をもっていたと思われる.
動物学の祖とよばれるアリストテレスが著した書物に記載されている当時としては驚くほ
ど詳細な海産動物についての情報の多くは,これら漁師や潜水夫たちから得たものであろ
う.
その後,中世の大航海時代をむかえて,生物種の記載は充実していった.そして,つい
に1831年から1836年にかけて,ダーウィンはビーグル号で世界の主だった海洋を航海し,
その間に行った観察をもとに「種の起源」において生物進化を世に問うに至った.しかし,
その当時でさえ深海は無生物である主張する学者も多く,人類が深海への本格的な挑戦を
はじめたのは1872年から1876年にかけて英国海軍が行ったチャレンジャー号航海以降のこ
とである.この航海でチャレンジャー号は,最深5720mの海底からの生物採取に成功した.
この成果は,深海域には未知の生物資源が眠っていることを人類に認識させ,後の潜水艇
を用いた深海探査のきっかけとなった.そして,1960年にはスイスとアメリカの共同チー
ムが現在知られている最深部であるマリアナ海溝の水深10916mの海底へ,トリエステ号に
よる有人潜水に成功した.その後1977年のアメリカのアルビン号による深海熱水噴出口の
発見に引き続き,わが国においても1978年以降,
らびに
かいこう
しんかい2000
と
しんかい6500
な
による深海探査が続けられている.これらの探査により,熱水噴出口
付近には細胞内に寄生するバクテリアの力を借りて硫化水素を利用して生きているチュー
ブワームとよばれるゴカイの仲間をはじめとして,特殊な環境に適応したさまざまな貝や
エビ・カニ類などの無脊椎動物が高密度に生息していることが明らかにされた.
しかし,このように深海にいたるまで世界中の海洋が探索されつくされたと思われる時
代になっても,1998年にインドネシアでシーラカンスが再発見されるなど,海洋には,陸
上ではもはやほとんど不可能な新規な生物の発見の可能性が依然として残されている.ま
た遺伝子解析の結果,1938年に発見されたマダガスカル島周辺に生息するシーラカンスと,
今回,インドネシア周辺海域で採集されたシーラカンスとは異なる系統群に属することが
明らかにされ,長い年月の間,それぞれのシーラカンスは互いに交流することなく生き続
けてきたことが明らかとなったことも興味深い.人類の遠く及ばない海洋のかたすみで
様々な未知の生物が,それぞれの進化の道筋をひっそりとたどっていることを思うと,海
洋生物資源の有効利用とともに,地球環境レベルからみた生物多様性の維持の重要性が痛
感される.
7.2 海洋生物資源研究の成果
このような長年にわたる海洋資源探索の努力の結果,数多くの海洋生物が発見されてき
た.それらの多くは食料資源として利用されてきたが,薬や色素など食料以外にも用途は
多い.しかし,近年になり漁獲技術が進歩するにつれ,これらの生物資源の中には絶滅に
瀕するものもあらわれ,今後は海洋生物の再生産力を生かした持続的な生物資源の利用が
重要であると考えられるようになってきた.
そのためには,それぞれの生物の生活史,つまりどのようにして生まれ,成長・繁殖し,
死んでいくのか,を総括的に把握することが欠かせない.しかし,日常,私たちの食卓に
のぼる魚介類についてさえも,それぞれの生活史については驚くほどわかっていないのが
現状である.たとえばウナギは,食卓にもよくのぼるありふれた魚であるが,その産卵場
の特定と初期生活史は,多くの海洋生物研究者の努力の結果,最近になりようやく解明さ
れてきた.ウナギ目にはウナギのほかにアナゴ,ウツボ,ハモなどのいわゆるヘビ型の体
形をした魚が含まれ,いわゆるウナギとよばれるのはウナギ属に含まれる15種である.こ
れらのほとんどが太平洋南西部とインド洋に分布するが,大西洋にも2種が分布する.最近
の研究から,約1億年前の白亜紀に,現在のインドネシアにあたる海域で誕生したウナギの
先祖種が,テーチス海(現在はその一部が地中海となって残っている)とよばれる海洋を
環赤道流に乗って西へ向かって進出し,最終的に,当時開きつつあった大西洋に到達した
ものと推測されている.ウナギばかりでなく,現在,世界の海洋に分布しているすべての
生物は,長い地質学的年代をかけて,海洋形成と関わりながら今ある分布様式に至ってい
ることに思いをめぐらすことも重要なことであろう.
また,ウナギは仔稚魚期の食性が不明なため,受精卵から親まで飼育環境下で成長させ
ることが不可能とされてきたが,現在では,エサを工夫することによりレプトケファルス
(葉形幼生)を経てシラスウナギにまで成長させることが可能となっている.人工孵化で
得られた稚魚を育成・成熟させ,次世代を得ることを完全養殖と呼ぶが,長年の夢であっ
たウナギの完全養殖達成も目前にせ
まっている.今のところ,ウナギは
河口域で採捕したシラスウナギを養
殖池で畜養することで市場に供給さ
れているが,シラスウナギの資源変
動が大きいことが安定供給にとって
大きな障害となっている.受精卵か
アラニン
アラニン
H N O H の安定供給にとって朗報となろう.
7.3 海洋生物遺伝子の探索
C C N CH3 H CH2OH OH O OH ではなく,海洋生物のもつ新規な遺
伝子資源にも注目が集まっている.
C C H C H C O NH C O OH 最近では,単なる生物資源として
H N O CH2OH OH O O O H CH3 C らの飼育技術が確立すれば,ウナギ
トレオニン
二糖類
CH3 図 7.1 耐凍糖タンパク質の構造単位であるアラニン-アラニン-ト
レオニンの繰り返し構造.トレオニンの側鎖の水酸基に 2 分子の
糖が結合している.
ここではその一例として,「南極の
魚はなぜ凍らないのか」という素朴な疑問から発見された耐凍タンパク質について紹介し
たい.
海水には塩類をはじめ種々の成分が溶解していることから,‐1.9℃以下になるまで凍結
することはない.一方,魚の体液に含まれる成分のモル濃度の総和は海水より低いため,
‐0.7℃以下になると凍結し始める.しかし南極海の海水の水温はしばしば‐0.7℃以下にな
る事があるにもかかわらず,南極海には体液が凍ることなく生きていけるノトセニアとよ
ばれる魚類(正確にはノトセニア亜目,ノトセニアはスズキ目に属する魚類であるが,そ
のほとんどが南極海にのみ生息し,南極海の魚の全個体数の90%,種数で2/3を占める南極
海にきわめて適応した魚の仲間である)が生息していることから,その体液中には単なる
凝固点効果によらずに凍結を防ぐ耐凍物質が存在することが,1950年頃から予想されてい
た.そしてついに,1969年にノトセニアの血清から耐凍物質としてひとつのタンパク質が
分離・同定された.このタンパク質は(アラニンーアラニンートレオニン)の繰り返し構
造からなり,トレオニンの側鎖の水酸基に2分子の糖が結合していることが明らかとなった
ことから,耐凍糖タンパク質(antifreeze glycoprotein)と名付けられた(図7.1).その後,
耐凍糖タンパク質は,氷結晶の二次元方向への成長を抑制することにより,体液の凝固を
防ぐことが明らかにされた.また,その一次構造が解明された結果,驚くべきことに,耐
凍糖タンパク質の先祖タンパク質は,消化酵素の前駆体であるトリプシノーゲンであるこ
とが判明した.なぜ,耐凍性をもつタンパク質を生物が作り出すにあたって,機能的にま
ったく無関係なトリプシノーゲンを利用したのだろうか.南極海には魚類ばかりでなく,
大型の刺胞動物をはじめとする各種無脊椎動物が数多く生息しており,これらの生物の体
液中にどのような耐凍タンパク質が存在するのか興味が持たれる.
生物は進化の過程で水中から陸上へと進出するにあたって,生命の誕生以来維持してき
た数多くの遺伝子を失ったものと考えられる.したがって,陸上に比べ安定した環境を保
持してきた海洋に生息する生物は,太古からの遺伝子を数多く保持していることが期待さ
れることから,人類にとって最後に残された遺伝子資源の宝庫といえる.今後は,種数に
おいて魚類をはるかにしのぐ海洋無脊椎動物の遺伝子資源の探索とその活用が重要となろ
う. (豊原治彦)
【参考図書】
Carol M.Lalli,Timothy R.Parsons著(關 文威監訳,長沼 毅訳):生物海洋学入門,講談
社サイエンティフィク,東京,1996.