唯美主義 〔英〕aestheticism ァエル前派に引き継がれる。人間の営みにお ける美的価値の優位性という主張や,芸術や 自然から詩的洞察を得る豊かな想像力を持ち ながら――あるいは持っているが故に――実 イギリス思想史における「唯美主義」とは, 生活においては哀れなまでの無能さを露呈す 一般に,1860 年代後半から 90 年代にかけて る詩人という芸術家像など,後に唯美主義の の「唯美主義運動」(Aesthetic Movement)に 特徴と見なされる要素は,既にロマン主義に 典型的にみられた,美についての独特の見方, も現れており,そのため唯美主義がロマン主 すなわち,芸術や自然がもたらす美を,道徳 義の一形態と見なされることも少なくない。 や実用性といった日常生活において支配的な しかし,唯美主義は,美に,道徳や実用性 価値よりも重要なものとして――あるいはそ といった他の価値に対する圧倒的な優位性と うした価値と対立するものとして――捉える 自律性を認めた点において,芸術や自然の倫 見方を指し,同時代における「芸術のための 理的価値・宗教的価値に固執し続けたロマン 芸術」( l'art pour l'art),「世紀末」(fin de 主義やラファエル前派主義とは,決定的に異 siècle),「デカダンス」 (decadence)といった なっている。そして,唯美主義がイギリスに 様々な思潮を派生物として含んでいる。 おいて成立する際に大きな役割を果たしたの 古来,ヨーロッパにおいては「詩(または は,美的価値の自律性を理論化したドイツ観 芸術一般)の役割は,人を教え,かつ楽しま 念論の美学と,フランス象徴主義(更にはそ せることにある」というホラティウス的芸術 の起源であるエドガー・ポーの詩論)であっ 観が支配的であったが,唯美主義の最大の特 た。ジョンソンがいうように,イギリスにお 徴は,そうした芸術の教育的役割や実用性を ける唯美主義は, ロマン主義を母体としつつ, 重視する見方に抗して,美の自律性を強調し, 大陸からの深い影響の下に成立したといえよ 道徳的教訓や実用性を芸術にとっての夾雑物 う。 と見なした点にあった。そして,道徳や実用 性が支配する実生活から芸術を切り離し,美 的価値の自律性と優位性を唱えた点において, スウィンバーン スモールによれば,イギリスにおいて道徳 唯美主義は,ピューリタン的な道徳的リゴリ に制約されない美という唯美主義の核心を最 ズムや功利主義といった同時代の支配的思潮 初に述べたのはスウィンバーンであった。彼 とは対立関係にあったといえよう。 は,ラファエル前派の詩人 D.G.ロセッティと 以下では,代表的な思想家を挙げながら, フランスの象徴主義者 T.ゴーチェ――その 唯美主義の発生,展開,影響についてみてお 小説『モーパン嬢』(1835 年)には唯美主義 きたい。 宣言と呼ぶべき序文が付されている――の圧 倒的な影響の下,美の追求という至高の目的 唯美主義の発生 イギリスにおける唯美主義の前史を辿るな に比べればキリスト教倫理は無に等しいとい う唯美主義的な確信を抱くようになった。 らば,芸術や自然が与える美に,道徳や実用 彼の唯美主義の要諦は『詩と評論について 性とは異なる独自の価値を見出そうという試 のノート』(1867 年)で述べられている。同 みは,既にフィリップ・シドニーやシャフツ 書は,ヴィクトリア期の厳格な倫理観に反す ベリー伯(三代)によってなされており,18 るエロティシズムや涜神を描いた彼の『詩と 世紀末にはロマン派に,19 世紀半ばにはラフ バラッド』(1866 年)に浴びせられた批判に 対する応答のパンフレットであるが,彼はそ の感受性に依存すると述べている。ただし, こにおいて,美の探求としての芸術は,いか そのことは美が単なる主観的なものにすぎな なる道徳的制約からも自由でなければならな いということを意味してはいない。むしろ, いという主張を――おそらくはイギリス思想 個々の美しい対象には,それぞれに美の印象 史上初めて――行っている。 を生み出す固有の力が備わっており,認識主 唯美主義についてのまとまった作品を残す 観は,そうした快をもたらす特殊な力を的確 ことはなかったが,飲酒癖の悪化,生活の荒 に識別することによってのみ,深い感動を得 廃,肉体の衰弱に苦しみながら晩年を過ごし ることができるのである。そして,自然や芸 たスウィンバーンの姿は,唯美主義者につい 術における美しい個々の対象が美や快の印象 ての典型的なイメージの原型となった。 をもたらす特殊な力を識別することによって 深く心を動かされるという営みにおいて,芸 ペイター 術を創作する者と鑑賞する者の境界は曖昧と スウィンバーンの議論が専ら創作に力点を なり,更には両者に加えて,個々の美の印象 置いた芸術論としての唯美主義にとどまって の本質を言葉によって的確に再現する――い いたのに対し,人間の生の営みそのものを「芸 わゆる「印象批評」(impressive criticism)― 術の精神で」扱い,イギリスの唯美主義の流 ―批評家が大きな役割を果たすことになる。 れを決定的に方向付けたのは,オックスフォ 文芸批評の起源が唯美主義に求められる所以 ード大ブレイズノーズ・カレッジのフェロー である。 であったペイターであった。彼は主著『ルネ しかし,ペイターによれば,研ぎ澄まされ サンス研究』(1873 年)において,ジョンソ た想像的理性による美の享受という唯美主義 ンのいわゆる「観照的唯美主義」 的営為は,単なる自己保存を目的とした日常 (contemplative aestheticism)――非日常的な 生活によって次の二つのかたちで脅かされる。 観照による美の享受を説く唯美主義――を展 まず第一に,日常生活において支配的な単な 開している。 る知性は,芸術に形式と内容の区別を持ち込 同書の「序文」においてペイターは,唯美 み,作品に主題や内容に対する応答責任を強 主義の核心が芸術や自然のもたらす美の印象 いる――例えば内容として道徳的な教訓を求 を識別する感受性――ペイターはそれを M. める――ことで,形式と内容の分裂を悪化さ アーノルドに倣って「想像的理性」 せがちである。想像的理性に最も理想的な美 (imaginative reason)と呼ぶ――の陶冶にあ の印象がもたらされるのは,音楽のように形 ると論じているが,そこには,スモールが指 式と内容が融合するときであるが,絵画や詩 摘するように,1860 年代から 70 年代にかけ には形式と内容が分裂する危険性が不可避に て H.スペンサー,J.サリー,A.ベインらが行 伴う。ゆえにペイターは「あらゆる芸術は音 った,美的知覚についての心理学的研究の知 楽の状態を憧れる」とし,芸術作品を取り上 見が援用されている。すなわち,人間の活動 げる批評の主要な任務として「個々の作品が, を,単なる自己保存のための活動と,それ自 形式と内容の融合という意味で,音楽の法則 体が目的である活動に区別し,後者を「美的」 にどの程度接近しているかを評価すること」 (aesthetic)なものと呼び,その本質を快の印 にあると述べている。 象に求めたスペンサーらの議論を踏まえつつ, 第二に,日常生活は,型にはまった習慣へ ペイターは,美とは相対的なものであり,そ の同調を強いることによって人々の思考を妨 のありようは,美の印象を識別する認識主観 げ,美の享受を濁らせる。ペイターはそうし た流れに抗すべく「結論」において次のよう 発展させた点は注目に値する。いわば,ワイ な主張を試みている。いずれ死ぬことを運命 ルドにおいて,美は,道徳や実用性の支配す づけられた人間にとっては,その限られた時 る日常生活のみならず,過去の芸術がミメー 間の中で得られる数限りある脈搏だけが人生 シスの対象としてきた自然的な事物からも切 の全てなのであって,その中で追求すべき目 り離されてしまったのである。 的は,何か特定の「経験の果実」ではなく, 運動としての唯美主義は 1890 年代に最高 感受性の陶冶によってのみ到達しうる豊饒な 潮を迎え,以後は衰退の一途を辿るが,唯美 「経験そのもの」にほかならない。したがっ 主義が提起した問題は 20 世紀以降も様々な て、泡沫のような人生を有意義に過ごすただ かたちで引き継がれている。特に重要なもの 一つの方法は、日常生活を支配する習慣や偏 として,芸術の自律性を唱え続けている「自 見にとらわれることなく,想像的理性を洗練 律主義」(aesthetic autonomism)と芸術の社会 し,知的な興奮と偉大な激情を享受すること 的 役 割 を 強 調 す る 「 道 具 主 義 」( asethetic ――「硬い,宝石のような炎によって燃える instrumentalism)の論争や,美の探求が半ば意 こと」――である,と。 図せざる結果として持ちうる政治性という この「結論」は,チェスタトンが後に指摘 したように, 「刹那を楽しめ」という当時にお 「政治的審美主義」(political aestheticism)を めぐる議論などを挙げることができよう。 いてはあまりに過激な享楽主義を胚胎してい たために数多くの激烈な批判を招き,物静か 【主要文献】 な哲学者であったペイターは「本書を手にし Algernon Swinburne, Notes on Poems and Reviews, た青年を惑わすかもしれない」という理由で 1866(岡地嶺抄訳「詩と評論へのノート」同訳編『イ 1877 年の第二版から「結論」を省いている。 ギリス詩論集』下巻,中央大学出版局,1981). Walter ペイターの思想は,彼の教育を受けた G.M. Pater, Studies in the History of the Renaissance, 1873; ホプキンズ,L.ジョンソンのみならず,A.シ 4th ed., 1893(別宮貞徳訳『ルネサンス』富山房百科 モンズ,ジョージ・ムア,イエイツらに様々 文庫, 1977). Oscar Wilde, The Picture of Dorian Gray, な影響を及ぼすことになった。そして,その 1890; Revised and expanded ed., 1891(福田恆在訳『ド 最も悪名高い継承者となったのが,彼の教え リアン・グレイの肖像』新潮文庫, 1962). Ian Small ed., 子であり, 『ルネサンス研究』を「美しいデカ The Aesthetes: A Sourcebook, Routledge & Kegan Paul, ダンスの花」と讃えたワイルドである。 1979. Prettejohn, Elizabeth ed., After the Pre-Raphaelites: Art and Aestheticism in Victorian ワイルド以後 England, Rutgers University Press, 1999. R.V. Johnson, ワイルドの唯美主義の骨子は彼の小説『ド Aestheticism, Methuen & Co. Ltd., 1970(中沼了訳『唯 リアン・グレイの肖像』の増補版(1891 年) 美主義』研究社, 1971). I. C. Small, "THE Vocabulary に付された「序文」で述べられている。ワイ of Pater's Criticism and the Psychology of Aesthetics," ルドの思想は概ねペイターの見解を踏襲した The British Journal of Aesthetics, 18(1), 1978. 富士川 ものであったが,自然よりも力強く美の印象 義之・加藤千晶・松村伸一・真屋和子・荒川裕子『文 をもたらす芸術というペイターの見解を,絵 学と絵画――唯美主義とは何か』英宝社,2005. 小 画において重要なのは事物の再現ではなく色 田川大典「崇高と政治理論」,日本政治学会編『年 彩の配合と構図だというホイッスラーの反写 報政治学 2006-Ⅱ 政治学の新潮流:21 世紀の政治 実主義を援用しつつ,芸術の作為性や人工的 学へ向けて』 ,木鐸社,2007. な世界への礼賛という,より過激な見方へと (小田川大典)
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