歴史が息づく街の味わい

歴 史 が 息 づく街 の 味 わ い
マカオの 食 卓
佐保暢子[文] 久米美由紀[写真]
五百年近くに渡るポルトガルの統治は、マカオに南欧風のパステルカラーに
彩られた街並みと、敬虔なクリスチャンたちが集う美しい教会を残した。
南欧とは水と油ほど異なる中国の一角に落ちた水滴のように存在するマカオ。
そこにポルトガルの帆船が大海原を駆けた大航海時代の歴史を代々受け継ぐ
マカニーズと呼ばれる人々が暮らしている。
世界遺産となった建築群もさることながら、普段の食卓に並ぶ料理も彼らに
とっては歴史遺産なのだと言う。その味を確かめてみたくなった 私はマカオ
に向かう船に乗った 。
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写真:ファティマの聖母行列(聖ドミニコ教会)
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人 口 約 万 人 の マ カ オ で、わ ず か
3%という少数派のマカニーズの人々
ルトガルの支配下にあったインドのゴ
ア、マレーシアのマラッカなどの女性
マカオの街には、
﹁葡国菜﹂
︵ポルト
ガル料理︶の看板を掲げたレストラン
な い。祖 国 ポ ル ト ガ ル を 離 れ、海 を
う意味だが、純粋なポルトガル人では
﹁マカオ生まれのポルトガル人﹂とい
清代に入った 世紀末ごろから徐々に
たといわれている。中国人との婚姻は
渡った日本人キリシタンの血も混ざっ
大海原を越えてやって来た味
は、中国語で﹁土生葡人﹂と呼ばれる。 の後裔である。 世紀初頭、マカオに
はいくつもあるが、本格的なマカニー
渡ったポルトガル人男性と、かつてポ
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ズ料理を出す店はわずかしかない。
マカニーズの料理が素朴な家庭料
理で、よそ行きの料理ではないことが、
外であまりお目にかかれない主たる理
由だが、最近では人々の食生活が多様
化し、伝統料理を受け継ぐ若い世代が
少なくなったことも背景にあるという。
さて、このマカニーズ料理というの
は、いったいどんな料理なのだろうか。
年近く前、
﹃澳門雑誌﹄というマカ
オの政府刊行物にマカニーズの歴史文
化を紹介する特集があったが、この中
でマカニーズの家庭料理について説明
した下りに、
﹁そのレシピは一族の歴
史そのもの﹂と書かれていた。それが、
とても印象に残っている。
大西洋、インド洋、そして南シナ海
と大海原を駆けた大航海時代の歴史が
凝縮されたレシピ⋮⋮。そのひとつひ
とつのレシピから一族の歴史が見えて
くるとは、なかなか歴史ロマンをかき
たててくれる料理ではないだろうか。
[下]鹹蝦猪肉 /Porco Balicháo Tamarindo
マカニーズ料理の代表的な調味料であるバリシャオとタマリン
ドで豚のバラ肉を煮込んだ料理。タマリンドの酸味が効いた豚
の角煮といった感じだ。白いごはんとセットで出てくる。タマ
リンドはアフリカ原産のマメ科の木で、タマリンドを調味料に
使った料理はインドから東南アジアにかけて各地にある
像はふくらむのだった。
卓にも並んでいたかもしれないと、想
なければ、もっと多くの味が日本の食
歴史に﹁もし﹂はないが、日本がキ
リシタンの弾圧もせず、鎖国もしてい
マカオの先に長崎がある。
ルトガルからの海路を辿ってくると、
ルトガル人が日本に伝えたものだ。ポ
考えてみれば、日本の天婦羅や、金
平糖、カステラなどの南蛮菓子も、ポ
た独自な食文化を育んできた。
パイスや食材に中国の料理法も加わっ
オにたどり着くまでの道のりで得たス
語を持つ。そして、彼らの先祖がマカ
﹁Patuá︵パトゥワ︶
﹂という言
が混ざったクレオール語の一種である
語、 マ レ ー 語、 広 東 語、 日 本 語 な ど
彼らは様々な民族が混じり合った
エキゾチックな顔立ちと、ポルトガル
ぐには受け入れなかったためだ。
のは、中国人社会がクリスチャンをす
進んだ。中国人との混血が比較的遅い
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[右]免治 /Minchi
豚肉か牛肉のミンチの炒め物だが、ポテトや苦瓜、玉葱を入れ
るなど同名の料理でもバリエーション豊富。語源は英語なので
香港や上海租界に渡ったマカニーズから伝わったともいわれる
鹹蝦酸子
BalicháoTamarindo
小蝦を発酵させて
作ったバリシャオと
タマリンドの実を合
わせた味噌のような
調味料。バリシャオ
は、マレーからマカ
オに伝わったとされ、
マカニーズ料理に欠
かせない調味料の一
つとなっている
[上]蟹蓋 /Casquinha
南洋で捕れた蟹肉にきのこやチーズをまぜて殻につめ直し揚げ
た蟹コロッケ。地元食材を使ったマカニーズ料理の定番の一つ
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■海湾餐廳 / Restaurante Litoral
河辺新街 261- A
TEL:+ 853-2896-7878
伝統的なマカニーズ料理とポルトガル料理
を出すレストラン。
オーナーのマニュエラ・
フェレイラ氏もマカニーズである
[上]湯粉粉 /Sopa de Lacassá
むき蝦がたっぷり入ったビーフン。スープはバリシャオの出汁だ。ラカッサ
という名前がマレーシアやシンガポールのラクサと似ている通り、この地
域の影響を受けた料理だが、こちらは辛味の少ないさっぱりとした味だ
[下]葡国鶏 /Galinha à Macau(Pou Kok Kai)
鶏肉をターメリックを加えたココナッツミルクで煮込んだマカオ風シ
チュー。なめらかでほんのり甘味あるこのソースは、香港では「葡国汁」
(ポルトガルソース)の名で親しまれている
咖哩角 /Chilicotes
豚のひき肉を小麦の生地で包んで揚
げたカレー味のスナック。インドや
マレーシアからマカオに伝わったと
いわれる。マカニーズの家庭ではポ
ピュラーなおやつだという
研究し、マカオを代表する料理として
た。これは、クリスマスに食べる料理
れた時の話を嬉しそうに語ってくれ
マカニーズ・ル ネッサンス
1987年、ポルトガルと中国の両
政府が話し合い、 年 月にマカオを
中国に返還することを決めた。これに
よりマカニーズを取り巻く環境は大き
く変わっていった。中国化が進むマカ
オで今、マカニーズの若い世代が自ら
の文化を守ろうと動き始めている。
マカニーズ料理も見
こうした中で、
直され始めたようだ。マカニーズのセ
シリア・ジョルジ氏による﹃土生葡人
飲食文化﹄
︵2004澳門土生教進会
出版︶などマカニーズ料理の歴史や作
り方を写真入りで詳しく紹介する本も
登場している。そして昨年には、
﹁土
生葡人美食聯誼会︵マカニーズ美食連
誼会︶
﹂なる組織も誕生した。
にひとつの料理のジャンルとして高め
やイタリア料理、フランス料理のよう
﹁マカニーズ料理を、ポルトガル料理
ことにした。
そこで思い立ったら吉日と、私はこ
のマカニーズ美食連誼会を訪ねてみる
密主義﹂もあるようだ。レシピが一族
ここではかなくも砕け散った。
てみたい⋮⋮私のそんな一抹の期待は、
体系化していくという試みだ。バンデ
で、ポルトガルやブラジルにも似たよ
からレシピを聞き出そうとしていた
だけがその名人に見込まれ、彼女から
ていきたいですね﹂
満面の笑みで迎えてくれた会長の
ヒューゴ・バンデイラ氏は、こう意気
シピ﹂が思いのほか特別なものらしい。
したりして、マカニーズの社会は少し
の歴史そのものと語られていたように、
いかないのかもしれない。
だ。各家庭にレシピの提供を頼むとい
手に入れた時の喜びはひとしおだろう。
イラ氏は、一生の仕事として続けてい
うな料理があるが、バンデイラ氏が得
たレシピは、南洋の魚を使う特別な一
品だという。
、どれだけレシピが集
しかしながら
まったのかと尋ねてみると、予想外の
が、誰一人として教えてもらえなかっ
かつてマカオにエンパダの名人と
呼ばれる老女がいた。みながその名人
答えが返ってきた。実は、レシピを公
門外不出のレシピを 追って
きたいと話していた。
くのレシピを集めてマカニーズ料理を
レシピがある。そこで、できるだけ多
バンデイラ氏は、エンパダ︵魚角︶
と呼ばれる魚パイのレシピを手に入
名前の料理があっても、家庭の数だけ
それぞれの家庭が受け継いできたプ それにしても、レシピが門外不出の
ライベードなレシピであるため、同じ
特別なものであればあるほど、それを
う地道な作業を続けている。
同会が今、行っている作業は、マカ マカニーズのご家庭の食卓にお邪魔
ニーズの各家庭に伝わるレシピの収集
して、本格マカニーズ料理をいただい
危機感を抱いたのだと彼は言う。
カオに残された伝統の味が失われると、 おいそれと赤の他人に教えるわけには
ずつ変わっていった。このままではマ
中国の影響以外にも、ほかの西洋諸 どうやら伝統的なマカニーズ料理の
国の人たちと結婚したり、海外へ移住
後継者が少ない理由の一つに、
この
﹁秘
込みを語ってくれた。
旅遊学院のレストランでは、毎週金曜日にマカニーズ料理と
ポルトガル料理のディナービュッフェがある。
[澳門旅遊学院付属のレストラン]
澳門望廈山の旅遊学院内。マカニーズ・ディナー・ビュッフェは、
毎週金曜日の 19:00 ∼ 22:30 料金:一人 MOP180(12 歳以下半額)
開したがらない家庭が多いのだという。 た。しかし、バンデイラ氏のおじさん
マカニーズの社会では、
﹁我が家のレ
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1990 年代初めにマカオに誕生した、パトゥワ語(土生土
語)を使うアマチュア劇団「土生土語話劇団」の公演も定期
的に行われている。マカオに公立学校ができ、ポルトガル
語の授業が行われるようになってから、パトゥワ語は急速
に消えて行った。劇団員のほとんどが、新たにパトゥワ語
を学んだ若い世代のマカニーズたちだ。公演の時には、舞
台の後ろに、英語とポルトガル語と中国語の3つの言語の
字幕が出る
母親がマカニーズで、父親がポルトガル人というバンデイラ
氏(34)
。マカオ生まれのポルトガル育ちだが、母の手作りの
マカニーズ料理で育った。現在、マカオの旅遊学院で教鞭を
とる。古風な青いマントと帽子はマカニーズ美食連誼会のユ
ニフォーム。近年、海外在住のマカニーズを集めた世界マカ
ニーズ料理コンテストも開かれ、レシピの収集作業は少しず
つ進んでいるという
アイダ夫人は今も毎日、店に出る。マカニー
ズの家庭料理を中心にポルトガルの家庭料
理(中左)や魚の蒸し物などの中華料理も
出す
[下左]蟲仔餅 /Genete
毛虫のような形なので、この名が付いたマ
カオの名物菓子。片栗粉と卵黄、バターや
ラードを使い、口の中で溶けるように崩れ
る。マカニーズの社会では、クリスマスな
ど人が集まる祭事によく食べられた
[下右]椰角(椰撻)/Coqueira
砕いたココナッツの実をふんだんに使った
焼き菓子。かつてポルトガル領だったインド
のゴアにも似た菓子があるという
エンバダのレシピを伝授された。これ
はり晩酌の酒がワインである。
いえる豚のひき肉とポテトを炒めた免
カウンターのトレーに並んだおかず
は﹁奇跡の魚パイだ﹂と彼は言う。
を拝見すると、鶏モモ肉のカレー煮込
まるで拳法の奥義を伝授する師匠と
弟子を見ている気分で私は話を聞いた。 みのほか、マカニーズ料理の定番とも
将来、彼の手元に数々の﹁奇跡のレシ
治、バリシャオとタマリンドで豚バラ
でもお馴染みの肉と豆の煮込みである
肉を煮込んだ鹹蝦猪肉、ブラジル料理
ピ﹂が集まることを祈りながら⋮⋮。
ドナ・アイダのマカニーズ食 堂
フェジョアーダがあった。
御年 歳。マカオにわ
アイダ夫人は
角のほか、ケーキやプリンがあった。
ど作られなくなったという蟲仔餅や椰
幸 い に も、バ ン デ イ ラ 氏 か ら﹁ マ そして、テーブルには昔ながらの手
カニーズ料理の母﹂ともいえる女性が
作り菓子が並ぶ。今では家庭でほとん
やっている食堂を教えてもらった。
私は静かな住
少 し 遅 い 夕 飯 時 に、
宅地の中にあるその店、ドナ・アイダ
︵アイダ夫人︶が経営するマカニーズ食
堂﹁Riquexó︵利多︶﹂に着いた。
店 に 入 る と、ご 近 所 の 住人ら し き
人々が食事をしていた。メニューはな
い。おかずが並べられたカウンターで
食べたいものを指差して注文する方式
だ。よく冷えた白ワインがカウンター
脇の冷蔵庫の中に並び、その近くの棚
には赤ワインが並べられていた。
短パン、サンダル姿の中国人男性が
一人、店に入ってきて、冷蔵庫からポ
ルトガルの白ワインの小瓶を取り出す
と、カウンターでいくつかおかずを頼
んで席に腰をおろした。ここでは、や
ずかしかご存命でないというパトゥ
ワ語世代のマカニーズである。これほ
どのご高齢とは思えないほど若々しく、
今も現役で店を切り盛りしていた。
﹁昔はたくさんのポルトガル人が店に
来たけれど、みんなマカオを去ってし
まって、今では地元の中国人客が来る
ようになったわね。どこで料理を習っ
たかって?
子供の頃、母が作ってい
るのを見ながら覚えたのよ。それを自
分なりにアレンジしたの。我が家の歴
史?
あまりよく知らないわ﹂
アイダ夫人は若い頃、マカオの老舗
カジノホテルのリスボアでシェフとし
て働いた。当時はマカニーズ料理の知
識を請われ、国内外でマカニーズ料理
を教えてきたが、きちんと覚えた人は
いなかったと苦笑いする。ただ、彼女
のレシピは子供たちや前述のリトラル
う。
こうして伝統の味とともに
﹁歴史﹂
というレストランに受け継がれたとい
が引き継がれて行くのだろう。
私は免治と鹹蝦猪肉を注文し、席に
着いた。ポルトガル、アフリカ、イン
ド、マレーと旅を続け、マカオに根を
下ろしたこの素朴な味は、パンよりは
白いごはんによく合った。そして、ど
ことなく懐かしい味がした。■
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澳門士多紐拜斯大馬路 69号
TEL:+ 853-2856-5655
人力車のリキシャという名前
が付いた創業 30 年近くにな
る店。アイダ夫人
(上写真中央)
はポルトガル人の軍人だった
ご主人との間に一男二女をも
うけた。娘は一人、ポルトガ
ルに嫁に行き、もう一人の娘
(同右)が店を手伝う。息子さ
ん(同左)は今、上海でマカオ
料理店を経営している
■利多餐廳 /Riquexó