学生時代に映画のミニコミ誌につたない原稿をせっせと書い ていた。ミニコミ誌を主宰されていた佐々木毅氏とは爾来40年 近いおつきあいだ。いわば映画の師のおひとりである。佐々木さ んのご専門は教育学で、京都を離れられたあと、長らく東京の 国立研究機関の要職を務められた。本欄をご愛読くださってい て、前回のリチャード・フライシャーの実父に関する記述が不十 分だとのご指摘を頂戴した。紙幅の都合でアニメーション史の 巨人を疎かに扱ってしまったので改めて敷衍したい。 「ミクロの決死圏」(1966年)のリチャード・フライシャー監督の 父はマックス・フライシャーといい、弟のデイヴと組んで1920年 代にアニメーション・スタジオを立ち上げ、フライシャー兄弟として一世を風靡したアニメ界の先駆者である。正確にい うと、兄のマックスはプロデューサー、企画者としての才能が卓抜であり、もっぱら作画を担当したのは漫画家をしてい たデイヴのほうらしい。 フライシャー兄弟の代表作は一般には「ポパイ」であり、「ベティ・ブープ」である。私たちには懐かしい不二家提供の テレビ番組「ポパイ」だ。私もよく知らなかったのだが、ポパイはもともとエルジー・クリスラー・シーガーという漫画家が創 造したキャラクターだった。それをフライシャー兄弟がアニメ化の権利を獲得して劇場用の短編アニメを製作し大当た りした。加えて「スーパーマン」のアニメ化で成功を収める。また、最初のトーキー(発声)アニメはディズニーのミッ キー・マウスが声を発したことに始まるとされているらしいが、実際はフライシャー兄弟の作品が第一号だったそうだ (出処IMDB)。ディズニーもフライシャー作品から大きな影響を受けたようだ。かれらがパイオニアといわれる所以で ある。 戦前に劇場用の短編アニメとして製作されたフライシャー版のポパイはフルアニメーション(実写と同じスムーズな動 きを再現するため作画枚数が大量となりコスト高)である。一方、同じポパイでもコマ数の限られたリミテッドアニメで作 られたものがあり、こちらは動きが堅い(テレビ・アニメのほとんどはリミテッドアニメ)。画風も違ってブルートの顔が身体 に比べて大きく描かれている。たぶん、これが「トムとジェリー」で有名なハンナ=バーベラ・プロダクションの製作した新 版だろう。私はアニメについては素人なので専門的なことは知らないから、子どもの頃の記憶で書いている。 フライシャー兄弟の真価は、ポパイでもベティ・ブープでもなく、「バッタ君町に行く」(1941年、写真)だろう。いまでは アニメの古典的傑作として知られるこの映画も封切り当時は客足が伸びず、興行的に失敗したという。このへんから風 向きが変わり、兄弟は袂をわかってしまう。マックスの息子のリチャードが、ずっと後年になってフライシャー兄弟のライ バルだったディズニー・プロで実写映画「海底二万哩」(1954年)のメガホンをとっているのは何かの因縁を感じる、と は佐々木さんの感想である。 ところで、リチャード・フライシャーは娯楽映画を水準程度には仕上げるので、映画会社の受けはよかったが、演出に キレがないのと、題材を生かしきれない難があった。「ミクロの決死圏」を昨年浜大津のアレックスシネマで見直してみ て、改めてそういう感想をもった。むかし、日米開戦を扱った戦争大作「トラ・トラ・トラ!」(1970年)の製作にあたって、 黒澤明の共同監督として白羽の矢が立ったのがリチャードである。ところが、黒澤はリチャードの凡庸さを見抜き、初め から見下していたらしい。そのうち、黒澤が降板してしまい、アクション映画で注目されていた舛田利雄と深作欣二が 日本側監督に起用された。結局、完成した映画は話題性こそあったが、作品として首をかしげざるを得ない内容だっ た。20世紀フォックスの実力者ダリル・F・ザナック社長は、かつて大ヒットした「史上最大の作戦」(1962年)の轍を踏 んで共同監督方式を採用したのだろう。この方式は監督間のハーモニーがうまくいかないと、構成から何からすべて が空中分解して作品が破綻するリスクを増大させる。「トラ・トラ・トラ!」は、まさにそういう見本のような失敗作だった。 船頭多くして船が山に登ったのである。
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