An archive that sheds light on Tatsumi Hijikata and Butoh

国際交流基金 The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Artist Interview
2010.8.30
アーティスト・インタビュー
An archive that sheds light on
Tatsumi Hijikata and Butoh
アーカイヴが語る
土方巽と舞踏
Profile
森下隆(もりした・たかし)
慶応義塾大学アート・センター
慶應義塾大学 アート・センター「土方巽アー
カイヴ」
http://www.art-c.keio.ac.jp/archive/
hijikata/
それまでに存在したダンスの概念を覆す「舞踏」という日本生まれの身体表現は、
海外でも「BUTOH」として広く知られている。笠井叡や室伏鴻らがアンジェ国立
現代振付センターに招かれて長期にわたって舞踏を指導するなどワークショップが
行われることも多く、日本で想像する以上にその存在はダンスの新しい表現として
定着している。この舞踏を創り出したのが土方巽であり、2011 年はその没後 25
年にあたる。三島由紀夫の同名作品から発想と作品タイトルを得て創り出した舞踏
作品の嚆矢とされる 1959 年の『禁色』発表 から半世紀を超えて、舞踏は日本で継
承されているだけでなく、
「BUTOH」として世界中の表現者に今も影響を与えて続
けている。その土方に関するドキュメントを集めて整理しているのが、慶應義塾大
学アート・センターの「土方巽アーカイヴ」だ。土方の活動拠点であったアスベス
ト館の資料を引き継ぎ、98 年にスタート。今回は、アーカイヴを担当する森下隆さ
んに、アーカイヴの仕掛け人のひとりでもある舞踊評論家・石井達朗さんが、その
コンテンツと活動内容について聞いた。
(聞き手:石井達朗)
■
編集部 今年の 6 月 1 日に、世界が認めた舞踏家の大野一雄さんが 103 歳でお亡く
なりになりました。今回はその追悼の意味も込めて、舞踏の創始者とされる土方巽
さんについてご紹介したいと思いました。土方は 86 年に亡くなりましたが、公演の
映像や「舞踏譜」などのドキュメントを収集した「土方巽アーカイヴ」が開設され
ており、国内外への土方舞踏の貴重な紹介窓口になっています。インターネットで
も収蔵資料のリストや土方巽の活動年表などが公開されていていますが、特にその
多彩な活動を、ポスターをインデックスにして関連資料を公開している「HIJIKATA
Portas Labyrintus」は入門者にもわかりやすい情報源となっています。アーカイヴ
の話に入る前に、まずは、石井さん、森下さんそれぞれから土方さんとの関わりな
どについてお話いただけますでしょうか。その後、石井さんから森下さんに、アー
カイヴの現状についてご質問いただければと思います。
石井 舞踏は、日本にいて想像する以上にダンスの新しい表現として世界に定着し
ています。それは、舞踏というものが、西洋のバレエに代表されるシンメトリカル
な身体の美しさを基盤にした美学を根底からくつがえすアンチテーゼを提示したか
らに他なりません。つまり、病や老い、障がいなど、一般的には人の社会のなかで
ネガティブに捉えられている身体性を、強度をもった舞台の表現としてとして提示
したわけです。その舞踏の中心にいた、カリスマ的な創始者といっていい人が土方
巽であり、1959 年に土方が発表した『禁色』が舞踏の嚆矢と言われています。
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残念ながら、私自身は存命中に個人的なお付き合いはありませんでしたが、土方
が亡くなった翌 87 年に、私が教鞭をとっている慶應義塾大学の日吉キャンパスで土
方巽を特集した舞踊学会が開催されました。ドナルド・リチーさん、武智鉄二さん、
土方巽夫人の元藤燁子さんが参加し、学会からは市川雅さん、国吉和子さんが出席
しています。私はリチーさんの通訳を務めました。土方の拠点であったアスベスト
館が私の家から近いということもあって、それ以来、元藤さんと色々とお話するよ
うになりました。
舞踏という新しいフォルムが日本から生まれ、様々な問題を提起して世界の舞踊
の歴史の中で、とくに現代舞踊の流れの中で、これだけ影響力をもっているわけで
すから、本来なら政府や県・市などの自治体が、国内外の研究者・舞踊関係者の助
けになるような施設をつくるべきだと考えていました。しかし、残念なことになか
なかそういう状況にならない。そこで小規模でもいいので、慶応義塾大学のような
私立大学の立場で少しずつできることからそういう作業を始めた方がいいのではと
思い、元藤燁子さんと相談し、同時に大学のアート・センターに呼びかけました。
その双方から非常に前向きの回答が得られて、1998 年に「土方巽アーカイヴ」を
開設するに至ったわけです。なお私自身はずっとアート・センターの所員としてアー
カイヴに関わってきましたが、現在は森下さんが中心になって運営されています。
森下 私はアスベスト館に設置されていた資料館を運営していたので、アート・セ
ンターのアーカイヴにも協力することになりました。当初は、アーカイヴ開設記念
で出版された『四季のための二十七晩』という本の編集からはじまって催しがある
時などに関わっていましたが、2003 年から正式なスタッフになりました。
そもそもの土方との出会いですが、学生時代にまで遡ります。当時、私は早稲田
大学の学生だったのですが、映像に興味があって、何かのきっかけでアスベスト館
にフィルムを借りに行きました。1972 年だったと思いますが、それからアスベスト
館に出入りするようになりました。
当時、アスベスト館では土方や舞踏に興味を持って訪ねてくる若者を誰でも受け
入れていて、弟子たちは皆が共同生活をしていました。美大生とかが出入りしてい
る間に、
自ら舞踏をやるようになるといった感じでした。私も出入りしているうちに、
土方の口述筆記を手伝うようになりました。
ある日、
「今度大きな公演をやるから森下君も制作を手伝って」と土方に言われて。
それが 72 年 10 月の『四季のための二十七晩』でした。それまで舞台芸術とは無縁
だった私が、その時はじめて、公演の会場探しから土方について歩きました。
石井 『四季のための二十七晩』というのは、72 年 10 月 25 日から 11 月 20 日まで
「燔
犠大踏鑑・第二次暗黒舞踏派」結成記念公演としてアートシアター新宿文化で催さ
れたもので、
『疱瘡譚』
『すさめ玉』
『硝子考』
『なだれ飴』
『ギバサン』を連続公演し
たエポックな舞台でした。これは舞踏の歴史半世紀の中でも、一つの頂点となる作
品です。森下さんはアスベスト館の最も重要な時期のひとつで土方と出会ったわけ
で、幸運でしたね。
森下 私自身は舞踏家をめざしてアスベスト館に行ったわけではないですし、共同
生活をともにしたわけでもなかったので、他のダンサーとは少しスタンスが違って
いました。もちろん稽古は観ていましたし、
『四季のための二十七晩』のときには
半分泊まり込みのような状況でした。土方の舞踏を生で見たのは「四季のための
二十七晩」が初めてだったので、もちろんもの凄く感動して、土方の言うことは何
でも聞かなきゃ、という状態になった(笑)。
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ただ、踊りをやる人や演劇をやる人は土方の前に出ると非常に緊張していましたけ
ど、私は土方に畏敬の念をもっていましたが、緊張するというのではなかったです
ね。制作を担っていた元藤さんの下に付いて制作を手伝っていたからでしょう。もっ
とも、お弟子さんたちと同様、土方を「先生」と呼んでいましたが。
石井 大学卒業後はどうされたのですか。
森下 大学院にも行ったので、その間、学生時代は公演の度に手伝いに行っていま
した。そして、78 年に土方はアスベスト館を閉じて、全く動きを止めてしまいます。
公演もなくなり、私もこの年のパリ公演(フェスティバル・ドートンヌ「間展」)を
最後に、アスベスト館を離れることになります。すでに編集の仕事に就いていたの
ですが、その後、出版社に就職しました。しかし、亡くなる 2、3 年前、また土方が
動き始め、私にも土方から声がかかりました。亡くなる前年の 85 年に、アスベスト
館に戻ってもう一度、制作を手伝い始めました。
石井 土方は身近にいるいろいろな人に口述筆記をさせていたと聞いてます が、そ
のことを聞かせてください。
森下 当時、土方は出版社などから原稿を依頼されると、自分で書くことはなくて、
口述していたのです。それを元藤さんや私やお弟子さんが聞き書きして原稿にまと
めていました。土方の頭の中にはだいたい構成ができていて、ちょっとしたエッセー
などは口から出てくる言葉がそのまま文章になっていましたね。ある程度、元にな
るノートをつくったりしていたのか、とにかく頭の中で整理してから口述していた
ようで、手直しすることはあまりありませんでした。
でも、時々変な言葉が入るので、筆記する方としては一応辞書を引く。引いても
辞書にない言葉もありました。それでもかまわないと言っていました。83 年に白水
社から出版された『病める舞姫』は 77 年から 78 年にかけて雑誌「新劇」に連載さ
れた原稿を元にまとめたものですが、私もその一部を口述筆記していました。
同じ執筆方法で作品は書いた太宰治と比べても興味深いところです。土方は普段
の座談がものすごく面白い人で、いかにも東北人だったのですが、残念ながらそち
らの記録はほとんどありません。
石井 『病める舞姫』は、今日では土方の舞踏のバイブルとでも言うべき著書とされ
ています。彼が幼少期をすごした東北地方の記憶を辿りながら、身体のイメージを
凝縮したさまざまな言葉が、独特の文体で綴られています。独特の訛りや語法は、
日本人が読んでも理解できない箇所がたくさんあり、非常に難解です。たとえば、
「誰
かが死んでくれればいい、そんな思いで縁の下にもぐり込んでいると、確かに誰か
が死んだ後なのだろう、その暗がりで蜘蛛が糸を張っていた」とか。あれも口述筆
記だったんですか。驚きました。
ところで、本題の「土方巽アーカイヴ」について伺いたいと思いますが、設立の
経緯については私も関係者のひとりなので少し紹介すると。アーカイヴの元になっ
た資料は、土方が亡くなった直後から元藤さんが私財を投じて整理されていた「土
方巽記念資料館」の資料を引き継いだものですよね。
森下 ええ。86 年に土方が亡くなった時に、全集の出版企画とともに、すぐに資料
館の計画が持ち上がりました。資料館の事務局を立ち上げ、かなり早い時期に資料
館の設立をみました。運営委員として色々な先生方にも来ていただき、年に 1、2 回
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は総会を行っていました。
石井 運営委員はどのようなメンバーだったのですか。
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森下 芦川羊子、飯島耕一、池田龍雄、池田満寿夫、磯崎新、大岡信、大島渚、唐十郎、
中西夏之、細江英公、横尾忠則……といった方々で、顧問には石原慎太郎、大野一雄、
堤清二、三好豊一郎、吉岡実の方々に就いていただきました。
石原さんはもちろん舞台をずっと観てらっしゃいましたし、資料館で土方巽展を
紹介するためのビデオをつくった時も、横尾さんと石原さんに出演していただきま
した。
初期の頃から、色々な方が土方の周りにいました。アスベスト館は一種の文化サロ
ンのような状態で、前衛的な芸術家がお互いを刺激しあっていた時代でした。
そうした方々に運営委員になっていただいて、アスベスト館で資料の収集・整理
を進めていましたが、何しろ資金面のやりくりは苦しいものでした。独立した施設
を設置することはかなわず、資料館の理念や運営自体にも行き詰まりがみえてきま
した。その頃です、石井先生が元藤さんに慶應義塾大学でアーカイヴを立ち上げる
という提案をされたわけです。
石井 当時、アート・センターの中にはアーカイヴが幾つか出来ていました。それ
で元藤さんに、大学で土方巽アーカイヴをスタートできたらと思っているのですが
その節にはご協力いただけますか、と相談にうかがいました。すくに快諾していた
だいたので、97 年にアート・センターの副所長だった前田富士男さんと所員の楠原
偕子さんに相談しました。二人とも「ぜひ」という返事だったので、アーカイヴの
立ち上げ準備に入りました。大変だったのは、デジタル・アーカイヴの理念やシス
テムをどうするのかという問題でした。
森下 アーカイヴの基本理念を構築されたのは、前田先生です。研究アーカイヴと
いう性格を付与した上で、その基本理念のひとつが「ジェネティック(genetic)
」
ということでした。「ジェネティック」というのは文字通り、ものごとを発生学的に
捉えるということで、アーティストの資料を収集・展示するのではなく、その創作
の過程、プロセスを重視し研究するアーカイヴを目指すということです。同時にアー
カイヴ自体も、ジェネティックであらねばならない。つまり決して固定することな
く、常に生成し続ける存在であるべきだとして、土方アーカイヴもそうした理念に
基づいて運営されています。特に土方アーカイヴの場合は、土方巽という個人から
出発しているので膨大な資料があるわけではないので、前田先生は日本におけるアー
カイヴのモデルにしたいと考えていたのでしょう。
活動のための資金としては、文部省(現・文部科学省)の助成を得て、大学アー
カイヴ構築がすでにスタートしていたのですが、新たな土方アーカイヴの発足にあ
たっては、セゾン文化財団の助成もいただいて、事業が実施できました。
初年度は資料の移転から再整理を進めましたが、土方アーカイヴをお披露目する
ということで、開設記念行事として「《四季のための二十七晩》をめぐって」を開催
しました。展示、シンポジウム、上映(
『疱瘡譚』
)
、それに舞踏とワークショップま
で多彩な催しと『燔犠大踏鑑 四季のための二十七晩』の編集・発行で、この記念
碑的公演を総合的に検証しました。
石井 アーカイヴが収集し所蔵する具体的な内容を紹介してください。
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森下 アーカイヴの構築にあたって、土方の舞踏活動をめぐっての、ありとあらゆ
る資料を集めました。一次資料としては当然のことながら、公演に関わるチラシや
ポスター、チケットといったエフェメラから、パンフレットやプログラム、オブジェ
や美術作品の類。それから土方と彼の周辺の人の生原稿もあります。
そして公演の記録写真。これは写真家の協力を得て、徐々に収集してきて、現在は、
1 万点を超えています。映像もアスベスト館で元藤さんが意欲的に収集されていた
ので、かなり揃っています。60 年代の舞台を記録したものとしては『あんま』『バ
ラ色ダンス』
『肉体の反乱』などの 8 ミリフィルムが残っていて、72 年からは 16
ミリフィルムになっています。それ以降のアスベスト館での公演はすべてビデオで
収録されたものです。また、ドキュメンタリーが 3 ~ 4 本、土方が出演したいわゆ
る劇映画が 10 本以上。
写真やフィルムは、権利問題もありますので、いろいろ調整しながら徐々に公開
しています。
他には、もちろん土方所蔵の書籍。土方の思想を形成した、あるいは創造のイン
スピレーションとなったことを示す書き込みがあるものもかなりありますが、まだ
あまり公開していません。それから土方の使った音楽が、オープンリールのテープ
の状態で大量に残っています。整理は終わっていますが、まだデジタル化されてい
ないので、原則として公開はしていません。
2 次資料として、新聞や雑誌記事は網羅しています。また、日本語の書籍はもち
ろん収集していますが、近年では外国人の研究論文が目立っています。
石井 土方巽の名が世に出る以前、1940 ~ 50 年代の資料についてはいかがですか。
森下 その時代の資料はほとんど残っていないと思います。土方がダンスをしてい
る写真で一番古いのは 57 年のもので、土方と共作・共演していて、後にブラジルに
行かれた小原明子さんが所蔵されていました。舞踏創造の原点といえる頃です。一
昨年、私がブラジルに行った時に複写させていただきました。
石井 土方自身が書いた資料としては何が残っていますか。演出ノート的なもの、
日記などはありますか。
森下 いわゆるノート類では、元藤さんの手元に残ったままでまだ整理がついてい
ないもの、創作をうかがわせる未発表ノートが少しはあるようです。紙の資料とし
て最も重要とされているのが、後に「舞踏譜」と総称されるようになった一連の資
料です。アスベスト館に残されていた「舞踏譜」は土方アーカイヴで収蔵していま
すが、重要な踊り手である芦川羊子さんらお弟子さんたちの手元には、各人の貴重
なノート類が保管されていると思います。
石井 舞踏譜は土方の舞踏の原点を考えるうえで重要です。ただし、西洋でいうと
ころのいわゆるダンス・ノーテイション、例えばラバンの「ラバノーテイション」
などとはまったく違います。舞踏譜の特色はなんですか。
森下 土方の「舞踏譜の舞踏」ではすべての動きに名前が付けられています。つま
り記号化されているのです。その動きを繋げていけば作品になっていくというのが
土方の「舞踏譜の舞踏」の創作方法でした。だから、いわゆる台本の類はなくて、
「舞
踏譜」と呼ばれるものが残されています。
「舞踏譜」として、土方が画集や美術雑誌などのからの絵画作品の切り抜きを貼り
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付けたスクラップブックがあり、これらに新しい動きの原理についてのメモがあり、
絵画を動きのリソースにしたり、動きの名前や切り抜きのどこをどう使うとか、ど
ういう衣裳にするかといった書き付けを見ることができます。また、大きな模造紙
に記したもの、ちょっとした紙切れに書き付けたものなどいろいろあります。
「舞踏
譜」の中でその内容が一番はっきりわかるのは、稽古のときに土方が喋ったことを
お弟子さんが筆記したノートの類です。ここに、動きの名称と動きの注釈というか、
暗喩的な詩的な表現ですが、イメージをインスパイヤーする言葉が残されています。
いずれにしても、「舞踏譜」は土方の創造のプロセスや方法論がそのまま示された
貴重な資料で、今読んでも非常に興味深く、土方舞踏の研究に不可欠です。アーカ
イヴの「舞踏譜」を元に博士論文を書いた外国の研究者もいます。
石井 個々の動きに名前を付けて、舞踏譜によって踊り手が動きを再現できるよう
にしたことが、1970 年代における土方の舞踏の画期的な方法論だと思いますが、舞
踏譜の解読は非常に困難です。誰もが訓練によってそれを読めて、動きを再現でき
るという客観的なものではないですね。
森下 その通りですね。
『四季のための二十七晩』の中の一作品である『なだれ飴』
のように、ある作品のためにまとめられたスクラップブックもありますが、ほとん
どは土方の頭の中の発想やイメージ、アイデアが記してあるようなものです。ノー
テーションとはいえ、記号表現の集成でしかないテキストから、我々は実際の動き
を読み取ることはできません。しかし、お弟子さんは、書き付けられた名前によっ
て動きを再現できます。例えば、和栗由紀夫さんの場合は、1,200 ~ 1,300 の動き
を土方からもらっていて、和栗さんはそれらの動きの名前を聞けば、ただちにすべ
ての動きを再現できるわけです。
土方は非常にたくさんの動きを創造・開発したわけですが、「舞踏譜」の研究では
どういう動きがあって、それらが何をリソースとして、どういうコードで創造され
たのかという問題をまず考えなければいけません。次にそれをどう作品化していっ
たのかという問題があります。加えて、土方には作品化するだけではなく、
「舞踏譜
の舞踏」という、もっと後世に残る様式的なものを作りたいという欲望があったと
考えています。
石井 こうした舞踏譜の研究がアーカイヴの極めて重要な活動となっていますが、
舞踏譜の研究以外の活動についてはいかがですか。
森下 当初からの一番重要な取り組みが、資料分類と資料のデジタル化です。そして、
資料のインヴェントリーの作成とデータベースの構築をはかりながら、アーカイヴ
を公開してきました。
また、土方巽アーカイヴが開設されたことで、アスベスト館時代では収集できな
かった資料もいろいろな方から寄託、寄贈していただけるようになりました。そう
した収集活動やそれに関わる著作権関係の調整なども行っています。写真について
言うと、何人もの写真家の方々のご協力で、紙焼きだけではなく、ネガフィルムな
どもかなり収集できています。
それから土方にと関わりのあった方々にヒアリングを行い、記録する作業も進め
ています。また、アーカイヴなので催しをやるのはなかなか難しいところがあるの
ですが、資料展やカンファレンス、舞踏関連の催しも行っています。毎年国内外の
ダンサーを招いての公演を行い、今年 3 月には『病める舞姫』を秋田弁で朗読する
会も行いました。他の大学や美術館、あるいは海外の研究機関などの依頼で講演、
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展示、上映会などを行うこともしばしばです。
石井 展示でいうと、2000 年には「バラ色ダンスのイコノロジー 土方巽を再構
築する」が開催されました。『バラ色ダンス─ A LA MAISON DE M. CIVECAWA』
は 65 年に発表された作品で、美術には中西夏之、横尾忠則、加納光於、赤瀬川原平、
風倉匠という同時代の前衛アーティストが参加しています。また、音楽にも小杉武久、
刀根康尚が参加するなど、舞踏と美術と音楽のコラボレーションとも言える作品で
す。
森下 『バラ色ダンス』は土方の比較的初期のもので、横尾さんや中西さんからお話
をうかがい、資料をいただいて調べてみたら、土方の創作プロセスがいくつか明ら
かになってきました。舞台美術や衣裳では、土方のアイデア、中西さんの提案が相
まって具体化されています。横尾調を決定づけた有名なポスターも、土方、中西さん、
横尾さんのシナジー効果と言えるほど、各人のアイデアの結晶です。
土方は日本のディアギレフといわれるほど、多彩なアーティストの才能を吸い上
げまとめていったのです。それで、プロセスを研究するジェネティックなアーカイ
ヴのモデルケースになるのではと、展覧会のテーマに取り上げました。
石井 土方は天才的な人であったことは確かだと思いますが、彼がいくら天才でも、
すべてが自分の中から湧き上がるように出てきたわけではなく、アントナン・アル
トーやジャン・ジュネから始まって当時の日本の多様な分野の才能あるアーティス
トたちなど、実に様々な人たちから彼は刺激を受けそれを自分の中へ蓄積してゆき
ました。
『バラ色ダンス』もサブタイトルにあるように澁澤龍彦へのオマージュだと
言われています。そうした創作のプロセスを研究するというのは、土方に関心のあ
るすべての人にとって大変興味のあるところだと思います。そのアプローチのひと
つが、舞踏譜を元にした「動きのアーカイヴ」の作成です。その詳細を紹介してい
ただけますか。
森下 「動きのアーカイヴ」は和栗由紀夫さんと山本萌さんに協力をお願いしていま
す。例えば山本萌さんが 76 年に土方から振り付けてもらった『正面の衣裳』という
作品があります。この作品については、萌さんが土方の言葉を記録した詳細な舞踏
ノートと実際の舞台の記録映像が残っています。萌さんの舞踏ノートは、土方から
言われたことをすべて書き留めてある非常に貴重なもので、私たちはこれを用いて
そこに記された動きを復元できないかと考えました。
その作品のために萌さんが土方からもらった動きは 330 ばかりあるのですが、そ
の一つ一つを復元して、萌さんに実演してもらってすべて撮影し記録しました。萌
さん以外では、和栗さんが『舞踏譜』としてまとめた冊子に記された動きもすべて
実演していただいて収録済みですし、ほかに小林嵯峨さんのものも少しあるので、
それらをすべてあわせると、映像に収めた動きは 1,500 ~ 1,600 ぐらいあります。
「動きのアーカイヴ」は、残されている「舞踏譜」を映像化することで、土方の「舞
踏譜の舞踏」の構造を解明し、動きの開発と振付の方法論を明らかにしていこうと
いうプロジェクトです。ただ、今はまだ映像のコレクションとしてサーバーやハー
ドディスクに入っているだけなのですが、いずれ映像のデータベースを構築したい
と考えています。それが、世界でも稀な映像の「舞踏譜」になると考えています。
過去の資料の収集・保存だけではなく、現在的な解釈を加えての新たな資料創造の
作業といえます。
すでに、プロジェクトの成果として、『土方巽 舞踏譜の舞踏 Hijikata Tatsumi
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Notational Butoh』
(日・英語版)という解説 DVD を制作し、また映像化のプロセ
スを紹介しながら「舞踏譜の舞踏」を理論的に示した『土方巽 舞踏譜の舞踏─記
号の創造、方法の発見』を刊行しています。
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石井 実演する時には、衣裳などはどうしていますか。
森下 衣裳などは一切考えず、純粋に動きだけを求めています。土方の舞踏の構造
と方法論を探るのが目的なので、今のところある意味で作品そのものにあまり興味
がないと言っていいかもしれません。実演者のコメントも私が取材して、蓄積して
います。
土方の「舞踏譜の舞踏」の方法は、厳しい稽古で習得された動きを連続的に繋い
でいくのですが、それでシーンを構成し、シーンとシーンを繋げて作品化しています。
徹底した振付を行うのですが、予め決められた流れや一貫したテーマ(物語)をダ
ンサーに提示して踊らせているわけではありません。
石井 映像に収めたその 1,500 の動きを使って、誰かが新しい舞踏作品をつくる可
能性もあるということですか。
森下 それを期待しているところもあります。ただ、こういう作業に対して、「そん
なものを撮って何になるのだ、土方がいなければ意味がないじゃないか」という批
判もありますし、その理屈もよくわかります。でも、もしかしたら別の天才的なダ
ンサーが現れて、土方の方法論を使う可能性もあるわけで、それはそれでいいので
はないでしょうか。
石井 昨年開催した最新展示では、60 年代の土方舞踏の集大成と言われるソロ公演
『土方巽と日本人─肉体の叛乱』を取り上げました。
森下 慶応義塾大学のアート・センターには、土方巽のほかに、瀧口修造、油井正一、
イサム・ノグチのアーカイヴがあります。そのアーカイヴが共通のテーマで展示企
画を行うアート・アーカイヴ資料展の企画として『1968 ─肉体の叛乱とその時代』
展を開催しました。
『肉体の反乱』は、1968 年という日本における学生運動のピー
クを象徴する時代の転換点に発表されたものです。アーカイヴ資料展では、そのこ
とを意識したインスタレーションを行いました。
展示につづいて編集した冊子『肉体の叛乱─舞踏 1968 /存在のセミオロジー』
では、
『肉体の叛乱』のたくさんの収集写真を掲載し、チケットの販売ノートや観客
リストといった今まで公開していなかった資料も全部出しました。それから、中西
夏之さんの舞台美術に対する考え方を改めて確認したいと思い、論考とともにそう
した資料もすべて掲載しています。
石井 『肉体の反乱』についての舞踏譜は残っているのですか。
森下 いえ、残念ながらそれは残っていません。
「舞踏譜」があったのかどうかもわ
かりませんが、音楽データをはじめ制作上の資料はほとんどありません。
石井 そうすると、土方自身が残している舞踏譜と実際の作品を一番対応しやすい
のは『四季のための二十七晩』ということですか。
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森下 『四季のための二十七晩』の 5 作品のうち、作品によっては、
「舞踏譜」にそっ
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石井 『四季のための二十七晩』に関して、舞踏譜という形ではなくて、他に何か書
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土方巽と舞踏
て部分的に復元が可能といえます。
き残したようなものはないのですか。
森下 新聞の取材を受けて喋ったりしたものはあります。もっとも、
「東北歌舞伎」
といったキャッチフレーズを掲げたりしますが、そういった時に作品や表現で自分
の考えていることをストレートに喋るということは絶対になかったのです。
対談などでも、土方は具体的な方法論などに触れていないので、他の誰かが解明
するしかない。ただ、喋っていることのどこかには本当のことがあるので、それを
捉えると言うか、探り当てる必要がある。
それは、たとえば土方は自身の経歴についても同じで、たくさん嘘をついている
んです。自分は 11 人兄弟で、男は全部戦死し、女は全部女郎だったみたいなことを
言うわけです。土方にとっては、韜晦にも何らかの真実があるのでしょう。しかし、
そうした話がまことしやかに伝わって、海外の研究者がその話を元に土方の伝記的
な紹介文を書いてしまったこともあります。
石井 土方の有名な言葉に、
「私は、私の体のなかにひとりの姉を住まわせている。
私が舞踊作品を作るべく熱中するとき、私の体のなかの闇黒(やみ)をむしって、
彼女はそれを必要以上に食べてしまうのだ。彼女が私の体の中で立ち上がると、私
は思わず坐りこんでしまう」
(「犬の静脈に嫉妬することから」)というのがあります。
彼の生い立ちと併せて考えると、こういう言葉は本当に我々のイマジネーションを
くすぐりますが、どこまでが事実でどこまでが彼の強烈なイマジネーションの世界
の言葉なのかわからない。
森下 舞踏の創造を考えるにあたって、実であれ虚であれイマジネーションが結び
つくことはかまいません。ただ、私のようなアーカイヴに関わる立場で言えば、で
きるだけ事実を押さえていくということだと思います。土方の年譜についても徹底
的に資料にあたって整理を行い、アーカイヴで公開しています。この後新聞連載の
ために、生い立ちを含めて土方の評伝となる原稿を書こうとしているところです。
石井 アーカイヴの活動としては、97 ~ 98 年に池田 20 世紀美術館で開催した「美
術と舞踏の土方巽展」のような美術から舞踏にアプローチするような展覧会にも協
力しています。
森下 美術から舞踏にアプローチするような展覧会は、89 年、横浜市民ギャラリー
で「土方巽とその周辺展─舞踏と美術の表現世界を探る」という大きな展覧会を開
催したのが最初で、この辺りから美術と舞踏をからめて展示ができることがわかっ
て何回かやりました。大きなものの最後は川崎市岡本太郎美術館の「肉体のシュル
レアリスム 舞踏家土方巽抄」展です。
石井 今後もまだまだ資料が出てくると思いますので、デジタル化や再整理の作業
は引き続き必要だと思います。それ以外に森下さんがアーカイヴで今後やってみた
いと考えているプロジェクトはありますか。
森下 今さらですが、舞踏が直面している課題の一つは国際化ということです。現在、
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国際交流基金 The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Artist Interview
An archive that sheds light on
Tatsumi Hijikata and Butoh
アーカイヴが語る
土方巽と舞踏
土方に関連する文献で流通しているもののほとんどは、英語やフランス語などで書
かれた文献です。それらが日本ではきちんと紹介されていません。これを何とかし
たいと思っています。海外の人の書くものがすべて良いかどうかは別にして、海外
で土方を含めて舞踏について何が語られているのか、我々も承知しておきたいと思っ
ています。
2009 年 1 月に催した「国際舞踏カンファレンス」に招いたシルヴィアンヌ・パ
ジ ェ ス さ ん が 発 表 さ れ た『La reception du buto en France: malentendus et
desires』は大きな刺激になりました。それで、というのではありませんが、2002
年にフランスで刊行された舞踏論集である『BUTÔ(S)』を、抄訳ですが、アーカイ
ヴでは翻訳を始めています。
石井 日本と海外とを行き来する舞踏に関するサーキュレーションは本当に必要で
すね。海外では、舞踏というものに対しての考え方が良くも悪くも一人歩きしてい
る部分がある。でも振り返ってわが身を見れば日本でも同じようなことがあるわけ
です。もっと舞踏を軸にした国際的なサーキュレーションをつくる必要があると思
います。
森下 今一つが、舞踏の歴史化です。国内での舞踏離れと合わせ鏡にして、舞踏の
歴史を再考する時期にきていると思います。
舞踏家も我々も、
「舞踏とは何ぞや」という根源的な問いに突き当たると、もう一度、
土方に戻ろうとします。土方はあの時どう言ったのか、何を考えていたのか。それ
を知ったからと言ってすぐに自分にとっての答えが出るわけではありませんが、答
えを考える元になるものを用意しておく必要がある。我々はもちろん土方にはなれ
ないけれど、土方の語ったこと、やったこと、考えたことの一部を提示することは
できる。土方巽アーカイヴの役割は、それをやり続けるということだと思います。
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