1157 7 ( 9 ) :1 1 5 7 1 1 6 1 ,2 0 1 5 BRAI N andNERVE 6 河内十郎 × 酒井邦嘉 (聞き手) ノーマン・ゲシュヴィンド【中 編】 ボーゲンの講演を聴くゲシュヴィンド 198 2年夏の国際シンポジウムの風景。 手前左側の後姿がゲシュヴィンド。机の 上には愛用のパイプがみえる。演者はス ペリーたちとの 離脳研究において 離 脳手術を行ったボーゲン。 (前号からの続き) 正常で,左手で書くと 失 書(agr aphi a) を示す患者でしょう워 。右手で書くときに 웗 離断症候群の復興 は左の運動野から指令が出ていて,言語の 情報を左脳にある言語野から受けとりま 酒井 す。 えたのは,デジュリーヌのほかにもリープ 一方,左手で書くときには右の運動野か マ ン(Hugo Li epmann;1863-1925)の ら指令が出ていて,脳梁を介して左の言語 の症例웋 が挙げられるでしょう。 웗 野から言語の情報を受けとります。もし脳 失行症(apr axi a)は,運動麻痺がないの 梁線維の損傷があれば,言語野と右の運動 に意図的な行動ができなくなるという高次 野が離断するため,左手で字が書けないこ 脳機能障害です。リープマンは,失行を異 とを説明できるでしょう。実際に剖検で脳 なるタイプに 梁の広範囲な梗塞が確認されました。 失行 ©IGAKU-SHOIN Ltd, 2015 ゲシュヴィンドに重要なヒントを与 河内 けて説明を試みました。 リープマンの理論を批判的に発展さ 脳梁線維の離断の研究は,いわゆる せて,失行症は離断症候群であると確立し 離脳(s pl i tbr ai n) の研究と合流します。 たのがゲシュヴィンドでした。 てんかんの治療のために 酒井 けた人で,1つの半球だけにとどまる刺 典型的なのは,右手で書いたときは 閲覧情報: 酒井 邦嘉 リープマン 186 3年にベルリンに生まれ る。ヴロツワフ大学でウェル ニッケの助手を務め,運動失 行などの研究を通して局在論 をさらに発展させた。 離脳の手術を受 2015/10/03 10:29:49 1 1 58 現代神経科学の源流 激・反応回路を工夫するなどして初めてそ 象を変えながら脳研究をやってきました の効果を明確に捉えたのは,ゲシュヴィン が,それも自然の流れでしょうか(笑) 。 ドの論文と同じ 19 62年頃でした웍 。スペ 웗 リー(RogerW.Sper r y;1913-1994), Di sconnexi onsyndr omesi n ani mal sandman 発表 ボーゲン(J os e phE.Bogen;1926-2005), ガザニガ(Mi c hae lS.Gazzani ga;1939-) 河内十郎 氏 東京大学名誉教授 1 9 61年,東京大 学 文 学 部 心 理 学 科 卒 業。1 96 8年,同 大 学 大 学 院 博 士 課 程 修 了。 1 9 88∼1 99 9年,同 大 学 教 養 学 部 教 授。1 98 2年 3∼8 月 の6カ月間,ゲシュヴィンド の下に留学。 のチームです。スペリーらは,その前から 酒井 ネコやサルで はボストン大学にいました。ハーバード大 離脳の動物実験を緻密に この 1962年当時,ゲシュヴィンド やっていますね。 学に移る前で,ボストン大学にいたのは6 河内 年です。 ゲシュヴィンドの着想は,スペリー らによる動物実験がきっかけになっていた 河内 彼はハーバード大学に移った後もボ のでしょう。ヒトの高次脳機能障害も, ストン大学のグループとずっと関係が続い 離脳で説明できると確信したのだと思いま ていて,私が留学していたときも,両方で す。実験や観察をしっかりやれば,科学的 カンファレンスをやっていました。 に離断症候群を捉えられるに違いないと。 酒井 ボストンは,市内に複数の大学が集 それまで脳梁の機能はほとんど顧みられ まっているところですから連携もしやすい ていませんでした。ラシュレー(Kar lLa9 0 1 9 5 8)に至っては,スペリー hl e y;18 s のでしょう。 ゲシュヴィンドは 1960年代のはじめに, 離脳手術の効果が何も捉えられ ボ ス ト ン 大 学 の 失 語 症 研 究 セ ン ター なかったことから大脳半球が垂れ下がらな (Aphas )を立ち上げ i a Res ear ch Cent er 以前では いように互いに支えてるだけだと述べてい ましたね。 ます。 脳梁を切っても垂れ下がらない 河内 そ こ で 彼 は,グッド グ ラ ス(Har - スペリー 1 9 13年に米 国 コ ネ チ カット 州 に 生 ま れ る。ラ シュレー (後述)の研究室で大脳皮質 の機能 化について研究し, 後 に ラ シュレーの 説(等 能 性,量作用)を実験的に退け た。その後,カルテク(カリ フォルニア工科大学)で 離 脳(脳梁線維を切断した脳) の研究を先導し,ヒューベル お よ び ウィーゼ ル と と も に ノーベル医学生理学賞を受賞 した(198 1年) 。 という反論に対 し て も, そ れ は 大 人 に ;1920-2002)と一緒に仕事 ol dGoodgl as s なって固まっているからだ をしていました。グッドグラスは,非常に と言い返す始 末です。 温厚な方でした。 酒井 酒井 そこで症例を集めながら,本格的に そうした状況では,スペリーの貢献 が非常に大きかったと言えるでしょう。ス 研究をスタートさせたのですね。 ペリー自身もゲシュヴィンドと同時代の人 当 時,チョム ス キー( Avr am Noam ですから,全体論からスタートしていて, )の 統辞構造論 が出 Choms ky;1928- ラシュレーらの誤った主張を1つ1つ覆し てから数年経っているわけですが,ゲシュ ながら,記憶痕跡が大脳皮質の一部に局在 ヴィンドの論文の中には不思議とその引用 するということを動物実験で証明しまし がないようです。チョムスキーも同時期に ボーゲン 1 9 26年に米国オハイオ州に 生まれる。南カリフォルニア 大学医学部の神経外科学教授 を務めた。スペリーとともに 離脳の研究に貢献した後, 意識を生みだす座を脳の一部 に見出そうと試みた。 た。実際,脳梁の切断と組み合わせて皮質 ボストンにいたわけですが。 に損傷を加えることで,情報伝達のルート 河内 確かに直接の引用はないですね。ゲ を断ち,視覚や触覚からの記憶痕跡が一方 シュヴィンドはマサチューセッツ工科大学 の半球のみにとどまることを明快に示した (MI T)に も 籍 を 置 い て い ま し た。1 度 ガザニガ 1 9 39年にロサンゼルスに生 まれる。カルテクでスペリー の指導を受けて 離脳の研究 に貢献した後,カリフォルニ ア大学サンタバーバラ の心 理学教授を務めている。認知 神経科学のパイオニアであ り,一般向けの著書が多数あ る。 全体に広がっているのではないということ ね。 を確定させることで,全体論に終止符を 酒井 さ て い よ い よ,196 5年 に ゲ シュ 打ったといえるでしょう。そして,ネコ, ヴィンドの大論文, Di s connexi on s ynd- サルから人間というように対象を変えなが が出ます。 r omesi nani mal sandman 웎 웦 웏 웗 ら それを河内先生が翻訳されていますね원 。 웗 のです。 MI T に連れて行ってもらったことがあり つまりスペリーは,記憶というものは脳 離脳の研究を進めていったのは,自然 ますが,そこにも彼の研究室がありました の流れだと感じます。私もまた,ショウ 河内 和訳が出版されたのが 198 4年です ジョウバエ,サルから人間というように対 から足かけ 20年が経過しています。 7巻9号 2 015年9月 BRAI N andNERVE 6 閲覧情報: 酒井 邦嘉 2015/10/03 10:29:49 1159 その訳本の あとがき から,河内 うになったのですが,驚いたことに,そこ 先生の情熱を感じました。この論文を翻訳 ではゲシュヴインドが全然評価されていな しようと えられたのは,どういうきっか いのです。 なんでまた古い説を蒸し返す けだったのですか。 のか 河内 酒井 といった感じでした。それは彼の論 1950年代の後半から,視覚皮質内 文をきちんと読んでいないためではないか の部位によって視野(網膜)の対応部位が と感じ,翻訳しておく必要があると思った 違 う と い う ヒューベ ル(Davi d Hunt e r のです。 ;1926-)と ウィーゼ ル(Tor Hubel s t en 酒井 これだけ長い原著論文を日本で書籍 ;1924 )の結果が出始めまし Ni l sWi es el 化するのは,今でも珍しいことですね。 た。これは完全に局在論なのですが,高次 河内 原著が単行本であれば購入して手元 脳機能障害の 野では全体論や皮質下言語 に置いておくことができるのですが,専門 中枢説など根拠が明確でない議論ばかりで 誌に2回にわたって掲載された長い論文で した。そうした状況の中でゲシュヴィンド すから,コピーでもしない限り読む機会が の論文を読んで, これだ엊 と思ったの ないのですね。私の場合は,心理学科にい です。ヒューベルとウィーゼルにつながる ながら脳研究をやっていたので,ハンディ と感じたのですね。 を 少 し で も 減 ら そ う と 1963年 か ら 境界領域 Br ai n 誌を個人購入していて,ゲシュ としての視覚研究 という特集が企画さ ヴィンドの論文に出会う幸運があったので れ, 知覚過程の神経・生理学的研究 と す。 ちょうど 心理学評論 誌で いう題を与えられたので,前半はヒューベ とにかく原著論文を読んだときは衝撃を ルとウィーゼルを中心とした単一ニューロ 受けました。当時の高次脳機能障害に関す ンレベルの生理学的研究を 説し,後半は る 議 論 は,先 ほ ど(前 号)話 し た ペ ン 患者の損傷研究をまとめました。そこでは フィールドの説など曖昧だったのに,動物 完全に局在論の立場で,純粋失読の症例な 実験と人脳の構造をきっちり検証したうえ どを通じてゲシュヴィンドの離断説を紹介 で,高次脳機能障害を論じている点に感銘 しました。 を受けたのです。こうした科学的な議論の その後,東京大学出版会からシリーズで 出版されていた 講座心理学 の第8巻 進め方を学ぶのも重要だと えたことも, 翻訳を始めた動機の1つでした。 と言語 に 生理学的心理学の立場 しかし,出版社を探すのが大変でした。 からみた思 と言語 を書くように依頼さ 心理学系の本を多く出している新曜社が, れました。そこで,全体論やペンフィール たまたま 脳の人間学 웑 という別の本の 웗 ドを批判して,ゲシュヴィンドの失語理論 翻訳の話を私に持ってきたんです。それは を紹介したのです。これは 19 7 0年に出版 科学記者が書いた一般書でした。翻訳をす されました。 るのと引き換えに,ゲシュヴィンドの訳本 思 私はそれまでネコの脳波を記録するなど 生理学的な研究をやっていたのですが,失 の出版を引き受けてもらいました(笑) 。 訳本の出版もそうですが,それ以上に 語症の患者はみたことがなかったのです。 Br ai n 誌 が,ゲ シュヴィン ド の 118頁 ところがこの本がかなり反響を呼んで,実 もある論文をよく載せたものです。1 960 際に損傷研究をやっている方々から連絡が 年代は脳と行動との関係に関する研究が神 ありました。そのうちの1人,七沢病院言 経学会に受け入れられがたく,訳本の序文 語室長の竹内愛子先生は,私が失語症患者 私の研究経歴 に書いてあるとおり,ゲ をみたことがないことを知って驚かれ,七 シュヴィンドが離断症候群の存在を確信す 沢病院に来てくださいと言ってくださり, るきっかけとなった触覚性失認に関する論 そこが私の研究の場となりました。 文워 は,最初に投稿した学会誌に掲載を拒 웗 その後,失語症学会などにも顔を出すよ 否されています。こんなに長い論文を2回 酒井邦嘉 氏 東京大学大学院 合文化研究 科相関基礎科学系/本誌編集 委員 ラシュレー 1890年 に 米 国 ウェス ト バー ジ ニ ア 州 に 生 ま れ る。ハー バード大学などの心理学教授 を務め,全体論の立場から記 憶研 究 を 行 い,同 僚 の ス キ ナー(B.F.Ski ;1 9 0 4 nner 1990 )ら と 行 動 主 義(be havi or i s m) を主導した。 グッドグラス 1920年 に ニューヨーク に 生 まれる。ボストン退役軍人病 院 で カ ド ファゼ ル や ゲ シュ ヴィン ド ら の 薫 陶 を 受 け, 196 9年にボストン大学失語 症 研 究 セ ン ターの ディレ ク ターとなった。このセンター は,今なおグッドグラスの名 を冠して存続している (ht // t p: www. bu. edu/ aphas i a/)。 チョムスキー 1928年 に フィラ デ ル フィア に生まれる。早熟の天才であ り,博士論文の内容を MI T (マサチューセッツ工科大学) での講義用テキストとして短 くまとめた 統辞構造論 (Syntactic Str uctur es ,1 9 5 7) が チョムスキー革命(認知 革命) の端緒 と なった。ス キ ナーの 著 書 言 語 行 動 (Ver bal Behavior,1 9 5 7) に対してチョムスキーが書い た 批 評 論 文(1 95 9年)に お いて,行動主義を明快に退け た。 7巻9号 2 015年9月 BRAI N andNERVE 6 閲覧情報: 酒井 邦嘉 2015/10/03 10:29:49 1 1 60 現代神経科学の源流 異 種 感 覚 間 連 合( cross modals ens or ys ens or yas s oc i at i on) 異なる感覚モダリティ(視覚 や 聴 覚 な ど)の 連 合 に よっ て,1つの感覚を超えた連想 関係や新たな機能が生じると いうもの。 ギャラバルダ 1 9 48年にチリのサンチアゴ に生まれる。ボストンに移住 し,ゲシュヴィンドらと失語 症や失読症に関する研究を 行った。1994年 よ り,ハー バード 大 学 の 付 属 病 院 (Be t hI s r aelDeacone s sMe)の神経学教授 di calCent er を務めている。 に けて掲載したのは,やはり Br ai n ぐに, ボストンは米国の中では安全なほ 誌の編集者の卓見だったんだろうな,と思 うだけど,日本とは違うから,こことここ います。その後の Br ai n 誌でも,そう には絶対に行くな いう長い論文はないでしょう? 細かくしてくれました。講演に行くときに 酒井 は自ら車を運転して連れて行ってくれて, 最近は語数の制限が厳しいですから といったアドバイスを そのうえわざわざ行きと帰りで違う道を ね。 ゲシュヴィンドを見習って,たとえ自 通って,いろいろな所を案内してくれまし の論文が掲載拒否になったとしても,めげ た。夜遅くなると必ず私のアパートまで ずに頑張らなければいけませんね。私もな 送ってくれましたね。 かなか論文が通らないときに河村 満先生 酒井 茶目っ気もあったと伺いましたが。 にお話ししたら, ゲシュヴィンドのその 河内 そうなんですよ。ハーバード大学の 序文を読むように 付属病院(Bet hI s r aelDeacones s Medi - と言って慰めてくださ いました(笑)。 )から MI er T に行くときに,い calCent つも通る道が工事をしていた。アスファル 留学時の思い出 トを敷いたばかりで湯気が立っていたんだ け ど, 戻 る の は 大 変 だ か ら,行っちゃ 酒井 この訳本が 198 4年で,河内先生が え엊 ゲシュヴィンドのところに留学されたのが く 見 つ かって し ま い,現 場 の 人 か ら 1 9 82年でした。翻訳の作業はボストンに いらしたときにもなさっていたのですか。 と,そのまま走り出した。でも運悪 (良 Common s ens e ! Common s ens e! 識엊) と怒鳴られましたね。 いま ゲシュヴィンドの研究室は,酒井先生の 翻訳しているから,序文を書いてくださ 部屋とまったく違って,とても乱雑なんで い すよ。論文とか本が山のように積み重なっ 河内 そうです。ゲシュヴィンドに とお願いしました。 いまから思うと,ゲシュヴィンドがよく ていて。ゲシュヴィンドに呼ばれて行って 私を受け入れてくれたと思いますね。私は みると, 君に渡すものを持ってきたんだ 医者ではありませんので。彼に出した最初 けど,あれ,どこだろう? の手紙に, あなたの論文に非常に感銘し んだけどな という具合(笑) 。探し出す たので,そちらに行って勉強したい とどこかの山が崩れ出して大変なんです と書 いたところ,滞在を認めてくれました。 さっきあった よ。 ゲシュヴィンドは,角回に異種感覚間連 私はゲシュヴィンドの自宅の書斎に行っ 合(c r os smodals e ns or yas s oci at i on)の たことがないのですが,ゲシュヴィンドの 機能があって,角回がないサルにはそれが 奥様が できないと言っています。その論文が出た の踏み場もない 当時,私は異種感覚間連合の実験をサルで で す。ギャラ バ ル ダ(Al ber tGal abur - やっていました。音を出した後に図形を出 )は中へ入ったことがあるらし da;1948- して,高い音のときは○が正しくて,低い くて,笑いながら 音のときは△が正しいといった だ。メチャクチャなんだ 条件性弁 ノーマンの書斎は論文だらけで足 とおっしゃっていたそう 自宅の書斎もすごいん と言っていまし 別(c ondi t i onaldi s cr i mi nat i on) を試し た。 たところ,サルにはまったくできなかった 酒井 私のようにきちんと片づけてしまう のです。私の論文웒 の別刷りを,ボストン 웗 と,かえって手がかりがなくて見つからな に行ったときにゲシュヴィンドへ渡しまし いこともありますが(笑)。 た。 河内 ただ驚くべきなのは,頭の中は部屋 酒井 ゲシュヴィンドのお人柄はいかがで と違って,すっきり整理されているんで したか? す。例えばカンファレンスがあると,最後 河内 のまとめは,だいたいゲシュヴィンドが指 本当に親切な人でしたね。会ってす 7巻9号 2 015年9月 BRAI N andNERVE 6 閲覧情報: 酒井 邦嘉 2015/10/03 10:29:49 1161 (次号に続く) 名されて, 今日の症例は,○○年に○○ が報告した症例に似ているが,○○の点は 違う と,何も見ずによどみなく出てくる んですよね。それには本当に感心しました ね。 酒井 それから,大学によってずいぶん 囲気が違いましたね。ゲシュヴィンドは, ハーバード大学の学生を連れて患者を診て まわるときには非常に厳しいのですが,ボ ストン大学ではいつもニコニコしていまし た。 ハーバード大学には Be havi or alNe u- r ol ogy というユニットがあって,失行症 などの患者のリハビリテーションを行って いました。そこでのカンファレンスはメズ ラム(M.Mar 9 4 5 )が主 celMes ul am;1 催していて,医局員が自 の担当患者を説 明するときに,何も見ずに 何年に生まれ て,何年に発症して,症状の特徴はどう で,どういう薬を飲んで,今までにどうい うリハビリを受けた 酒井 と説明するのです。 患者の情報は隅々まで頭に入れてお くという教育が徹底していたのですね。 河内 1)Li e pmann H:Das Kr ankhe i t s bi l d de r Apr axi e( mot or i s c he As ymbol i e ) auf 河内先生もその精神的風土に影響さ れたのですね。 河内 文 献 あるときそのユニットに空きができ て,ボストン大学の優秀な人が異動した ら,ボストン大学の研究室のほうはお祝い で大騒ぎでね。大学が変わるのも栄転なん だと納得しました。 Gr unde i ne sFal l e svone i ns e i t i ge rApr axi e .Monat s c hr i f tf 썥 ur Ps yc hi at r i e und Neur ol ogi e8 :1 5 4 4 ,1 0 2 1 3 2 ,1 8 2 1 9 7 , 1 9 0 0 2)Ge s c hwi ndN,Kapl anE:A humance r e - メズラム 194 5年にイ ス タ ン ブール に 生ま れ る。ボ ス ト ン に 移 住 し,動物実験を含めた神経結 合や高次脳機能障害の研究を 精力的に行ってきた。現在は シカゴ近郊にあるノースウェ スタン大学の医学 (Fe i nber g SchoolofMedi c i ne) の神経学教授を務めている。 br aldi s c onne c t i ons yndr ome :A pr e l i mi nar yr e por t .Ne ur ol ogy1 2 :6 7 5 6 8 5 ,1 9 6 2 3)Gaz r r yRW: z ani gaMS,Boge nJ E,Spe Some f unc t i onalef f e c t s of s e c t i oni ng t hec e r e br alcommi s s ur e si nman.Pr oc Nat lAcadSc iU SA 4 8 :1 7 6 51 7 6 9 ,1 9 6 2 4)Ge s c hwi ndN:Di s c onne xi ons yndr ome s i nani mal sandman.I .Br ai n8 8 :2 3 7 2 9 4 , 1 9 6 5 5)Ge s c hwi ndN:Di s c onne xi ons yndr ome s i n ani mal sand man.I I .Br ai n8 8 :5 8 5 6 4 4 ,1 9 6 5 6)河内十郎(訳) :高次脳機能の基礎―動物 と人間における離断症候群.新曜社,東京, 1 9 8 4 7)河内十郎(訳) :脳の人間学―脳研究と人 間の可能性.新曜社, 東京, 1 9 8 2( Re s t akR: TheBr ai n:t hel as tf r ont i e r :ane xpl or at i onoft hehumanmi ndandourf ut ur e . Doubl e day,Ne w Yor k,1 9 7 9 ) 8)Kawac hi J : Cr os s modal c ondi t i onal di s c r i mi nat i on l e ar ni ng i n J apane s e monke ys .J apan Ps yc holRes1 0 :1 9 9 2 0 2 ,1 9 6 8 7巻9号 2 015年9月 BRAI N andNERVE 6 閲覧情報: 酒井 邦嘉 2015/10/03 10:29:49
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