「海外ビジネスコラム(第 13 回)」 (財)富山県新世紀産業機構 環日本海経済交流センター 鹿野健・海外販路開拓支援マネージャー 鹿野マネージャーの海外ビジネスコラム 「第 13 回 アフリカ巡り」 筆者は商社マンとしての仕事が長く、その仕事の性格上、これまで数十カ国 を訪れているが、その中で最も疲労感を覚えた三度のアフリカ出張について触 れてみたい。 1980-82年の間、私は東京にいて某大手鉄鋼メーカー製のブリキ鉄板 のアフリカ向け輸出を担当していた。当時管理職にはなっていたが名前ばかり の管理職であり、まだまだ30代前半の若手の「兵隊」、或いは「攻めダルマ」 としての働きが求められていた。 アフリカは歴史的な背景からフランス語、ポルトガル語、英語の三種類の外 国語を使う国々に分かれるが、商売もそれぞれの言語の母国にある支店を通じ て行うことが多かった。つまり、パリ、リスボン、ロンドンの各支店である。 私が訪れたアフリカの国々を言語圏別に分類すると、 フランス語圏:セネガル(ダカール)、コートジボワール(アビジャン)、マ ダガスカル(アンタナナリボ)、コンゴ(キンシャサ) ポルトガル語圏:アンゴラ(ルアンダ) 英語圏:ナイジェリア(ラゴス)、ケニヤ(ナイロビ、モンバサ)、ザンビア (ルサカ)、南アフリカ(ヨハネスブルグ)、ジンバブエ(ハラレ)、エチオ ピア(アジスアベバ)、タンザニア(ダルエスサラーム)、スーダン(ハルツ ーム) の以上13カ国になる(カッコ内は実際に訪れた都市)。 一度アフリカに出かけると、約一カ月の間はアフリカを飛び回ることになる。 当時アフリカでは東西に飛ぶ飛行機便がなく、週末になるといったん北上して ヨーロッパに入り、日曜日夜あるいは月曜日朝一番でアフリカに行くというタ フなスケジュールの出張を繰り返していた。フランス語圏に入る際にはパリ支 店の駐在員の力を借りねばならず、一緒にアフリカに入ったものである。扱い 商品のブリキ鉄板のサンプルをかついでの出張で、アフリカの中で唯一オアシ スとして休養できたのは中央部にあるケニヤの大都会ナイロビであった。ブリ キの用途は、魚缶・ペイント缶・飲料瓶のキャップ等であり、これらのユーザ ーを既存、新規を問わず訪ね回っての販促活動を行い、合間に親しい駐在員の いるナイロビに立寄ることが本当に楽しみであった。余談になるが、不思議な 縁でこのナイロビ駐在員であったA君とはその後彼が米国ロス駐在中に私が何 度も出かけて行ったり、また3-4年前に彼がカンボジアのプノンペン駐在で 私がバンコク駐在という関係であったため、よくバンコクに訪ねて来てくれた ものである。 さて、アフリカ巡りを一カ月行い、ヨーロッパのどこかの国から日本に帰国 することになるが、未だに覚えている苦い思い出が一つある。当時欧州便の航 空機にはファースト、エコノミーの二つのクラスしかなく、普段は当然エコノ 「海外ビジネスコラム(第 13 回)」 (財)富山県新世紀産業機構 環日本海経済交流センター 鹿野健・海外販路開拓支援マネージャー ミーのチケットであった。しかしある時疲労困憊でどうにもならず、しかも予 約していたのが夜行便であったためアムステルダムのスキポール空港から差額 個人負担でファーストクラスに乗った。自分のお金でファーストクラスに乗る のに何も遠慮は要らないが、弱冠30歳そこそこの私には全く場違いなところ に座ってしまったというのが当時の正直な印象であった。 それでも四国88カ所巡りに例えてもおかしくないような一カ月にわたるア フリカ巡回(いわば新規顧客開拓のための「兵隊」としての厳しい試練であっ た)を三度繰り返したお陰で新規のお客様も開拓でき、ヨーロッパにいる駐在 員とも親しくなり、その後の彼らを通じてのアフリカビジネスに大いに役立っ たことは成果として誇れるものである。 ←12 13 □ 14→ 目次→
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