十字架上のイエス

2014 年 10 月 19 日 日曜集会(要旨)
聖書研究会
マルコによる福音書 15章1~41節
神戸集会所
石井田 直二
<朗読個所>
1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは長老、律法学者たち、および全議会と協議をこらした末、イエスを縛
って引き出し、ピラトに渡した。2 ピラトはイエスに尋ねた、
「あなたがユダヤ人の王であるか」
。イエス
は、
「そのとおりである」とお答えになった。3 そこで祭司長たちは、イエスのことをいろいろと訴えた。
4 ピラトはもう一度イエスに尋ねた、
「何も答えないのか。見よ、あなたに対してあんなにまで次々に訴
えているではないか」
。5 しかし、イエスはピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかっ
た。
6 さて、祭のたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやることにしていた。7 ここ
に、暴動を起し人殺しをしてつながれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。8 群衆が押しかけてき
て、いつものとおりにしてほしいと要求しはじめたので、9 ピラトは彼らにむかって、「おまえたちはユ
ダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と言った。10 それは、祭司長たちがイエスを引きわたしたのは、
ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである。11 しかし祭司長たちは、バラバの方を
ゆるしてもらうように、群衆を煽動した。12 そこでピラトはまた彼らに言った、
「それでは、おまえたち
がユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」。13 彼らは、また叫んだ、
「十字架につけよ」
。
14 ピラトは言った、
「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると、彼らは一そう激しく叫ん
で、
「十字架につけよ」と言った。15 それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるして
やり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の内に連れて行き、全部隊を呼び集めた。17 そしてイ
エスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、18「ユダヤ人の王、ばんざい」と言って敬礼をし
はじめた。19 また、葦の棒でその頭をたたき、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりした。20 こうして、
イエスを嘲弄したあげく、紫の衣をはぎとり、元の上着を着せた。それから、彼らはイエスを十字架に
つけるために引き出した。
21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、
人々はイエスの十字架を無理に負わせた。22 そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、とい
う所に連れて行った。23 そしてイエスに、没薬をまぜたぶどう酒をさし出したが、お受けにならなかっ
た。24 それから、イエスを十字架につけた。そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イ
エスの着物を分けた。25 イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。26 イエスの罪状書きに
は「ユダヤ人の王」と、しるしてあった。27 また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひと
りを左に、十字架につけた。
〔28 こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成
就したのである。
〕29 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「あ
あ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、30 十字架からおりてきて自分を救え」
。31 祭司長た
ちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、
「他人を救ったが、自分
自身を救うことができない。32 イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見
たら信じよう」
。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
33 昼の十二時になると、全地は暗くなって、三時に及んだ。34 そして三時に、イエスは大声で、
「エロ
イ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てに
なったのですか」という意味である。35 すると、そばに立っていたある人々が、これを聞いて言った、
「そら、エリヤを呼んでいる」
。36 ひとりの人が走って行き、海綿に酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につ
け、イエスに飲ませようとして言った、
「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」。37
イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
38 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。39 イエスにむかって立っていた百卒長は、この
ようにして息をひきとられたのを見て言った、
「まことに、この人は神の子であった」。40 また、遠くの
方から見ている女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセとの母マリヤ、またサ
ロメがいた。41 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。な
おそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。
<ユダヤ人の王>
今日の箇所の重要なキーワードの一つは「ユダヤ人の王」です。同じ意味の「イスラエルの王」を含め
ると、今回の箇所の中に6回もこの言葉が登場します。イエスが生まれた時も、東方の博士たちが「ユ
ダヤ人の王」を探しに来ました。この物語はマルコによる福音書には出て来ませんが、マタイによる福
音書に登場します。そして、イエスがユダヤ人の王としてあざけられ、ユダヤ人の王として殺されたこ
とを、4つの福音書は全て記録しています。イエスの生涯の様々な事績のうち、4つの福音書がすべて
記している事件はとても重要なのです。イエスは「ユダヤ人の王」として生まれ、死にました。
さて、ここで私たちが考えなければいけないのは、なぜイエスが「ユダヤ人の王」だったのか、という
点です。もちろん、私たちはユダヤ人ではありませんが、それでもイエスを主と呼んでいます。今、イ
エス・キリストの十字架は全ての人に関係していますが、彼はなおも「ユダヤ人の王」なのです。これ
はとても重要なことなので、今日の学びを通じて、その意味を学んで行きましょう。
<沈黙していたイエス>
前回の箇所に引き続き、イエスはずっと沈黙しています。これは、考えて見れば非常に奇妙なことです。
それまでイエスは、律法学者、パリサイ派、祭司たちを前にして堂々と福音を語って来ました。そして
この場面では、ピラト、ローマの役人、そしてローマの兵士たちに福音を語る最後のチャンスだったは
ずです。なぜイエスは、堂々と福音を語り、怒った権力者たちに処刑されるという道を選ばなかったの
でしょう。ペテロ、パウロたちも、みんな権力者たちの前に引き出されると堂々と語りました。すでに
学んだマルコ13:11で、イエスは「そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何
を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたが
た自身ではなくて、聖霊である」と、とても勇ましい指示を弟子たちに与えていました。弟子たちに模
範を示すなら、もっと堂々と語ってもよかったのではないでしょうか。
<苦難の僕>
この問いに対する一つの答えは、イザヤ53章です。ここには「われわれ」の罪を負うために、黙って
苦しみを受ける人物が登場します。これは「苦難の僕」と呼ばれる、非常に特異な箇所です。この人物
は、人々の罪を負い、殺されることで、人々の罪をあがなうという役割を果たします。この奇妙な箇所
は、イエス・キリストの十字架を述べていると、新約聖書は教えています。この人物は罪のための犠牲
となり、多くの人々の罪を取り除きます。これこそ、イエス・キリストが人々に殺されるべき理由だっ
たのです。
イザヤ書53章10節の「とがの供え物」とは、旧約聖書に何度も登場する「罪祭」と呼ばれる犠牲で
す。レビ記の初めの部分に記されていますが、罪を犯した人は、エルサレムの神殿に傷の無い犠牲の獣
を連れて行き、その頭の上に手を置いて、自ら獣を殺し、祭司がその血を携えて祭壇につけます。つま
り、罪を犯した人自身が獣を殺さなければなりません。ここは重要です。また、獣は、その人の家で飼
っているものから選ぶのが原則でしたが、みんなが牧畜をしていたわけではないので、後代には犠牲用
に育てた獣をお金で買うようになりました。
これは、罰金と同じようなシステムです。家畜はけっこう高価な資産だったので、金銭的な犠牲を払う
ことと等価でした。罪を犯した人は、犠牲という代価を払うことで罪が赦されました。キリストの十字
架は、人類の罪の代価だと新約聖書は教えます。
<罪の代価>
十字架は人知を超えたミステリーです。イエスが「全人類の罪の代価」とされたことには2つの側面が
あります。第一は、人を罪の奴隷状態から解放するために、神が代価を払って人類を買い戻された、と
いう面です。これは神の視点です。イエスは神の子として天から来られた方でした。
しかし、その贖いの行為は、人に属し、人を代表する者がしなければなりません。たとえば、原子爆弾
を広島・長崎に落とした罪を償うという例を考えてみましょう。日本がお金を出して、日本人だけで何
か儀式をして、それで何か意味があるでしょうか。やはり、そこに何らかの形で米国を代表する人が必
要であることは、誰が考えてもわかるでしょう。それと同様に、罪を犯して神に背いた人の罪を赦すた
めに、贖いの行為をするのは、人を代表するもの、罪人を代表するものでなければならないのです。
そこで、イエス・キリストは神の子であると同時に、人の子でもなければなりません。それが、イエス
が「ユダヤ人の王」であった一つの理由です。さらに、ユダヤ民族そのものが、人類の罪をあがなう使
命を持っていました。ユダヤ人は、神と人との間を執り成す「祭司」としての民族だったのですが、彼
ら自身が罪を犯したために、その使命を果たせなくなっていました。そこで、イエスが「ユダヤ人の王」
として、その使命を完遂されたのです。
<誰がイエスを殺したか>
前回と今回の箇所をよく分析すると、イエスの殺害にはユダヤ人とローマ人が共に関わっていることが
わかります。ユダヤ人たちは「イエス殺しの罪」を負わされて、長い間、苦しめられてきました。しか
し「罪祭」という儀式の手順を考えると、全く逆の真理が見えてきます。罪祭は、罪人自身が殺さない
と意味がないのです。もし、ユダヤ人だけが殺したのなら、その血の効力はユダヤ人だけにしか及ばな
かったはずです。しかし、ユダヤ人を代表する人々と、異邦人を代表するローマ人たちによって、イエ
スは殺されました。これは、完全な罪の赦しを達成するために必要なことだったのです。
<神はイエスを捨てたのか>
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」あるいは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになっ
たのですか」という言葉は、少し説明が必要です。これは、神がイエスを見捨てたことを意味するよう
に読めますが、単に文字通りの意味だけではありません。これは詩編22編の冒頭なのです。現在、私
たちの使っている聖書は章番号が振られていますが、イエスの時代の聖書にはそんなものはありません
でした。ある聖書の箇所を言う場合には、その箇所の冒頭の単語で読んだのです。現在、ヘブライ語で
は聖書の冒頭の五書を、ベレシート、シェモット、ヴァイクラー、バミドバル、デバリームと呼びます
が、これはいずれも各書の冒頭の言葉です。しかし、この方法は覚えにくいため、後に番号システムが
採用されました。現在、地下鉄などで外国人のために駅番号が用いられているのと同じ理由です。
ヘブライ語の読める方は、詩編22編の冒頭を読んでみて下さい。若干、発音は違いますが、間違いな
くこの箇所だとわかると思います。この詩編は、まるで十字架を思わせる記述が続いた後、救いが諸国
民に及ぶ様子が明らかに預言されています。ダビデはどういう幻を見て、こんな詩編を書いたのでしょ
うか。彼は多くの罪を犯しましたが、その一方で、本当に驚くべき預言者でした。イエスはもちろん、
イザヤ53章も詩編22編もよく知っていました。だから、弟子たちに「詩編22編を読みなさい」と
伝えたかったのです。
<神殿の幕>
これは、神殿で聖なる場所と、俗なる場所を分けていた幕です。これは、神と人とを分ける幕でした。
あまりにも聖なる神と、俗なる人とがいきなり対面すると、神の聖さによって人は滅ぼされてしまいま
す。だから、人を保護するために分厚い幕が必要でした。しかし、十字架によって人の罪が清められた
ので、神が人と直接に会う道が開かれたのでした。