i:え学会Ji{き ~ 1 6 ( 11 3 東京都 文京区本郷 7 -2-2 (財) 学会誌刊 行センター内 日本薬史学会事務局 1992 年 10 月 日本薬史学会集談会お知らせ 第 1 固ヨーロッパ医薬史蹟 を訪ねる旅報告会 平成 4 年 11 月 28 日 (土〉 ところ 昭和大学 1 号 館 7 F 講 堂 1 4: 00~ き と ( 東急池上線または 大井 町 線旗の台駅下車 5 分) フォーラム ロ ン ドン , 司会 参加費 無料 連絡先 ~ 113 パ リの医薬史蹟を訪ねる旅報告会 ( 東京理 大 ・ 薬)山 川 会員外の薬剤師 , 浩司 大学院生 , 文京区本郷 7 - 2 - 2 氏 学生の来 聴も歓迎 (財)学会誌 刊行 センター内 TEL( 03)38 17 - 5825 日本薬史学会事務局 内線 121 一一一 日本薬史学会西部支部講演会のお知らせ 一一一 と き ところ 平成 5 年 1 月 19 日 (火) 大阪薬業ク ラブ ⑮ 541 5 14 ・ 00 ~ 1 7 :00 F 大阪市中央区伏見町 2 - 4 - 6 TEL( 06)202-5633 講 演 「舎密局について 」 (大阪大学 名誉教授 ) 芝哲夫氏 「 道修町古文書の調査について 」 ( 大阪城 天主 閣 主任〉 渡辺武氏 間合わせ先 大阪大学薬学部 ( ~ 556 米田該典 吹田市山田丘 1 - TEL( 06)877 - 5111 一 1 - 6) 内線 6146 第 1 回 ヨーロッパ医薬史蹟を訪ねる旅報告会 日本薬史学会創立 40周年 (994 ) を迎えるにあ 乙の博物館は . Sci ence Museum の 4 階と 5 階 たり,近代薬学発祥の地ヨーロ y パ における史蹟 にある 。 Lower Ga ll ery と称する 4 階には, を訪ねる旅として本年度はロンドン, パ リへの旅 ーロッ パ医療発展の姿がジオ ラ 7 で 示 されてい る。 ヨ を下記の如く行った。参加会員が分担執筆した印 Upp erGa ll e ry と呼ばれる 5 階には . 1 800 年 以 前 象記を掲載する。 については,地域別に. 1 800 年以後については, 医療領域別に,発展の経緯が具 体的な器 具 なと‘に 5 月 23 日(土) 成田発 5 月 24 日(日 ) 市内見物 5 月 25 日(月 ) 午前大英博物館見学 ,その前後 乙れ らの 中で 気 になったのは,麻酔について, にセント・メリ ー病院その他を参観 エーテルとクロロホルムの適用は,詳し く説明さ 午後 れているのに,華岡 青州 の通 仙散に ついて,全 く 5 月 26 日(火) 5 月 27 日(水) ロンド ン着 より 示 されている 。 まとめ方弘展示の仕方も素 晴らしい 。 科学博物館内のウエノレカム 医学史博物館見学 述べ ら れていなか っ た乙とであ る 。 現代の麻酔術 午前 lζ 影響を与えなかったからなのか?或いは知られ チェノレ シ ー薬用植物園見学 午後大英薬学会 博物館見学 ていなし 、からなのか ?乙 の乙とを確認するととも. 午前 私達の任務と思 っ た。 ロンドンより バ リ へ移 動 午後パスツール研究所博物館見洋 ウエルカム医学史樽物館と東洋医学 5 月 28 日(木)午前市内見物後 5 月 29 日(金) 午後 オテル・テ、 ューウ訪問,見 学後, レセプ ションの席上, 庄司良文 フラ 東西両医学の異質性といった点に興味を持つ私 ンス薬史学会会 長 J ea n Fl a. hau t にとっては,ウェルカム医 学史博 物館の 見学 がと 先生と歓談,病院博物館見学 ても 有意義に感 じ ら れた 。 午前ノ f リ 大学薬学部博物館およ Orie n t a l Med ici n eJ としては中 国 ・ チ ベッ ト ・ 日本・インド ・ ス リ ランカの伝統医学の展示 びモア y サン教綬記念室の見学 午後 5 月 30 日(土) ノートノレダム大寺 に 言 っても極めて繁雑であるが,英国に東洋医学 院,ルーブル博物館見学 がどの ようなカタ チ で紹介 されているかは極めて 午 前自由行動 興味深い乙とに思え る。 午後 5 月 31 日(日) コーナーが ある 。 東西両医学の相違,とひと く ち 植物園,サ ノ レ ベ トリエ病院 構内を散策後, ロンドン経由帰 国の途 に 伝統的中 国医学 のコーナーでは. C hinesePhaュ 成田着解散 r macy として本 草学 ,録灸術に関する診断法とし て脈診が比較的詳し く紹 介されている 。ま た, ウェルカム医学史博物館見学記 そ のような具体的な治療法に関することのみならず; 岩井鎖次郎 それらの背景となる考え方としての陰陽 (Yin and 約 2 時間の予定でウエルカム医学史侍物館へ入 Yang ). 気 ( Chhi ) に ついても簡単に解説されて いる 。 例えば っ たが,医療の発展の軌跡が豊 富な資料 に もとづ いて興味深 〈展示 されており,時間内には,至IJ iß: 生体の中の 陰陽は ,血 (陰)と気 (陽 )の 二 種の循環システムとして説明され, 気 は 生命活動のエネル ギーとな るものである"云々 見終わる乙とができなかった 。 博物館の 見学 には,体力と時間がい る。 と述べら れてい る。 内ノ臼 日本における医学の歴史のコーナーでは,漢方 (Kampo;t h et r a di t i o n alme di c i n eo f ] apa n ) 側 にある。 私達が最初に案内されたのは展示室であった 。 が そ乙には数世紀にわたる調剤,製剤の用具がなら 中 国より移入された,といった記載で始まり,杉田 玄白の『解体新書』が高く評価され西洋医学の び,乙の技能の伝統の重さを感じさせた。我々の 教育が 1 870年より採用され た "と紹介されている。 一 人が容器に焼付けられた紋章に関し質問をした。 Chi l d b i rt hi n] apan の. -,::ネルでは賀川 案内者は胸を張って答えた。それは協会の紋章で 玄悦の 『 産論 』 が取りあげられ, また, 三里なと・に すと 。 紋章は識別 と敬意の象徴である。その回答 その他, 灸をすえている婦人の図が展示されている 。 ただ に私は英国薬剤師の職能の社会的ステイタスを想 乙のコーナーに Netsuke (根付け)の説明 とその彫 像できた 。 刻物があったのは,いささか奇異に感じられた 。 次に見たのは DI である 。 医学史博物館の全体から見ると,たった 5 コマ の日本医学の紹介であったが, 4 万冊の蔵書を持っ て活動しているという 。 患者に直接触れる調剤薬 とてもおもしろく 局にとって必須のものである 。 患者の問いに答え 見学できた 。 信頼をかちうるには医学,薬学を駆使できねばな ら ない 。 乙のためには DI は重要である 。 協会は Chelsea PhysicGarden を訪ねて 全力をあげて実行しているという 。 医薬分業にお 渡辺護三 ける薬剤師とはとれなんだなという乙とを実感し ロンドンの西南部,文化人や知識人に好まれた 住宅街, Tこ 一 日だ っ た 。 C h e l s e a(チェル、ンー) のテームズ川畔,レ Pasteur 研究所の博物館 ンガの塀に固まれた金持ちの屋敷,入口は 屋敷の 勝手口とい っ たところだろうか 。 これが, 松波紀子 1 673 年 に Society o f Apotecaries によって作られた, Chel s e aP h y s i cG a rden 5 月 27 日,芸術の笥レ f リの中に,石と煉瓦の静 の外観で,ヨーロ y ノ fで‘最 かな建物が有り屋根の時計が 4 時を指していた 。 も古い植物園の 一 つである 。 英国薬剤師会 (Royal 芝生 には少年と狂犬の像があ っ た 。 中は画廊のよ Ph ar m a c e u t i c a lS o c i e t yo fGreat Britain , 1 8 4 1 うに絵が多 く ,実験台の上の厚い本に左肘をかけ 年創立)と較べても歴史の長さが窺い知れる 。 気密容器の中を見つめるルイ ・ パスツールの肖像 内部は植物達が自由に育った雰囲気ながらも , よく整備された薬草園で. ほかに H i storical 画から「自然発生説の検討 と発酵現象の研究は, Walk 内面交渉を保って乙そ発展したのだ 。 発酵は生き というイギリスの著名な博物学者によって持ち込 ている・ー」と聞乙えてきそうだった 。 まれた植物の区画がある 。 訪れた日は , 測角器,白鳥フラスコ,細菌培養器の蓋,葡萄 酒研究器具 ,蚕に関する器 具,真空ポンフ\ 銅製 ロンドンの各所で見かけたジギタ リスが乙乙でもひときわ立派な花を咲かせ, 魔女 顕微鏡等。 哲学や思想,因襲や臆断からの解放。 伝説をはじめ数々の逸話を持つマンド ラ コヲが, プーシェとの論争。 リ スターの生物学的予防法へ と,実験科学は希望だと語りかけた日々を偲ばせ 『 悪魔のリンコ ' j と呼ばれる実を付けていたのが 印象的であった。また,ハーフr の区画に 三 つ葉な fこ 。 所内のモザイクタイルのクリプ卜の中の彼の遺 どの日本の野菜類が植えられ紹介されていたのが 骸に全員 で黙待しなが ら ,敬度なカトリック教徒 興味を引いた 。 であった彼が, R o y a l Pharmaceutical Societyo f GreatBri t ain を訪ねて 黒湾 科学に宗教を持ち込まなかった "意志"とともに,今なお"気配"を感じたのは 嘉幸 私だけであったろうか 。 協会はテムズ川をはさんで,国会議事堂の向い η。 沿いに進み,右折して大司教橋を渡り,左折して パリの Hðte ト Dieu を訪ねて 河 岸通りを 100 m ほと、東 へ行くと M us ee 末康雅也 A s s i s t a n c eP u b l i q u ed e Pari s 古い伝統をもち今日猶お leading hospit a l とし の「医療事業歴史博物館」では ,内容を把握し か ねたが,事務局より標記の題名を聞いて,成る程 てヨーロ yパの医学史書に必ず記されている Hotel - Di eu (1 神の館」の意)を訪れたのは 5 月 28 日 と感心する迂澗さである 。 (Ascens i on の 祝 日)の午後 3 時であった。薬剤 部長 F . deL'ュ がある。案 内 書 5 月 28 日(木)は何かの 休日であったが,係の方が特別に便宜を図って下 Ch a st 先生の 出迎えを 受けたロビ ーには. さり , 1 時間 余も 親切に 案内 ,説明 の上,最後 に Re c o n t r e Fr a n c o -j a p o n a i se HlSTOIRE DE は展示品の目録とともに署名をも頂戴した 。 病院 LA PHARMAC1 E のプラカー の博物館という発想そのものに改めて感銘を受け ドが立てられてい た。開館は 1934 年の事だが,それ以前に救療施 た。 早速 中庭から階段を昇り 3 階の歩廊で デュピュ 設の中央薬局が併設されていたので,多くのフェ イトランの立像を 眺めてか ら病棟の一室を見学し イヤ ンス焼の薬剤容器など数多 く所蔵するよ うだ た 後, 薬剤部内を案内された。 が,休日のため, ノー ト ルタ8 ム寺院に隣接するとの病院は,現在 乙れの見学 は別 の機会に譲らざ るを f尋なカ〉った 。 550 床で・年 聞に 2 万人の入院患者と 20万人の外来 パリ大学薬学部を訪ねて 患者を診療しているとの乙とだが,病人と貧困者 辰野美紀 の救済のため 65 1 年に創立された乙とからも,そ の過去は宗教と深いかかわりがあった 。 今回の旅では(短期 間 ではあるが)ウィーンと 並んで 1 8C 後半 ~ 1 9C にかけての医薬学の学問的 中世紀以後,臨床教育,研修の場 としてアンブ ビ シ ャ 一等の有名 な外科医が乙 の 中心地であ ったパリで ,近代薬学発祥史の資料原 病院から巣立つていった。 1 8世紀以降はパリ大学 ロ アズ ・ パレ , 本を手に入れることを目標として期待と不安一杯 医学部と密接な関係をもっている 。 で\大学を訪ねた。二日聞は,パリ南大学図書館 はじめは院内に薬局はなく市中のハーブを売る 薬店から購入していたが, と法学部図書館を訪ね, 学会会長で,パ リ 大学百年誌 ( La コロンフスの新大陸発 Ht elDieu であられた j. の 薬局は長いこと 他 の 小 さい病院にも薬剤l を供給 し ていたが, 1 79 5 Fl a haut F a c u l t d e 元パ リ 第五大学学長が, 自ら図書館の古資料を コ ピーして下さり,御指導 下さ っ た ζ とには,感激した 。 年にそれぞれの病院が薬局をも つようになった 。 また, 見学とスラ イ ドによる説明 の後,全く予期しな かったレセプションがあり , シャンパンを御馳走に なった席上,フランス薬史学会会長の j. フランス薬史 Pharmaci edeP a ri s:1 882- 1 982 ) の編集責任者 見以後梅毒患者が増えてきた 1495 年に 薬局が設 置された 。 以来, 三 日目は, 17, 18C の著名な薬剤師連 の肖像画のかぎ ら れた講堂( Fl a ha u t Flahaut 先生は, Sa1ed e sa ctes) や,薬史博物室 C Musee),講義室(Amphitheate r ) など,学内 先生(パ リ 大学薬学部名誉教授〕にお会いした 。 を御案内下さった 。大 学のエントランスの広い廊 歓談の際に予定外のパ リ 大学薬学部の見学をお願 下のギ リ・ンャ 風柱の 下に置かれた多数の机や,図書 いし,翌朝御案内頂いた 。 館でも,学生がわき目もふらずに 勉強し ている姿 に, 「パりの病院博物館」印象記 Dipl'iうme や D octeur をと るのにきびしい試 験が諜せられている乙とがわかった 。 大橋清信 オテノレ ・ ディユ病院を辞してノー ト ルタムの正 面を過ぎて左折し宏壮な建築を 左 に見ながら 川 -4- 体は日本薬剤師 会 lé 厚生省の権限を付 し たような H e n r i Moissan 教授の記念室 学会である。昨年創立 150 年祭を行った。 小倉 パ リ大 学 の薬学部で, J e an F l ahaut 豊 英国の薬科大学は国立 15校,私立 l 校で年間の 卒業生は 約 11 00 名である 。 イン クラン ドにはその 先生のご 好意により,フッ素の単離で有名な Henri M o iュ うち 11 校(年間の卒業生は約 700 名)との乙とで あ っ た 。高校を卒業すると 2 年の専門教育を受 け ssan の記念室をみせていただ く ととができた 。 た後に, Moissa n は 1 852 年 9 月 パ リに 生ま れ,最初は植 3 年制の薬学教育を 受 け,卒業後 l 年間 物生理学を研究し金属酸化物や pyrophoric 鉄 の 実務実習 ( Prer egistra tion experience) の後, の研究をとおして無機化学の研究へ転換し 1884 英国薬 剤師 会 に 登録し て 薬剤師となる 。 国家試験 年,当時その存在は知られていたが異常な反応性 は行っていないが目下検討中との事であった 。 ウ をもつので単離できなかったフッ素の研究をはじ ェーノレズはイングランドと同じ 3 年制(実質ヨー めた 。 1 886 年,無水フッ化水素を用いて - Wc で 最 初の単離に成功しこの業績で\ ロ y パ で最も短い 5 年制 ) ,スコットランドは 4 1 906 年,ノ ー ベノレ化学賞の栄誉をえた 。 乙の記念室は E 年制(実質 6 年常1]) 教育課程である 。 それら 5 月 28 日午後,パ リ のセーヌ 川の シ テ 島にある の実験装置 などを陳列 ・ 保管している 。 オテル ・ デュー病院, その後 Moi ssan は,ダイアモンドの 合成にも着 29 日午前パリ大学薬学部を 訪ねた 。 オテル ・ デュ ー病院の Chast 博士と パ リ 手 してい る 。 彼の無機化学の第二の仕事 であり, 大学薬学部の 前学部長 F l a国 ut 博士(錯体化学が 記念室 にもその実験に使ったという溶鉱炉が陳列 専 門 ) から話を聞いた 。フラ ンスの薬科大学は国 してあ っ たが,とても ζ んな小さな炉から ダ イア 立 24校,年 間の 卒業生は約 2300 名で あ る。 1 983 モン ドが できるとはおもえなかった。どうも結果 年より 6 年制の薬学教育に変わった 。 的にもダイアモンドの合成は不成功に終ったよう 年間病院実 地研修が行 われる。国家試験は 5 年次 である 。 修了後で受験できるが, 受験の機会 は 2 回限りで しかしその時に与えられた 高 温と高い 気圧 は 6 年 次の 1 ある 。 英国及びフ ラン スと もに卒業者の 70% は com 当 時の最高水準であり,その自製の小さな炉で , 3000 C の高温と l 万気圧の高圧を 加え る乙とが出 m u n i t y 来たという 。 乙の高圧を求めて Moissan は 当時 出 る者は 20% であると いう 。 日本は乙れと反対 だ と 来たばかりのパ リの地下鉄の 電圧を 利用したとい 言 っ た ら, うエピソ ード も F l a haut 先生 の話でうかがった 。 ワーフルだからと皮 肉 ら れた 。 英仏ともに EC 統 0 Fl ahaut indus try に 就職す C h a st 博士から日本の indu s tr y はパ 一へ 準備をしているようであった 。 先生は Moissan の研究者でもあり,記 念室でのそ の説明にも熱が入っていて, pharmacist にな り Moi s s a n 医薬史蹟の旅とイギリス児童文学 の偉業がパ リ大学の 財産でも あ り,フランス人の 奥井登 美子 誇りであるととが伝わ っ てきた 。 児童文学 の世界でイギリスはすばらしい歴史を 英仏の薬学教育と薬剤師の活動に司、て 山川 5 月 26 日 午後, 私達は英国薬剤師会 もっているが, 浩司 1 744 年, ジョン ニュ ー ベリーと いうロンド ン の薬屋さ んか ら はじま っ てい る とと (Royal はあまり知られていない 。 Pha r m a c e u t i c alSoc i e t yo fGreatBri t a i n ) デフォーの「ロビンソンクノレ ー ソ ー J ,スフィ を訪ねた。乙の会館はテムズ河の国会議事堂の対 フ ト の「ガリバ ー 旅行記J , 岸 lζ あり , しぎの 国のア リス J , 6 階のベランダからの眺めは素晴ら し い。 学会 位名称、は日本薬学会 のようであるが.実 ルイスキャロルの「 ふ ミルンの「クマのプー サン J , ポターの「ピーター ラ ビット J ,マイケルボンド hd p の「クマのパデ ィン卜ン J . ト ラパ ースの 「 メア は落ちていなし、か探したが見付からなか った。 リーポピ ンズ J .メアリノート ンの 「 床下の小人 チェノレ シ ー薬用植物園は , いまにもポターのウ たち J すぐれたファンタジィと日常生活のとま乙 . サギがと び 出してきそう な 自 然風の実 に 美 しい庭 ま した細部 の 描写は, になっていて,私は, イギリ ス 児童文学 な らでは の楽しさであ る。 今回の旅行中 , ピアスの「トムは真夜中の 庭で」の絵本の絵そのものだと,感激してしま ロンドンのホテ ノ レはケンジント ン公園の隣りであった 。 っ た。 1"""ピーターパンとウェン ポターの家は,イギリスのすぐれた自然保護政 テ' ィ」の中でウェンテー ィの家は貧乏なく せに少々 策,ナショナル ト ラス トの保護のおかげで,生前 見え っ 張りの株屋 さんで,ケ ンジン トン公園で ナ のまま保存されているという 。 いつかイギリスの ナという犬を拾って来て三人の 子の 乳母にするの ナシ ョ ナルト ラ ストの現場を見て歩きたいと恩 で ある 。私も 毎朝乙の公園を散歩 しなが ら ,乳母 つ 。 がっとまるような犬はし、ないか,ダイアナ妃の涙 乙のたびの視察で入手した英国薬剤師会 の刊行パ ンフレットより.同会の紋章 を組介す る。左右の 人物は , 古代のアラビアおよびギリシャの医聖が 画かれている (M. S ) 。 第 2 回ヨーロッパ医薬史蹟を訪ねる旅につL 、て i 当会では,創立40年記念事業の一環として みのあるハイデルベルグで,第 3'RJ 回国際薬史 ;ー パ開蹟…腕企画し本 学会議が開催さ れます。乙の国際会議の第 2 l ! 年はイギリス・フ ラン スを訪問しました 。そ 次サーキュラ ー が未着なので. 詳細は次号通 i の詳細は本通信 2~6 頁に縄げた通りであり 信でお知らせする予定ですが.概要は次のと i ます 。 おりです。 ! 明年は,明治以来,昭和初期までわが国薬 期日 i 学の発展に大きな影響を及ぼしたドイツを訪 場所 ハ イデJレベルグ …り 連絡先 P r o f e s s o rD r .W.-D 附 ler - ギ ーセ ン . ダノレムシ の程で 1 993 年 5 月 3 日(月ト 7 日樹 ー J ahnc k e Deutc h e sApotheken-Museum ミュン ヘンな どの医薬史蹟を訪ねる旅を企画しております 。 Friedrichst r. 3 Gerrn 叫; -6-
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