2 章 「学び」の原点を考える ここで、「学び」ということにつき、動物の行動進化の立場から少し立ち入ってみたい。 1章でみた「学びの場が危ない」原因は二つ、一つは乳幼児期の「学び」に、もう一つ は学校制度に問題があると考えられる。そこで、第一番目の乳幼児期の学びを、原点にか えり、人間も動物であり哺乳類であるという観点から点検してみたいと思うのである。 1.鳥やくじら、サルも学ぶことの意味──適応性の向上 昔、学ぶというのは、高度な頭脳をもった人間だけにできる高尚な働きであるとされて いた。人間は、ほかの動物や昆虫などとちがって、生まれながらの本能に支配されず、後 天的に学習した知恵にもとづいて行動する唯一の生きものと考えられていた。 そんな考えを覆したのがローレンツの発見だった。 ガンやアヒルのひなは、先天的に親がわかるようには生まれてこず、生後間もなく目に した動くものを親と認識し、それは一生涯消えることがないというのだ。 そのとき、ほかの動くものを見てしまったら取り返しがつかない。生涯、まちがったも のを親と思いつづけるという。 これは「刷り込み」と名づけられた。広い意味の「学び」の発見であった。 ひなが親を認識するのは生得的なものと考えがちだが、ガンやアヒルでは、親を識別す る知覚回路は、生まれた当初、外界に開かれており、しばらくして刷り込みが行われると 閉じられ、ようやく作動するという後天的な「学び」だったのである。 思えば、親を認識するという生物としてもっとも基本的な働きが、生後間もないひなの わずかなチャンスの「学び」に委ねられているというのは実に厳粛な事実でないか。 研究や観察が進むと、さらに驚くべき発見がつづく。 例えばくじらであるが、肺呼吸の動物であるから、泳ぐ間も定期的に浮上して水面から 鼻孔を出し、空気を吸わなければならない。周知のこの生存上きわめて基本的な習性も、 実は「学び」だった。赤ちゃんくじらは、生まれるとすぐ、下から母親に押しあげられて 浮上し、水面から鼻孔を出す動作を繰り返し、息継ぎを学ぶというのである。 くじらが、なぜ水中生活に入ったかは謎だが、本来、カバと祖先を共通にする陸上動物 だった構造上の欠陥を学習で補いながら、ちょうど人類が誕生したといわれる四、五百万 年以上もの大昔から子孫を繁栄させてきたのだ。 霊長類のサル、例えば、チンパンジーなどの授乳やそのための抱擁も「学び」だった。 彼らは集団生活を営むが、赤ん坊が生まれると、その近親の若い雌などが強い関心を示 し、授乳のようすを観察したり赤ん坊を抱かせてもらったりするという。首を握ったり乱 暴に抱いたりすると、その手を叩いて注意され、正しい抱き方が教えられるという。 幼いときに動物園などへ入れられ、そんな訓練を経なかった雌は、出産しても授乳や抱 擁という行為を知らず、首を握るなど乱暴に扱って窒息死させるなども珍しくないらしい。 38 ところで、ラファエロの残した数々の名画、聖母子像では、丸々とした幼児のイエスが 聖母マリアの慈愛に満ちた胸に抱かれ、われわれに深い感銘を与える。 崇高なあの抱擁も源をたどれば、こうした霊長類の学習の結果にすぎないと思うと、母 性愛という感情の成り立ちに奥深いものを感じずにいられない。 こうした例を見ると、生きものというのは、進化するほど、本質にかかわる機能すら未 完成のままに生み落とされ、後に、環境とのかかわりのなかで多くのものを学習しながら 後天的に完成させるといえるのかもしれない。 いいかえれば、生存に必要な事柄を学習によって後天的に獲得する余地を多く残し、そ の分環境とのかかわりをより多様化することで、生きものというのは、より環境への適応 性を高めていくものかもしれない。それが、生きものの高度化する方向であるといえるの かもしれない。 泣く以外何ひとつできない無能のかたまりのようなヒトの赤ん坊は、こうした生物進化 の極みの好例といえそうである。 2.生きる文化を身につける──「学び」の意味 ガンが親の顔を識別するのも、くじらが息継ぎするのも、チンパンジーが授乳し子を抱 くのも、生得的なものではなかった。信じられないことだが、「学び」の結果だった。 このことをもう少し掘りさげて考えてみると、彼らの学習ということは、概略、次の二 つの要素で成り立ち、それを通じてその種独特の生きる文化を学んでいくと思われる。 1.生理的な必要や好奇心からの欲求のタイミングと、母親の存在 2.学ぶタイミングの序列性と器官などの発達、そして仲間や集団の存在 ①基本の学びと母親 先ず、1.のタイミングと母親の存在だが、ガンが親の顔を識別するのも、くじらが息 継ぎするのも、チンパンジーが授乳し子を抱くのも、母という教える側と、教えられる側 のタイミングが、不可分に同時一体となっていると考えられる。 例えば、ガンのひなの場合、これは単なる連想だが、孵化後、最初に動いたものを親と 認識するタイミング到来というときは、ちょうど、ひなが孵化後一食も口にせず、空腹の ために神経過敏となっているにちがいない。そのタイミングで、最初の餌を与えようと親 鳥が巣へ舞い戻り、ぴたり、子の認識回路のセンサーに触れることになるはずである。 そこで「刷り込み」という学びが完了するのだが、同時に空腹も満たされるので、親と いうものの認識は、空腹の充足感、満足感といったものと渾然一体となっているはずだ。 だから、以降、親の顔を見ると安心や満足の感情を覚えるであろうし、親でない影が近づ いたときには、逆に、いっそう大きく恐怖や不快感へと傾くにちがいない。 クジラの息継ぎの学びも、生後初めての呼吸困難になろうとする瞬間、母クジラが子の からだを水面に押しあげてやり、子は、はじめて鼻孔の使い方を学ぶと思われる。 39 チンパンジーのメスの子どもの場合は、もう少し複雑で、おそらく女性ホルモンの分泌 などで性の目覚めがあったころ、思春期のメスとして赤ん坊や授乳に興味を示しはじめ、 近親の母親メスを見習うものと思われる。 つまり、動物の学びという場合、もっとも必要なときに身近に母親という教師がいて、 もっとも重要な事柄が教えられるという必然的な学びの場が成立していると考えられるの である。そこでは、教えられる側は、おそらく生理的に切羽づまった状況におかれ、否応 なく学ばざるをえない境遇にあり、しかも、学びの回路は、教える側に向かって全開され、 効果的に学びができるよう十分な受け入れ準備が整っていると考えられるのである。 こうしたことから考えると、筆者は浅学でその方面の知識はないのだが、「乳幼児の発達 学習心理」といったテーマのもと、目も見えず耳も聞こえないとき、授乳やおむつ換えの とき、入浴のとき、言葉を話しはじめたとき、離乳のとき、歩行をはじめるとき等々、乳 幼児の生理的・好奇心的な必要の都度、母親を通じてどのような学びの場が成立している のか、もっとヒトの乳幼児の行動心理が研究され、それが一般の人々、とくに若い母親の 常識として普及すればよいと思われる。 そうすれば、ガンの親鳥認識に相当し、クジラの息継ぎに匹敵するような重要な学びが、 われわれ人間の場合は、とくに母親を通じてどのよう行なわれているのかが明らかになり、 筆者のいう今の子の社会適応能力欠如の成立過程も解き明かされることとなるだろう。 乳幼児期における知覚発達や人格・情緒の形成に、とくに母子関係の影響がどのように かかわっているかは、今日、大きなテーマといわねばならないだろう。 ②文化の学びと仲間、集団 次に、2.の学ぶタイミングの序列性、つまり順番ということだが、哺乳類の幼児期は 好奇心が強く新しいものを見ると、観察したり触れたり咬んだりして確かめ、また、子ど も同士で頻繁にじゃれあい、仲間意識をはぐくむとともに、じゃれる運動によって筋肉や 神経の発達を促し、相手個体の扱い方(どの程度で傷つき、どの程度以内なら傷つかない かなど)を覚えるとされる。また、チンパンジーでは、幼児期、よく母親が子どもと遊戯 をしてやって面倒を見るという。母親が横になって天に伸ばした両手足のうえに子どもを 乗せてやるヒコーキ遊び、子どもをくすぐってキャーキャーと転げまわらせる遊びなどが 盛んという。 さらに、例えば、九州幸島のニホンザルが、餌づけのイモを洗って食べる文化をもつの はよく知られているが、その新しい習性を、偶然、最初に創り出したのは、こうした好奇 心旺盛な一頭の若い雌ザルだった。それを同じ世代の若いサルたちがまねをし、次に母ザ ル、最後に老いた雄ザルを経て群れ全体に広がったという。(もっとも最近は、異説もある が…) 野性のチンパンジーのなかに、アブラヤシの種の固い殻を石で割り、胚を取り出して食 べる群れのあることが知られている。群れの子どもたちは、四、五歳になれば、執拗にお 40 となをまねて割る動作を繰り返し、七歳くらいでようやくマスターするらしい。 水平の石の台に丸い種を置き、適当な石のハンマーで力を加減しながら殻を割るという には相当な器用さが必要だが、個体差があって、不幸にして幼いときに習得できなかった 者は、忍耐と持続によってしか習得できないそんな困難な技能など、子ども期を過ぎてか らは、もう二度とチャレンジしないという。 チンパンジーでは、若い雌が生まれた群れからほかの群れへ移る習性のあることが知 られている。アブラヤシの食文化の群れにも、ほかから移籍してきたそんな雌がいるが、 当然、アブラヤシの文化をもっていない。彼女たちは、仲間がその美味を楽しむとき側で 欲しそうな顔はしていても、学習適齢期が過ぎているので、それを学ぶことはないという。 こうして見ると、動物の学びという場合、何をどのような順番で学んでいるのかという と、先ず生命そのものにかかわる基本の事柄、餌を運んでくれる親をしっかり記憶したり、 呼吸の仕方を覚えたりなどを学ぶ。次に、自分のまわりにある動植物などが自分にとって どういう意味(危害を加えるのか、毒なのか、有益なのかなど)を、直接、自分で咬んだ り触れたり体験を通じて学ぶ。同時に、母親や仲間との間で、ほかの個体の肉体的・心理 的な扱い方や仲間意識を学び、次に、その種のもつ生活習慣、つまり文化を学ぶといった 順序があると思われる。 ここからは推察にすぎないのだが、何をどういう順序で学ぶかのタイミングにあわせ子 の側では、順序立った器官や神経の発達が行われているにちがいない。親を認識する視覚 が先ず発達するとか、十分息継ぎができる呼吸器の発達があるとか、ものを見わける嗅覚 や味覚が鋭敏かつ識別の多様性をもつなどが考えられる。そのように、学びの順序の基礎 には器官や神経系の発達が、順序正しく同時進行しているにちがいない。 同時に、基本の学びには母親の存在を欠くことができなかったように、ここでは、また 仲間や集団の存在が大きな意味をもつと考えられる。 動物の学びでとくに注意すべき点は、彼らには言葉も学校も政府もないので、例えば親 の恣意や言葉によって学びが強要されるのでなく、学ぶ側の器官や神経系の発達にあわせ て学びの場が、おのずからあるべきかたちで成立している点ではなかろうか。 そういう意味で、次は、「乳幼児から小学生までの発達心理」といったテーマで、哺乳類 の一員としてのヒトの場合、器官や神経系の発達と学びの序列性の関係がどうなっている のか、もっと研究されていいのではなかろうか。また、そこに、母や家族、仲間の存在は どのような意味や影響をもつのかも研究の対象となればよいと思われる。 そうすれば、子どもを夜遅くまで塾に通わせて車で送迎するような、今の「教育」は、 哺乳類の一員という大きな立場から見れば、どんな意味をもつのかも明らかになるだろう。 親の恣意で、海や川や野原と戯れることも知らず、多くの仲間ともまみえず、社会から 隔離されたような状況で側にただ母親がおり、英語や漢字や算数テストを繰り返して育つ のと、自然や仲間と戯れるなかで、器官や神経系の発達の序列に応じたおのずからなる「学 び」で育つのと、どちらが、一体、哺乳類としてふさわしいのだろうか。 41
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