13・5・12 「聖書から学ぶ識別力のある関係」 ピリピ1:9~11 Ⅰ 箴言から学ぶ識別力。 「これ(箴言)は、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、 正義と公義と公正と思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知 識と思慮を得させるためである。知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る」 1:2-5。箴言全体をじっくり読み、味わいたい。何度も。1.「主を恐れることは知識の初めであ る。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」:7。この書の主題。まずは、私達を愛し、造り、救われる主な る神との関係。主を信じ、主に愛され、偉大な主を恐れ敬う命の通う関係から、真の知識、識別力、分 別が主から与えられる。2.「わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。 …あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない」:10、15。悪の道に一度踏み入れると、抜 けられなくなる。続けると悪の中毒になる。多くの人がそれで人生を自分で駄目にしている→「彼らは 知識(主を信じ、主を恐れる事)を憎み、主を恐れる(主を畏れ敬い主に拠り頼む)ことを選ばず、わ たしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。それで、彼らは自分の行いの実 を食らい、自分のたくらみに飽きるであろう。わきまえのない者の背信は自分を殺し、愚かな者の安心 は自分を滅ぼす」 :29-32。御言葉と御聖霊と信頼出来る人に祈ってもらう事で、悪に踏み入れず、 神に近づけるように祈りたい→「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊(御 聖霊)を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう(悟り、理解を下さる) 」:23。3.「心を 尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても(人生に何が起こって も、人間関係の問題でも) 、主(主の御支配と主の御計画がある事)を認めよ。そうすれば、主はあな たの道をまっすぐにされる(私達がやけになり、性急な間違った行動に出る事から守られ、神が用意さ れた正しい道に導かれる) 」3:5,6。4. 「私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さ ず、あなたの心に保て。…力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。… 右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ」4:20-27。その代わりに、もっ ともっと素晴らしい神に近づける。5.「憎しみを隠す者は偽りのくちびるを持ち、そしりを口に出す 者は愚かな者である」10:18、「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう」 10:12。まず神が私達を愛し、主が私達のすべてのそむきの罪を負い十字架で私達の罪の身代わり に刑罰を受けられ、その恵みの故に私達のすべての罪を愛でおおわれた恵みを心から感謝したい。神か らの愛で他の人を赦せますように。6.隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし、英知のある者 は沈黙を守る。歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし、真実な心の人は事を秘める」11: 12,13。真実な人は、事の真実を完全に判断することができるのは神のみである事をわきまえ、沈 黙を守り、神の時がある事を認め、神の正しいさばきに委ねる。7.「愚か者は自分の道を正しいと思 う。しかし知恵のある者は忠告を受け入れる。愚かな者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずか しめを受けても黙っている」12:16,17。神が正しくさばかれる事を自覚している。8.「子を 愛する者はつとめてこれを懲らしめる(愛をもってしつける。神の前に、何が正しい事、悪い事かを教 える。その為には親自身が成長し続ける事を祈り求める) 」13:24。9. 「わきまえのない者は何で も言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる」14:15。 「最初に訴える者は、その 相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える」18:17。わきまえのある人は、片方からだけの情報 で事の真実を判断しない。相手の事情も聞いて判断する。そうしたとしても、人の判断には限界があり、 事のすべての真実は神のみが判断される事をわきまえつつ。10. 「怒りをおそくする者は英知を増し、 気の短い者は愚かさを増す」14:29。怒りを遅くするとは、神が自分にも相手にも働かれる時間を 差し出す事。怒りを遅くし、神が働かれると、心が冷静にさせられ、英知、事を冷静に見直し、判断す る心が増す。11.「隣人の家に、足しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことがないよ うにせよ」25:17。この御言葉は、親しい交わりの否定ではない。親しい中にも、礼儀が必要であ るという事である。愛は、 「礼儀に反することをせず」Ⅰコリ13:5。人と人との健全な交わりには、 健全な距離がある。遠過ぎても心が通う交わりはできない。近過ぎては、相手の人格(自由)を支配し たり、一体化して、健全に成長しない関係となる。つまり、主につく人生ではなく、人につく(支配さ れたり支配したり)人生となる。「ある人が、『私はパウロにつく』と言えば、別の人は、『私はアポロ に』と言う」Ⅰコリ3:4。私達の主にある親しい交わりとは、それぞれが人につかず、主につき、そ の主を自分と人との間にしっかり置く健全な交わり。間におられる主は、私達が遠過ぎる時は、主によ って親しく交わる事を、近過ぎる時は、それぞれが、一人になり、神と静かに交わる事を喜ばれる。主 御自身が地上におられた時、人々との交わりを大切にされたと同時に、朝早く起きて御父との親しい交 わりを大切にされた。マル1:35。 Ⅱ 私達には、真実な愛も識別力もない。だから祈り求めよう。ピリピ1:9,10の祈りの「あなたが たの」を「私」に変えて、自分の祈りとして祈りたい→「私の愛が真の知識とあらゆる識別力によって、 いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」 。 聖歌253→「恵みあふるる神の御前に求めよ、さらば(そうすれば)、与えらるべし(与えて下さい ます) 」
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