持てるものを皆売り払う…

持てるものを皆売り払う…
新約単篇
マルコによる福音
持てるものを皆売り払う…
マルコ 10:21
今朝私たちが注目したいのは、21 節にあるイエスのお言葉の意図です。
「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り
払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。
そして、わたしに従ってきなさい」
この後、これを実行できないで去ったこの人の理由を暗示するように、次
の 2 行が書き加えられています。
すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。
たくさんの資産を持っていたからである。
第1の見方……自己犠牲と愛を徹底しなければ、
神の掟を守ったことにならぬ
そういう意味で、この人に自分の持ち物全部を売って、困窮者に与えつく
すことをイエスはお命じになった……と。
これを、初めの永遠の生命を受けるために……という 17 節の質問から対話
を一段一段追って詰めてくると、モーセの十戒に命じられたことを、特にそ
の精神まで徹底して行え……これに対して、ラビ、それは私の場合幼少のこ
ろから教えられて守ってまいりました……外に何が足りないのでしょうか!
真面目で純真、真剣そのものと見る人がいてもいいし、軽薄、安易、事故
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を見つめる厳しさの欠如と見る人がいてもいいでしょう。ここで、この人を
見て、目をとめて慈しんだというイエス様は、彼の純真さを愛で給うたのか、
ローマ書 7 章を書いたタルソのパウロであれば結論まで見通して、軽薄と断
定したか……。いずれにせよ、そういう命令としてとればこれは何か……?
私有物をすべて放棄して人に与えよ。その功績は莫大な富として天に記録
される。「天に宝を持つ」とありますが、施しの極みはそこにある。乞食と
なり、自ら餓えて倒れるまで捨てきるのでなければ、神の掟を守ったなどと
は言うな。口が裂けても言うな。愛はすべてを人に与えて自らを否定する所
にある。これは、一見この教えの真髄を言い表しているようにも見えます。
けれども、もしそれがイエスの命令の意図だと取ればどうなるか……。
① 狂信的にすべてを捨てて飢え死にする人か、そうでなければかろうじて
人の情けにすがって生き延びる人だけが永遠の命に入る。あるいは、昔のシ
リアやエジプトのような温暖な地方で、無一物の自然生活、仙人・隠者の生
活に徹した人だけが永遠の命を得る。
② そこまでの狂気に自分を追い込めない人は、ついにイエスと無縁。悲し
んで去れということになる。
③ もし、この線で何らかの宗教生活が成り立つとすれば、人よりは少し多
く犠牲を払ったと自惚れる人が、そうでない人を軽んじて、憎んで、互いに
憤りのエネルギーで誇り合う宗教ができる。あいつは偽善者だと。実際、教
会によっては、互いにそういう目で相手を見下げあう純粋主義者の道場のよ
うなものを作っているケースも多い。こういう教会も恐ろしいことですが本
当にあるのですね。牧師は信徒をそのような目で見、信徒は牧師を偽善者と
見る。熱心な指導者は自分がこれだけやっているのに認められないと言って
憤慨して去って行ったり、分裂したりしていく。そういう教会はいくらでも
あるのです。
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第2の見方……これはこの人の場合専用の荒療治であった。
あなたは真正直に悩むことはない。別の角度から反省せよ。
この見方は最後の「たくさんの資産を持っていたからである」という 22
節の言葉から出発します。単に資産家で、その莫大な資産が信仰の邪魔をし
たと見てもよいし、もう一歩突っ込んで、その資産への執着、利己的な執念、
所有欲、ガリガリ度……それがこの人と神とをひきはなしているのをイエス
は鋭く見抜いた。だからこの人には、その永遠の生命からこの人を妨げてい
るもの、つまり資産を売れ、手離せと命じた。もし資産があっても、それに
魂を奪われず、神よりの委託物として清く用いることができれば、イエスは
決して売れとは命じなかった。―アメリカ人神学者に多い楽天的解釈で、
これは資産家への慈善の励ましにもなります。
ついでに付け加えるとすれば、金や財産以外のもの―憎しみ・不潔・偽
り・不倫の恋……その他、その人と永遠の生命を切り離している恐ろしい邪
魔物があれば、それをこそ放棄せよ―ちょっと解釈としては苦しいが、売
って施せ……を手放せと解すれば実際的に意味が通じます―イエスは資産
でなくても同じことを命じるであろう。―これも宣教師のバイブルクラス
でよく出る説明です。
さて、イエスの意図が何でも神と自分を引き離す罪の原因を資産と見てい
ると取れば、この角度から見るとどうなるか……?
① 自分はそんなに資産は持っていない。あの人にこそ先ず実行させよ。私
は該当せずという逃れ道が見出せる。
② 資産の所有、資産の売却、困窮者への施し―というテーマは、道徳的
な堕落や悪癖などの放棄ということがらにすり替わる。禁酒運動、禁煙運動
など、いろいろなもののエネルギー源になる。
③ 資産という概念を広く解して、すべて私と神の間にあって救いを邪魔す
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るもの、つまりこの人の場合の資産に相当する救いの妨害物と取ったとして
も、それを持たない人が果たしてあるのか? もしそれを全部除去するまで永
遠の生命は無いとすれば、これも正直な人を突き放す言葉なのか……。
第3の見方……これはユダヤ人特有の施し観、財産観から考えねばならない。
イエスの趣旨は、「人に施しもできないような無一物になってみよ。スッ
テンテンになって、無能力者、被保護者になってみるか」という意味が中心
で、財産を捨てること自体や貧者を助けること自体の功績を言っているので
はない。まして、愛の徹底を教えたのでもない……となります。元々ユダヤ
教のラビたちの教えでは「全所有物を売って無一物になることは、むしろ罪
悪で、人の負担になるだけではなく、自ら善を行うことも貧者に施しを行う
こともできなくなる。生きた信仰生活を放棄することになる。」そう教えた
ものです。
ユダヤ人の考え方では、資産を持っているということは、それだけ神の祝
福を受けているということで―ここにも落とし穴があって、ルカ伝の後半
ではイエス様とファリサイ人との討論がありますが―それを用いて困窮者
を助けているという実績こそ地上で神の前に宝を積んでいることになる。そ
れを一度に全部放棄して裸になるということは一見カッコイイけれども、実
は自ら宗教生活も道徳も放棄して、無能力者、被保護者、破産者になるに過
ぎない。そういう理由から、ヘブライ語のミシュナやタルムードの中には、
「施しの額は全資産の 5 分の 1 を超えるべからず」
と厳しく規定しています。
こういう伝統の中でイエスがおっしゃったとすると、イエスがすべてを犠
牲にして後先を考え無ない行為を、その一瞬の美しさとか、それで多くの困
窮者が助かることを理由に賞揚されるはずはない。イエスが与えようとなさ
ったショックは別の所にあった。それは何か……?
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この人は 20 節で「それらのことは皆、小さい時から守っております」と言っ
ているわけで、この人の誇りはファリサイ人の宗教と同じで―これだけ愛
を行っています。これだけ神の掟を守っています。そこらの不真面目で不徹
底な人間とは同じに見て下さるな。これだけ真面目にやってなお足りぬとす
れば、何がありましょう。―そこにあった。
もしイエス様がそれプラス、すべてを売り払うこと、貧者に施すことを命
じられたとすれば、この人の律法主義を助長して自己満足を徹底させてやる
だけの効果しかない。主の発想は全く別の所にあった。それは無一物の乞食
になって、誇れる実績とか実行能力を何も持たない所へ落ちてみよ。自らの
宗教的純粋さだとか、外の人と比べてマシとか……言えなくて、ただ神の赦
しと憐れみだけを受ける者、霊の貧者、困窮者になってみよ。そうすれば、
私イエスが持ってきた宝の意味が分かる。ここでは天に宝を持つというのは、
そういう愛や施しの実績とは異質の上から受ける宝ですね。この見方は、ち
ょうど 10 年前の 11 月 14 日にここを読んで学んでいます。
さて、それがイエスの命令の意図だと取ればどうなるのか?
① イエスは愛とか犠牲の徹底を教えたり、ましてそこまで徹底できた人だ
けに永遠の生命があるとお教えになったのではない。
② この人の致命的欠陥は、あのファリサイ人と取税人の祈りと同じで、自
分は神の前にこれだけ宝を積んでいるという自信―そこから来る人への蔑
みや憎しみにあった。天に宝を……とおっしゃったのは、そういう愛の実績
なんかとは次元の違う、憐れみを受けて頂く宝に目を移させることにあった。
とすると、「たくさんの資産を持っていたからである」という彼の悲しみの
理由は、形ある資産と二重写しになって、この人の地上の宝、つまり愛や施
しの実績、つまり「私はこれだけやっている」という資産があったからです
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« ま と め »
第 1 の理解、愛の徹底・自己犠牲の徹底ということは、この場合は主の趣
旨ではなかったと思います。この角度からの受け止め方にも価値があるとす
れば、やはり真剣にそれを実験してみて、自分の罪と自分の悲しさを知るこ
とでしょう。本当の喜びは、そのガリガリ亡者でどうにもならない自分を、
そのまま引き受けて愛して下さっている方を十字架に見る所から始まります。
ガリガリ亡者が治って資産への執着がふっ切れてから愛して下さるのではな
いのです。
第2の理解、イエスに従うことを妨げているもの、信仰よりも差し当たり
貴重で捨てきれないものが資産だという見方です。これはお言葉の意図から
は一番遠いのですけれども、それでも考えてみる値打ちはあるでしょう。た
だ、目標は「それを全部捨て切れた。万歳!」という勝利感にあるのではな
く、それを捨てきれない情けない者をイエスはお捨てにならない―それを
発見することです。
第3の理解、資産を犠牲にするのが偉い訳ではない。貧しい人を誰よりも
多く助けた、そんな霊的勲章などにイエスは価値をご覧にならない。むしろ
何一つ誇れない無一物の失格者を自分の中に見よ。あなたが神の前に積んで
いるつもりの人助けの宝は、ただの地上の宝。天に持つ宝は、跪いて頂いた
宝だけだ。これが分からないと、十字架の意味も復活の命も現実性を持ちま
せん。ただ、第3の理解から、だから施しも自己犠牲も余計なことで、しな
くてもよい……という所へ行けば、何かが裏返しになったことになります。
以上、三つのどの角度から主として受け止めるか―それはあなたの性格、
あなたの弱さ、あなたの強さ、あなたの誇りによって少しずつ変わってきま
しょう。しかし大事なことは、このお言葉は 22 節のように悲しみながら立ち
去らせるためにあるのではなく、27 節の主のお言葉のように人には不可能で
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も神には可能、誇りの資産を持った者も、貪欲の資産を持った者も、聖人と
同じように救ってくださる。そのためにキリストは死なれたし、そのために
復活して、先にそこへ行って下さった。それを知るためにあります。
最後に 21 節から 27 節を再読して終わります。
21.イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないこ
とが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施
しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従っ
てきなさい」。 22.すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみな
がら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 23.それから、
イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはい
るのは、なんとむずかしいことであろう」。 24.弟子たちはこの言葉に驚き
怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なん
とむずかしいことであろう。 25.富んでいる者が神の国にはいるよりは、ら
くだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 26.すると彼らはますます驚
いて、互に言った、
「それでは、だれが救われることができるのだろう」。 27.
イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神
はなんでもできるからである」。
(1986/11/16)
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