雇用と貧困

シンポジウム 労働者の貧困と社会法の役割─労働法と社会保障法の交錯
雇用と貧困
─新しい社会法に向けて─
石田 眞*
Ⅰ
2008年末のリーマン・ショック以降
困>問題への関心の高さと,そうした問題に対
のグローバル経済危機は,日米両国にお
処するにあたっての社会保障法学および労働法
いて多くの失業者を生み出すとともに,不安定
学が取り組むべき課題の大きさを思い知った1
な雇用条件のもとにおかれている非正規労働者
日であった。
Ⅱ
の状態を急速に悪化させ,労働者の貧困を拡大
させた。
『労働者の貧困と社会法の役割─労働法
と社会保障法の交錯』と題する日米比較を中心
このような<労働者の貧困>問題を
労働法と社会保障法の両面から検討し,
さらにそれらを統合して<新たな社会法>を展
にした国際シンポジウムの目的は,以上のよう
望してみようという発想は,一昨年に開催され
な労働者の貧困の拡大・固定化現象がみられる
た『グローバル経済危機と労働法の役割』と題
日米両国において,こうした状況を打開するた
する国際シンポジウムの後のカール・クレア教
めの法の役割について,労働法と社会保障法と
授と私の議論から生まれた。この一昨年の国際
くに貧困法の両面から検討し,それを通じて労
シンポジウムは,失業の増大,非正規労働者の
働者の生活保障のための新たな社会法を展望す
増大,ワーキング・プアの増大,賃金・労働条
ることであった。
件の格差の拡大など,グローバル経済危機を契
この国際シンポジウムには,
アメリカから,
貧
機に噴出した諸問題に対処するにあたっての労
困法の専門家であるルーシー・ウイリアムズ
働法の役割を議論するものであった。イギリス,
(Lucy A. Williams)教授(ノースイースタン大
アメリカ,イタリア,デンマーク,韓国から第
学)と労働法の専門家であるカール・クレア
一線の労働法学者が招待された。カール・クレ
(Karl E. Klare)教授,またわが国から田端博邦
ア教授は,その招待者の一人として,アメリカ
氏(東京大学名誉教授)をお招きし,ご報告を
の状況について刺激的な報告を行った(なお,こ
お願いした。私は,
当日,
「不安定雇用-労働法
のシンポジウムの記録は,戒能通厚・石田眞・
と貧困法の間」と題するカール・クレア教授の
上村達男『法創造の比較法学─先端的課題への
報告に対しコメントを行った。すでにかなりの
挑戦』<日本評論社,2010年>に収められてい
時間が経過してしまったシンポジウム当日
る)
。
(2011年1月15日)の雰囲気を正確にお伝えする
この国際シンポジウムの直後,クレア教授と
ことは難しいが,当日は,100名近い参加者があ
私は,同シンポについての感想や反省を話し
り,質の高い同時通訳にも助けられ,ほとんど
合ったが,その際二人が一致したのは,グロー
言語の壁を感じさせない白熱した議論が展開さ
バル経済危機を前後する労働者の貧困の拡大に
れた。私としても,あらためて,<労働者の貧
対処するためには,
「労働法の役割」を議論する
* 早稲田大学大学院法務研究科教授
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だけでは限界があるということであった。ワー
すなわち,アメリカでも,日本でも,団体交
キング・プアという<働いてもなお貧しい>貧
渉やそれを保護する労働法システムが適切に機
困の出現,貧困から逃れられなくなった低賃金
能していれば,家族賃金の稼ぎ手である男性労
労働者が生活のために社会保障給付を受給する
働者とその家族に一定の安定した生活が保障さ
という事態などは,もはや労働法と社会保障法
れていた。こうした状況のもとでは,労働関係
を別々に議論していては適切な解決策を見出す
が維持され,労働システムがうまく機能してい
ことは難しいのではないか。不安定な雇用のも
る限り,労働者とその家族には安定した生活が
とにある労働者の貧困という事態に対処するた
保障され,労働関係がなんらかの理由で中断も
めには,労働者の生活保障という観点から,労
しくは解消された場合にのみ,社会保障法が出
働法と社会保障法の双方を視野に入れた議論が
動し,補完するものとされた。労働法と社会保
必要ではないのかということであった。そして,
障法は,労働者のライフサイクルの中では,労
このように議論してみると,二人とも,従来の
働関係のある無しにより守備範囲を明確に区分
法のあり方にいくつかの疑問が湧いてきた。例
されたうえで補完関係にあると考えられ,労働
えば,①労働法も社会保障法も,もともとは同
法と社会保障法は,それぞれ別個の領域として
じ社会法の構成部分であったのに,なぜその後
機能分化していった。
それぞれ別々の法体系として機能分化してし
<ではなぜ労働法と社会保障法が機能分化し
まったのか。②そうした機能分化が生じた基盤
た20世紀モデルは崩壊したのか>という次の問
にある日米の福祉国家の性格はどのようなもの
い対するクレア教授の答えは,労働の女性化,労
であったのか,などの疑問である。実は,こう
働組織の変化,非正規労働者を中心とする不安
した疑問を解くために開催したのが今回の国際
定雇用の増大など労働市場の大きな変動などが
シンポジュウムであった。
原因となっているというものである。問題は,か
Ⅲ
カール・クレア教授の「不安定雇用─
かる変化が労働法と社会保障法の機能分化を崩
労働法と貧困法の間」という報告は,本
壊させつつあるのかであるが,それは,非正規
来労働者の貧困の解消という共通の目的をもっ
労働者が不安定雇用化し,働いてもなお貧しい
て出現した労働法と貧困法(社会保障法)がな
ワーキング・プアとう名の貧困が出現してくる
ぜ別々の体系として機能分化してしまったのか
と,労働関係のある無しによって機能区分され
という問いに答えを出すとともに,その機能分
た労働法と社会保障法の関係を崩壊させてしま
化を支えていた基盤がポスト産業社会における
うことになる。かくして,今や,市民法と労働
労働組織の変容と非正規(不安定)雇用の増大
法によって国民の大多数を占める雇用労働者の
によって掘り崩されていることをアメリカ的福
生存が確保できた時代-労働関係の有無によっ
祉国家の現実を踏まえて描き出し,最後に,新
て労働法と社会保障法の区分ができた時代-は
しい社会法の展望を述べるものであった。
ほぼ終焉しつつあるのではないか。
Ⅳ
<なぜ労働法と社会保障法が機能分化したの
か>という問いに対するクレア教授の答えは,
内部労働市場のもとでの「家族賃金」
(family
では,労働法と社会保障法を統合し,
どのような新たな社会法を構想するの
か。クレア教授は,21世紀の社会法は,①貧困
wage)を稼ぐ男性産業労働者(male industrial
の終結,②富と所得の再分配,③家事,生涯教
workers)をモデルとした社会では,内部労働
育,公的サービスなど賃労働以外の試みを尊重
市場にいる限り,生活は退職後の年金も含め保
すること,④労働市場を強固なものにすること,
障されているからだということであった。私の
⑤社会が人的資源に投資することで経済成長を
言葉を添えてクレア教授の議論を補強すると,
支えることを基本視点としてあげる。もとより,
次のようになる。
こうした基本視点も含め,新たな社会法に向け
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ては,これから様々な角度からの議論が必要で
ある。貧困を終わらせ,すべての労働者の生活
保障を実現できる社会法を構想しなければなら
ない。ただし,その際に,生活保障をベーシッ
ク・インカム的に構想するか(クレア教授はこ
れに近い)
,ワークフェア的に構想するのか,生
活保障の基盤をセーフティ・ネットとして構想
するのか,スプリング・ボードして構想するの
かなど,基本的な考え方について十分な検討が
必要である。これらすべてはこれからの課題で
あるが,今回の国際シンポジュウムはこうした
問題を議論する際の重要な出発点になったと確
信する。
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