Innovative East Asia: The Future of Growth

2004 年 10 月 15 日
国際基督教大学準教授
近藤正規
開発援助の新しい潮流:文献紹介 No. 45
Innovative East Asia: The Future of Growth (Shahid Yusuf)
背景
本書は、1999 年に日本政府の提案と出資により世界銀行で開始された East Asia Prospects
Study と呼ばれる東アジアの将来に関する研究プロジェクトの一環で、全7巻よりなる調査
研究報告の第 2 巻である。このプロジェクトは 1993 年に世界銀行で行われた「East Asian
Miracle」(邦題『東アジアの奇跡』)のフォローアップとして世銀において行われている東
アジア研究の中では最も大規模なものである。(本プロジェクトが行われるに至った背景に
ついては、文献紹介 No. 44 を参照のこと。) その第1巻はすでに、「Can East Asia
Compete?: Innovation for Global Markets」 (邦題『東アジアの競争力−グローバルなマー
ケットに向けたイノベーション』)として 2002 年 10 月に刊行されており、本書はその続編
に当たる。
第1巻(文献紹介 No. 44)では、今後の東アジアにとって重要な4つの分野として、イノベー
ションの環境、金融とサービス、I T、市場開放の4つをあげ、それぞれの概要を提示する
とともに、この4分野を通じてハイテク・クラスターからのスピル・オーバーを源とする
イノベーションが今後の東アジアの持続的成長の鍵であると提言された。それを受けて第 2
巻にあたる本書では、そのイノベーションを持続的に引き起こしていくために、東アジア
諸国がどうすればよいのか、政府の政策と市場のイニシアティブのあり方について、詳細
な分析と提言がなされている。
本書は 2003 年1月 16 日に東京での公開セミナーにて世界に先駆けて発表された。そこで
はウォルフェンソン世銀総裁と黒田東彦財務官(当時)が出席し、それぞれキーノート・スピ
ーチを行った。ウォルフェンソン総裁はイノベーション経済へ移行するためにはその前提
条件を整備することから始めるべきであると指摘し、また黒田財務官(当時)は中国とインド
の台頭を東アジアにとってのチャレンジであると着目し、そのために必要な東アジアにお
けるイノベーションの役割を強調した。それに続いて 2004 年 2 月 27 日には、本書の編者
である世界銀行のユスフ氏来日のもと、「大都市におけるクリエイティブ産業」と題した公
開セミナーが開催され、日本のアニメ産業の事例が紹介された。(これらのキーノート・ス
ピーチの全文と公開セミナーの内容は世銀ホームページ上で紹介されているので、興味の
ある方は参照されたい。)
書評
本書は全 9 章からなっており、最初の 3 章はこれまでの経緯も踏まえた上での東アジア経
済のオーバービュー、続く 5 章がイノベーション経済の様々な角度からの分析、最後の章
が東アジアへの提言の要約、という構成になっている。第 1 章では、本書全体の簡潔な概
要に続いて、東アジア経済のこれまでの成功と、危機からの回復、中国の台頭といった現
在置かれている状況を、各種データをもとに紹介している。それを受けて第 2 章では、東
アジアが今後マクロ経済の安定を保ちつつ、産業と金融部門の改革を進めていくために必
要な課題が、これまでの膨大な研究文献をもとに整理されている。続く第 3 章では日本で
も最近よく議論される東アジアの域内協力を扱っており、自由貿易協定や通貨協定につい
て議論されている。
これらの 3 章が東アジア経済の全体像を捉えているのに対し、第 4 章以降は、本書の中心
的課題であるイノベーション自体に焦点が当てられている。まず第 4 章では、産業組織論
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的なアプローチから、政府・大企業・ベンチャー企業、大学を含む社会全体のイノベーシ
ョン・システム活性化の必要性について論じている。第 5 章では、教育がイノベーション
経済移行のために重要な役割を担うと位置づけ、中等教育・高等教育・職業訓練のそれぞ
れにおける東アジアの現状と今後の課題を、これまでの世銀の研究成果を元に分析してい
る。第 6 章では、本書の主眼とも言うべきクラスター(集積拠点)を扱っている。そこではイ
ノベーション・システムの中でクラスターが中心的な役割を果たすとした上で、その分類
化と事例の紹介、国際間労働移住の考察などが行われている。第 7 章では、東アジア域内
で進むグローバルな生産ネットワークに注目し、その形成のために必要な政策を提言して
いる。第 8 章では、東アジアにおける情報通信技術(ICT)の役割を重視し、そのために必要
なガバナンスの改善や情報インフラの整備などの必要性を論じている。最後に第 10 章では、
まとめとして東アジアの将来に向けて 10 の政策提言を行っている。その中でも最初の 6 つ
はイノベーション経済移行への前提条件として、慎重な債務管理、弾力的な為替管理、地
域内協調、金融改革、サービス部門の規制緩和とインセンティブ、法制度改革となってお
り、残りの 4 つは、イノベーション・システムの持つ潜在可能性を完全に活用するための
政策として、イノベーションのための資源の動員、ネットワークとクラスターの形成、競
争政策の導入、インセンティブ形成のための各種公共政策とされている。
書評
本書の最大の意義は、東アジアの経済の将来において非常に重要なイノベーションの問題
について詳細な分析を行ったということにあるであろう。これまでにも東アジアのイノベ
ーションについては、各地で様々なケース・スタディが行われてきたものの、本書のよう
な東アジア全域を包括的に見た今回のように大掛かりな研究はかつて行われてこなかった。
さらにクラスターについても、ハーバード大学のポーター教授らによる経営学的研究、京
都大学の藤田昌久教授を始めとする空間経済学による研究、実証研究としては、日本では
アジア経済研究所の朽木昭文氏や国際開発高等教育機構の園部哲史氏らによる実証研究な
どが行われているが、イノベーションのためのクラスターという観点から大掛かりな研究
をアジア全域で行ったものは、今回が初めてであろう。(クラスターについての過去の研究
のサーベイとしては、例えば Piero Morosini (2003) Industrial Clusters, Knowledge
Integration and Performance, World Development Vol.32, No.2 を参照。) そして、東ア
ジア経済の将来で最も重要なものがイノベーションであり、それがハイテク・クラスター
を源とする、ということが途上国経済の研究において世界の中心的機関といえる世界銀行
によって提言されたということは、大きな意味を持つ。
無論、この本書のテーマがまだ現時点では仮説の域を出ないと感じる読者も少なくないで
あろう。たしかに上記の世銀総裁のキーノート・スピーチでも指摘されているように、東
アジア危機の原因はイノベーションの不足ではなかったし、また東アジア諸国の経済成長
のどのくらいが技術進歩で説明できるか、といった成長会計の推計による実証的な裏づけ
も十分にあるとは言い難い。ミクロレベルにおいてのハイテク・クラスターの事例も、ま
だ東アジアでさほど多く見られるとは言えない感もある。むしろ、中国にせよ ASEAN 諸
国にせよ、外国資本投資による技術移転、つまり本書でも若干の記述があるが、「イノベー
ション」よりは「イミテーション(模倣)」による経済成長である、という考え方も出来なくは
ないかもしれない。世界の技術革新をリードする米国やフィンランドではたしかにハイテ
ク・クラスターからのスピル・オーバーによるイミテーションが経済成長に大きく貢献し
てきたが、それをまだ大半は所得水準のさほど高くない日本やシンガポールなどを除いた
東アジア諸国の今後の持続的成長の鍵であるとするのは、少なくとも現時点ではかなり大
胆な仮説だと言えないこともない。さらに、「なぜイノベーションが重要か」という問いに
加えて、「そのイノベーションのためにどこまでクラスターが必要なのか」といった問いも、
東アジアというコンテクストでどの程度当てはまるのか、疑問に考える読者もいるかもし
れない。
また、一口に「東アジア」と言っても、イノベーションという点において地域内には大きな
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隔たりがある。自前のイノベーションを行っている日本や韓国、イノベーションをまだ自
前で行うだけの能力はなくとも自ら吸収して模倣するだけの能力は十分に持っている中国、
中国ほどの豊富な人材は擁していないもののハイテク立国化を強力に推し進めるマレーシ
ア、まだ自ら吸収するだけの水準には至っていない例えばインドネシアのような低所得国
家、など東アジア地域は実に多様性に富んでいる。10 年前に世銀において行われた「東アジ
アの奇跡」プロジェクトでは、最初に成功した諸国を明確にして、そこで共通する要因とし
て政府の政策、人的資本開発、高い貯蓄率といった共通項を浮き彫りにすることにより、
他の諸国に対する教訓として提示することが可能であった。しかし、本書でも述べられて
いる通り、イノベーションにおいては、例えば韓国と台湾だけを比較しても、そのあり方
は大きく異なっており、そういった点から、最後の章の「東アジアへ向けての 10 の政策提
言」の意味は、東アジア各国によってかなり異なったものであるかもしれない。さらに、1993
年の「東アジアの奇跡」においてはコンディショナリティをつけて途上国政府に資金を融資
する世界銀行にとって「政府の役割」の分析が、十分な理論的裏づけとなり得た。それに対
し本書では、政府だけでなく市場の役割も重視している。また、日本を始め、シンガポー
ルや韓国など自前でイノベーションの出来る国ほど世界銀行の政策提言を必要としていな
い傾向があることを考えると、この「提言」の有効性も『東アジアの奇跡』の時とは若干異
なった性格を持つということは言えよう。
しかしここで重要なのは、本書の「10 の提言」が世界銀行のユスフを中心とするスタッフだ
けでなく、本書の冒頭にも謝辞が述べられているような、ノーベル経済学者スティグリッ
ツ教授を始めとした蒼々たるメンバーと日本政府による方向付けのもとに出された、とい
うことである。それが、現時点においては仮説の域を出ないハイテク・クラスターが東ア
ジアの将来を担うという命題に基づくとしても、それは過去の実証研究に基づくと言うよ
りは将来を見通すという本研究プロジェクトの性格から当然出てくる問題であり、仕方が
無いとも言える。そうした意味で、このイノベーションとクラスターの問題の東アジアに
とっての重要性はさらに説得力を持ってくるのではなかろうか。
そこで、本書が発端となって、イノベーションとクラスターに関する調査が、東アジアで
今後これまで以上に活発に行われることが望まれよう。世界銀行では本書をベースにして、
中国の北東部におけるハイテク・クラスター形成の事例研究を開始したようである。今後、
同様の研究が中国以外の東アジア諸国でも進んでいくであろう。本書が各所で触れるイン
ドの成功例の東アジアへの応用だけでなく、アジア以外でも例えばアイスランド、イスラ
エル、エストニアといった、ハイテク・クラスターの形成に成功した国家のどういった政
策がどのアジア諸国にどのような形でどこまで応用できそうか、国別により具体的な調査
と検討が望まれる。
最後に、本書が日本に与えるべき影響について助言したい。第一に、将来の持続的成長の
ためにイノベーションが最も欠かせない国は、東アジアの中でも恐らく日本である。アジ
ア諸国の追い上げを受け、少子化の問題を抱える日本の将来が、技術革新に大きく依って
いることを否定出来ない。その意味では、本書の「東アジア」に向けての提言が最も直接的
に関係してくる国は日本であるかもしれないが故に、本書が少しでも多くの日本人の読者
の目にふれることが望まれよう。第二に、今後は世銀の研究プロジェクトへの政府資金拠
出ということにとどまらず、本書をきっかけとして、『東アジアの奇跡』の時のような、日
本の研究者と世銀の密接な研究協力体制がこのイノベーションとクラスターの分野におい
ても確立されることも、併せて望みたいものである。
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