フィンランドで考えたこと(1)-聴覚障害児教育の変貌・最先端 鳥越隆士 2013 年 に 1 年 間 ,大 学 の サ バ テ ィ カ ル 研 修( 研 究 の た め の 休 業 で き る )を と っ た 。そ し て そ の う ち の 5 か 月 間 を フ ィ ン ラ ン ド で 過 ご し た 。フ ィ ン ラ ン ド 訪 問 は 2 回 目 で あ る 。1999 年スウェーデンで 2 か月間のろう学校調査を行っているとき,1 週間ほどフィンランドに 渡っている。当時,スウェーデンでは,手話を活用したバイリンガル教育の最盛期であっ た( 人 工 内 耳 装 用 児 も じ わ じ わ と 増 え て い た が )。フ ィ ン ラ ン ド で は ,ろ う 学 校 を 視 察 し た 。 同じく手話を活用したバイリンガル教育を実施していたが,まだスタートしたばかりで, 様 々 な 問 題 に 直 面 し て い た( そ の あ た り は「 バ イ リ ン ガ ル ろ う 教 育 の 実 践 」 (全日本ろうあ 連 盟 , 2003 年 出 版 ) を ご 覧 く だ さ い )。 今 回 フ ィ ン ラ ン ド を 訪 問 先 に 選 ん だ の は , い ろ ん な 理 由 が あ る 。 こ こ 20 年 ほ ど , ろ う 教育の調査地として北欧の国々を巡ってきたが,フィンランドが最後の国になる。また数 年 前 に PISA( OECD に よ る 国 際 的 な 学 習 到 達 度 調 査 )に よ る 報 告 で ,フ ィ ン ラ ン ド の 教 育 が 世界中から注目を浴びたが,現在もなお教育関係者から注目され続けている。教室でどの ような優れた実践を行っているのか,興味があった。また手話に関して言えば,世界で初 め て 憲 法 に 手 話 が 明 記 さ れ た 国 で あ る 。1975 年 の こ と で あ る 。折 し も 日 本 で も ,昨 年 国 連 「障害者の権利条約」 ( 言 語 と し て の 手 話 が 明 記 さ れ て い る )が 批 准 さ れ ,在 野 で は 手 話 言 語法制定を求める大きなうねりがある。県市町村レベルでも手話言語条例制定への取組が あり,私の大学のある加東市でもこれが制定された。フィンランドでの手話言語の社会的 な 認 知 の 経 緯 ,ま た 法 制 化 と 現 実 の 様 々 な 取 組 と の 関 わ り( 例 え ば ,手 話 カ リ キ ュ ラ ム は ? ) について調べたいと思っていた。 いろんな思いを持って 5 か月間を過ごした。その経験の一端をここに紹介したい。滞在 期 間 は , 2013 年 3 月 11 日 か ら 7 月 31 日 で あ っ た 。 ユヴァスキュラ大学手話研究センター ヘ ル シ ン キ 空 港 に 3 月 11 日 の 夕 刻 に 到 着 し ,翌 日 ,鉄 道 で ユ ヴ ァ ス キ ュ ラ に 向 か っ た 。 ユ ヴ ァ ス キ ュ ラ は ヘ ル シ ン キ か ら 北 に 300 キ ロ ほ ど の と こ ろ に あ る 。 車 窓 か ら ま も な く 街 の風景が消え,行けども,行けどもまさに森と湖の国。タンペレで乗り換え,3 時間ほど でユヴァスキュラに到着した。 ユ ヴ ァ ス キ ュ ラ の 街 は こ じ ん ま り し て い て ( 人 口 は 13 万 人 ほ ど ), た い て い の 場 所 は 徒 歩 で 行 け る 。と り あ え ず 荷 物 を 駅 の ロ ッ カ ー に 放 り 込 ん で ,大 学 に 向 か う 。徒 歩 で 20 分 く ら い だ っ た ろ う か 。 受 け 入 れ 教 員 の リ ト ヴ ァ 先 生 ( Ritva Takkinen) に 挨 拶 。 ア パ ー ト の カギをもらい,荷物を運び入れ,また大学に戻る。 丁度リトアニアから手話関係者が 1 週間の予定で視察に来ているとのこと。歓迎のセミ 1 ナーを行っているのでそれに参加させてもらうことに(私にとって,いいオリエンテーシ ョ ン に な っ た )。リ ト ア ニ ア の グ ル ー プ は ヴ ィ リ ニ ュ ス 大 学 の 手 話 通 訳 者 養 成 プ ロ グ ラ ム の 教 員 や 関 係 者 10 名 ほ ど ( こ こ で も 手 話 通 訳 者 の 養 成 が 大 学 レ ベ ル で き ち ん と 行 わ れ て い る )。 高 台 か ら 見 た ユ ヴ ァ ス キ ュ ラ の 街 。ま さ に 森 と ユ ヴ ァ ス キ ュ ラ に あ る 湖( ユ ヴ ァ ス ヤ ル ビ 湖 )。 湖の街。 冬 は 凍 結 し て い て ,休 日 に な る と ス ケ ー ト や ス キーをする人たちでいっぱいとなる。 歓迎のセミナーでは,リトヴァ先生の挨拶とセンターの紹介がなされた。手話研究セン タ ー は 2010 年 に 開 設 さ れ た 。フ ィ ン ラ ン ド で ,唯 一 の 全 国 レ ベ ル の 手 話 に 関 す る 研 究 セ ン タ ー で あ り , 政 府 の 特 別 の 援 助 を 受 け て い る 。 そ れ 以 前 も 手 話 研 究 の 拠 点 で あ っ た 。 1992 年 に 言 語 学 部 に 手 話 コ ー ス が ス タ ー ト し た ( 彼 女 は 1996 年 に 講 師 と し て 採 用 )。 手 話 コ ー ス は K1 と K2 の 2 つ の カ リ キ ュ ラ ム が あ り ,前 者 が フ ィ ン ラ ン ド 手 話 を 母 語 と す る 学 生( ろ う 者 ,難 聴 者 ,CODA な ど )の た め の プ ロ グ ラ ム 。後 者 は 新 た に 手 話 を 学 ぶ 人 た ち の た め の も の 。 か つ て は ろ う 児 の た め の 「 ク ラ ス 教 師 ( 通 常 教 育 の 先 生 )」 養 成 の コ ー ス が あ っ た 。 ク ラ ス 教 師 は ,特 殊 教 育 の 枠 組 み で は な く , 「 手 話 を 使 う 児 童 生 徒 に 対 し て ,手 話 を 使 っ て 通常教育を行う教員」という枠組み。手話のできるろう者が,このコースで「手話を使う 通常教育の教員」として養成されたのだ。バイリンガルろう教育で先行するスウェーデン やデンマークでは,ろう者の教員はあくまでも特殊教育の枠組み。フィンランドは少し遅 れてスタートしたため,考え方はさらに進展したのであろう(手話を使う以外は,通常教 育 の 枠 組 み で 考 え る )。残 念 な が ら ,現 在 は ろ う 学 校 自 体 が 縮 小 し ,教 員 の 採 用 も な く な っ て き た の で ,「 手 話 を 使 う 通 常 教 育 の 教 員 」 養 成 プ ロ グ ラ ム 自 体 が 消 滅 し た と の こ と 。 現 在 の コ ー ス を 修 了 す る と ,「 手 話 教 師 」 に な る こ と は で き る 。 た だ ろ う 学 校 に 就 職 す るためには,これに特殊教育の免許状を教員養成学部に取りに行かなくてはならない。手 話 教 師 は ろ う 学 校 等 で L1 と し て , あ る い は L2 と し て の 手 話 の 授 業 を 担 当 す る 。 全国に唯一のセンターと言っても,規模はそんなに大きくない。1 つの建物を,同じく 2 言語学部のフィンランド語部門と分け合っている。手話言語部門にはリトヴァさん(セン タ ー 長 )の 他 ,講 師 や 研 究 員 が 数 名 。エ リ ナ さ ん は ,講 師( 聴 者 )。滞 在 中 は 研 究 室 の 半 分 を使わせてもらった。ろう学校での英語教育に関して,エスノグラフィックな研究を行っ ており,丁度博士論文のまとめの段階で忙しくしていた。ろう生徒は,正規の英語の授業 以外に,様々な機会やネットワークを利用して,読み書きの英語を実質的に学んでいるこ とを,ろう学校でのフィールドワークで明らかにしている(ちなみに論文はフィンランド 語 で な く , 英 語 で 書 か れ て い る )。 ト ミ さ ん は ,シ ニ ア 研 究 者( 聴 者 )。4 つ の プ ロ ジ ェ ク ト を 動 か し て い て ,こ の セ ン タ ー で は 一 番 多 産 な 研 究 者 。 3BatS(フ ィ ン ラ ン ド 手 話 の sign, syllable, sentence の 研 究 ), LoBaSil(content-based analysis and annotation, Elan を 使 っ て , 様 々 な レ ベ ル で 手 話 を 記 録 ), Phonetic corpus of SL( モ ー シ ョ ン ピ ク チ ャ ー を 使 用 し て 手 話 を 記 録 ), ProGram(フ ィ ン ラ ン ド 手 話 の 文 法 と プ ロ ソ デ ィ を 分 析 )。い ず れ も 興 味 深 く ,い つ か 詳 し く 話をうかがおうと思っていたが,結局最後まで時間がなかった。 ユ ヴ ァ ス キ ュ ラ 大 学 。美 し い 大 学 だ 。多 く の 建 手 話 研 究 セ ン タ ー の 入 り 口 。フ ィ ン ラ ン ド 語 と 物がこの地の出身者である国際的な建築家ア フィンランド手話の 2 つも部門がこのセンター ル ヴ ァ ― ・ ア ル ト に よ る 設 計 と い う 。こ れ が 手 に入っている。 話研究センターの建物。 大学院の学生もいる。博士課程のろう学生,ダニーさんが歓迎のセミナーで自己紹介と 自身の研究,またこのコースでの手話の指導について話をした。彼は,ベルギー出身。 Flemish 手 話 を L1 と し て 獲 得 。ろ う 学 校 で は 当 時 口 話 法 が 強 か っ た と の こ と 。現 在 は 手 話 も 使 わ れ て い る が ,そ れ ほ ど 重 視 さ れ て い な い と い う 。こ こ で も CI が 拡 が っ て い る 。ユ ヴ ァスキュラ大学に留学し,現在もこの大学で研究を続けている。ヨーロッパの大学で,他 国出身のろう者が手話研究を行っていることはそれほど珍しいことではない。国の垣根が とても低い。大学では,手話指導の他,異文化コミュニケーションやろう文化についても 教えている。また手話教師としての仕事もしていて,ろう学校へも教えに行っているよう 3 だ。 修士課程のろう学生キンモ君が突然私の部屋にやってきた。日本手話を使うのでびっく りする。何度か日本に行ったことがあるらしい。日本のろう者の友達もいる。日本に興味 があり,大学では日本語の授業もとっているとのこと。今度その授業に遊びに来てほしい と い う 。後 日 そ の 授 業 に う か が っ た 。教 室 に は 50 人 ほ ど の 学 生 。日 本 語 は 人 気 の あ る 語 学 の1つとのこと。ろう者は彼ひとり。彼のために手話通訳が配置されている。ただ通訳す るのは,授業の中でのフィンランド語の部分だけ。教師が日本語を話すときは,それは通 訳 さ れ な い 。手 話 通 訳 者 は ど う し よ う も な い と い う( 通 訳 者 は 日 本 語 が 理 解 で き な い の で )。 日本語の教師から自己紹介をして欲しいという。名前や出身,フィンランドに来ている目 的などを音声日本語とそのあと日本の手話(キンモ君に対して)で,逐次的で伝えた。 丁 度 ユ ヴ ァ ス キ ュ ラ 大 学 は , こ の 年 創 立 150 周 年 を 迎 え る 。 滞 在 中 , 式 典 が あ ち こ ち で 開かれていた。私自身は,手話の研究センターがあることからこの大学を選んだが,教育 や心理学では,なかなかすぐれた業績をあげている大学のようで,この分野で世界のトッ プ 100 に も 選 ば れ て い る ( ち な み に こ の 分 野 で , 日 本 で 選 ば れ て い る の は , 東 大 と 京 大 の み )。ま た フ ィ ン ラ ン ド 人 に と っ て こ の 大 学 は 特 別 で あ る 。フ ィ ン ラ ン ド 語 に よ る 教 員 養 成 が 初 め て こ の 大 学 で 行 わ れ た と い う こ と で あ る ( 1863 年 の こ と )。 大 国 ロ シ ア ( ソ 連 ) と スウェーデンに挟まれたフィンランドは,複雑で,また苦難の歴史を持っている。 リトヴァ先生とは,合間にミーティングを行い,フィンランドのろう教育の現状に関す る情報を得たり,この 5 か月間の調査について相談に乗ってもらう。フィンランドでも人 工 内 耳 の 拡 が り と と も に ろ う 学 校 が 縮 小 し て い て ( 彼 女 の 言 葉 で は 「 崩 壊 状 態 」), 多 く が 通 常 の 学 校 へ 就 学 し て い る と の こ と 。彼 女 も 現 在 プ ラ イ ベ ー ト( 彼 女 は も と も と ST)で 何 人 か の CI 装 用 児 の 言 語 指 導 や 支 援 を 行 っ て い る 。 医 学 関 係 者 は 手 話 使 用 に 非 常 に 消 極 的 , でも通常の学校にいる聴覚障害児で苦戦しているケースも多いとのこと。また医療と教育 の 連 携 が 十 分 で な く( 病 院 が 聴 覚 障 害 児 を 抱 え 込 ん で い る ),教 育 関 係 者 が な か な か 聴 覚 障 害児本人や親とコンタクトが取れないとのこと。教育にとってなかなか厳しい状況だ。と りあえずできるだけ多くの現場を見ること,そして可能な範囲で関係者へのインタビュー をすることを当面の目標とする。次回はろう学校訪問について紹介する。 つづく ( 2015 年 2 月 15 日 , HP に ア ッ プ ) 4
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