2010年5月号

2010年5月 マナ通信
御言葉を通して主にある交わり
出エジプト記は数回は読んでいる筈ですが、えーこんな言葉があったのだと、新発見がありまし
3年間で、旧約1回、新約2回通
た。23章3節の「弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」に、ウーンと唸ってしまいま
した。いわゆる判官びいきも又、神の前に禁じられているのです。どうしてもみせかけの同情か憐
憫で弱い人に肩入れしやすくなりやすい人間の心情に、しっかり釘を刺しているのです。飽く迄も、
神の前に正しいかどうかが、全てなのだと改めて肝に銘じました。30章15節も同じように、今ま
では、読み飛ばしていた事に、気づかされました。
(H.H)
読する。毎月、旧約と新約を半分
づつバランスよく読んでいける。
ディボーションとは、神の前に静まって、聖書を読み、黙想し、祈ること。神とのコミュニケーション
今月は3月の聖書通読 (出エジプト記1-32章・使徒1-12章・ルカ22章)の感想です
私たちを支える神の御手(出エジプト17:11)
「…私たちも与えられた人生を一人で歩むことはできません。最初は、勢い
やある程度の人間的な力で何とか保てるように思えます。しかし、アロンとフルがモーセに必要であったように、私たちも自分
の力が尽きた時、疲れた時、そして祈れない時、自分を支えてくれる祈りのパートナーがいてくれることは大きな祝福です。あ
なたにもそのような人が与えられていますか。また、だれかのためにアロンやフルのような存在となっているでしょうか。」
いつも私たちのためにとりなしをしてくださっている主の臨在を感謝しています。(T.H)
神さまがイエスさまを遣わしたもうたということが、私が罪人であるという最も有力証拠であること。不信仰こそが、すべて
の罪のうちで最も重い罪であるということを思わされました。(S.T)
神は一筋縄で解決するように決して事を運びません。「苦しみと楽しみ」を半分ずつ分け与えます。「負の部分と正の部分」「目
に見える部分と見えない部分」「聞こえる部分と聞こえない部分」決して一方的ではないことが、出エジプト記、使徒の働きで解
りました。ステパノの殉教は真に教えられるものがあります。このようにしたのも神なのです。いざこざを起こされるのも神な
のです。神は時代劇のような勧善懲悪を喜びません。神の導きは複雑です。ステパノのように最後まで神を信じ、神に仕える、
これが「クリスチャンの生活」だと思いました。
(S.H)
足 音
今日一日も
足音で始まる
新聞配達の足音
牛乳配達の足音
郵便配達の足音
今日一日の
霊の糧を
与えてくださる
主の足音
御言葉
神 様
神様
今日も御言葉を下さい
一つだけで結構です
三十三年前に
脳性麻痺になった時は
神様を恨みました
私の心は
小さいですから
沢山いただいても
溢れてしまい
もったいないので
それがキリストの愛に
触れるためだと知り
感謝と喜びに変わりました
(水野源三詩集より)
人はたとえ法的な罪の裁きを受けなくても、人生の深い痛みと罪意識とを心の奥深くに秘めながら歩むことがあります。過去
の重荷のすべてを取り除き、痛みをいやされるお方は、主イエス以外にはおられません。主は、すべての罪を赦し、真の救いと
生きる希望を与えるために、この世に来て下さったのです。
主イエス様の深いご愛を感じます。罪の中に生きていた私の罪を赦し、過去の罪、現在の罪も、これから犯すであろう罪も、
主は赦して下さいます。教会生活を通し養われていることを、主の恵みと感謝しています。
(S.H)
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のこと
ばで話しだした。(使徒2:4) 毎日の生活の中で様々な困難があります(怒った
り、喜んだり)。私のためにイエス様を十字架につけて下さった神の御言葉に従っ
ていこうとする時、主は必要なものを備えて下さる。祈りの言葉も備えて下さる。
毎日のディボーションで御言葉から力をいただいてます。(M.T)
三月は寒暖の差が例年より多くあり、私は体調を崩すことが度々ありました。聖
書と“マナ”を手元に置いて、神様に祈りました。病気で伏せっている方々は、ど
んな思いで毎日読んでいるのだろうか?と思いました。12日のメッセージを聴こ
...
う“わたしの所にいなさい”という言葉は、まさに私に語られているのだと感動し
ました。健康を取り戻して、毎日感謝して通読を続けています。
(M.K)
ディボーションで毎日神様と向かい合ううちに、何のきっかけ、何の心当たりもないうちに、自然とタバコを吸わなくなりま
した。一時、すごい禁断症状に襲われ、苦しみましたが、御言葉「あなたがたの思いわずらいを一切神にゆだねなさい。神があ
なたがたのことを心配してくださるからです」と「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」何回も何回も口ずさみました。する
と次の日からタバコを吸おうと思わなくなりました。自分の力ではなしに…。聖霊様のおかげでしょうか。自分で止められたこ
とが不思議でしょうがありません。神様に感謝の気持ちでいっぱいです。
(C.H)
この方以外には、だれによっても救いはありません。(使徒4:12)
イエス・キリストだけが、私たちの罪のために十字架の上
で死んでよみがえってくださいました。そのいのちを捨てるほどの愛がどれほど大きなものかよくわかりませんが、私たちをか
けがえのない者として愛してくださっていることは確かです。書画・堀江春美さんの「光に向かって」を見ていたら、イエス様
が本当に身近に感じられました。(T.T)
主が振り向いてペテロを見つめられた。(ルカ22:54-61)
《メッセージを聴こう》の「ペテロはイエスのまなざしの中に罪
のないお方の聖さと限りない神の愛、同時に本当の自分の姿をも見たのです…。」これを読んだとき涙がでました。これまでも、
そして今も私のような者へも絶えずそのまなざしがむけられている。そのことの有り難さ、同時に自分はその愛に何ひとつ応え
られていない情けなさ…。けれども、そのまなざしがいつもそばにあることは大きな慰め、励ましです。(C.K)
一人で聖書通読を続けて来ましたが、このたび、色々な兄弟姉妹の感想を伺い感謝しています。リ-マンショックの影響を受
け、会社の仕事と掛け持ちでアルバイトをしながらの生活で、教会の礼拝から半年以上も遠ざかっていました。毎朝のディボ-
ションは欠かさず行っていますが、不況と疲労によって礼拝への意識が希薄になる中、何日間も毎朝「主よ、あなたはいつまで
このような生活を私に課せられるのでしょうか?」と問いかけ自問自答していた日々がありました。
15日の学びの“聖別”に関するメッセージで、主の導きや恵みによる事というのが、何でもかんでも私たち人間の理想やい
わゆるの感情的な喜びをもたらすモノばかりではない事を改めて教えられました。同日の学びの最後の箇所に書かれていたよう
に、自分の願うとおりにならない人生そのものを、自分自身が「すべてあるがままに」受け入れ、感謝する時に、神の一方的な
恵みを通して聖別された、本当の喜び、永遠を約束されている喜びを体験できると確信しました。昨年の9月頃から、狭山の教
会の夕拝に毎週出席し、コンスタントに礼拝に臨む生活を少しずつ回復できたことに、今はただただ感謝しています。
(S.F)
10年位前に国立美術館で「赤い目」という題の絵を観ました。十字架を背負わされたイエスさまの目
がまっ赤で「じっとこちらを見ていました。」ペテロが3度もイエスさまを否定した時、イエスさまの方
から近づき、「振り向いてペテロを見つめられました。」罪なきイエスの透き通ったまなざしが、じっとペ
テロを見ています。そのまなざしは、憤りやあきらめの目ではありません。限りない神の愛を見たのです。
そして「主のおことばを思い出し…外に出て、激しく泣いた」のです。慈しみと憐れみに満ちたイエスさ
まのまなざしは、私にも注がれています。そのことを忘れずに生きていかなくてはと思わされました。讃
美歌243番(ああ主のひとみ まなざしよ)を何度も歌いました。(M.I)
この心の扉は半開き、私のは「信仰生活」ではない。ユダに自分の姿を見ました。毎日、マナ(みこと
ば)を食する事、皆様の感想文から沢山学び、励まされる事に感謝です。
(M.O)
《死は永遠のいのちに至るプレゼント》を読み、以前読んだことのある証と同じだと思いました。その方も仕事が楽しくて夢中
になり、さあ、これからという時にいのちに係わる病気になられた結果、苦悩の末、静かに主とともに歩む人生を与えられまし
た。その証は、私の心の奥深くに刻まれてしまい、それ以降、自分の仕事にいのちをかけるような情熱を消してしまいました。
主の栄光を現わすために、もっと一生懸命仕事をした方が良いのではないかとも思いますが、いつのまにか、この世に集中でき
なくなっている自分がいるのです。
でも、主にすがって一歩一歩歩むには、この方が良いのかなと思っています。あの証が、そんな自分を支えてくれています。
著者のクリバリさんの「イエス・キリストの十字架と復活がリアルでありがたくて仕方がない」という私が欲しいと願っている
愛と喜びに満ちた信仰の高嶺は、死と隣り合わせの淵にあることを知りました。(N.T)
イスカリオテのユダとペテロ、すでによく比較される二人です。主イエスの二人に対する愛は分け隔てなく、最後の最後まで
愛し通して下さったことがわかります。ユダは主イエスを売り渡しても、人々のために奇跡を行い、力ある方だから、また、民
衆がメシヤとして主をお迎えした時のことを思えば、何とかなさると考えたのでしょうか。しかし、事態はそうならなかった。
ユダは悔いて、悔いて自殺をしてしまいました。悔いて絶望して滅びの道を行ってしまうのと、自分に絶望して、そこから新し
い始まりが開けていったペテロと、私自身の内でも問われることがありました。これからもあると思います。私も主を十字架に
つけた者ですから。“メッセージを聴こう”に後悔と正反対にあるのが悔い改めです。それは自分からイエスに目を移して、神に
自分をゆだねることなのです。…私たちが心の扉を開けるのは、洗礼を受ける時だけではありません。日ごとに悔い改めを深め
るとともに、心の扉を開いて、主イエスをお迎えすることが信仰生活なのです、と。憐れみ深い主に感謝します。(M.F)
父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。(ルカ22:42)
ゲッセマネの園で苦しみもだえて祈ってお
られる主イエスは、ご自分がこの世に来られた目的、その使命をよく知っておられたはず。それなのに、いざその時になると、
その出来事の余りに厳しい現実の前で、たじろぎを感じてしまわれました。なぜでしょうか。
全人類を代表できるのは神ではなく人。人の罪を背負うことのできるのは神ではなく人。苦悶しておられるのは、神としての
イエスではなく、私たちと同じ弱さを持つ人なるイエス。ただ単に死ぬことを恐れているのではありません。私たち全人類の罪
を一身に引き受けての死、全人類の罪の上に下る神の刑罰としての死であることの恐ろしさを、主イエスにはよく分かって、た
じろがれたのではないでしょうか。マタイ福音書では、「悲しみもだえ始められた」「わたしは悲しみの余り死にそうだ」(26:3
7-38)と記しております。汗が血のしずくのように落ちるほどの苦悶の祈りの最後には、父なる神の御心に従うと言ってくだ
さった。なんとありがたいことでしょう。イエス様のお陰で私の罪・あなたの罪・世界中の人の罪は贖われたのです。
(I.F)
お願い
貴重な感想をお寄せいただきありがとうございました。次回は4月の一言感想になりますが、5月10日頃までに送っ
ていただけると幸いです。送り先は、E-mail:[email protected] /電話・FAX:050-1014-0153(福島)まで。