2011年2月 マナ通信 御言葉を通して主にある交わり 人の言葉や世の流れにグラつきやすい私には、御言葉によって立ち、聴き従うこと 3年間で、旧約1回、新約2回通 がとても大事だなと思いました。そして赦せないことの中にこそ主の祝福が隠されて いるというメッセージ、感謝して受け取りました。ルカの福音書を通読して、イエス 様のことが、前よりほんの少しわかった気がします。(M.O) 読する。毎月、旧約と新約を半分 づつバランスよく読んでいける。 ディボーションとは、神の前に静まって、聖書を読み、黙想し、祈ること。神とのコミュニケーション 今月は12月の聖書通読(ルカ福音書・イザヤ書・ミカ書・エレミヤ書・ガラテヤ書)の感想です 慈しみとあわれみの神は、昔も今も変わることがない。「あなたがたに言うが、この人が、義 と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くす る者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 (ルカ18:14) 卑近な例として物を壊した時など、ここに置いた者が悪いと人に転嫁するきらいがある。悔 い改めるどころか反省すらない。とかく自己を正当化しそうになるものです。素直に非を認め 恵みにあずかることが感謝。神の前に正しい者と認められる信仰が望まれる。 (T.H) しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、 また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受け るようになるためです。」(ガラテヤ4:4-5) 律法は私に最後の一厘までも全うすることを要求するので自己の罪を感じさせる けれども、その罪とその罪を持つ自分自身を大胆に見る勇気を与えてくれる御言葉として受け取りました。 (S.T) 生活して行く上で土台となるものが揺らぐと、不安と苦しみが始まる。心の頼りにしているものが頼りにならないと苦しみが 始まる。この事は、何処でも、誰にでも起こる。変化する者を頼ると振り回されることになる。金、物、家族は変化するもので あり、不動ではない。不動のものは神しかなく、事は神と自分との関係にある。これが全てだと思う。 「わたしのもとに来て、自分の父母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になるこ とは出来ません」(ルカ14:26)「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産を全部捨てなければ、わたしの弟子にな ることは出来ません」 (ルカ14:33) 自分に頼るな、自分の家族に頼るな、お金に頼るな、全てのものを投げ出して命がけで、贖い主で ある神にゆだねる。 「総力戦としての信仰」になりたいと思っている。 (N.H) わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103 :2) 日常の些細なことの中にある恵みを小さなものから一つ一つ数え、感動する心を忘れずに感謝 していく時、私たちは持っているものは少なくても、いかに豊かであるかに驚かされます。今、手に している恵みの中に豊かさを実感し、神の前に富む者となりますように。 (S.H) イエス様は高位で金持ちの家で生まれたのではなく、人目を避けてベツレヘムの家畜小屋でお生まれになりました。12弟子の 選出にあたっても漁師や大工といった肩書きや学歴のない人々でした。この選択は真に狭き門から入らねば神の国へは行けない ことを言っているのだと思います(ルカ13:14)。律法学者やパリサイ人のように、学識と肩書きのある者は傲慢で悔い改めよ うとしない。自分の力と経験によって物事を処理しようとする。またいつも先頭にいたら追い越されないよう頑張っていなくて はいけない。無理をしなければならない。いつもしんがりでイエス様に従う生活をしていれば落ち着いて安らかに生活できる。 今日も、マナを書き留めることができました。主に感謝します。 (C.H) 声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください』と言った。」(ルカ17:13) 人生をどう生きてよいかわか らなかった時、苦しみから逃れるため信仰に自分から入ったと思いました。改めて、神様の方から目を留めて下さって、今は、 私の内に住んで下さり、共に生きて下さる。本当に、イエス様ありがとうございます。 (M.T) 一年間、毎朝、聖書とマナを読んで過ごす事が出来ました。感謝しています。時々は、忙しさからさぼってしまう日もあり、 まとめて読んだ日もあります。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事において感謝しなさい。この御言葉を、 繰り返し呼んで、私の中にある自我を、少し和らげる事が出来ました。それが主人にも通じて、落ち着いてくれました。これか らも、家族の健康を、また皆様の健康を祈ります。 (M.K) 旧約聖書を読まなくても、ルカの福音書は何度か読んでいました。“Jesus”というビデオをみたりして、 割とわかりやすいと思っていました。けれども、わかりやすい・読みやすい=理解できるではないことを 改めて痛感。ルカの福音書に限らず、礼拝での説教や手引書など色々ありますが、聖書の御言葉を導いて くれるものがなければ理解することはできません。解っていたつもりだったのに「ああ、そういうことな のか」といった発見が多多あることか。マナは一部ではありますが、とても頼りになります。今年もマナ と共に通読を頑張りたいと思います。(C.K) 今月は今まで、なんとなく感じていたことが、はっきりと明確になった件がありました。自分の十字架 を負うということ、人の十字架まで負うのは、適切では無いという事です。自分の力ではどうしようも無 いことは、主のお力に委ねるのが、一番、いえそれしかないのですね。主に委ねず、悪あがきしていたの が、私でした。不信仰の極みです。目に見えない主に信頼するのは、キリスト者の特権なのですね。(H.H) この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」 (ルカ21:33) この一年、実に多くのことがありました。変わりゆくこの世のこと ばに振り回されるのではなく、決して滅びない主のことばに従って歩ませていただき たいと願うばかりです。 〈訂正〉11月の感想文で『あの人のようになりたい~』の詩は水野源三さんではな く、星野富弘さんの詩です。宜しくお願いします。 (T.T) 長い間、福島兄弟姉妹が私達の為に東海村迄福音を伝えに来て下さり、心から感謝申し上げます。沢山のお話の中で心に残っ ているのは罪の話でした。それから洗心館で観た「靴屋のマルチン」の映画、白方コミセンでの空気の入ったコップと目の前に 岩が立ちはだかった舟は、どうしたらその岩を乗り越える事が出来るかなど、実践して見せて下さった事でした。 133ページに自分の正しさを主張しすぎる愚かさの事が書いてありました。「正しい人」ばかりの家族の会話と「罪人」ばか りの家族の会話が載っていました。その会話を読んでいるうちに、これは私達のやっている事ではないかと気づかされました。 天国のように愛と配慮に満ちた所になる方を選び取っていかなくてはなりません。誰も自分を否定されると、どうしても自分を 正当化したくなります。しかし、考えを悔い改め、「自分を石ころのような者だと謙虚に思う人は、平和をもたらします。自分を 正当化せず、罪を素直に認めることが出来ます。自分はそのままで赦され、愛され、喜ばれていることを体験している人だけが 身を低くすることができるのです。 」 この言葉をしっかり自分のものとすることが福島兄弟姉妹の長い間のご苦労様に報いることだと思っております。これからも 神様に用いられ多くの方が神様を知ることが出来ますように祈っております。ありがとうございました。(M.I) その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイ1:23) 私の主人 を、主イエスに導いて下さった宣教師ダン・フィブス兄は、私がお会いした時、いつも口癖のように、“Praise the Lord, oh my soul(わが魂よ、主をほめたたえよ) ”と、目の前の主に語りかけておられるように、主に呼びかけ、いつもニコニコしてお られました。私もそのように親しみと信頼を込めて、いつも主と交わることが出来たらと、その当時、思っていました。 マタイ福音書は、初め(1:23)「その名はインマヌエル(神は私たちとともにおられる)」と、真ん中(18:20)「ふたりでも 三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と、終わり(28:20)「見よ。わたしは、世の 終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 」とあり、 「信じる者と共にいて下さる救い主」のお約束を記しています。 さらに、ヘブル13:5でも「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と約束されています。今日まで、主は 私にとって御言葉の通りのお方であり、これからも御言葉のお約束を感謝して歩みたいと願っています。(M.F) だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ル カ18:14) 今年は、この御言葉が、主にある歩みにとって大切にすべきと示されまし た。自分は正しいと高ぶることの悲劇についてメッセージがありましたが、「正しい人 ばかり」の家族には、いつも争いがあり、「罪人たち」の家族は、いつも愛と配慮に満 ちているとは事実だと思われました。それは、身の回りの人間関係全てに当てはまる ことです。自分の罪と、主の贖いをこれからもよりはっきりと見ることによって、よ り深く主の恵みにあずかりたいと願います。 (N.T) ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身にな りますように。」 (ルカ1:38) はしためは漢字で奴婢と書きます。ギリシャ語ドウレは女奴隷の意味であり、「自由人の身分を持たず主人に所有される奴隷」 のことです。奴隷制度があったガリラヤ地方で、マリヤはこのはしため(女奴隷)の意味を正しく理解していたはず。その彼女 が自分を「主のはしため」と告白しているのは、「主なる神は私の主人であり、私はその主人に仕える召使い、女奴隷です」と表 明していることではないでしょうか。ここに、真の礼拝者の姿を見ます。なんとすばらしい信仰姿勢でしょう。私は打たれまし た。 御使いから聖霊によって男の子を身ごもると言われた時、マリヤは戸惑いを感じたに違いありません。ヨセフと一緒に生活も していないのに、身ごもったことが分かったら、ヨセフは私を信用せずに離縁させることになるだろう、ナザレの人たちは私を 姦淫の女として石打ちの刑に処するかもしれない、両親は私のことを「なんて娘だ。誰の子を宿したのか」と問い詰めるでしょ う。様々な不安がよぎったに違いありません。 私だったら、「主よ。そんなこと言われても困ります。ヨセフやナザレの人たちは誤解するでしょう。私をふしだらな女と言う に違いありません。どうかヨセフと一緒になってから身ごもるようにして下さい」などと、わめいたと思います。しかしマリヤ はそうしたことをすべて見越した上で、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」 と言いました。なんとすばらしい信仰の従順でしょう。主がお決めになったことを私が心配する必要はなく、「主はすべてを最善 にして下さる」と、お任せして従うのが私のなすべきことだと、わきまえていたのでしょう。 後にマリヤの息子として生まれたヤコブやユダについても見ますと、自分のことを「イエスの弟」ではなく、 「イエス・キリス トのしもべ(奴隷)」 (ヤコブ1:1,ユダ1:1)と紹介しています。おお、主イエス様。主を主とし、自分を主のしもべとして生き る純粋な信仰を、私にもお与え下さい。 (I.F) お願い 貴重な感想をお寄せいただきありがとうございました。次回は1月の一言感想になりますが、2月10日頃までに送 っていただけると幸いです。送り先は、E-mail:[email protected] / 電話・FAX:04-2943-0153(福島)まで。
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