いま足を止めたらお終いなのだ。 例え肺が軋むほど痛くても、脚

いま足を止めたらお終いなのだ。
例え肺が軋むほど痛くても、脚がとうに悲鳴をあげていようとも、心臓が破裂しそうな
ほど打ち鳴っていても、私は走り続けることしか出来ない。額に浮いた大粒の汗が目の端
に伝った。それを拭う余裕すら今の私にはない。私はハッ、と乱れた吐息を吐き出して背
後を見やる。
濃い闇に沈んだ長い廊下にはいくつもの窓が取り付けられている。そこから青白い月明
りが差し込んでいて、ピカピカに拭かれた廊下に反射していた。人工的な灯りの一切はこ
こにない。ともすればあの暗闇の奥から彼女の腕が伸びてきそうで、身震いした。
しかしあの子の姿が見えないことに私は僅かに安堵した。そして緊張が解けると同時に
忘れていた疲労が一気に全身へ圧し掛かる。
逡巡して、私はすぐ先にある階段の方へと向かった。埃一つない、手入れが行き届いた
真っ白な階段の裏へ身を隠すと、私は膝から崩れ落ちるように座り込んだ。
「……ッ、は、ァ、……ッ」
左胸の振動は頭にまで響いた。ドッドッドッと早いペースで収縮する心臓が熱い血液を
全身へ回す。全身から汗が噴き出してきた。暑い、苦しい、辛い、怖い。
固く目を瞑り、乱れた呼吸を必死で整える。床にべったりとくっ付いていた脚を起こし
て三角座りをする。膝に額を当ててきゅうと身を小さくすると、どうしてか落ち着くよう
な気がした。
――――カツン、と高い音がしたのはその時だった。
私はびくりと肩を跳ねさせて全身を緊張に強張らせる。整い始めていた呼吸が再び乱れ
始めた。
「……は、ハ、は……っ!」
カツン、カツン。
私は両手で口を覆って弾む呼吸を押し殺した。くぐもった音がすると手のひらが熱く湿
る。頭に心臓の音が響いていた。ドクドク、ドク。
――――ちゃんと廊下は閑静さを保っているだろうか。この音が漏れていやしないだろ
うか。身を潜めているのが滑稽に思えるほど大きな音を打ち鳴らして、夜の孤独さを吹き
飛ばしていたら。彼女はそれにわざと気付かないフリをして、見せつけるようにゆっくり
と歩いているのだとしたら。
厭な想像に涙が滲んだ。喉が引き攣って、ヒッ、と小さく声が洩れる。慌てて息を止め
た。嗚咽が聞こえなくなった。肺の辺りが僅かに痛くなる。ドク、ドク、ドク。
「どこにいるのかしら」
彼女の透き通るようなソプラノボイスが鼓膜を揺さぶる。彼女の声はとてもよく澄んで
いて、人混みの中にいても彼女の声だけは分かった。それも、昔の話だけれど。
「逃げないでよ」
足の先が丸くなる。そこで初めて自分の全身が震えていることに気が付いた。
カツン、カツン。
廊下に響く足音がどんどん近付いてくる。
カツン、カツン。
あの暗闇の奥から、彼女が私を捕まえにやって来る。
カツン、カツン。
そうしたらきっと、私はもう一生ここから逃げることが出来ないのだ。
カツン、カツン。
頭が痛くなる。両手で一切の音を消失させても安心することが出来ない。彼女の気配が
近くなる。
カツン。
足音が止まった。彼女の気配が消えた。それは安心するべきことなのに、ざわつく脳内
に警鐘音がこだまする。ドクドクドク。心拍音が早くなっている。呼吸もつられて小刻み
になる。全身に力が入っていた。太ももに自分の息がかかって熱くなる。
心の中の恐れがはちきれんばかりに質量を増しながら、血液にまで溶けだしていた。血
液に乗った恐怖が全身に回ると手足がフルフルと痙攣し始める。脳を真っ黒に染め上げた
畏怖は思考を遮断した。
カァンカァンと甲高い音が鳴っていた。私はそれに反してゆっくりと目を開ける。真っ
暗闇が視界に映った。詰めていた息を吐いて、ゆっくりと腕を下ろす。
彼女の気配がしない。彼女の声がしない。彼女の足音がしない。だけれども、カァンカ
ァンという音が消えない。どうして、どうして――――!
「――――嗚呼、こんなところにいたのね」
ゆっくりと、声がした。
真横に現れた存在に私の喉は今度こそ悲鳴を上げた。弾かれたように彼女を振り返り、
反射的に後ずさりを始める。
「どこへ行ったのかと思っちゃった」
音が消える。心臓は止み、呼吸は失せ、自分の気配を見失う。ただ眼前の、彼女の存在
だけが心を激しく揺さぶる。
「……ぁ、」
嫌だ、という想いは掠れた声にもならずに消えた。唇の合間から荒くなった息が顔を出
す。全身の関節が震え出し、視界は油絵のように滲み始める。
「部屋から出たら駄目だって、私、言ったわ」
穏やかな表情。薄い桜色の唇は綺麗な弧を描き、私をゆったりと見下ろしている。しか
しその月色の瞳の奥では、確かな怒りの炎が燃え上がっていた。
「ご、め、ッん、なさ、ぁ……」
許しを乞う言葉を彼女は「ええ」という肯定の言葉で受け止めた。
「覚悟があってのことだったのでしょう」
スッと目を細められ、いよいよ私の身体は制御元を離れる。極寒の地に裸で放り込まれ
たように全身が痙攣し、瞳からはボロボロと涙が零れた。
「言ったわよね、私――――、」
華奢な白い手のひらで両手首を取られる。片腕で強く抱きしめられると耳元で囁かれた。
絶対に、許さないから。