この世に来られた神の御子 (ヨハネの福音書 3:16~21) 2015年 12月 25日 ソウル聖楽教会 クリスマス祝賀礼拝 説教録取 キムキドン 説教 : 元老監督 金箕東牧師 神は まことの父でおられる その方が イエス・キリストをこの世に遣わされたのは 被造物の父となるためであった(ローマ8:19~20) 被造物であっても 御言葉によって生まれ変わらせ、(テトス3:5) 聖霊によって生まれ変わらせ、(ヨハネ3:5~) 神の血によっていのちを得させるために、(ヘブル9:27~28) 天で御心を定められた 「誰でも 神が遣わされた者、 イエス・キリストを信じて迎え入れるのであれば、 万物が滅びるときにも滅びないで、 永遠のいのちを得る。」と約束された(ヨハネ3:16) 私たちの信仰は 神の約束を信じるものである 神の約束のために 聖霊は働かれる(ローマ8:1~2) それゆえ、 聖霊の導きに逆らってはいけない ◎神はこの世に 宗教を与えられたのではなく、 ひとり子を与えられたが、これが信仰である ◎イエスを信じるというのは 自分は死んで、イエスによって生きるということである イエス・キリストによって再び生きるということである ◎私たちがイエスを信じるのは この世のことに栄えるためではなく、 神の御心をなすためである ※神は私たちが 神のまことの子となることを願われる イエスをまことに信じよう 神は私たちに信仰を与えてくださった 私たちが信じる神はまことの父でおられます。「まこと」という言葉は真理という意味 です。人には誰でも父がいます。その父の上にはまた父がいます。父はひとりでなければ なりませんが、人には上に多くの父がいます。ルカの福音書3章にはイエス・キリストの 誕生についての内容が記録されています。ヨセフの妻であるマリヤの父からさかのぼって いく内容はアダムまで続きますが、アダムの上は神であるといいました(ルカ 3:38)。父な る神にはその上が存在しません。神がすべてのものの根源です。私たちはその父なる神を 信じる者です。 私たちが永遠に生きて永遠な幸せを享受する道は唯一でおられるまことの神とその方が 遣わされたイエス・キリストを知ることです(ヨハネ 17:3)。どんなに長い間、教会に通っ ていたとしても唯一でおられるまことの神を知ることができなかったり、その方が遣わさ れたイエス・キリストを知ることができなかったりするのであれば、その人は宗教人に過 ぎません。神が私たちに与えてくださったものは宗教ではありません。キリスト教ができ る前にもこの世には多くの宗教がありました。神がそこに宗教をひとつ追加するためにイ エスを遣わされたわけではありません。神は御子を信仰の対象として私たちに与えてくだ さいました。 人はこの世で多くの試練を経験します。裕福な者が貧しくなったり、貧しい者が裕福に なったりします。健康であった者が病気になったり、病気をしていた者が健康になったり します。人はこの世で生きる間にあらゆることを経験しながら絶えず苦難を受けます。そ の間に肉体は弱まって、結局、死を迎えるようになります。人々はその死を恐れて一生、 しもべとなって生きます。ところが、人が実際に恐れなければならない、さらに大きな問 題があります。 死ののちには霊魂が担わなければならないことがあります。罪によって人間の霊魂は地 獄に行くしかありません。苦しい刑罰を避けるために死のうとしたとしても死ぬことがで きないところが地獄です。そこでの苦しみは誰も永遠に離れることができません。聖書を 知る前に私たちは将来、そのようなことが起こるということは考えもしませんでした。 「肉体が死ぬのであれば、すべてが終わる。」と考えていました。しかし、今、私たちは 死ののちに待っている刑罰をはっきりと知っています。 キリスト者は宗教人ではありません。宗教は人の心を慰めることができたとしても、霊 魂を生かすことはできません。私は仏教の僧侶に伝道したことがあります。「私があなた に勧めるのは宗教を変えなさいということではありません。仏教は一種の哲学であるため に、あなたがそれを続けて習って訓練したとしてもかまいません。しかし、あなたの霊魂 のためには必ずイエスを信じなければなりません。」信仰は人が作り出したものではなく、 神から出て来たものです。人は誰でも信念をもっています。信念はこの世を生きていくこ とにおいて非常に重要です。しかし、信念には保障がありません。教会で強調する信仰は 信念ではなく、神が与えられた約束です。 私たちは聖霊による信仰をもった 旧約と新約という言葉からもわかるように、聖書は約束によって構成されています。そ の約束は神が与えられたものです。神は約束を必ず成就される方です。イエスの母である マリヤがイエスを産んだときに、彼女と夫であるヨセフはベツレヘムの馬小屋にいました。 そのとき、野原で羊を見守っていた羊飼いは救い主が誕生したという知らせを聞きました。 その知らせを聞いたのは馬小屋で産んだ者や家族ではなく、馬小屋から遠く離れて野原に いた羊飼いでした。その知らせは人ではなく、神から出て来たものでした。しかし、神を 見た者は誰もいません。アブラハムもモーセも神を見たことがありませんでした。彼らが 見たのは天使でした。野原にいた羊飼いに知らせを伝えたのも天使でした。羊飼いは天使 に聞いた知らせをマリヤとヨセフに伝えたのです。 イスラエルはエジプトから出て来たのちに 1500 年間、羊と牛をほふって血を流し、そ れによって罪の贖いのいけにえをささげました。これは将来、この世に来て血を流して死 なれるイエス・キリストについてのたとえでした。イスラエルは将来、キリストが来られ ることについて約束を受けた者でした。彼らが受けた約束が旧約です。キリスト者はその 約束が実際に成就されたということを確認した者です。 十字架で血を流して死んだイエスは神の御子でおられます。獣の子どもは獣であり、人 の子どもは人です。そのように神の御子は神でおられます。この世の人々はイエスが神で おられるという事実を認めません。イエスが神の御子でおられるという事実を否定するこ とを主要教理としている宗教もあります。しかし、私たちはイエスが神の御子でおられる という事実を信じます。「イエスが十字架で血を流して死なれたというのは天使を通して 伝えられた神の約束が成就されたということである。」とはっきりと信じます。 過去には神と人の間に天使という仲裁がありました。マリヤへの受胎という知らせを伝 えたのも天使でしたし、ザカリヤにそれを伝えたのも天使でした。また、ヨセフにイエス という名を知らせたのも天使でした。ところが、イエスがこの世に来られたのちに大きな 変化が起こりました。イエスはこれから聖霊が私たちの中に来て神の御言葉を悟らせると いわれました。神の御言葉を天使が仲介していた時代は過ぎ去り、神から出て来る聖霊が 御言葉を悟らせる時代が訪れたのです。 今、私たちがもっている御言葉が誰を通して伝えられたものであるのかが重要です。モ ーセは天使から聞いた知らせを頼って、イスラエルをパロの支配から導き出しました。モ ーセがそのように救ったのはイスラエルの肉体でした。しかし、彼らの肉体はすべて滅び ました。肉体は人を永遠に生かすことができません。今は初めの契約がすべて成就され、 聖霊が自ら福音を仲裁します。それゆえ、今、神の御言葉を受ける私たちに必要なのは聖 霊の感動です。聖霊の感動がなければ、神の御言葉を聞くときにそれを人の言葉として聞 くしかありません。 信仰を与えてくださったのは私たちを滅ぼさないためである イエスは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは 御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨ ハネ3:16)といわれました。神が御子をこの世に遣わされたのは私たちにその方を信じさせ るためでした。ある人はイエスを知ることができないにもかかわらず、ただ自分の努力と 誠意だけをもって神の御前に出て行こうとします。しかし、それは宗教人がすることです。 神が私たちに与えてくださったのは信仰です。私たちはただ信仰によってだけ救いを得る ことができます。 信仰についてコリント人への手紙第一12章7節は「しかし、みなの益となるために、お のおのに御霊の現れが与えられているのです。」といいました。私たちが受けたのは天使 の現れではなく、聖霊の現れです。聖霊の現れについて8~11節は「ある人には御霊によ って知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやし の賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける 力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一 の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞ れの賜物を分け与えてくださるのです。」といいました。私たちは自分が果たして聖霊に よって信仰生活をしているのかを点検してみなければなりません。 旧約教会員は天使によって天の知らせを聞き、預言を仲裁として受けました。しかし、 今、私たちは聖霊の仲裁によって神の御言葉を受けます。天使を通して伝えられた神の御 言葉はしもべの霊であり、これを受けた者は神のしもべという身分をもつようになります。 その反面、聖霊を通して伝えられた御言葉は御子の霊であり、これを受けた者は神の相続 者となって神の御子とともに栄光を享受します。 イエスを信じるというのは神が与えられた信仰を所有するということです。神が私たち にイエスを与えてくださったのは私たちを滅ぼさないためです。人の肉体は病気や事故な どによって滅びます。しかし、それよりも恐ろしいのは霊魂が滅びることです。人々は恐 ろしい夢を見るのを恐れます。夢では恐ろしいことをどんなに避けようとしたとしても思 い通りに避けることができないためです。地獄というものも同じです。地獄に行って永遠 に刑罰を受けるしかないのが人の運命です。このような運命から脱け出させるために神は 私たちにイエスを遣わしてくださったのです。 主は私たちに悪霊を追い出しなさいと命じられました。しかし、人々は「最近のように 科学文明が発達した時代に悪霊がどこにいるのか?」といって、悪霊の存在を認めません。 むしろ科学文明が悪霊の活動を助けています。聖書は世の終わりにはものを言う獣の像が この世を支配するといいました(黙13:15)。このような現象は科学文明の発達と無縁ではあ りません。主は「荒らす憎むべきものが聖なる所に立つのを見たのであれば、」といわれ ました(マタイ24:15)。今日、教会でもさまざまな科学文明の利器を使います。問題はその ようなものを使いながら聖霊の導きを逃すこともあるという点です。 ある人は信仰生活をしたのちに堕落して再び世に戻ってしまいます。神が与えられた信 仰を用いないためにむしろ後退してしまうのです。これを弁明するためにこの世での生活 が苦しいと吐露する者もいます。しかし、この世での生活が苦しいほど、私たちはさらに 信仰に頼らなければなりません。事業に問題が起きたときも同じです。自分の思い通りに 問題を解決しようとするためにあちらこちらにお金を借りに行き、他の人まで滅ぼしてし まう場合がどんなに多いでしょうか? さらに残念なのはそのようにしたのちに肉体だけで はなく、霊魂まで滅びてしまう場合もあるという点です。そのように滅びることがないよ うに神は私たちに信仰を与えてくださいました。 信仰の価値は神の御子と同じである 私たちの信仰の価値とは何でしょうか? 神の御子です。ある人は数億ウォンの車に乗り ますし、ある人は数千万ウォンの指輪をはめます。人々がそれをうらやましがることもあ ります。しかし、それだけです。そのようなものが人の霊魂を救うことができるわけでは ありません。その反面、神が私に与えてくださった信仰の価値は神の御子と同じです。私 たちが信仰をもったというのは宇宙や天よりも大きな価値を所有したという意味です。 神の御子という価値が私たちから離れるのであれば、私たちには何の価値もありません。 人々が何かを得ようとして私たちに近づいて来たとしても何も得ることができないまま離 れて行くようになります。私たちを尊敬する者も、愛する者もいなくなります。私たちを ただの偽善者、無価値な存在として記憶するようになります。しかし、私たちは神の御子 と同じ価値をもった信仰を所有しています。それゆえ、神も私たちを神の御子と同じよう に待遇してくださいます。神が私たちをどのような危機からでも助け出そうとする理由が ここにあります。 神は私たちに信仰を与えてくださいました。人々が滅びるのはお金がないためではなく、 信仰がないためです。神が与えてくださった信仰を所有しようとさえするのであれば、誰 も私たちからそれを奪うことができません。信仰の価値は神の御子ですし、神の御子は神 です。神を見た者はいませんが、私たちは神のふところからひとりお生まれになった神に 会いました。聖霊は私たちの中でこれを証しされます。 人々は「どうして私には良い家を与えてくださいませんか?」と不平を言うことがあっ たとしても、信仰を用いることはありません。どんなに大きな家に住んでいたとしても、 その価値によっては霊魂を救うことはできません。神は私たちを価値ある者とするために 信仰を与えてくださいました。これを聖霊が保証されます。それゆえ、私たちは聖霊を充 満に受けなければなりません。 私たちは弱い存在ですが、神は「あなたは私のひとり子と同じ価値の信仰をもつ者であ る。」と認めてくださいます。私たちが安心することができる理由がここにあります。も う一度、強調しますが、信仰の価値は神の御子と同じです。私たちは心を尽くし、命を尽 くし、品性を尽くして信仰をもたなければなりません。滅びないために神が与えてくださ った信仰をもたなければなりません。学んだもの、所有しているものがなかったとしても、 ひとり子の価値を永遠に所有しなければなりません。神が私たちの声を聞いて動かれるよ うに、神が与えてくださった信仰を充満にもたなければなりません。 翻訳: ソウル聖楽教会 ベレヤ・アカデミー宣教振興院 宣教振興センター 日本語翻訳室
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