あなたはなぜ私を迫害するのか

あなたはなぜ私を迫害するのか
(使徒の働き 9:1~9)
2015年 7月 12日 ソウル聖楽教会 主日礼拝 説教録取
キムキドン
説教 : 元老監督 金箕東牧師
神は
父でおられる
その方が
なさるすべての働きをこの世は知ることができないが、(ヨハネ14:16~17)
その方が遣わされた者、
イエス・キリストはそれを知って(ヨハネ6:38~39)
父なる神の御心通りに行い、
十字架で死んでよみがえり、(使2:32~33)
天に上げられたので、これが私たちの信仰である
それゆえ、
人間の知恵や知識が足りないで
神を迫害してはいけない(使9:5)
ひどい罪人であったとしても赦されたということを認めるのであれば、
イエスの血の力を認めて、その人に悪口を言ってはいけない
自分の考えと合わなかったとしても(ヨハネ12:1~8)
聖書にある通りに行う者を迫害してはいけない
聖霊によって働く者を迫害してはいけない
実によって人を見分けなければならない(マタイ7:16~17)
イエスの人々はこの世で戦う者である
熾烈に戦っている者を祝福しよう
迫害する者は誰なのか? エバなのか? 悪魔なのか?
◎聖霊の人は
真理を考えなければならない
真理に逆らわないで信仰をもたなければならない
◎聖徒が聖徒を大事にしてこそまことの信仰である
私たちの敵はただひとりであるが、
神の敵、悪魔である
◎私たちが互いに大事にしないのであれば、
悪魔は喜ぶので、
悪魔に敵対しなければならない
※聖徒を迫害するというのは、すなわち
主イエスを迫害するということである
私たちはまことに変わろう
聖霊を受けた者はイエスがなさった通りに教えなさい
神は生きておられる父です。人は霊と魂と体という3つの機能が作用してひとつの人格
体をなします。肉体は寿命が尽きると、土に帰るために、天の御国を相続として受けるこ
とができません。天の御国に入って行くことができるのは霊魂です。天の御国に入って行
く者の中には肉体を離れたのちにパラダイスにとどまり、キリストが再臨されるときに復
活する者もいますし、肉体の中にいながらキリストの再臨と同時に突然、変えられる者も
います。
今、イエス・キリストは天におられます。その方が信じる者に聖霊を注ぎはじめられた
のは天に上られたのちのことでした(ヨハネ 7:39)。その方が「エルサレムを離れないで、
聖霊を受けなさい。」と命じられた通りに 11 人の使徒と弟子たちはマルコの家の大広間
で聖霊を受け、そのようにはじまった聖霊降臨は今も続いています。もし 11 人の使徒と
弟子たちが聖霊を受けたのがイエスがこの地におられたときのことであったのならば、彼
らが聖霊を受けたことと私たちが聖霊を受けたことをまったく異なる事件として見ること
もできるでしょう。しかし、聖霊降臨はイエスが天に上られたのちにはじまったことでし
た。それゆえ、初代教会の聖徒においても今日の私たちにおいても聖霊の働きはまったく
異なるところがありません。
私たちの信仰生活に初代教会に活発に現れたしるしと不思議が現れないのであれば、そ
れは私たちが神の約束を無視しているためであって、聖霊の働きが変わったためではあり
ません。人々が「最近は伝道するのがむずかしい時代だ。」と時代のせいにしながら伝道
に力を尽くさないのも常に変わらない聖霊の働きを認めないためです。福音を受け入れる
のがむずかしい環境は以前にもいくらでもありました。初代教会の聖徒が受けた迫害に比
べるのであれば、今はむしろ迫害が少ない時代と見ることもできます。
聖霊を受けた者であるのならば、時代のせいにしないで、イエスがなさった働きを続け
なければなりません。以前、天の大きな天使がエホバという名によって天の御座を守って
イスラエルを治めました。しかし、神の御子がよみがえられたのちには神のいっさいの権
勢がその方に与えられました。神の御子が天と地のいっさいの権勢を受け継いだのちに弟
子たちに命じられたのは「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」ということで
した(マタイ 28:18~20)。
イエスが教えられた通りに私たちは罪を悔い改めた
イエスが私たちに最初に教えてくださったのは悔い改めでした(マタイ 4:17)。私たちは
多くの宗教の中からキリスト教を選んだ者ではありません。選択についていうのであれば、
私たちが神を選んだのでなく、私たちが「悔い改めなさい。」という御言葉を聞いて従っ
たときに神が私たちを選ばれたのです。悔い改めの体験がない者はまことのキリスト者と
見ることができません。
それでは、何を悔い改めなければならないのでしょうか? 第一に、神を知らない罪を悔
い改めなければなりません。私たちは過去に神の存在さえも知ることができませんでした。
それで、当然のように神の御心に逆らい、神がなさる働きに反対しました。神は私たちの
ために働いてくださいますが、私たちは神の敵として行ったのです。これは神を知らなか
ったためです。これを指して原罪と申します。第二に、情欲に従って犯した肉体の罪、す
なわち自犯罪を悔い改めなければなりません。第三に、品性の罪を悔い改めなければなり
ません。ひとりひとり背景や性格、関心事が異なります。したがって、多くの人が集まっ
て生きるのであれば、葛藤が生じ、それによって互いに憎むようになります。イエスは
「実際に刀を振り回さなかったとしても兄弟を憎むのであれば、それは殺人である。」と
いわれました。それゆえ、他の人を憎む心を放置しないで悔い改めればなりません。この
ような品性罪を指して本罪ともいいます。
悔い改めとは私たちの罪をキリストに移すものです。言い換えれば、キリストがおられ
なければ、罪を移すことができません。キリストは私たちの罪を負ってその価を払ってく
ださいましたし、私たちはその事実を認めることによって自分の罪をその方に移しました。
それゆえ、キリストがおられない者は自分の罪が移されたという根拠がない者です。反対
に、キリストがおられる者は自分の罪が移されたという事実について確証をもった者です。
教会のさまざまな器官が互いに愛して結びつかなければならない
キリストによって罪の赦しを受けた者の集まりが教会です。教会はキリストの体であり、
キリストは教会のかしらです(エペソ 5:23)。体にさまざまな器官があるように、教会の中
にはさまざまな人々が存在します(Ⅰコリント 12:12)。目、鼻、口、耳、手、足、これら
はすべて体の器官です。その役割や性質はそれぞれ異なります。しかし、それらはひとつ
に集まって調和をなし、相互作用をすることによってキリストの体を構成しています。
たとえば、手が足に「あなたはいつも天の望みを語りながら、どうしていつも土だけ踏
んでいるのか?」といいます。すると、足が手に「私は重い体を支えているのに、あなた
はいつも空中に浮いて遊んでいるのか?」といいます。器官ごとにそれぞれの役割があり
ます。空に向かって両手を上げて神を賛美するときに、もし足が手の真似をするのであれ
ば、その人はどうなってしまうでしょうか?
自分と役割が異なる器官を非難するのも正しくありません。美味しいキムチ鍋が口に入
って行くのを見ながら、目が「あなただけが食べるのか? 私も食べよう。」といいました。
目が願う通りに辛いキムチ鍋が目に注がれるのであれば、どうなってしまうでしょうか?
目は食べることができない代わりに見ることができますし、口は見ることができない代わ
りに食べることができます。それゆえ、目と口は互いに協力して励まし合わなければなり
ません。これについてヘブル人への手紙 10 章 23~25 節は「約束された方は真実な方で
すから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、
互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のよ
うに、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づい
ているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」といいました。
教会の中には熱心な者もいますし、そうでない者もいます。行動が早い者もいますし、
遅い者もいます。熱心で行動が早い者はそうでない者を見ながら、もどかしさを感じるで
しょう。しかし、すべての器官が調和をなして、ひとつにならなければなりません。五旬
節のマルコの家の大広間の弟子たちがひとつとなって聖霊に満たされたように、教会のす
べての器官が集まってひとつにならなければなりません。
私たちはどの器官を見たとしても、その人がキリストの尊い血によって罪の赦しを受け
た者、すなわち自分の罪をキリストに移した者であるということを発見しなければなりま
せん。その人はキリストが愛された者ですし、キリストはその人のために血を流されたの
です。また、その人は血を流すまで罪と戦っている者です。この世はその人を迫害したと
しても、同じ体の器官である私たちまでその人を憎んだり迫害したりしてはいけません。
天の御国を相続することができない肉体は土に帰るので、教会こそ私たちの体です。教
会はキリストの体であり、私たちはキリストの体の器官であるために、教会は私たちの体
であるということができます(ヨハネ 17:11~12)。人の体に多様な器官があるように、教
会は多様な機能を備えた私たちの体です。
牧会者はこの点をはっきりと認識しなければなりません。人が自分の体を顧みて装うよ
うに、牧会者は心を尽くして教会を顧みなければなりません。教会員の中で疎外感を感じ
る者がいないように牧会者は自分の表情までも管理しなければなりません。教会員は自分
と挨拶をする牧会者の表情によって喜んだり悲しんだりします。自分に対する牧会者の態
度が他の人を相手にするときのそれに及ばないと感じて試みに会う者もいます。それゆえ、
牧会者は常に緊張していなければなりません。教会員の性向は多様ですが、牧会者はその
中の誰も憎んではいけません。牧会者が憎む教会員が多くなるほど、教会はリバイバルし
にくくなります。牧会者は主の愛を受ける者を自分の体のように考えなければなりません。
主を迫害してはいけない
律法学者であったサウルは律法を犯す者を捕まえて縛り上げるのが神の御心であると信
じていました。サウルが捕まえようとしたのはイエスではなく、イエスが愛された者でし
た。サウルはイエスに直接、会ったこともありませんでした。そのようなサウルに「なぜ
私を迫害するのか? 私はあなたが迫害しているイエスである。」という声が聞こえました
(使 9:4~5)。イエスが愛される者を迫害すること、それがイエスに対する迫害です。
あなたは教会の器官の中で誰かを憎んでいるでしょうか? 主はあなたに「なぜ私を迫
害するのか?」と尋ねられるでしょう。「私がいつ主を迫害しましたか?」と反問するあ
なたに主は「私は血を流してその人の罪を担った。命をささげてその人を愛した。私はそ
の人に聖霊を注いだ。しかし、あなたはその人を迫害するのか? それが私を迫害すること
である。」といわれるでしょう。
ある人が教会で奉仕しようという心をもって掃除をしていました。そのとき、他の青年
が行ったり来たりするのを見て、彼は「いたずらに歩き回らないで、私と掃除をしましょ
う。」といいました。青年は「私は今、忙しいです。」と答えました。すると、掃除をし
ていた者は「私は忙しくないというのか?」と苛立ちました。自分が志願して掃除をして
いるのであれば、喜びによってそれを担わなければなりません。他の人が自分と同じでは
ないという理由をもってその人を憎む必要はありません。
他の器官に向かってむやみなことをいわないように注意しなければなりません。ヤコブ
の手紙1章 26 節は「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、
自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。」といいました。
どんなに多く祈ってよい信仰をもっていたとしても言葉に失敗するのであれば、その人の
宗教はむなしいのです。イエスも「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによる
のであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ 12:37)といわ
れました。神を賛美する泉から兄弟を悪く言う苦い水が出て来てはいけません。
他の器官が信仰生活を熱心にする姿を見て癪に障る者もいます。神にささげ物を届けた
アベルを殺したカインの心がまさにそうでした。ある人は力を尽くして献金をささげる者
を悪く言います。「あの人は分に応じて献金をしないで、どうしてあのように無知に献金
をするのか? 牧師が調整してあげなければならないのではないか?」主のために香油を塗
った女を批判したイスカリオテ・ユダの考えもそのようなものでした(ヨハネ 12:5)。
主を迫害してはいけません。主は私たちのすべての罪を担ってくださいましたが、主を
迫害する罪までは担われませんでした。主を迫害するというのは神に敵対するということ
です。他の器官を迫害しないで、互いに励まし合わなければなりません。誰かが理解する
ことができない行動をしたとしても、その人にそのようにするほどの理由があったのだろ
うと考えなければなりません。
私たちの敵は人々ではなく、悪魔です。アダムが善悪を知る木の実を食べたときに、神
はアダムに「あなたが裸であるのを誰があなたに教えたのか?」と尋ね、エバに「あなた
はいったい何ということをしたのか。」と尋ねられましたが、蛇には何も尋ねられません
でした(創 3:11~14)。これは悪魔が罪の根源であるためです。聖書はカインが罪を犯した
のも悪い者から出た者であったためであるといいました(Ⅰヨハネ 3:12)。
カインは罪を治めなければなりませんでしたが、彼には助けてくれる聖霊がおられませ
んでした。彼は結局、呪いを受けてしまいました。今、私たちの中には聖霊がおられます。
私たちは聖霊の助けによって自分を治めなければなりません。主を迫害する者にならない
で、他の器官を愛さなければなりません。
翻訳:ソウル聖楽教会 視無言著書翻訳宣教センター 日本語翻訳室